「何考えてるんですか、あすか先輩!」
「く、久美子ちゃん落ち着いて」
どうにか場を執り成そうとする梨子にも構わず、つい声を荒げてしまう。練習前のミーティングが終わって三年三組へと場所を移すなり、久美子は早速あすかに詰め寄っていた。
「だーかーらぁー、そんな大袈裟な話じゃないって」
肩に掛かる艶やかな黒髪を指で梳きつつ、あすかは呆れたように溜め息を吐く。都合が悪そうにしているというわけでもなく、口の端を歪めた軽薄な態度はむしろ、こちらの狼狽ぶりをあざ笑っているみたいですらあった。
「いい加減説明して下さい。どういうことですか、留年って」
「留年は留年。それ以外どうもこうもないでしょ」
「だって先輩、成績も優秀ですし。それなのに留年なんてするわけ、」
「そうですよ。私たちだってこんなの、未だに信じられないですし……」
久美子に続けてそうこぼした梨子の言は、彼女のみならず低音パート、いや部員全員の心の声でもあるだろう。事実、この場に居る誰もが困惑と懐疑の眼差しをあすかに向けていた。今ここで平然としていられるのは、それを一身に浴びるあすか本人だけだ。
「ちゃんと説明して下さい」
卓也に促され、んー、とあすかは面倒くさそうにぽりぽりと唇を掻く。
「まーアレよ。去年後半、色々とうちの親が介入してきたせいで学校休んだりしてたでしょ? そのせいで出席不足になっちゃって」
「先輩、去年そんなに学校休んでましたっけ」
「私もそんなつもりは無かったんだけどさぁ。うちの学校の三年生、二月から受験対策とかで自由登校になるでしょ? あれでビミョーに足りなくなったんだって」
「担任から事前に連絡とか通知とか、そういうの無かったんですか?」
「どうだろうね。何にしてもホント間抜けな話だよね。まあこうなっちゃったのは事実だし、仕方ないでしょ」
こうして傍であすかと梨子達のやり取りを聞いていると、どうにも胃の腑あたりにむず痒さを感じる。あすかは一貫して、それこそまるで他人事みたいな口ぶりで、己の身に起きた不祥事を語っていた。だが仮にあすかの言っている通りだとして、そんな状況が誰からも見逃されたままになるだなんて本当にあり得るのだろうか? 全然納得のいかない久美子の脳裏に、ふと昨秋の事件が蘇ってくる。
「先輩のお母さんは、その、大丈夫だったんですか」
「ああ、母親ね」
久美子の質問に、ふ、と乾いた笑いのあとで、事も無げにあすかは宣った。
「もちろん言ってやったわよ。去年色々あってこうなっちゃったから、今年こそきっちり卒業して志望の大学にもちゃんと入る。その代わり、今年一年は私のやる事に構わないでそっとしといて、って」
「そんなんで納得したんですか、先輩のお母さん」
「したっていうか、させたの」
幼子に言って聞かせた、とでもいうような口ぶりで答えるあすか。それを聞いてなお、久美子の胸中には疑念がコールタールのようにこびりついていた。
あすかが退部の危機にあった一連の出来事。その全ての発端となった職員室での事件、一部始終を目撃したのは他でもない自分だった。あすかの母親がどんな人物であるのかも、あすか自身の生い立ちも、この面々の中で全てを知っているのは自分だけだと言っても過言では無いだろう。そして件の母親を直に見た事のある久美子だからこそ、こんな状況をあの母親が看過する筈が無い、と確信をもって断言することさえ出来る。
その前提も踏まえ、あすかの態度はどうにも不自然だ。ウソを言っているとまでは断じない。けれどどこかに濁りのようなものがあって、本当の事は巧妙に包み隠している、そんな気配がする。
「でも私、心配です。先輩がまた去年みたいなことになっちゃったらって」
梨子はそのつぶらな瞳の端にうっすらと涙を滲ませている。心優しい彼女はただひたすら純粋に、あすかの身の上を心配しているようだ。
「ヘーキヘーキ、全然へっちゃらだよ。入試はどうとでもなるって分かったし、あとは今年きちんと卒業すればいいんだもん。楽勝よ」
それはきっとそうなのだろう。高校を卒業するのも難関の大学に受かるのも、あすかにかかればいとも容易いことだと思える。そう思わされるだけの才能が彼女にはあるのだ。常人の考える多少の不利など、この傑物にとっては恐らくハンデにすらなり得ない。
「けど、それならそれで、何でもっと早く言ってくれなかったんですか」
梨子に代わって今度は卓也があすかを問い質した。こちらは困惑というよりも、ほのかに苛立たしげな空気を言葉の端に浮かばせている。彼の現在の心境は多分、久美子のそれと似たようなものであるに違いない。
「だって恥ずかしいじゃない? 出席不足で留年しましたー、なんてみんなに知られるのはさ」
「そんなのどっちみち今日になったらバレる事なんですし。それならいっそこないだ来た時、俺たちにぐらい言っといてくれても、」
そうだ。どのみち今日を迎えたら、留年していた事実は否が応にもみんなにバレる。それならば何故あすかはあの日、四月一日にわざわざ学校へ来たというのか? それも制服姿に紺色のスカーフを巻いてまで。もしあの時点で誰かがそのことに気付いたならドッキリはそこで終了、あとは種明かしの時間となってしまっただろう。遅かれ早かれ部員たちが動揺することには変わり無いのかも知れないが、その代わりに今日がこんな騒ぎになる事も無かった筈だ。
「だからこそよ。それならいっそ、当日まで隠しておいた方が面白いでしょ」
にべもないあすかの返答。果たしてそれは彼女の本心なのか? 理屈で考えていた訳ではなかった。ただ、肺の奥底から息を吐く時のように、その発想はぼろりと溢れ出していた。
「こないだ来た時、本当は言おうと思ってたけど、言えなかったんじゃないんですか」
口走ってから、久美子は慌てて己の口を手で塞ぐ。また自分の悪い癖が出てしまった。あすかはそれにほんの一瞬瞠目した。が、すぐにへらりと破顔し、長い睫毛の隙間から妖しく光る瞳をこちらへと向ける。
「やっぱり黄前ちゃんは、黄前ちゃんだねぇ」
その視線に射貫かれた途端、久美子の背筋はぞわりと震え上がった。
これだ。この感じ。
作り物のように出来過ぎた仮面の奥に潜む、恐ろしく獰猛な蛇にも準えられそうな眼光。それに睨まれた自分はまさしく蛙のように身動き一つ取ることが出来ない。そんな感覚が、目の前の人物が本当に『田中あすか』であるという実感が、久美子を無数の針で貫いていく。と、何を面白がったか、やにわにあすかが噴き出した。
「どうしたの。変な顔して」
「え、」
「あんまりマヌケ面してるもんだから、思わず笑っちゃったじゃん」
どんな顔ですか。そう言いつつ、久美子は緊張のうちに下ろされていた手をもう一度口元へと運んでみた。己の唇をなぞったその手の動きは、緩やかだけれども確かに下向きの弧を描いている。あすかの言った通りだ。どうして自分はこんなにやけたような表情を浮かべているのだろう? あすかに睨まれ身動きも適わず息を詰まらせていた、その筈なのに。
「ホントなんですか先輩? いま久美子ちゃんが言ったのって」
緑輝がずずいと身を乗り出す。事の真相を知りたいのはもちろん久美子や彼女だけではない。他の一同もまた、あすかを取り囲むようにぞろぞろ近寄ってきた。
「どうだろうねー。まあみんなにウソつきたいと思ってたわけじゃないし、バレたらバレたで作戦失敗! って考えてたってぐらいかな」
皆の圧をいなすように、あすかが片手をひらひらと振ってみせる。そんなあすかの態度に不服を覚えてか、机の上に頬杖をついていた夏紀が心底呆れ顔で「これだもんなあ」と一人ごちる。
「せめて、私にはもっと早く教えてもらえてたら嬉しかったんですけど」
「夏紀先輩は、いつ知ったんですか?」
「今朝。クラス替えの貼り出しのとこにあすか先輩の名前見つけて、思わず叫んじゃってさ。あー、今思い出しても赤っ恥だわ。自分でもあんな声、どっから出て来たんだか」
夏紀のそぶりからは、それと分かるほどこの事態に辟易としているのが見て取れた。つまるところ、さっき緑輝たちと交わしていた推理通り、あの時あの場で叫んでいたのは夏紀だったのだ。そしてその動機もこれならば致し方なし、といったところだろう。謎が一つ暴かれたことに久美子は小さく吐息をこぼす。
「最初は全然意味分かんなかったし、隣に優子もいたけどアイツも混乱しちゃって、二人してその場で色々言い合ってたわ。同姓同名の転校生じゃないかとか、名簿のつけ間違えじゃないかってさ。そんで朝のホームルームになったら、いきなりうちの教室にあすか先輩が入って来て」
そこで夏紀は唐突に言葉を切り肩をすくめる。あとはご覧の通り、という意味のジェスチャーだろう。
「というわけで夏紀、これから一年間よろしくー。クラスメイトとして」
『クラスメイト』という単語を一字ずつ強調するように発音して、あすかは元気よく手を前にかざした。それを受ける夏紀は眉間に皺を寄せ、それはそれは大きな溜め息を吐く。
なるほど。どうも昼から夏紀の機嫌が悪いと思っていたら、それはこういう事情からだったのか。これは流石に気の毒と言わざるを得ない。あのあすかと一年間、クラスメイトとして共に過ごす。そんな立場に置かれることとなった夏紀の心境は察するに余りある。同じく進学クラスであるみぞれならばひょっとして、大して動じもせずにこの状況を受け入れられたのかも知れないけれど。
「さあさあ、この件はもういいでしょ。以上で閉廷! さっきからユーフォ吹きたくて、もうウズウズしてんだから」
「はい」
「あ、後藤。パート練はアンタが仕切んなさいよ」
「俺がですか? あすか先輩いるのに」
「あのね。私はもうアンタと同学年のヒラ部員。で、アンタはパートリーダー。職務はキッチリ果たす。以上、文句ある?」
「……無いです」
正論極まりない物言いを展開され、卓也はすっかり言葉を無くしたようだった。彼の立場も夏紀とはまた別の意味でいたたまれないものがある。一年遅い入学で本当に良かった。久美子はひっそりと、己の立場の幸福を噛み締めていた。
「それと今言った通り、夏紀たちと私は同学年なんだし、これからは『先輩』って付けるのも禁止だからね」
「それは、勘弁して下さいよぅ」
心底イヤそうな顔をした三年生一同の様子に、それ以外の面々から微かな笑いが起こる。こうしているとまるで去年の低音パートの空気感が地続きになっているみたい。そう感じた瞬間、久美子は思わず苦笑にも似た溜め息を洩らしてしまったのであった。
一日の練習が終わり、家へと向かう電車に揺られながら、久美子はぼんやりと生徒手帳を眺めていた。ビニール革の表紙をめくるとそこには北宇治高校の校訓、校歌、学則全般、清く正しい学生生活のありかた……といったことがつらつらと綴られている。この手帳を開く機会は日頃滅多に無く、従ってろくに読んですらいなかったのだが、しかし今日ほどこれの存在価値を強く認識した日も無かった。恐らくは卒業の日を迎えるまでの間にも無いことだろう。パラパラとページをめくってゆき、やがて目的の項を見つけたところで手を止める。
『留年』
それほど芳しい成績とは言えない久美子だが、そんな彼女ですらこの単語に縁のない無難な一年間を送ることが出来ていたおかげで、詳しい規定などはこれまで殆ど知らぬままでいた。一言一句を取りこぼさぬよう、紙の上に印字されたその文面にじっと目を凝らす。
「……単位不足により留年となる場合は、以下の通りである」
一.年度末時点の考課全科目に対し赤点が四つ以上の場合
二.年間欠席日数が全出席日数の四分の一以上を占める場合
三.各授業の欠課時数が規定数以上に達する場合
これらに該当する生徒を留年措置とする
手帳を閉じ、久美子は天を仰いだ。普段からあまり活字に慣れ親しんでいないせいか、堅苦しい文言の羅列に軽く眩暈がする。
本人の言と併せ、したためられていた内容通りの解釈をするならば、彼女が留年する原因となったのは恐らくこの『四分の一以上の欠席日数』という要素だと思われる。次に携帯を取り出し電卓アプリを開く。年間の出席日数など正確に数えたことは無いが、大体の休日数から逆算して、学校のある日はおよそ二百日ほどだろうか。これを四で割ると、出てくる数字は五十。この概算に基づけば、年間五十日以上休めば留年の危険性が出てくることになる。要するに、よほど規格外に学校を休みでもしない限り、留年などという事態にはまず至らないということだ。そしてあすかの欠席日数はいつの間にか、この『よほど規格外』というレベルにまで達してしまっていたのだろう。
あるいは、遅刻や早退などで受けられなかった授業のコマを意味する『欠課時数』の要素も無いとは言えない。母親と揉めていた当時、あすかは欠席に加えて早退もしていたのだろう。となればそこで単位を取りこぼした教科があったという線も充分に考えられる。これらが積もり積もって単位不足、結果留年。無いでは無い話だろう。
「でも、あのお母さんに留年するかもって話が届いてなかったなんて、本当にありえるのかな」
そこがどうしても、久美子には理解しがたい点だった。留年なんて、生徒にとっては人生に関わる事態だ。ある意味では浪人するよりもその後に響く、という話も聞いたことがある。であれば当然そうならないよう学校側も手を尽くすだろうし、その伝達には細心の注意を払うものじゃないのだろうか。
しかも相手はあの母親である。わざわざ職員室にまで乗り込んできた以上、あすかの去年の担任や学年主任の先生だって、その人となりを十二分に把握できていなかった訳が無い。そんな人物に、娘の留年という一大事が、実際そうなるまで伝えられぬままでいた――などということは到底起こり得るものではない。もしも自分が担任の立場だったとしたら、そういう連絡をこそ最優先にする。
それに学校も学校だ。仮に留年確定で卒業出来ないという生徒が居たとしても、少しぐらいの救済措置は図るものじゃないのか? ましてあすかほど優秀な生徒であれば、春休みに特別講習を組むとか追試を受けさせるとか、何か特例でもって単位を取らせて卒業させても良いような気はする。せっかく良い大学に受かったにも拘わらず卒業が認められず、合格まで取り消されるというのではあまりにも悲惨ではないか。
いやいや、流石に幾らなんでもそれは贔屓し過ぎというものか? そんな抜け道で進級や卒業ができるのなら、そもそも毎日休まず登校して真面目にテストを受ける生徒が馬鹿を見るというものだ。そこはやっぱり一生徒として学校に通う身分である以上、きちんと必要分はこなさなければならないと思うべきなのだろう。
……などと、あれこれ考え始めたらどんどん思考が脱線してきた。生徒手帳を胸ポケットにしまい込み、久美子は一旦深呼吸をする。もはやこの数日で何度同じことを思ったかも分からないが、何にせよあのあすかの事だ。『不測の事態で留年』など、彼女に限って万に一つも有り得ない。きっとこれはあすかにとって人生を懸けた母親への反抗、いや、復讐なのだろう。実に馬鹿げてはいるが、そんな馬鹿げた真似を平然とやってみせるだけの悪魔の頭脳があすかにはある。父親との件はさて置いて、それで満足して終わりとはせず母親にも相応のお灸を据えることで、彼女が言うところの『枷』を外そうとした。そのぐらいはあすかの動機として充分考えられる、気がする。
とは言え当人が何も語らない以上、こうして考えを巡らせてみたところで真相はいつまでも闇の中。今分かっているのは、あすかがこの一年をまた北宇治で、吹奏楽部で過ごすという事、そして久美子にとってはもう一年だけあすかと一緒にいられるという事、それだけだった。
「そうだよ、たったそれだけなんだよ」
ぎゅう、と久美子の指が鞄の把手に食い込む。申し訳ないけれど、あすかの留年はあすか本人の問題でしかないのだ。周囲がいくら気を揉んだところで仕方ないし、留年という事実を今さら取り消せるわけでもない。
それにあすかがあれだけ豪語している以上、今年こそ本当に彼女は北宇治を卒業していくことだろう。放っておいてもやがてはそうなる。そうしてあすかはあすか自身の実力で、彼女が本来あるべき潮流の中へと戻っていく筈だ。ならば今、人生のロスタイムとでも言えそうなこのひと時の中で、自分はあすかにどう接するべきなのか? 答えは、もう決まっていた。
『あんまりマヌケ面してるもんだから、思わず笑っちゃったじゃん』
ふと、久美子は反対側の窓へと視線を向ける。そしてなるほどと思った。夕闇に染まる街の影に彩られたガラスの奥で、ちょっとだけ嬉しそうにしている間の抜けた顔が一つ、そこには映り込んでいた。
「はよございます」
「おはようございます」
翌朝。今日も麗奈と揃って音楽室へと入る。それに最初に反応を示したのは希美だった。その手にはギラリと鋭い光沢を放つ銀色のフルート。いつも隅々まで丁寧に手入れがなされている、彼女のマイ楽器である。
「おはよー高坂さん、久美子ちゃん」
挨拶をしながら希美が近付いてくる。その後頭部でポンポンと跳ねるポニーテールは、前向きで活発な希美に相応しいトレードマークだ。
「先輩、今日も早いですね」
「まあ早起きは習慣みたいなもんなんだけどさ、かと言って他にやる事も無いしね。それだったら部室来て練習してた方が良いし」
あはは、と快活な笑顔を浮かべる希美に、久美子も曖昧に微笑んでみせる。彼女の練習への入れ込みようを常日頃から見ていれば、そんな軽い気持ちでしている訳でないことぐらいはとうに解っている。しかし希美はそういったものをおくびにも出そうとはしない。それはきっと、『自分はこんなにも毎日頑張って練習してます』という姿を周囲に見せびらかすような行為を、希美自身が嫌っているから。久美子はそう解釈していた。
「おはよう」
ぼそりと霞むその声と共に、立ち並ぶ譜面台の隙間からみぞれが視線を寄越してきた。
「はよざいます、みぞれ先輩」
「さっきまで希美と合わせてた」
「そうだったんですか。すみません、お邪魔しちゃって」
「いい」
ふるふる、とみぞれは小さく首を振る。
「合わせてたって言っても、適当にいろんな曲のフレーズさらいながらって感じだったんだけどね」
希美は自分の席へ向かい、そこにフルートを置くと譜面台から数枚の楽譜を掴み取って戻り、「ほら」と久美子の眼前にそれらをかざした。目の前に広げられた楽譜の中には、久美子も知っているような有名アニメ作品のメドレー曲などもあるようだった。
「でもなーんか物足りないね、って二人で話してたとこ。あー、今年のコンクールの自由曲、何か良い曲になるといいんだけどなぁ」
「それは滝先生じゃないと、ちょっと分かんないですね」
「ホントお願いしますよーって感じ。去年の『三日月の舞』も良かったけど、もっとこう、フルートとオーボエが主役になるようなのがいいな。いっそソリとか」
「滝先生の選曲だったら、私はどんな曲でも良いと思いますけど」
そこで滝の名が挙がったからか、不機嫌そうに表情を歪める麗奈が首を突っ込んできた。まずい、と感じた久美子が場を取り繕おうとするよりも先に「いやいや」と希美が片手を振る。
「私も滝先生が選ぶならどんな曲でも良いって思ってるよ、勿論。ただ私らは今年が最後のチャンスだしさ。せっかくなら思いっ切りコンクールの舞台で吹きたいなーって、そういう意味で言っただけ。あんまり気にしないで」
そう言ってニッコリと、希美は相手をなだめすかすような笑顔を向ける。麗奈は微かに狼狽したように眉尻を下げ、やがて「分かりました」とだけ言い残して練習の準備に戻っていった。一部始終を眺めていた久美子もホッと安堵の息を吐く。希美の上手な執りなしぶりは流石
「ところでさ、久美子ちゃんもビックリしたでしょ。あすか先輩のこと」
「え? はい、まぁ」
虚を突かれ、久美子は慌てて希美に向き直る。
「あすか先輩も人が悪いよねー。先に言っといてくれれば良かったのに。まあでも、私は今年もまた先輩といっしょに吹奏楽やれて、嬉しいかな」
薄くはにかむ希美のことばに、久美子も去年のことを思い出す。一度は吹奏楽部を退部した彼女が再び部に戻りたい、とあすかに嘆願していたあの頃、『自分を引き留めてくれたあすかの役に立ちたい』と希美は言っていた。それが果たされたかどうかは久美子の与り知るところではないが、今年もあすかと過ごせるのを喜ばしく思う気持ちがあるというその言も、希美の立場からすれば至極当然のものと言えるだろう。
「とにかく、今年も皆で頑張って、今度こそ全国金賞獲ろうね」
「……はい」
希美の檄に、久美子は素直に頷く。と、
「がんばる」
がたりと椅子の動く音。そこに立つみぞれは本人なりの決意の表れか、片方の手をグーの形にして小さく前に突き出していた。
「そうだね。頑張ろ、みぞれ」
みぞれの元に近付いた希美もまた拳を握り、こつん、と彼女の拳にぶつける。その時ちょうど、戸の外から何やらギャアギャアと言い争うような声が聞こえてきた。
「さあて、部長さんたちもお出ましみたいだし、私はそろそろ個人練に行こうかな。それじゃみぞれも久美子ちゃんたちも、また後でね」
こくり、と小さく首を動かしたみぞれに手を振り、フルートと譜面台を手にした希美が軽やかな足取りで部室から去ってゆく。そんな彼女の背をじっと見送るみぞれの姿は、今にも朝霧の中に消え行ってしまいそうなほどに儚げだった。