「黄前久美子」
「はい」
明瞭に返事をすると、
「
「はいっ」
「
「はい」
点呼は淀みなく続けられ、クラスメイト達が順々に返事をしていく。一人ひとりに行われていくその通過儀礼を、久美子はただぼんやりと目で追っていた。
教室に揃った顔ぶれの大半は去年のそれとは違う、見知らぬものだ。これから一年間を共にする仲間たち。けれど正直を言えば、彼らについてそれほど興味があるわけではない。
「浜田省子」
「はい!」
「
「はい」
クラスの中にはどうやら同じ中学出身の子もいるみたいだったけれど、顔を見てなんとなくそうかなと思う程度で、美知恵に呼ばれるまで彼女の名前を思い出すことも出来なかった。恐らくは彼女から見た自分もその程度の存在なのではないだろうか。仮に同じ中学出身だったとして、これを機に彼女と親しくなりたい、という感情が沸き立つことも別段ありはしなかった。
多分、ほとんどの同級生たちも似たようなものだろう。たまたま同じクラスになれた仲良し同士を除けば、同級生というものにさしたる感慨や思い入れを持つことも無い。そうやって集団の輪の中で自分の立ち位置を確保して、極力波風を立てぬよう穏便に一年を過ごせれば良いと思っている、その筈だ。
自分だってそう。そんな風に過ごせたら、それで良い。この時の久美子の内にあったものは、強いて言えばそのぐらいの想いだけだった。
「――以上で二年三組、全員の出席確認を終了する。今日は午前中で終了となるが、初日からだらけずしっかりと授業を受けること。いいな!」
「はい!」
威圧的な美知恵の声に、久美子達は半ば脊髄反射で大きな返事をする。その光景に「さすが吹部」とばかり、周囲からはクスクスと笑いが起こった。
「それにしてもさ。今年も三人おんなじクラスで、ホント良かったね」
葉月が上機嫌でプラスチックの串をミートボールに突き刺す。だねぇ、と相槌を打ちながら、久美子も母お手製の玉子焼きを箸でつまんだ。新学期最初のホームルームも終わり、同級生は三々五々、教室を後にしていく。久美子たちはと言えば午後からの部活に備え、こうして教室に残って昼食を取っている最中だった。
新しいクラスでも再び担任となった美知恵の計らいなのか、はたまた数奇な縁というものなのか、今年も葉月と緑輝は自分と一緒のクラスになった。学校生活を送る上で気心の知れた友人が近くにいてくれるのは、普段の授業のみならず文化祭や修学旅行の準備といった各種行事においても何かと助かるものである。うっかり教科書を忘れてしまった時などに彼女たちから借りることが出来ないのは、難点と言えば難点ではあるけれど。
ともかく、午前中は特段の問題も無く穏便に過ごすことが出来た。ただし午後からの部活はそうは行かない。新年度の始業式と同時に入学式も行われる北宇治では、今日から新一年生も一緒に学校生活に加わることになる。そして新入部員を一人でも多く獲得することは、今の吹部にとって喫緊かつ必須の課題なのだ。
願わくば、朝の歓迎演奏を聴いた一年生が入部の意志を高めていてくれたらいいな。そんなことを考えながら少しパサついたチキンライスを口に運ぶ。じっくり炒めたであろう紅色のライスからは、ほんのりと甘いバターの風味が漂った。
「午後からは部活だけどさ、もう新入生とか見学に来るかな?」
「んーどうだろ、去年全国行ったからそこそこは来るかもだけど。それにしたって当分は仮入部期間だし、部活紹介だってまだでしょ? 初日から来るのはけっこう気合い入ってる子ぐらいじゃないかな」
「去年の麗奈ちゃんみたいにですか?」
「そうそう、麗奈みたいに」
「そんなこと言ったらウチらだって、去年は初日から見学しに行ってたじゃん」
「あれ、そうだっけ?」
たった一年前の出来事だというのに随分と記憶がおぼろげになっている。そうと言われてみても、あれは入学から何日か後のことだったような気しかせず、とんと実感が湧かない。それもこれも去年があまりにも濃密な一年だったからに違いない。
そんな旨を告げると、葉月は「まあ久美子らしいわ」と半ば呆れつつおかずのエビチリにぱくついた。彼女のお弁当はボリュームたっぷりで、唐揚げやらシュウマイやら精のつきそうな肉類がところ狭しと並べられているのだが、その中に緑色の要素は一切見当たらない。
かく言う久美子の弁当はと言えば、ミニオムライスに玉子焼き、ほうれん草と玉子のバター炒めにミニハンバーグ、と好みの品でガッチリ固められている。きっと葉月のそれも自分と似たようなものなのだろう。そんなやくたいもない推量を巡らせつつ、おかずを一通り食べ終えた久美子はお茶の入った水筒をぐびりと仰ぐ。
「ところで、朝のアレって何だったんでしょう?」
唐突な緑の質問に、はて、と久美子は小首を傾げた。
「アレ?」
「今朝の話です。クラス替え発表の張り出しを見てた時、廊下で」
「あー」
緑輝のお弁当箱は彼女の体格に合わせてなのか、久美子たちのものよりもさらに一回り小ぢんまりしていた。その中身は主食が桜でんぶと炒り玉子でカラフルに彩られたご飯、おかずにはくりんくりんのタコさんウインナーが二つ、一口分のナポリタンで作られた座布団の上に鎮座ますプチトマト、そしてウサギの形にカットされた小ぶりなリンゴと、これぞ弁当・オブ・弁当とでも言わんばかりの組み合わせ。いかにもという可愛らしい並べ方と言い、もしかしてこのお弁当、緑輝が自分で作ったのではなかろうか? ぷりぷりとしたタコさんが一匹彼女の小さな口へと運ばれていくのを眺めながら、久美子はエプロン姿でるんるんとキッチンに立つ緑輝の姿を思い描く。
「あれ三年の方だったよね。なんかうぎゃーとかどえーとか、そんな声してたけど」
「クラス替えの時って賑やかなものですけど、ちょっと違うっていうか、だいぶ張り詰めてる感じでしたよね」
「だねぇ。周りの人たちもかなりビックリしてたみたいだし。まあ、よっぽどイヤな人と同じクラスになっちゃったーとか、そんなのだろうけど」
緑輝と葉月の語らいを聞いているうち、次第に朝の光景が呼び起こされてゆく。件の騒動は久美子ももちろん目撃していた。クラス替えを確認する生徒の波でごった返していたせいもあり、叫び声の主を実際に確認するまでには至らなかったのだが、けれど何となく久美子の中には一つ引っかかるものもあった。
「アレさ、あの叫び声なんだけど」
「うん?」
ためらいがちに喋り出した久美子に、葉月と緑輝の注目が集まる。
「ホント何となくっていうか、もしかしたらただの勘違いかも知れないんだけど」
「なにか気になることがあったんですか?」
「あの声、なーんか、夏紀先輩に似てたような気がする、かなーって」
言ってはみたもののいまいち自信が持てず、久美子は唇をきゅっと噛み締める。気がする、程度の事だったらいっそ言わずに居た方が良かったかも知れない。そう思い掛けた久美子の手が突然、緑輝にギュウと強く握られた。
「ひゃあ!」
「久美子ちゃんも? 実は緑も何となく、そんな気がしてました!」
ずい、と久美子の眼前に近づいてきた緑輝の表情は、まさに迫真のそれだった。
「ちょちょちょ、痛い、痛いってば緑ちゃん」
「すいません。緑、ちょっとコーフンしちゃいました」
パッと緑輝がその手を離す。ビックリしたー、とぼやきながら、久美子は己が手をさすった。
緑、とは自身の『サファイア』という本名に相当なコンプレックスのある彼女が自らの呼び名として用いているものであり、友人たちにもそう呼ばせている――という説明も、高校生活二年目ともなればすっかり周知のものだろう。事実、教師やあすか、それと久美子らがささやかなイタズラ心でイジる時を除けば、平素から彼女を本名で呼ぶ者はもはや誰もいなかった。
「でも緑、見たんです! 悲鳴が上がってすぐ、
「優子先輩が? 誰かって、誰?」
「それが、緑からだと相手が誰なのかまでは見えませんでした。でも優子先輩があんな風に喋る相手って、考えてみたら夏紀先輩ぐらいじゃないかなぁ、としか思えなくって」
「なるほど」
緑輝の推察には大いに信憑性がありそうだ。頬杖をつきながら、久美子も考えを巡らせてみる。
トランペット担当の三年生、
ただ一つの例外は、以前から彼女と犬猿の仲である副部長の夏紀である。彼女と優子は馬が合わないのか、あるいは逆に喧嘩するほどナントヤラの典型なのか、とにかくお互い顔を合わせれば何かしらの応酬をせずにはいられないらしい。今回の件にしたって、優子がそれほどまでに牙を剥く相手が誰かと問われれば、真っ先に思い浮かぶのはやはり夏紀だ。ならば緑輝の推察通り、その時優子の傍に居たのはやはり夏紀だったと考えるのが極めて妥当だと言えよう。そして二人が小競り合いをしていたのも、群衆の只中で突然夏紀が叫び声を上げたことに優子が怒ったから……と仮定すれば、一通りの説明も付きそうではある。
しかし仮にそうだとして、どうして夏紀は叫んだりしたのだろう? そこが久美子にはどうにも解せなかった。夏紀の性格からして余程のことでも無い限り、そんな奇矯な振る舞いをする筈は無い。それなのに、だったら何故。一つまとまりかけたところに別の謎が沸いて来て、それまでの思考がわた菓子みたいに散っていくような感じがする。
「ここまでの話をまとめると、久美子はあの悲鳴を夏紀先輩の声っぽいと思って、緑が見たっていう優子先輩と言い争ってた相手もやっぱり夏紀先輩っぽいってことだから……うむ、謎は全て解けた!」
それまで顎に指を掛けながらぶつぶつ呟いていた葉月が、突如くわっと目を見開いた。
「つまり今回のクラス替えで優子先輩と夏紀先輩が同じクラスになっちゃって、それを知った夏紀先輩がふざけてうぎゃーって悲鳴上げて、うるっさいとか怒鳴った優子先輩とケンカになってたんだよ! どおー久美子? 私のこの冴え渡る推理」
「いや、無い無い」
したり顔の葉月に、残念だけど、と久美子はにべもなく手を振る。
「夏紀先輩は進学クラスで優子先輩は普通クラスだし。麗奈もそうだけど、進学クラスって基本的に三年間ずっと一つのクラスだもん。進級の時に進学クラスに移るっていうのも聞いた事ないよ」
「ええー。でもでも、無いとは言い切れないじゃん?」
「だから無いって。そもそも優子先輩が進学クラスに移るっていうんだったら、去年のうちに少しぐらいはそんな噂話でも聞こえてくるもんじゃない? 他の先輩たちとか、それこそ同じトランペットの麗奈あたりから」
「それはそうかもだけどー。あっ、今度こそ分かった! 逆にさぁ、夏紀先輩の方が優子先輩のいる普通クラスに編入したとか」
「もっと無いよ」
夏紀の成績をじかに聞いた事などもちろん無いが、彼女が部活後に予備校へ通っているという話は以前本人から直接聞いている。副部長に就任後、優子と共に吹部のあれこれを取り仕切らなければいけないせいで、勉強に割ける時間も多少減っていたりはするかも知れない。けれど要領の良い夏紀のことだ。進学クラスから落ちこぼれるほど成績を下げるような事態になど、流石に陥ってはいないだろう。
「ぐぬー。結構自信あったんだけどなぁ、推理」
持論を完璧に論破され、葉月が大仰にうな垂れてみせる。とは言え向こうも真剣に推理をしていたわけではなく、恐らく半分ぐらいは会話を膨らませる為でもあったのだろう。次に顔を上げた彼女の表情は大して悔しげでも無く、どこか冗談っぽい微笑みを湛えていた。
と、そこでスピーカーからチャイムの音が鳴り響く。
「げっ、もうこんな時間。部活始まっちゃう!」
「急ぎましょう」
ついつい話に夢中になり過ぎてしまったようだ。慌てて弁当の殻を鞄にしまい込み、三人は急ぎ足で教室を後にした。
・
・
・
「……以上がこれからの大まかな活動内容になります。特に今日から十日間は新入生の入部勧誘期間になるんで、練習の合間にリクルートもガンガン行って下さい。今の部員数は二、三年合わせて四十六人ですが、前三年生の引退に伴って穴の開いたパートの人員補充もしなくちゃならないので、とにかく経験者も含めてたくさん勧誘していきましょう」
「はい」
「目標は三十五人、出来れば四十人越えが理想です。それに向けて、中学で面識のあった後輩の引き抜きとか校内でのチラシ配りとか、各自よろしくお願いします」
壇上に立つ優子の声はくっきりと、部室後方まで良く通る。こうして演説するさまが板について来た頃にはもう、優子はその性格も相まって実に部長向きな人物だ、と久美子も思えるようになっていた。当初は彼女の激情的な面を心配する声も無いではなかったのだが、実際に彼女が率先してテキパキと動き指示を出す姿を見るうちに、そんな声を上げる者はいつしか誰もいなくなっていた。
つらつらと続く部長談話の隙間を縫って、チラリと盗み見るように久美子は隣を窺う。そこに座っている夏紀の表情はいつになく不機嫌なようにも見える。それもさっき会った時からずっとだ。挨拶ついでに朝の件を尋ねてみるつもりだったのだが、彼女の放つ重々しい雰囲気に阻まれてしまい、久美子は夏紀にもう一声を掛けることが出来ずにいたのだった。
もしあの場に優子と一緒に居たのが夏紀だったとして、優子と何やら言い争ったのがこの不機嫌さの原因なのだとすれば、下手に触れるのはやぶへびかも知れない。今日のところはこのまま黙っておくとしよう。久美子がそう結論付けた頃には、優子の業務連絡もおおかた区切りがついたようだった。
「何か質問のある人は……居ないみたいね。じゃあパート練習に移ります。解散」
ぱん、と鳴らされた柏手を合図に、部員たちは各々の次なる活動に向けて席を立とうとした。とその時、ガラリと入口の戸が開く。
「皆さん揃ってますね。ちょうど良かった」
音楽室に入って来たのは高身長で痩せ型のイケメン、言わずと知れた吹奏楽部顧問の滝
「皆さんに少々お話がありますので、申し訳ありませんがもうしばらく座っていて下さい」
予定外な滝の登場と行動に、部員たちはどよめきつつも元の席に着座する。そのタイミングで隣の夏紀が「ハア」と小さく溜め息を漏らした。よくよく見れば、トランペットの席に戻った優子の表情にもどことなく翳りがあるように見える。もしかして部にとって、何か悪い知らせでもあるのだろうか。
「よろしいですか? では、どうぞ入って下さい」
指揮台の椅子に座った滝が戸の向こう側へと声を掛ける。全員が自然とそちらに注目し、ひと呼吸を置いた後、その戸はもう一度緩やかに開けられた。そしてそこに立つ人物を見て、皆が一斉に驚きと困惑の声を上げ始めた。
「ええっ!」
「ちょ、どういう事ですか!」
「なになに、あたし夢でも見てんの?」
「何やってんだ、この人……!」
息が、出来ない。
肺の入り口に栓をされたみたいに、空気を吸う事も吐くことも適わず、音を捉え損ねた唇はがくがくと情けなく震えるばかり。何が起こっているのか。一体どうなっているのか。まるで理解できない状況に対し、脳が完全にフリーズしてしまっていた。周りの雑音も何も耳に入らず、開いた口も塞がらぬまま、部員達の横を通り抜けて滝のいる壇上の隣まで優雅に歩んでいくその人物に、久美子の双眸は釘で打たれたように固定され続ける。
見間違いではない。その黒く長い髪も、美しく整った面立ちも、その上に飾られる赤縁の眼鏡も、身に付けた北宇治の制服の着こなしも、そこに浮かぶ完成されたボディラインも、颯爽とした足取りも、スローモーションで眼球に刻み付けられるそれらは何もかも全て、良く見慣れた彼女のそれに相違なかった。
だが、それが既におかしい。それ自体がもう間違っている。だって彼女はここに居る筈が無いのだから。いや、ここに居てはいけない人物なのだから。
「静かに」
滝が円を描くように動かした手のひらを握り、場を制す。ざわめきはそれでスウっと収まったが、しかし場の空気は未だ微かに動揺を続けていた。
「これについては本人から直接皆さんに話したいという事でしたので、皆さん気持ちを落ち着けて彼女の話を良く聞いて下さい」
滝は手のひらを前に差し伸べ、どうぞ、と促した。それに頷きを返して、彼女は口を開く。
「えー、皆ももう知ってるだろうし、今さら自己紹介の必要も無いと思うけど、一応ね」
そこで軽くはにかんで、そして彼女は、いつもの調子で喋り出した。
「田中あすかです。諸々の事情で、もう一度この北宇治高校で三年生をやることになりました。これから卒業まで、改めて吹奏楽部のいち部員として活動していきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします」
そこまでを言い切って、あすかは深々と一礼した。あまりにも流暢すぎるその所作に、部室のどこからも拍手はおろか突っ込みの声すら起こらない。先ほどまでのどよめきも収まり、今はただただ誰もが呆然とするばかりだ。
あすかの事が分からない。つい先日、そんな考えを抱いていたことすら生温いとでも言わんばかりに、この衝撃は久美子の脳を最大震度で揺さぶっていた。分からないどころの話じゃない。これはどんな状況だ。こんなことが本当に、あり得るのだろうか? 動揺を抑えきれない久美子の視線はひとりでにあすかの胸元へと突き刺さる。それを見て、ようやく気付いた。
エイプリルフールに突如として闖入してきた彼女に抱いた、ほんの僅かな違和感。
こんなにもあからさまなのに、目の前にあった大きな異常のせいでうっかり見落としていた異変。
あの時感じたそれらの正体。
北宇治の制服、襟に巻かれたスカーフはそれぞれの学年を色で示している。久美子の学年なら赤。夏紀の学年なら紺。そしてあすかの胸元のそれは、彼女が去年までつけていた緑色、ではなかった。
――四月一日。あの時から既に、あすかのスカーフは
『何故、卒業式の答辞をしたのが、あすかでは無かったのか』
その疑問に答えが出たのとほぼ同時に、あすかと久美子はパチリと目が合う。あるいは彼女の方から視線を合わせて来たのかも知れない。あすかはあからさまにこちらに向けて、愉悦に塗られた表情の端から白い歯を光らせた。それはまるでいたずら小僧が見事に悪巧みを成功させた時のような、そんな顔だった。