もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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2.飛躍するアレグリッシモ
〈5〉小さな発端


「それでは始めますね」

 いつもの三年三組の教室、その教壇の上には緑輝が立っていた。彼女のあどけない顔立ちには何故か、全く似合っていない赤縁の伊達眼鏡が掛けられている。

「まずはサンフェス用の曲からですけど、今回演奏するのはこの『アイ・ウォント・ユー・バック』です。日本のテレビやラジオ、CMでもおなじみですね。日本語で『帰って欲しいの』という意味のこの曲は、一九六九年にジャクソン(ファイブ)っていうアメリカのグループがリリースしたものですが、当初の題名は『アイ・ワナ・ビー・フリー』、つまり『自由になりたい』だったとも言われています。当時全米を席巻した大ヒット曲で、あのグラミーの殿堂入りも果たしています」

 つらつらと述べられる緑輝の説明に頷きながら譜面をめくり、示されている音符を頭の中で音に換えていく。過去に吹いたことがあるわけではなかったが、そのメロディは確かに聴き覚えのあるものだった。

「次に定期発表会用の曲ですが、こちらは二曲あります。まずは一曲目、『スルー・ジ・アイズ・オブ・ラブ』から」

 差し替えた譜面の題名には大きく『アイス・キャッスル・テーマ』と書かれていた。あれ、と疑問を呈すように、夏紀がそこで口を開く。

「このアイス・キャッスルってさ、スケート選手の映画かなんかだよね」

 その通りです! と緑輝は元気の良い答えを返す。

「アイス・キャッスルは一九七八年に公開された映画で、いま夏紀先輩が仰った通りフィギュアスケートを題材に描かれた物語です。主演女優にも当時プロスケート選手だったリン=ホリー・ジョンソンを抜擢していたりと、かなり気合いの入った作品だったみたいですね」

「私らが生まれるよりもずっと前の映画じゃん。そんなの良く知ってますね、夏紀先輩」

 感心しきりといった様子の葉月に照れくささを覚えてか、夏紀が鼻の頭を掻く。

「まあ、家でちょっと観たことあって。洋楽の曲が主題歌だったりするもんで、勉強の合間に時々専門チャンネル流してるんだけどさ。昔の映画ってけっこう面白いの多いんだよね」

「へえ」

 久美子もこれには少しばかり感心していた。好きこそものの上手なれとは言うが、別に何かの役に立てるつもりでもなく見聞きしていたものが、こうして意外なところで日の目を見ることさえもある。それを思えば誰かが言っていた『この世に無駄なものなんて何一つ無い』という言葉も、もしかしたら真理と言えるものなのかも知れない。例えそれがどんなに些細なことであっても。

「それで、肝心の曲はどのようなものなんですか?」

 無表情の奏が緑輝に続きを促す。

「『スルー・ジ・アイズ・オブ・ラブ』は映画の中に登場する劇中曲で、作曲したのはメリサ=マンチェスターという人です。アメリカのシンガーソングライターなので知らないという人も多いかもですが、日本で山下達郎さんとデュエット曲を発表したこともあるそうですよ」

「おおー、山下達郎は知ってる! あれだよね、雨は夜更けすぎーにー♪ ってやつ」

 覚えのある名にテンションが上がったのか、葉月はフフフンと鼻歌でそのクリスマスソングの冒頭をなぞった。

「曲名は『愛情の眼差しを通して』というような意味合いで、『アイス・キャッスル』のクライマックスで流れる感動的なバラードです。その歌詞も、スケート事故により失明してしまった主人公が恋人へと向ける心情を描いています。この曲の最大の見どころと言えば、何と言っても冒頭にあるユーフォのソロですね」

 ソロ。その一言に、ぴくり、と久美子のこめかみが疼く。

「終盤にもオーボエソロがありますけど、この冒頭のユーフォソロこそが曲自体の情感を豊かに盛り上げると言っても過言ではないです! この曲の吹奏楽版を編曲なさったのは作曲家であり指揮者でもある金山徹さんでして、今回吹くのはこれになりますね」

 ユーフォのソロか。ちろりと舌なめずりをしながら、久美子は譜面をもう一度見渡す。どうやらこれを吹くのはそれなりに責任重大と言えそうだ。もっともコンクールでも何でもない演奏会の場合、それを吹くことになるのが必ずしもパート内で一番上手い人であるとは限らない。実際には滝から指名がなされる筈だが、少なくとも今の時点で自分が吹くと決まった話でもないのだし、それほど意識する必要は無いだろう。そんな風に考えつつ、久美子は隣に座るあすかへチラリと目を向ける。彼女は頬杖をついて時折ウンウンと唸りながら、緑輝の解説を無言で見守っていた。

「それともう一曲、『天国の島』ですね。イメージの元となったのは、作曲者である佐藤博昭さんが音楽教師として勤務していた北海道の()(うり)(とう)という小さな島なのだそうです。きっと、その島の美しい風土や朝夕の光景からこの曲の着想を得たんでしょうね。二〇一一年度のコンクール課題曲だった『天国の島』ですが、テレビの人気番組の冒頭にこの曲が流れたりするので、知ってる人も多いと思います」

「あー、私その番組知ってます。タレントグループのKIOTO(キオト)が無人島に行って、建物とか水道とかいろいろ作ったりするやつですよね」

「そうそう! さつきちゃんも見てましたか」

「私も観てますよ。無人島のよりも、廃棄食材を集めて料理する企画の方が好きですけど」

 さつきに奏までもが加わりワイワイと盛り上がり始める。久美子はそれを、物言わず横目に眺めていた。自分とてその番組は一応知ってはいるのだけれど、練習後に演奏会の準備だの指導係の打ち合わせだのがあるせいで、ここのところはじっくり観る時間が取れずにいた。いずれこの子たちもそうなる……と思うと、腹の底で黒い炎が小躍りするのを感じずにはおれない。

「皆さんも知っての通り、この曲の主役を張るのはトランペットによるメロディです。けどそれ以外にも低音や打楽器にも活躍の場面が多いので、きっと滝先生も今年の北宇治の実力を計るのにちょうど良い曲だ、と考えたんだと思います」

 トランペットのメロディ、と言われれば、真っ先に浮かぶのはやはり麗奈の姿だった。あの勇壮なフレーズを麗奈が力強く吹きこなすさまは、なかなかどうして絵になりそうだ。

「それと『天国の島』の方も、冒頭にオーボエのソロがありますね」

「へー。あっちもこっちもソロばっかで、(よろい)(づか)先輩も大変そうだね」

「大丈夫じゃない? みぞれ先輩、めちゃくちゃ上手いし」

 眉根を寄せる葉月に、久美子はサラリと見解を述べてみせる。実際みぞれならば、難度の高いソロですら平然と吹きこなしてしまうことだろう。彼女の実力は部内でも指折り数本の内には確実に入る。特別製のあすかを抜きにするならば、あの水準にいるのは麗奈、緑輝、そして希美ぐらいのものだ。全国の並居る超高校級奏者を前にしたとしても、みぞれの演奏は決して見劣りしない。それはほぼ確信と呼べるほどの強度だ。

「というわけで以上、これから練習することになる三曲の解説でした」

「お疲れ様ー。思ってたより上手じゃない、サファイア川島!」

 あすかのねぎらいに合わせて一同もぱちぱちと手を叩く。緑ですぅ、と顔をしかめながら、緑輝が伊達眼鏡を外して壇上から降りてきた。

「素晴らしかったです! 流石、緑先輩!!」

 拍手の音量がひと際高かったのは、緑輝の直属の後輩である月永求だ。それまで全くと言っていいほど他人に心を開かなかった求は、ある日の練習を境に緑輝の演奏力にすっかり魅了されてしまったようで、今や完璧に緑輝の信奉者となってしまっている。何かとあればすぐに緑輝を褒めそやす彼の姿は夏紀曰く『一年前のどっかの誰かさんを思い出す』ほどに熱烈で、常軌を逸する尊崇ぶりだった。

「今回はどれだけ出来るか黙って見守ってたけど、これだったら私の後継者として申し分無いわね。まあちょいちょい補足したかったところもあるっちゃあるけど、それは次回の課題ってことで」

「はい! 緑、これからも頑張ります」

 ぐっと握り締めた拳を天に突き出し、緑輝は両の瞳に燃える情熱を灯らせる。そこは頑張る必要あるのかな、と久美子は苦笑いを禁じ得ない。

「じゃあこの後はパート練ってことで、後藤、いつも通り頼むね」

「はい」

 朴訥とした卓也の返事を合図にして、久美子たちは各々楽器を準備し練習の体勢に移った。本番の日まで、それほど時間に猶予は無い。しかも今年はこの時期立て続けに二つの演奏会がある。従って、配られた楽譜を速やかに吹きこなすことは部員全員にとって急務の課題なのだ。譜面を追う久美子の目に連動して、ピストンを押す指は的確に、出すべき音の形に沿って動いていった。

 

 

「疲れたー」

 一日の練習が終わり、片付けを終えた久美子は音楽室を後にした。空はすっかり薄暗くなっている。他の部員は皆一足先に撤収したようで、久美子が楽器を片付ける頃には既に殆どの楽器ケースが綺麗に棚へと収まっていた。

 今日も定時上がりしたらしい美玲とは対照的に、葉月と緑輝は部室に戻った形跡すら無い。彼女らは恐らく今日もさつきと共に校庭の隅っこで猛特訓中なのだろう。熱血一辺倒なのは良いとも悪いとも言えないが、肝心の本番当日にバテてしまうんじゃないか? というぐらい、このところの葉月は練習に熱が入っていた。

 彼女にしてみれば今年のサンフェスには初めて奏者として参加するわけであり、また上級生という立場も相まって、きちんとパフォーマンス出来るようになりたいという思いがあるのだろう。ここ数日は卓也や梨子も彼女らに付き添って集中指導をしているようで、それも美談ではあるのだけれど、ならば自分も付き合うかと言えばそれはまた別の話である。

 サンフェス用の練習はパレード行進の動作も含まれるため、普段の練習と比べて大幅にカロリーを消費する。体力も気力も尽きそうなところで練習を重ねても上達にはほど遠い。今日は早いところ家に帰ってご飯にありつこう。そう考えていた時、だからさぁ、と廊下の奥から漏れてきた誰かの声を、久美子の耳はいやに鋭敏に感じ取る。

「今の、あすか先輩?」

 ぼそぼそ響くその喋り声は、下の階へと向かう階段の踊り場から聞こえてくる。気配を殺してそろりと廊下を進み、階段手前の角にへばりついた久美子は、息を潜めてそうっと踊り場の様子を窺った。

「……ハッキリ言うよ。今のアンタの実力は、低音パートで一番低い」

 それは久方聞かなかった、相手を一太刀で切り裂くあすかの冷徹な声色だった。一抹の慈悲すら感じられないその言の葉の鋭さに、久美子の背筋は凍り付いてしまう。

「それは、解ってます」

 あすかの対面で蚊の鳴くように返事をしたのは、夏紀だ。何がどうしてこんな状況になっているのか。あまりにも予想外の事態を前に、久美子の脳はまるで回転が追いつかない。場に割って入るべきか。このまま様子を見るべきか。逡巡する己の足はぴたりとその場にくっついて離れようとしなかった。

「このままだと部にとってもパートにとっても、アンタは足枷になる。今はまだ全員参加のサンフェスだから目立たないけど、それが終わってコンクールの時期になったら、特に」

「はい」

「そこまで分かってて、私に相談って、何?」

 あすかの口ぶりから察するに、どうやら先に声を掛けたのは夏紀からだったらしい。ということは、今しがたの手厳しい宣告もあすかから一方的に放たれたわけではなく、夏紀の方から引き出したものということになる。だが何故そんなことを? と考えるよりも早く、夏紀の返答が久美子の耳元に届いた。

「先輩に、私の個人レッスン、お願いしたいんです」

 束の間の静寂。二人の間に緊張が降り注いだのが解る。はあ、と大げさにこぼれた溜息の音は、あすかが発したもののようだ。

「そんな事してどうしたいの? 今さら後輩を見返してやりたいとか?」

「そんなんじゃないです」

 夏紀はそこで少しだけ間を置いた。

「私、副部長だってのに楽器は一番ヘタで。それはずっと前から分かってました。他の子が上手いのは事実だし、それもしょうがないって。あの子らはずっと前からユーフォやってるし、それに比べたら私は高校からで、ろくに練習もしてなかったんだからって。でも今年はそれじゃダメだって思ってて」

 食いしばるような彼女の声に、久美子は一つの記憶を思い起こす。およそ一年前。オーディションでコンクールメンバーに選ばれた久美子と、落ちた夏紀。あの日、夏紀は気に病む自分を笑い飛ばしてくれた。私には来年もある、と。けれど今度はそうは行かない。夏紀にとっては今年こそが正真正銘、最後のコンクールなのだから。

「希美にアドバイス貰ったりしながら自分なりにやれるだけやってみたんですけど、それじゃ間に合わないんです。実際、もし先輩が今年居なかったら誰にも相談しなかったと思います。先輩ならきっと私をみっちりしごいてくれると思うから。だから、あすか先輩にお願いしたいんです」

「私が教えたからって、オーディションまでにアンタが上手くなれる保証なんてどこにも無いでしょ。私に目一杯いじめられて、それでも落ちたらどうするつもり?」

「どうもしないです。オーディションに落ちたらそこでキチンと諦めつけて、最後まで皆のサポート頑張ります」

 そこからしばらく、二人の間に無言が続く。じりじりと焦れる空気に堪えかねて胃の中のものが込み上げそうになってしまうほど、それはとても長い沈黙だった。

「どうしてもあの子らに迷惑掛けたくないんです。お願いします」

 駄目押しで頼み込む夏紀の声は、微かに震えていた。足元の踊り場では今頃、夏紀があすかに向かって頭を下げているに違いない。そんな光景が、久美子には容易に想像出来る。

 ああ、この人は本当に、肝心な時に限って不器用な人だ。スカートの裾を掴む自分の手が震えているのが滲んだ視界に映る。可能ならば今すぐにでも夏紀の元へ飛び込みたい。けれど本当にそれをやってしまったら、きっと夏紀を傷付けることとなる。そういう寸でのところでのせめぎ合いが、久美子をその場に押し留めていた。

「……分かった」

 その一言に、久美子はハッと瞠目した。やれやれ、と溜め息交じりに解き放たれたあすかの返事は、先程までとはうって変わって明るかった。

「そこまで言うなら夏紀の練習、私が見てあげる」

「良いんですか?」

「良いも何も、夏紀の技術不足は半分私のせいでもあるしね。二年間ほとんどまともに構ってなかったし、そりゃあ今さら自己流で何とかしようったって上手くなれるワケ無いでしょ。基礎中の基礎から始めて、オーディションまでと言わずひと月で、他の子たちと対等になるぐらいまで鍛えてあげる。その代わり」

 キュッ、と甲高い音が廊下に響く。あすかが一歩踏み出した音だろうか。階下の二人の動静を、久美子は想像するより他に無い。

「私の猛特訓、超キツいよ。やり遂げる覚悟、ある?」

「あります」

 ほぼ即答だった。夏紀の声色には姿を観なくてもはっきりと解るほど、強い決意が滲み出ていた。

「よし」

 満足気なあすかの声が小さく聞こえてくる。

「じゃあさっそく明日の朝から特訓開始。それに放課後も合わせて、出来れば毎日一時間ずつは欲しいかな。予備校もあるだろうし大変だと思うけど、時間作れる?」

「大丈夫です。今は塾に切り替えてるんで、時間はどうにでも出来ます」

「OK。パート練の時間も毎日三十分は個人練ってことにして、要望通りみっちりやるよ。あんまりキツいからって途中で音を上げるのは無しだからね」

「分かってます。ありがとうございます」

「別に、お礼なんていらないって」

「そういうワケにはいかないです」

 真摯な態度の夏紀に、んー、とあすかは短く唸った。

「お礼はもう、去年貰ってるから」

「去年?」

「覚えてない? あのときの差し入れ」

 え、と夏紀は声を詰まらせる。それが何のことなのか、久美子にはサッパリ分からなかった。ひょっとして去年の退部騒動の折、部に復帰したあすかに夏紀が潔くコンクール出場の席を譲ったことを指しているのだろうか? でもそれを『差し入れ』と表現するのは何かヘンだ。その言葉の意味するところはきっと、この二人にしか分からない。

「そうと決まれば、もう遅い時間だし、さっさと帰るよ。明日は六時に部室集合、くれぐれも初っパナから遅刻しないでよね。もし一秒でも遅れたら、ロングトーンしながらスクワット百回の刑だから」

「それは流石にキツ過ぎるんで、絶対遅刻しないよう今晩から学校に泊まっときます」

 冗談めかしたあすかの脅しに軽妙な夏紀の返し。二人分の笑い声が響いたところで、「じゃあお先」と告げたあすかの足音がコツコツと階下に落とされていく。ややあって、夏紀もまた階段を下りていったようだった。

 しんと静まりを取り戻した廊下で、久美子は溜めに溜めた息をようやく吐き出すことを許された。とんでもない場面に出くわしてしまった、という感触に未だ動悸が止まない。夏紀があんな事を考えていたなんて露ほども知らなかった。それは勿論、周囲に対しておくびにも本心を出さぬよう夏紀が気を遣ってくれていた、という事なのだろう。それを察せなかった己の不明は情けないが、当の夏紀はその状況に甘んじることなく必死に向上しようとしている。いや、自分の気付かないところできっと、彼女はずっとそうしていたのだ。ならば自分に出来ることは、そんな彼女の努力に今まで通り気付かないフリをしつつ、そっと見守る以外に無い。

 にわかに廊下へ明るみが差す。目を遣ると、窓の外に見える三日月がその切っ先を凛と尖らせていた。低く浮かんだその光はとても弱々しくて、けれど夜闇の中に存在を主張するようにくっきりと、久美子の全身を照らしていた。

 

 

 その日を境に、いつものパート練習の風景には変化が訪れた。

「ごめん、ちょっと個人練行ってくる」

 今までなら皆と一緒に終わりまで練習していた夏紀は、パート練の最中にちょくちょく席を外すようになった。初めそれを訝しがっていた一同も二日、三日と経つに連れ徐々に夏紀の演奏技術が向上している事に気が付き始めたのか、やがて誰も文句を言わなくなった。

 久美子はまだあの日のことを誰にも言わず、胸の中にしまったままでいる。そもそも他人にするべき話ではない。実際にそれが夏紀の、ひいては部の為になるのなら、決して悪いことでは無い筈だ。けれど夏紀が席を外す時、それは必ずあすかも外出している時であることに気が付いているのは、果たして自分だけなのか? 誰かに対して秘密を抱くのはこれが初めてではないのだけれど、その度にいつもクラクラしそうになるほど胸が罪悪感でたっぷりと満たされてしまう。どうやら自分は隠しごとをするのには向いていないタイプらしい、と久美子はこのところ改めて痛感していたのだった。

「それじゃ次はDから。ユーフォ、ピッチずれないよう気を付けて」

「はい」

 今日も卓也の指示に基づいて練習は進められていく。一通り譜面をさらえるようになると、今度は細かい部分への意識が大事になってくる。奏の演奏技術は大きい括りでは申し分無いのだが、その辺りへの対応力がまだまだのようで、時々音程が上擦ったり音の長短がまちまちだったりと不揃いな印象を受けていた。それらを横から指摘しつつ、久美子もまた自身の音と向き合ってゆく。決して十分とは言えない時間の中で、少しでも全員の音が良くなるように。

 それをひたすらに繰り返すパート練習の時間は、こうして着々と積み上げられていった。

 

 

 次の日、合奏練習の席で、唐突にそれは告げられた。

「『スルー・ジ・アイズ・オブ・ラブ』のユーフォソロですが、ここは黄前さんが吹いて下さい」

「ふぇ?」

 思いもかけない滝の言葉に、情けない音が喉から洩れてしまう。全員が一斉にこちらを注目してきたせいもあって、久美子の顔は一気に紅潮してしまった。

「返事は?」

「あ、はい!」

「よろしい」

 あまりの気恥ずかしさと緊張で、頭から煙が上がっているような気分だ。半ば周囲から顔を隠すように、久美子は譜面を間近に凝視する。冒頭のユーフォのソロ。先日緑輝の解説にあったその箇所を、自分が担当する。いいのだろうか。決して多いとは言えない本番の舞台で。あすかや夏紀を差し置いて。久美子の脳内に、大量の思考が激流のように押し寄せては流れ去ってゆく。

「どうしたの。もしかして、ソロ吹くことになって緊張してる?」

 狼狽する久美子の様子に勘付いたのか、隣の夏紀がひそひそと話し掛けてきた。

「あ、いえ。緊張とかではなくて、そのですね」

「別にそんな難しく考えなくていいでしょ。この中であすか先輩を抜きにしたら、一番上手いのは久美子ちゃんなんだし」

 そんな事を言われたらますます恐縮してしまう。どうにも夏紀に目を合わせることが出来なくて、久美子はただ俯く他は無かった。

「大丈夫だって。立華との合同演奏会の時だって久美子ちゃんがソリ吹いたんだし、自信持ってソロやりなよ。私が保証するからさ」

 ぽんぽん、と夏紀が背中を叩いてくる。あったかい。彼女の手の柔らかさとその気遣いには、心から救われる思いがした。

「……ありがとうございます」

 ここまで夏紀に後押しをされたからには、もう迷ってなんていられない。彼女の為にも恥ずかしい演奏をするわけにはいかない。決意を新たに、久美子は譜面に記されたソロの箇所へとペンを走らせた。

『最高の演奏する!』

 ペンを譜面台に置き、久美子は鼻息を荒くする。と、その時ふと、ある考えが頭をよぎった。

 技量で言えば、北宇治ユーフォの中でトップなのは間違いなくあすかだ。けれどそのあすかは今回ソロに指名されなかった。それはまだ分かる。現役生に場数を踏ませるという意味からも、コンクール以外の演奏会でソロを吹く人が持ち回りで替わるのはこれまでにもあった事だ。だが仮に、これが実力勝負のコンクールでの話だとしたら。その場合、滝はそれでも自分を選んでくれただろうか。

 そもそもあすかは今年のコンクールに出るのか?

 今年のあすかの部に対する関わり方はコーチ役然り、パートの主導を卓也任せにしている件も然り、常に一歩引いたものだった。そんなスタンスのあすかは、もしかしたらコンクールに出ないという決断をするのでは。あるいは滝もそういう前提で先を見越し、今回のソロを自分に宛がったのではないだろうか。そんな漠然とした懸念を、しかし久美子は必死に振り払う。

 これはきっとただの深読みだ。そうでさえあるならば、今年もあすかと一緒にコンクールの舞台で吹く、そのチャンスがあるということになる。そしてそうなる事を、自分は内心望んでいる。もう一度、あすかと一緒に全国の舞台で、最高の音を響かせる。そういうひと時を過ごすことを、久美子は少なからず期待していた。

 そうあって欲しい。それがただの願望に過ぎないことを久美子は重々理解していた。そう、これは理屈の問題じゃない。単なる感情論、もっと言えば、ただの我が侭だ。けれどこの我が侭が現実のものになる日が来ることを、その可能性を、久美子は銀紙にそうっと包むかの如く大事に秘めておきたかったのだ。

 

 

 

 

(ワン)(ツー)(スリー)(フォー)、」

 優子のカウントに合わせ、行進の列が楽器を吹きながら一歩一歩と地面を踏みしめていく。

 サンフェス本番の日が刻一刻と迫る中、本日はグラウンドを使っての本格的な行進練習が行われていた。屋外で練習できる機会が限られている事もあり、指導にも相当に熱が入っている。楽器を担いでの行進、それも吹きながらとなると、体力の消耗は相当に激しくなる。かと言って姿勢を崩せばすぐに目立つ。優子はそれら全てに容赦なく、ビシビシと注意を飛ばしていく。

「そこ! ベル下がってる。本番じゃすぐ分かるよ!」

「はい」

「それと全員、音が引っ込んじゃってる。外で吹いたら全然響かないから、もっと意識して音出して!」

「はい!」

 部員たちは歯を食いしばって指摘に堪える。誰もがキツいと思いつつ、しかし音を上げているような暇はこれっぽっちも無く、息を切らしながらも速やかに対応していく。上手く出来ずに列を乱して恥をかくのは自分一人ではない。皆それを肌で感じ取っているからこそ真剣に練習に打ち込むのだ。本番には全員で、最高のパフォーマンスを聴衆に披露するために。

「それじゃもう一度、スタートから行きます。テーン、ハット!」

 カンカンと景気良く、優子が手元のドラムスティックを打ち鳴らす。それは『行進練習に使えそう』という理由で希美がパーカッションパートから貰ってきた廃棄寸前の品だった。すっかり色褪せたスティックはボロボロに打ちひしがれていて、今にも真っ二つにへし折れてしまいそうなほどに乾いた音を響かせている。

「フォワード、マーチ!」

 号令に従い、一同が曲を吹きながら行進を開始する。ドラムメジャーである優子が都度指示を出し、各員はそれに沿って動きと身振りを修正する。マーチングの練習はひたすらこの繰り返しだ。疲労をぐっと堪え、久美子は全身の隅々にまで神経を張り巡らせる。少しでも気を抜いたらそこで姿勢や演奏が乱れてしまう。本番まであと数日という中、何度も同じところをやり直してなどいられない。まさにここが正念場、というやつだ。

「ハイ、それじゃこれから三十分はパートごとの練習時間です。各パート出来てないところは重点的に修正かけといて下さい。その後はまた全体練習で、行進の動きを仕上げます」

「はい!」

「何度も言うけど、グラウンドで練習できるのは今日が最後です。残された時間を有効に使うよう、一人ひとり心掛けて下さい」

「はい!」

「それじゃ一旦解散!」

 部員たちは各々散ってゆき、そしてパート単位で集まっていく。久美子たち低音パートも早速集合し、動きを確認しながら互いの不備を指摘し合う時間へと移っていった。

「夏紀、歩いてる時前屈みになってる。もっと胸張って」

「マジか、気をつける」

 梨子の指摘で夏紀が慌てて背筋を逸らす。表情から察するに、彼女の疲労は色濃い。それを横目で見る久美子にしても、腕やら足やらあちこちの筋肉は既にパンパンだ。楽器を抱えながら歩行を交えて演奏する。それも縦横の線を乱さず、整然と。口で言うのは簡単だが、実際にやるとなると座奏とは全然違う負荷がかかることになる。さらにそれを実行し続けるのには、体力以上に精神力をひどく消耗してしまうものである。

 麻痺しかかった唇をマウスピースから離し、ふうー、と久美子は長く息を吐いた。身体を動かしながら吹いているせいか、肺の奥底がズタズタに荒れているみたいに不気味な鈍痛がする。きっとこの場にいる誰もが今、大なり小なり似たような感覚を抱いているに違いない。……約一名を除いては。

「加トちゃんはまだ足バタついてるよ。行進なんだから綺麗に足を伸ばして、特に入りはカカトから踏むように意識して」

「はいっ」

 いつもの調子で後輩たちに注意をくれるあすかは、いたってケロリとしていた。今年のあすかはドラムメジャーでも何でもない一般奏者であるため、こうして隊列に加わって久美子たちと同じように行進練習に勤しんでいるのだが、周囲の困憊ぶりをよそに疲れた様子を全く見せていない。それは単純に基礎体力と経験の差なのか、それともあすかが運動面でも抜群のセンスに恵まれているだけなのか。いずれにせよ、こうして肩を並べて同じ練習メニューをこなしていると、いかにあすかが規格外の存在なのかが身に沁みて良く分かった。これは晴香が悲嘆に暮れていたのも頷ける。こんな化物と只人の自分を第三者から比較されたら、そりゃあ多少はネガティブにだって陥ろうというものだ。というより、何も感じない人の方がおかしい。

 そんな事を考えていた折、視界の端に、葉月がスッと手を伸ばしたのが見えた。どくり、と心臓から流れ出す不穏の感触。つられるように、久美子の目がひとりでに葉月の手の行く先を追う。

「美玲ちゃん。スーザのベル、傾いてない?」

 その指摘自体は他の人たちと同様、何気無いものの筈だった。その手がベルをぐいと押し上げた刹那、美玲の表情がびしりと凍り付く。あ、と久美子は思った。直後、への字に曲がっていた美玲の口の端が忌々しげに歪む。

「先輩に言われなくても、わかってますけど」

 え、と葉月が手を引っ込める。二人の間に立っていたさつきが咄嗟に口を開いた。

「ちょっとみっちゃん、先輩にそんな言い方は――」

「その呼び方はやめてって言ってるでしょ!」

 耳をつんざく怒号。その場にいる誰もが一瞬固まってしまう。憤懣を吐き出した美玲は尚も苛立ちを隠せないのか、しばしさつきを睨め付ける。その状況に誰よりも肝を冷やしたのは、他ならぬさつきだったに違いない。彼女の形相は大きく引きつり、どうして美玲に罵声を浴びせられたのか分からない、といった空気のままで硬直していた。

 ややあって、息を一つ吐き捨てた美玲が踵を返し、そのままどこかへと歩き去ってしまう。どんどん遠のいていくその後ろ姿に声を掛ける者は、誰も居なかった。

「ど、どうしよう」

 美玲を怒らせてしまった、とさつきはオロオロ狼狽えている。いつもならこういう時に場を執り成そうとする葉月もまた、後輩の思いがけない反抗にすっかりショックを受けてしまったようだった。二人とも普段の元気はどこにも無く、ただただ混乱していた。

「わ、私、謝らなくちゃ。みっちゃんに……」

「謝るって、何を?」

 卓也は美玲の去った方角を鋭い目で追いながら、怯えるさつきに冷たく言い放つ。

「謝る事なんて一つもない。アイツの癇癪に付き合う必要は無い」

「ちょっと、後藤君」

 梨子が窘めにかかるも、卓也は全く取り合おうとしない。その態度に、日頃穏やかな卓也の静かなる怒りを久美子は感じ取った。罪の意識からなのか、困惑と動揺を極めてか、葉月もさつきもしょげ返っている。重苦しい空気が場を包み込んだその時、隣から「ハアー」と、それはそれは深い溜息の音がした。

「後藤。何なの、それ」

 そこにあったのは久しぶりに久美子の見る、心底苛立たしげなあすかの顔だった。

 

 

 

 

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