それからの十日間は、瞬く間に過ぎ去っていった。
新入生の勧誘合戦。各種演奏会に向けての練習。指導係としての準備。さらに難度の増した授業への対応。バタバタと駆け回る毎日に追われ続けた久美子たちだったが、果たしてその甲斐はあったと言えるだろう。
音楽室の中にはたくさんの新入生がごった返していた。正確な人数は分からないが、上級生と比較しても遜色無いほどの人数だ。彼らはこれからこの北宇治吹奏楽部の一員として、あるいは仲間として、一緒に大きな目標に向け頑張っていく事となる。新入生たちもまたそんな未来を頭の中に描いているのか、皆一様にその瞳を期待と不安で輝かせているようだった。
可愛い雛鳥とも言えるこの子たちは、これからの吹部での活動を楽しいと思えるだろうか。はたまたそのキツさに音を上げるのが先か。それを思うと少し怖くなってしまう。無垢な雛鳥たちは、いつの日か無限の彼方まで羽ばたきたいと願う理想の陰に、その心許ない翼を容易くへし折られかねない現実があることをまだ知らない。
「それじゃ、希望の楽器のところへ移動して下さい」
ひとしきり楽器紹介が終わり、優子の指示に従って新入生がぞろぞろと移動を開始する。新一年生にとってはここからが勝負の時間だ。各々が希望する楽器へとすんなり配属されれば良いのだが、必ずしもそうなるという訳ではない。あまりにも希望人数が多かったり学校備品の楽器が足りなかったりするパートなどでは、採用する人員を絞るために即席のオーディションが行われる場合もある。これに漏れてしまった子は残念ながら、他の楽器へと希望を移さなければならなくなってしまう。まこと吹部とは競争ずくめの世界なのである。
「……なーんて、うちら低音パートにはほぼ縁のない話だね」
諦観に満ちた表情で葉月が肩をすくめる。久美子もそれに呼応して、だねぇ、と小さく呟いた。
希望者が長蛇の列を成すフルートやトランペットなどと比べて、低音パートのスペースは実に閑散としたものだ。今日という日のためにぴかぴかに磨かれたユーフォニアムやチューバはまだ誰の手垢もつかぬまま、寄せ集めた机の上で虚しく輝きを放っていた。
この中にも低音楽器の経験者が居ないわけではないのだろうが、経験があっても元々希望していた楽器ではなかったということだってある。そういう子が進学を機に好きな楽器へ鞍替えをする、といったケースは珍しくもなんともない話だろう。ホルンからトロンボーンに転向した秀一は言わずもがな、去年の自分だって、当初はトロンボーンを希望しようとしていたのだから。
けれど、そうならなくて良かった。
もしも他の楽器に移っていたら、今こんなにもユーフォが好きであるようにその楽器のことを好きになれたか、自信は無い。それにユーフォでなかったらきっと、麗奈と肩を並べて共に高みを目指そうと考えることも、ユーフォを通じてあすかと深く交わることも出来なかっただろう。その意味でも北宇治でユーフォを担当することになって本当に良かったと、久美子は心からそう思っている。
「おらおら、ボーっと突っ立ってたって新入生は来ないでしょ。全員さっさと動いて、手ごろなのをとっ捕まえて来る!」
そのあすかは低音楽器を並べた机の前に腰を下ろし、さながら現場監督の如く後輩達に檄を飛ばしていた。この光景も一年前のそれとまるで変わらない。あのとき葉月が一本釣りされたように、今年もあすかに転がされるいたいけな子が現れるのだろうか。こうしてあすかに尻を叩かれ、手当たり次第とばかりその辺の一年生に声掛けを始める葉月の姿が、どうにも久美子の目には憐れに映ってしまう。
「先輩は、勧誘しに行かないんですか?」
久美子は一応、あすかに水を向けてみる。答えはおおよそ分かり切っているのだけれど。
「去年はそうしたけど、今年はもう黄前ちゃんたちの時代だから。老兵は死なず、去りゆくのみ、ってね」
「ですよねー」
あの衝撃の再入部宣言から十日あまり、あすかはずっとこのスタンスを貫いていた。自分は留年生だから。現役じゃないから。それは役務を面倒くさがったあすかの方便、というわけでは無いだろう。パート指導の件も然り、あすかがこまごまと口を出してしまえば事の全ては『あすか主導での活動』となってしまう。そしてそれは昨年既に行われたことだ。これを鑑みてなのだろう、パート単位で活動をする時、あすかはその内容を卓也ら現役三年生たちの自主性にすっかり委ねる姿勢を貫いていた。
「けど楽器選びが始まってから十分くらい経ちますけど、まだ誰も来ないのはヤバいですね」
憂慮の色を隠さぬ梨子が頬に手を当てぼやく。仮にこのまま放っておいても他パートからあぶれた人員が回って来るので、最終的には人数不足に陥る心配は無い。しかしそれはそれとして、本人のやる気という問題もある。全員は無理だとしても、能動的にやりたいと思って低音パートに来る子が、出来れば一人くらいは居て欲しいものだ。そう、例えば去年の緑輝のように。
「久美子ちゃん、中学の後輩とか心当たりはいない?」
「え、いや、居るような気もするっていうか。でも他の楽器を希望してるみたいな感じかなぁって」
梨子に問われて久美子はしどろもどろになってしまう。正直な話、この大人数の中から見知った後輩を探し出すのはとても難しいことだった。と言うよりもむしろ、中学時代の後輩の顔など今やほとんど覚えていない。向こうから声を掛けてきてくれれば、もしかしたら思い出せるかも知れないが。
「梨子先輩の方こそ、めぼしい後輩とかは来てないんですか?」
「私、中学の時は料理部だったから」
「じゃ、じゃあ後藤先輩。ここは一つパートリーダーとして、ビシッとお願いします」
「……こういうのは、あんまり得意じゃない」
「あぁ……」
何故か堂々とした卓也の回答に、久美子はガックリと肩を落とす。あくまで主観上の話ではあるが、低音パートは自分から主張するのが苦手なタイプの人が多い、というのが久美子の率直な印象だ。卓也や梨子などはその典型で、縁の下の力持ち系と言えば聞こえは良いが、こういう場面では不利に働くことも多い。あすかのような人種は例外中の例外であり、殆どは穏やかな性格の子か、もしくはやたら個性的か、いずれにしてもバリバリの肉食獣タイプはそれほど多くないという感がある。頼る相手を間違えた。そんな後悔の念が、久美子の胸中を駆け巡る。
部室内に散っていった葉月や緑輝も未だ帰ってくる気配が無い。夏紀は副部長の職務を優先してなのか、今は別パートのオーディションを捌く役に回っている。状況的に見て、今動けるのはどうやら自分しかいないらしい。そんな風に腹を括った久美子が物珍しそうな目でチューバを眺める新入生に声掛けをしようとした、その時だった。
「すみません」
背後から突然声を掛けられ、久美子の心臓は一瞬でギュウ、と絞り切れんばかりに収縮してしまう。
「ユーフォニアム希望なのですが、低音パートはこちらで宜しかったでしょうか?」
「はっ、ヒャイ!」
あまりの動揺に思わず声が裏返ってしまった。みっともなさを堪えながら振り返ると、白雪のような可憐さを湛える一人の女子生徒がクツクツと喉を震わせていた。
「失礼しました。先輩を笑うつもりは無かったのですが、お返事があまりに突飛でしたもので、つい」
「あ、ううん。こっちこそヘンな声出しちゃって、ごめん」
ばくばくと暴れる心臓を手で必死に押さえつけながら、久美子は改めて件の新入生をしげしげと眺める。
ユーフォニアム希望、と述べたその女子生徒は見るからに可愛らしい容姿をしていた。目の高さに切り揃えられたショートボブの黒髪、その左こめかみ辺りには真っ赤なリボンが結わえられている。身長は久美子よりも一回り小さく、彼女の愛くるしい顔立ちにはちょうど相応しい体格であるように思えた。ふわりと浮かべた人懐っこい笑顔は、向けた相手をもれなく味方につけてしまいそうな、蠱惑的な匂いをほのかに漂わせている。
「
「よろしくね。私は黄前久美子、私もユーフォ担当だよ」
「黄前先輩、ですね。それとも『久美子先輩』とお呼びした方がよろしいでしょうか?」
「どっちでも良いよ。呼ばれ方には特にこだわり無いし、久石さんの呼びやすい方で」
「それでは不躾ながら、親しみを込めて『久美子先輩』と呼ばせていただきますね。私の事もどうぞ『奏』と、下の名でお呼び下さい」
自己紹介を終え、奏は深々と一礼をした。可憐な見かけの割にはずいぶんと丁寧な言葉遣いを用いる子だ。久美子もまた親愛の情から、彼女を「奏ちゃん」と呼ぶことにした。
「先輩、去年の全国大会に出てらっしゃいましたよね? 赤い眼鏡の先輩と一緒に」
「あぁ、うん。その人、そこにいるけど」
「そうなのですか? 私あの日、ちゃんと名古屋の会場まで演奏を聴きに行ったんですよ。絶対に先輩方と一緒にユーフォを吹きたいと思っていたので、夢が叶って良かったです」
「そう言われると照れるなぁ。でもそういうことなら、何よりだね」
「そうですね。本当に果報者だと、自分でも思います」
きゅっと目を細め、そして奏はつかつかと、椅子に座り込んでいるあすかの元へ歩み寄っていく。
「初めまして、久石奏です。ユーフォニアムを希望しています」
「おっ、今年の一人目は黄前ちゃんがフィッシュかな? 流石だねぇ」
「そんな、新入生をサカナみたいに言わないで下さい」
卓也の窘めも意に介さず、あすかは悠然と会話を続ける。
「久石ちゃん、ね。キミはユーフォ経験者なのかな?」
「はい、中学の頃からずっとユーフォひと筋です。その、ええと、先輩の、」
「ああ、私は田中あすか。気軽に『あすか先輩』って呼んでくれていいよん」
「ではお言葉に甘えさせていただきますね。私、昨年のあすか先輩と久美子先輩の演奏を全国大会でお見掛けしまして。とてもお上手な先輩方に憧れて、北宇治で吹奏楽をしようと思って来ました」
「ほほう、そりゃまた光栄だねぇ」
珍しくあすかが謙遜してみせる。初対面の新入生を怯えさせぬよう猫を被っている、というのも半分くらいはあるのだろうが。
「あんな素晴らしい演奏をなさる先輩方にご指導いただけるなんて、本当に夢みたいです。昨年の自由曲のソロもとてもお上手でしたし、てっきりあすか先輩は三年生なのかと思ってましたが、あの時はまだ二年生でいらっしゃったんですね」
「ああ奏ちゃん、そのへんの話は今度ゆっくり、ね?」
堪らず久美子は間に割って入った。その話をここで始められたら、ややこしい事態を招いてしまう事が容易に想像出来る。しばし怪訝そうにしていた奏だったが、どうやら空気を読むに敏な人物であるらしく、そうですか、と話題をすぐに別のものへと差し替えてくれた。
「それにしても、あすか先輩はずいぶん長いキャリアをお持ちとお見受けしたのですが、いつ頃からユーフォを吹いていらっしゃるのですか?」
奏の質問に、あすかは得意げにフフンと鼻を鳴らす。
「聞いて驚くがいい。実は小一の頃からなのだよ」
それを聞いた奏は両手を広げ、わあ、と驚く仕草をしてみせた。
「それは凄いですね。普通なら金管バンドにも所属していない年頃ですし、ひょっとしてご両親の手解きがあったりしたのでしょうか?」
「奏ちゃん!」
すかさず久美子は奏の両肩を後ろから引っ張った。これには奏も流石に面食らったらしく「先ほどからどうしたんですか?」と久美子に瞠目をくれる。駄目だ。これ以上好き勝手に会話をさせたら、この無邪気な新入生はそのうちあっさりと地雷を踏み抜いてしまう。
恐る恐る様子を窺った限り、あすかは特に気分を害した風でもなく、むしろニマニマと面白がるような表情で奏のことを眺めているみたいだった。ひとまずはセーフといったところだろうが、このままにしておくのは色々な意味で危ない。何よりこっちの身が持たない。どうにかしなければ。久美子が考えを巡らせていたちょうどその時、人いきれの中から「奏ー?」と女子の声が聞こえてきた。
「奏ぇ、どこ行ったのー? ダブリーんとこ、一緒に来てくれるって言ったじゃーん」
「あ、ホラ奏ちゃん? お友達が呼んでるみたいだよ」
「ああ、そう言えば」
しまった、といった様子で奏が口元に手を当てる。
「友人が希望しているダブルリードパートに、付き添いで一緒に来て欲しい、と頼まれていたのをすっかり忘れていました。別に一人で行けばいいのに、何だか勇気が出ないらしいんです。おかしな話ですよね」
「ハハ、そうだね」
可愛らしく小首を傾げる奏に、久美子は愛想笑いを返す。確かに普通であれば何も遠慮する必要など無いのだが、奏の友人が向かおうとしているその先では恐らくみぞれが座っている筈だ。何しろダブルリードパートには今、三年生のみぞれ一人しかいない。元々がウェルカム気質ではない上に彼女の不愛想ぶりも相まって、周辺には他を寄せつけない異様な空間が広がっていることだろう。とりわけみぞれのことなど知らない新一年の子であれば、みぞれの傍には相当近寄りがたいと感じているに違いなかった。
「すみませんが少々席を外します。あ、私のユーフォ入りは決まりでよろしいのですよね?」
「もちろん大歓迎だよ。まだ他に誰もいないし、奏ちゃんが希望者第一号ってことで」
「ありがとうございます、向こうの話がまとまり次第戻ってきますね。それではまた後ほど」
うやうやしくお辞儀をすると、奏は満開の笑顔を残してその場を去っていった。久美子はホッと胸を撫で下ろす。ちょっと危ない場面もあったが、何はともあれ人柄の良さそうな後輩で良かった。あすかの人となりについては奏もおいおい知っていく事になるだろう。そうなれば今みたいに、あすかの危うい領域にうっかり踏み込むことも無くなる筈だ。
それに自らユーフォニアムを希望してくれているというのは、これはかなり前途有望である。聞けば経験者だと言うし、きっと即戦力たり得るに違いない。そういう意味でも良い人材を早くに確保できたことに、久美子は大きな達成感を覚えていた。
「良かったねぇ、黄前ちゃん」
そうですね、と久美子は振り向く。あすかはにやついた笑みを湛えたまま、人の輪の中に埋もれゆく奏の背をじっと見つめていた。
「面白そうな後輩で」
その一言に、久美子の胸の中で何かが小さくざわめく。あれ? なんだろう、この感じ。
「ただいま戻りましたー。加藤葉月、新入部員ダブルゲットだぜぇ!」
久美子ははたと我に返った。歓喜の声を上げた葉月はその両手に、高身長の女子と奏ぐらい小柄な女子とをそれぞれ引き連れていた。そのまま得意げに彼女たちの紹介を始めた葉月の声を聞き流しつつ、久美子はそっと自分の胸に手を当てる。
さっき感じたものが何だったのか、良く判らない。けれど何となく、いやどちらかと言えば、悪い予感と呼べるものに少しだけ似ている気がする。そう思えば思うほど、この感覚は黒さの比重を増していくようですらあった。
ううん、きっと気のせいだ。別にあすかは後輩の迂闊な言動に怒っているとかじゃない。そのぐらいは判る。それに奏はあの通りとても良い子だし、すぐに低音パートに溶け込んで、そのうちにあすかの事もちゃんと理解してくれるだろう。
大丈夫、問題なんて何も無い。そう自分に言い聞かせ、ようやっと落ち着きを取り戻せた頃に、緑輝が一人の男子生徒を率いてこちらに帰ってくるのが見えた。
『全国大会金賞』
昨年度の実績を踏まえた今年の目標が決まり、担当楽器の決まった新入生も加わったことで、総勢九十名となった新生北宇治吹奏楽部がいよいよ始動する事となった。
「それでは最後に私から皆さんに一つ、お話したい事があります」
それまで成り行きを見守っていた滝が再び前へ出たのに合わせ、一年生の塊からキャアッと小さい歓声が上がる。上級生にしてみれば、滝の容姿だけを見てそんな声を上げられるのも今のうちとばかり、失笑すら浮かぶところだ。やがて知るであろう彼の本性を目の当たりにして、それでもなお滝に胸をときめかせられるとしたら、それは麗奈と同じくらいタガの外れた、もとい稀有な人物だと言っていい。
「田中さん、こちらへ」
「はい」
裏で予定されていたのか、あすかはスムーズに返事をして滝と共に壇上へ立った。先日と似たような流れではあるのだが、あの時のように騒ぎが起こったりはせず、一同は揃ってあすかの登壇をじっと静観している。それは今現在、上級生にとっても何も知らぬ新入生にとっても、あすかがここに居るのが至極当然のものとして受け入れられているからこそだ。
「こちらの田中あすかさんは吹奏楽部所属の三年生です。実は田中さんは家庭の事情により、昨年留年することになりました。ですので、他の三年生よりも年齢は一つ上になります」
ええっ、というざわつきが一年生の間から漏れ聞こえる。
「さて、ここからが本題です。田中さんは奏者としてユーフォニアムを担当していますが、演奏技術に加えて音楽的な知識や造詣も非常に深く、とても優秀な方です。これは上級生ならば誰もが認めるところでしょう。その田中さん本人の希望もあり、また私自身もそれが良いと判断した上で、これから三年生が引退するまでの一年間、田中さんにはコーチとして活動してもらうことになりました」
これは久美子にとってあまりに予想外の流れだった。あすかがコーチに? コーチって何なんだ? 動揺したのは他の上級生も同じだったらしい。驚愕の波に翻弄された空気がそこかしこでさざめき、その音はじわりと大きさを増し始める。その時パシンと一発、手を叩く大きな音が部室に響いた。
「静かに!」
優子の一喝で、部員たちは水を打ったように静まり返る。こういう時にすかさず場を律することが出来るのはさすが部長たる手際だ。ざわつきの収束を確認するようにぐるりと視線を巡らせた滝が、続きを語り出す。
「もちろん田中さんが吹奏楽部の一員である、という事には変わりありません。田中さんには普段の練習時間の合間を見つつ、皆さんのパート練習のチェックと指導を行ってもらいます。つまりコーチとは顧問である私の役割を補佐する立場、ということです。それでは田中さんからも、皆さんに一言どうぞ」
はい、と返事をして、あすかが喋り始める。
「コーチ役を務めることになりました、田中あすかです。って言ってもさっき滝先生が言ってた通り、そんな大した役じゃないけど。練習してて疑問に感じることがあったらどんどん私に聞いて下さい。それと私が言ってることで何かおかしいと思ったら、それも遠慮なく突っ込んできて下さい。目的はあくまで良い音楽を作ることなんで、そのためにみんなの方から私を役立てて欲しいと思っています。以上、よろしくお願いします」
深々と頭を下げるあすかに、今回はきちんと部員たちの拍手が送られた。あすかのコーチ就任に関して優子や夏紀にも是非は無いらしく、あるいは彼女たちも取り決めに一枚噛んでいたのか、皆の拍手を促すかのように率先して手を鳴らしていた。
「それともう一つ、大事なお知らせがあります」
滝は立ち上がり、黒板の前に立つと白いチョークを手に取った。それを見た木管の女子達が、何かを警戒するように少しだけ身じろぎしたのが久美子の視界に入る。
「上級生には以前にも伝えてありますが、来月にはサンフェス以外に宇治地区合同の定期発表会もあります。ちょうどサンフェスの一週間後です。二年に一度行われる演奏会なのですが、地区内の小学校から高校までの音楽クラブを中心とした団体が出場し、それぞれの演奏を披露することになります。もちろん私達北宇治も、この発表会に参加する予定です」
滝はそれぞれの日程を黒板に書き出していく。五月初頭、サンフェス。その一週間後、地区定期発表会。カツカツ、と音を立てて並べられていくその文字はいつも通り、印刷物のフォントを見ているかのような整いぶりだ。
「中間テスト直前の時期ということで日程的には少し厳しい部分もありますが、せっかく大勢の前で全員での演奏を披露できる機会です。これを実力アップのための貴重な実践の場と捉え、大いに活用するつもりで参加しましょう。また、この演奏会にはマーチングコンテストの全国常連校として知られる
立華。その名を聞いた久美子の脳裏に、
「以上、今年はサンフェス、地区発表会と立て続けの出演になりますが、どちらにおいても良い演奏が出来るよう、これからの行程を予め見据えた上で練習に取り組んで下さい。そのぐらいの意気込みでなければ、今しがたの全国金賞という目標も単に痛々しい子供じみた夢物語でしかありません。口にしたことは実現出来るよう行動に移す。そして実現するもしないも、全ては皆さん次第です。良いですね?」
「はい!」
部室内に全員の返事がこだまする。昨年よりも大幅に人数の増えた北宇治吹奏楽部の新しい一年が、こうして始まった。
穏やかだった日差しは徐々にその熱を高めていき、気が付けばあんなに咲き誇っていた桜もとうの昔に散ってしまっていた。そんな駆け足気味の日々の中、新入生指導係として彼らの練習メニューを組み指導を行いつつ自身の練習もこなす久美子だったが、事前の予想に反してさほど忙しいという訳でもない。
「それも、あすか先輩のお陰かな」
「そうなの?」
「多分。新入生が集まって合奏した後、みんな各パートに行って練習するでしょ? そこであすか先輩に指導されるからなのか、前の日に出した課題も次の日には全員ちゃんと吹けるようになっててさ」
なるほど、と麗奈が相槌を打つ。今日はサンフェスに向けての全体練習があり、練習を終えた久美子は久しぶりに麗奈と肩を並べて下校していた。ちなみに葉月と緑輝は一緒ではない。葉月はこのほど参入したチューバの新しい後輩、
「あすか先輩、トランペットパートも見に行ってるんだよね。様子はどう?」
「様子、って言われても良く判んないけど、でもあすか先輩の指導でみんな音は良くなっていってる。特に
「そっか。そう言えば、加部ちゃん先輩もトランペットだったっけ」
「加部ちゃん先輩?」
うっかり漏らした久美子の微かな呟きを、しかし麗奈は聞き逃さない。しまった、と久美子は少なからず狼狽した。
「あ。ほら、先輩って、私と同じ新入生指導係じゃない? それで顔合わせのとき先輩に言われたの。『もっと特別感のある呼び方にして』って」
「それで、加部ちゃん先輩なの?」
「うん。まぁ」
久美子の背中をイヤな汗が滑り落ちていく。その呼び名の発案者は他でもない自分自身なのだが、こうして改めて他人から突っ込まれると妙に間抜けな響きだな、と我ながら思う。言われて咄嗟に考えた呼び方とは言え、何となく気恥ずかしい。せめて『
「まあ、久美子らしいけど」
くふ、と小さな含みを編み込みつつ、麗奈は柔和な笑みを浮かべた。
「吉沢さん、去年からずっと練習頑張ってるし、今年はレギュラーに入るかもね」
「加部ちゃん先輩は?」
「あの人はまあ、それなりかな」
麗奈のその一言にずきりと胸が痛む。あの人。今の物言いには麗奈と友恵の間を分かつ距離感がぼんやり滲んでいるような、そんな気配がした。空気が冷めてしまう前に、久美子は会話を次へと繋ぐ。
「他のパートも結構良い音出すようになってると思うけど、そのへん麗奈はどう思ってる?」
「かなり良いんじゃない? 今年のコンクールは去年より良い演奏が出来ると思う」
麗奈がこれほどに手放しで他者の音を褒めるのも珍しい。それだけ麗奈も、北宇治全体の音楽が良い方向に伸びているという手応えがあるのだろう。
「あすか先輩、コーチになってからほぼ毎日各パート回って指導してるもんね。低音パートにいる時は相変わらず自分の楽器ばっか弄ってるけど」
「低音のことは心配してないんでしょ。去年も実質あすか先輩がコーチしてたようなものだし、元から上手な人多いし。それに確か、今年入った子だって全員経験者だったよね」
「うん、それはそうなんだけどね」
「何か気になることでもあるの?」
「んー。気になるっていうか、気がかりっていうか」
久美子はそこで言葉を濁した。確かに今しがた麗奈の言った通り、新しい後輩達は全員が経験者ということもあり、演奏面については各々それなりの技量を持っている。それはそれとして、今年の新入生はなかなかどうして曲者揃い、という印象が久美子の中には湧いてきていた。
まずはチューバのもう一人の新入生である、
そして、久石奏。人懐っこく礼儀正しい子、という彼女に対する久美子の当初の認識は、その後たった一日で呆気なく崩壊してしまっていた。何故か苗字で呼ばれるのを嫌がる求に対し、緑輝に窘められるまで執拗に『月永君』と呼び続けた奏。もしかすると新入生の中ではあの子が一番厄介かも知れない。慇懃でお上品な薄皮の内にたっぷりと秘められた、毒々しいまでの邪気と悪意。表裏に見え隠れする強烈な二面性という意味では、奏の振る舞いはあすかのそれにも似ているところがある。
「そのあすか先輩とは今のところ何もトラブってはないけど、なーんか心配」
「久美子、さっきから声に出てる」
「うおっと」
「私は別に、心配しなくてもいいと思うけど」
「そう、かな」
「特別問題が起こってるわけでもないし。それより大事なのはこのメンバーで良い音楽が出来るかどうか、じゃない?」
麗奈の力強さが久美子の胸に刺さる。音楽的なことだけでなく、こういう時の即断ぶりを見ても、麗奈は自分とは違う。そしてそれを純粋に凄いと思う。彼女の眩しい部分を見るたび目をすがめつつも、どこかで胸を疼かせる自分がいることを、このごろ久美子は認識し始めていた。
「麗奈はさ、あすか先輩が今年も部にいることって、どう思ってる?」
「急に何?」
「麗奈の意見、聞いてみたくって」
久美子の問いに、麗奈は顎に手を当て少し考えてから、ぽつぽつと答えを紡ぎ始めた。
「……悪いことは無いと思う。あすか先輩の指摘って私から見ても的確で、音楽的にもちゃんと合ってるし。それに去年の低音パートだってレベル高かったから」
「そう言われると、なんか照れる」
「事実を言ったまでだけどね。パート練習って基本、部員同士で教え合ったり指摘し合ったりするでしょ。大抵はパートリーダーが指導する役をやるけど、指導する人の力量とか人柄に左右される部分もあって、必ずしも適切に指導出来るとは限らないじゃない?」
「まあ、確かに」
それは久美子にも覚えのある話だった。和を重んじるあまりナアナアになってしまったり、誤った知識に基づいてトンチンカンな指導に終始したり。そういう人物がパートリーダーに選ばれてしまうことも吹奏楽部ではままあるものだ。彼らのいい加減な指導が、やがて全体の音楽を決定的に破綻させてしまう例も少なくない。
「滝先生がいちいち全部のパート指導に回れるわけじゃないし、特に今年の三年はどのパートも人数少ないから、下手したら指導のやり方が良く解らないままリーダーになってる先輩もいるかもでしょ? その点、あすか先輩が各パートをチェックして練習の質を一定の水準まで上げてくれるのは良いと思う。いつまでもあすか先輩に頼り切りじゃ、それは良くないけど」
「そのへんはあすか先輩だからなぁ、ちゃんと考えていそうではあるかな」
「かもね。とにかく私はあすか先輩のコーチ役は申し分ないと思ってる。何より、滝先生がそうした方が良いって判断してるんだし」
「麗奈がそこまで言うなら、大丈夫なのかな」
そう。きっと大丈夫。全ては上手く行っている。だから何も問題なんて無い筈だ。胸の中にうっすらと漂う何かを無理矢理飲み下すように、久美子は歯を食いしばる。
「それよりも、まずはサンフェスと定期発表会。ここで最高の演奏しよう」
「だね」
麗奈に発破を掛けられて、久美子も前へと向き直った。確かに余計な心配をしているいとまは無い。夏のコンクール本番まで時間はあるようで無いのだから。北宇治が掲げる『全国大会金賞』という目標、そして悲願を果たす為に、一つひとつの事を全力でこなしていかなくてはならない。
今はとにかく集中しよう。そう考える一方で、言葉に表すことの出来ないトゲがどこかに突き刺さっていて、それが何かを訴えるようにチクチク蠢くのを、久美子は確かに感じ取っていた。