「じゃ、これからはそれでよろしく」
バシン、と後輩の背中を強く叩いて、友恵は満足の意思を示す。
目の前の後輩、黄前久美子は、新入生指導係としてこれから共に活動をすることになる子だ。彼女自身はとても良い子ではあるのだがどうにも折り目正し過ぎて、一言で言えばクソ真面目すぎる。現に初顔合わせのこの場でも、大した雑談もせずいきなり業務連絡から入ろうとしていたぐらいだった。そんな彼女と事務的なやり取りばかりで過ごすのは、どうにも息苦しい。それにこの子としても、そんなお堅い空気の中で活動していくのは大変な思いもあるだろう。そう考えた友恵はあえて、自分をもっとくだけた呼び方で呼ぶようにと要望したのだった。
そこから久美子が捻り出した『加部ちゃん先輩』というあだ名はいかにもマヌケで脱力しそうなものだったが、多分、このぐらいがちょうど良い。そう呼ばれることで彼女と打ち解けた関係を築けるのなら、私は気にしない。友恵はそういう考えの持ち主だった。
「そろそろ行こっか」
指差したその先には音楽室の扉がある。その中にはこれから吹部の一員に加わることになる新一年生がひしめいていることだろう。自分の担当区分は主に、楽器初心者の子。それは同じパートの仲間であり吹部の部長でもある優子から、直々に指名された役割だった。
「友恵は右も左も分からない子の面倒を見るのが得意なタイプだから。音楽的に難しいことは黄前に任せることにして、アンタは新入生の『人』を見てあげて」
その依頼を、友恵は喜んで引き受けた。久美子は自分にとって後輩ではあるけれど、彼女の楽器キャリアは高校からトランペットを始めた自分よりもずっと長いし、音楽全般の知識や造詣も数段上のレベルにある。片や自分は音楽的な能力に関して、お世辞にも他の子より秀でてはいない。それは友恵自身にもとっくに解っていることだった。
そして何より、友恵は自身の苦手な分野に力を尽くそうと考える性質の人間ではなかった。自分には自分の得意なことがある。それは誰かの面倒を見ること。とりわけ吹奏楽自体がまったくの初心者、という子の気持ちは痛いほど良くわかる。何がわからないのかがわからない、という状況に振り回されて、せっかく入った吹奏楽部で楽しい思いが出来ないのは勿体ない。だが百人近い集団の中で、どうしても取りこぼされてしまう人は出てくるものだ。そんな子たちに一人ずつスポットライトを当てることこそ、自分にできること。そういう自分の特性を優子がきちんと分かってくれているのが感じられて、友恵にはそれが嬉しかった。
「――それじゃあ早速、音を出してみましょう。まず最初は
三、四、と手を振って、友恵は自分のトランペットを鳴らす。それに乗っかって新入生たちも音を鳴らし、教室内にそれぞれの楽器の音が混じり合って響いた。
最初はこんなものかな。八拍のロングトーンを終えて友恵は楽器を下ろす。音量も音程もまだまだ安定しているとは言いがたい。でもそれも仕方のないことだ。目の前にいるこの七人の新入生は、今日初めて本格的に楽器に触れたような子ばかり。基本的な楽器の構え方や扱い方はそれぞれのパートで教わってきたようだが、まだまだ覚束ないところもあるらしく、不安さが音にも表れている。そんな後輩の一人ひとりに、友恵は楽器の構え方や音の鳴らし方を手取り足取り指導していった。もちろん間違ったことを教えるわけにはいかないので、予め持ち込んであった各楽器の教本を片手にしながら。
「すみません先輩、なんか音がうまく出なくて」
「うん? あー、ホルンはマウスピース小っちゃいもんね。じゃあまずはマッピを口から離して、もっかいバズィングからやってみよっか」
「はい」
指を
「難しいー」
「ねぇ、難しいよねバズィングって。私も最初のうちはぜんぜん出来なかったし」
「そうなんですか?」
「今でもヘタクソだけどね、慣れないうちは特にキツかったよ。やってるうちに頭クラクラしてくるし、次の日とか唇痛くなるし。でも毎日練習してると少しずつ鳴らせるようになってくるから」
「あー、いいなぁ。私も早くそんな風になりたいです」
目の前の後輩はキラキラと目を輝かせている。希望に満ちたその瞳を、友恵はとても愛おしいと思った。まだまっさらな彼女の楽器歴にいま必要なのは、正しい奏法をいち早く身に付けさせることでも無ければ高度な練習法をこなすよう指示することでも無い。音楽に大事なのは楽器を触って音を鳴らして、それを楽しむこと。そうやって出した音が次第に形を、音色を変え、やがて簡単なものでも良い、一つの曲を奏でられるまでになる。その過程を楽しいとさえ思うことが出来れば、上手くなるための方法はあとからきっとついてくる。それはかつてあの先輩から教わった友恵自身の経験則に基づく持論であり、信条とさえ呼べるものだった。
「大丈夫、すぐに出来るって! 一緒に頑張ってこうね、
「はっ、はい! え、先輩、私の名前、」
「皆の名前はもう覚えちゃったよ。ああそうそう、私のことも『友恵先輩』とか呼んでくれちゃっていいから。気軽にドンドン話し掛けて」
友恵の笑顔といかにも先輩らしい態度に、場の緊張感は少し薄らいだ。この子達にとっては見るもの聴くもの、何もかもが初めてなのだ。不安に感じることも沢山あるに違いない。かく言う自分だって音楽について、楽器について、知らないことは山ほどある。けれどその不安や迷いをチラリとでも覗かせたら後輩達だって誰を頼れば良いか分からなくなり、ますます不安を募らせてしまうだろう。だからこそせめて、自分との関わりでは一切の不安なく頼ってきて欲しい。そんな思いが、このときの友恵を突き動かしていた。
「他に聞きたい事ある人はいる?」
その問いに、今度はフルートの後輩がおずおずと手を挙げた。
「私もちょっと、うまく音が安定しなくて」
「そっかぁ。じゃあ
「はい!」
元気の良い返事ににっこりと笑顔を返して、友恵は楽器を構える。
「それじゃ行くよ。三、四、」
カウントをして息を吸い、そして吹き込もうとした、その瞬間。
ずきり。
強烈な違和感を覚え、咄嗟に楽器を唇から離す。じとり、と滲み出る嫌な汗。そのただならぬ様子に、音を出しかけたフルートの後輩もどうしたのかといった面持ちで友恵を見やった。
「……あーごめんごめん。吹こうとした拍子にハナ水出そうになっちゃってさ。何でもないから気にしないで」
ヘラリと破顔してみせた友恵に、なあんだ、と後輩達はクスクス笑みをこぼした。そう、何でもない。一瞬痺れるような痛みを頬に感じたけれど、今はもう何ともない。特に気にするようなことじゃない、筈だ。自らへ言い聞かせるようにそう心の中で呟き、もう一度、マウスピースを唇に当ててみる。僅かに早まった脈動がコツコツと首筋を叩く感覚が妙に不快だった。緊張する体をなだめるように、音を立てぬまま深く息を吐く。それからもう一度息を吸って、自分自身を探るように、友恵はトランペットへそろりと息を吹き込んだ。
その後の練習でも特におかしなことはなくて、あれはきっと筋を違えたか何かだったのだろう、と友恵は考えていた。
己の身に忍び寄るものが何だったのか。友恵には知る由も、ある筈が無かった。