もう一度、あのひと時を   作:ろっくLWK

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〈6〉大会と充実と

 ギロリ、と後藤を睨むあすかの突き刺すような眼光。そのあまりの強さに、直接射貫かれた卓也も、それを傍で見ているだけの久美子たちも、一様に呼吸するのを忘れてしまっていた。

「アンタ、自分がパートリーダーだっていう自覚、本当にある?」

 ずかずかと詰め寄るあすかに対し、困惑する卓也はたじろぐばかりだ。どうしよう、これは止めに入った方がいいのだろうか。

「ここんとこ美玲ちゃんがずっとイライラした雰囲気だったの、もしかして気付いてなかったでしょ」

 あの美玲が? イライラしていた?

 久美子は記憶を振り返ってみる。入部以来、美玲は基本的にいつもクールに振る舞っていた。強いて言えば奏とは少しばかり親密にしているような空気があったぐらいで、それだってほんの僅かなものでしか無い。言われてみれば美玲の態度は冷え切っていたというか、鬱屈としていたというか、そんな気配もあるにはあった。けれどそれをして苛立っていたか、爆発するほど溜まっていたのかと判断できるほどまでには、彼女の内なる感情を読み取ることは出来ていなかった。

 久美子はそんな美玲のことを、人付き合いが苦手でベタベタするのを嫌がっている、と解釈していた。けれどあすかはそうではないと言う。もしもその見立て通り美玲がイライラしていたのだとしたら、それはつまりあすかだけが美玲の変調について事前に何かを感じ取っていたと、そういうことなのだろうか。

「どうなの、後藤」

「……全然分かりませんでした。でも、それとアイツが練習放棄して居なくなるのとは、別の話じゃないですか」

「甘い」

 一見正論に思える卓也の釈明を、あすかは間髪入れずピシャリと切って捨てる。

「全っ然甘い。美玲ちゃんを一人放っぽって、それで? この後の練習、どう収拾つけるつもりなの」

「どう、って。それは……」

 そこで卓也は言い淀んだ。明らかに、意図せぬところから放られたあすかの問いに答えを出せない、そういう気配が言外にひしめいていた。

「そりゃあ美玲ちゃんの行動は自分勝手だよ。こうやって皆で練習してる時に一人でいなくなっちゃったら全体の練習にも支障が出る。特にマーチングって、そういうもんでしょ」

 それは確かにそうだ。卓也もまたそう言うかのように神妙に頷く。

「アンタがそう考えた上で、勝手な行動をした美玲ちゃんに怒ったトコまでは分かる。けどね、だからって今みたく突き放してそれでオシマイってんだったら、結局はアンタの判断も美玲ちゃんと同レベル。他の皆にも迷惑が掛かるってのが分かんないのか、って聞いてんの」

 肺の空気が一瞬にして詰まる。あすかの言わんとしているところが、久美子にはようやく解ってきた。

 美玲はやむを得ぬ事情で練習を抜け出した訳ではない。そして卓也がそれを無言で見放したのもまた、やむを得ぬ事情など何一つない行いだ。それで不利益が美玲一人にのしかかるだけならともかく、事は本番直前の追い込みをかけている真っ最中のメンバー全員に及びかねない。誰かがそれを差し止めなかったら、横行した身勝手がバンド全体の活動を崩壊させることに繋がってしまう。ならば本来それをすべきなのは誰なのか、という話だ。

「美玲ちゃんのイライラはね、加トちゃんたちに付き合ってアンタらが居残り練習するようになった辺りから、かなり強まってた。そういうのも汲み取りつつパートとしての機能を滞りなくきちんと果たせるように手配するのが、パートリーダーであるアンタがやるべき本来の仕事でしょうが。ただ練習のメニュー組んだり音合わせでミスを指摘するだけなら、そんなもん誰にだって出来るわよ」

 勢いよくまくし立てるあすかはさながら機関銃の如く、次また次と辛辣な言葉の弾を撒き散らしていく。それを真っ向から受け止める卓也は、襲い来る苦悶の銃弾にただただ顔を歪めるばかり。じゃあどうしたら良かったんですか、などという一言を挟む一切の猶予は、あすかが放つ怒気の前には全く見当たらない。直接叱られているのは卓也だけの筈なのに、鋭い言葉のトゲがこちらにも刺さるみたいな気がして、久美子の視線も自然と下がってしまう。夏紀も梨子も今はただ俯き、自分には何が出来ただろう、と自問するように唇を噛み締めている。誰もがそうなってしまうぐらい、あすかの全身から放たれる凄まじい威圧感はこの場にいる全員をターゲットにしていた。

「説教ばっかしててもしょうがないか。今はまず、美玲ちゃんをどうにかしないと」

 周囲の様子をぐるりと一瞥し、あすかはそこで追い打ちをかけるように、もう一息を吐いた。

「黄前ちゃん」

「ぅえ? は、はい」

 やにわに名を呼ばれ、久美子の全身がびくんと竦む。今度はこっちに火の粉が来るか。そう思って身構えてしまうのも、この状況では致し方の無いことだった。

「それと久石ちゃん、二人にお願い。美玲ちゃん探して、ここへ戻るように言って来て」

「私たちが、ですか?」

 指名を受けた奏はお伺いを立てるように、あすかを上目遣いで覗き込む。

「そ。黄前ちゃんは新入生指導係だし、久石ちゃんは美玲ちゃんと一番仲が良いみたいだし、協力して二人がかりで美玲ちゃんを連れ戻してくること。こっちはこっちでその間に、不心得な後輩どもにたーっぷり指導しておくから」

 重ねてあすかに睨まれ、卓也たちは完全に委縮してしまっている。この後ここでどれほど凄惨なお説教が繰り広げられることか。その光景を想像するだけで胃の痛くなるような心地だ。それを目の当たりにせずに済むと思えば、これもある意味役得と言えるのかも知れない。

 分かりました、とすぐさま返事をして、地面に敷かれたシートの上へと楽器を置く。そして久美子は奏と二人、美玲の捜索へと向かった。

 

 

 その後のことはかいつまんだ説明になる。

 美玲がどこに居るのかまるで見当のつかない久美子だったが、奏の意見で音楽室へと向かったその先で、二人は美玲の姿を見つけることが出来た。

 そして本人の口から語られた、美玲の苛立ちの真相。一見クールに見える、周囲に壁すら感じさせる彼女が、本心では周りに受け入れて欲しいと望む気持ちがあったこと。それが上手く出来ないでいたこと。対するさつきや葉月は熱心に居残り練習までして、卓也と梨子もそんな彼女らをすんなり受け入れていたこと。そういった諸々に、美鈴は鬱屈とした感情を抱えていたのだった。

 正直を言えば久美子自身、美玲のことを扱いにくい後輩だと、心のどこかでそう思っていた。だから何も語らない美玲の内面をこれまで深く考える機会が無かったと言えば確かにそうで、それはつまり彼女のことを何も見ていなかったのと同じだ。自分だけではなく、きっと卓也や葉月、あるいは美玲と仲良くしたがっていたさつきでさえも。その折り重なった状況の蓄積が、とうとう美玲を爆発させてしまった。もしも美玲の傍に、彼女のことをもっと理解してあげられる人がいたなら。そしてもっと早くに彼女の心の歪みを暴くことが出来ていたなら。そうであったなら、ここまでぐちゃぐちゃになってしまった己自身に美玲が苛まれる事も、きっと無かったろうに。

 美玲のこの問題を久美子が解決してあげることは難しい。けれどそのキッカケとなるものは、与えられたかも知れなかった。

「……先輩も奏も、ありがとうございました。私、皆に謝ってきますね」

「うん。頑張ってね、『みっちゃん』」

 はい、と明るい返事と共に、美玲は部室を後にした。きっと彼女はもう大丈夫だろう。それまでの緊張を解きほぐすように、久美子はそこで一息をつく。一連のやり取りで何が変わったというほどの事も無い。だが小さなキッカケが少しずつ、何かを変えていくことだってある。改めて彼女に与えた『みっちゃん』という愛称がそれを呼び込んでくれたら、それでいい。

「あーあ」

 タシン、と床を蹴るつま先の音に久美子は振り向く。そこに奏は、首を大きく横に傾げるような姿勢で立っていた。彼女の表情は綺麗に切り揃えられた前髪に隠されていて、こちらからは窺い知ることが出来ない。その華奢な足がおもむろに床を二度三度と蹴る度、音は次第に大きくなっていく。

「失敗しちゃいましたね。まさか先輩があんなお上手に美玲のことを手懐けてしまうだなんて、思ってもみませんでした。ほんとうに大失敗です」

「手懐けるって、なんか人聞き悪くない?」

 おどけてはみせたものの、奏の背中からゆらりと立ち上る緩慢な殺気に、久美子はごくりと唾を飲む。瞳を覗かせない奏の口元はうっすらと笑っていて、それが場の不穏さをより一層掻き立てた。

 先程までの会話において、奏は一貫して美玲を支持する言動を取っていた。いや、正しく言えば、それは支持などでは無かった。

 美玲は何も悪くない。間違ってなんかない。美玲は正しい。このままで良い。

 奏が掛けた美玲への言葉は全て、肯定を装った助長。甘やかな蜜の内に練り込まれた、おぞましいまでの悪意の塊。心の弱っている人間にあのような恐ろしく優しい囁きをたっぷりと流し込んだら、それはあっさり脳へと溶け込んで、瞬く間にその人物を堕落させてしまうことだろう。終いにはそれ無しでは生きていられなくなるほどに。もしもここに来たのが奏一人で、彼女の言葉を美玲が唯々諾々と聞き入れていたとしたら――そんな昏い想像に、久美子の胃はズキリと冷え込む。

「でも、本当にお上手なのはあすか先輩ですよね。久美子先輩のことを信頼なさった上で、私と一緒にここに来させたんですから。これじゃ私、まるっきり逆効果でした。全く、まんまと一杯食わされたという気分です」

 くつくつと喉を鳴らす奏は、もはや久美子の前では猫を被るつもりも無いようだ。ついに曝け出された奏の本性を、しかし久美子はどこか冷静に受け止めていた。それは多分、これまで奏に感じていた不穏さや違和感の正体を、ようやく目の当たりにすることが出来たから。

 ほとんど蹴り飛ばすように、最後に打ち付けられた靴の音が鈍く床へとめり込む。美玲の苛立ちが去り、それと入れ替わるようにして、今は奏が隠しもせずに苛立ちを放っている。ひょっとしてそれは奏なりの威嚇のつもりだったのかも知れない。けれどその程度でいちいち怯えるほど、自分の経験は決して浅くない。そういう確信が、久美子の心を毅然とさせていた。

「どこまで見通していらっしゃるんでしょうね、あの人は」

「分かんない。それがあすか先輩の、怖いところだよ」

 奏の問いに、久美子はなるべく誠実に答える。そうですか、とようやく顔を上げた奏の瞳は、まるで曇ったガラス瓶の底のようにとても虚ろだった。日頃の取り繕った笑顔も愛嬌に満ちた瞳の輝きも、そこには一切存在していない。憮然とさえ見えるその表情は、さっきまで煮え滾っていた感情を丸ごとその場に切り落としたみたいに、今はシンと薄く冷えていた。

「もうここで話していても意味がありませんね。私達も、戻りましょう」

 久美子の横をすり抜けるようにして、奏が部室を出ていく。傾いだ陽光に焼かれる彼女の背中は小さく震えていて、それは久美子の目には、まるですすり泣いているみたいに映っていた。

 

 

 グラウンドに戻った美玲はすでに皆の輪に混じり、卓也や葉月らと共に謝り合っているようだった。遅れて到着した久美子たちの元に、早速あすかが近寄って来る。

「お疲れー、黄前ちゃん。さすがだね」

「いひゃっ」

 あすかに肘で脇腹をつつかれ、久美子はくすぐったさに体をよじる。

「ちょ、やめて下さい先輩。それに私は別に、何もしてないっていうか」

「何もしてなかったら美玲ちゃんがあんな素直に戻って来るワケないでしょ。まあこっちもこっちでキッチリお灸は据えておいたし、今回はこれで一件落着かな。奏ちゃんもお疲れさま」

「いえ」

 言葉少なな返事と共に、奏はへらりと薄っぺらい笑顔を再び張り付かせた。あすかはそれをどう感じたのだろう、ただ目をすがめ、奏をジロジロと舐め回すように見る。

「どう? 久石ちゃん」

「どう、とは? 何のお話でしょうか」

 奏は笑みを崩さぬまま、とぼけるように小首を傾げてみせた。

「優秀でしょ。うちの黄前ちゃん」

 仰々しく吊り上がるあすかの口角。一度まばたきをしてから奏は殊勝に頷き、それからこう切り返した。

「ですが、あすか先輩はもっと凄い方ですね」

 ばちっ。

 稲光が、二人の間に閃く。そんな錯覚が久美子にはあった。当ったり前よー、とからから笑うあすかと、にこやかに双眸を細める奏。一見して微笑ましい二人のやり取りにはしかし、剣戟を交わし合う侍のような乾いた緊張が迸っていた。

 久美子はギシリと奥歯を噛み込む。いつぞやあすかはこう言っていた。

『良かったねぇ、黄前ちゃん。面白そうな後輩で』

 あの時のあすかの、奏を追う視線。今のそれとほとんど変わらない表情。そして、今日のこと。もしかしてあすかには、最初からこうなることが解っていたのではないだろうか。美玲のことも、奏のことも、もしかしたら卓也らの反応でさえも。あすかの慧眼には予め、どうなるかが全て見えていた。

 

 ――その上で、あえて皆を、踊らせた。

 

 そう考えた途端、久美子の背骨が激しい衝動に揺さぶられる。普通であればそんなこと、まず有り得ない話だ。けれど目の前にいるこの人物は、あらゆる意味で常識外の特別製。どんなに有り得ないと思えることも、この人ならば有り得てしまう。そしてそう思わされることが何よりも、田中あすかという人物の持つ恐ろしさの神髄なのだ。ついさっき、自分が奏に言い聞かせたように。

「ホラホラ。もう本番近いんだし、とっとと練習再開するよ!」

「はい」

 踵を返し、意気揚々と一同のところへと戻っていくあすか。彼女の後ろ姿を奏はただじっと見つめていた。彼女が今抱いているのは敵意か、恨めしさか、はたまた敗北感か。その瞳に籠る感情は、忙しなく差し替えられるカラーフィルターのように移ろっていて判然としない。

 きっとこの子にも何か、美玲のそれと同じような事情がある。久美子にはまだそれを看破することは出来ていない。けれど少なくとも『ある』と分かっていれば、これからの奏をじっと見守ることは出来る筈だ。少なくとも今の久美子には、そうするより他に無かった。

 だって自分は、あすかではないのだから。

「練習に戻ろ、奏ちゃん」

 精一杯の気遣いで声を掛ける久美子に、はい、と奏の返事は素っ気なかった。どうやら今年も波乱含みの一年になりそうだ。そんな予感が今さらになって、久美子の肩を分厚い雲のように包み込み始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 去年もそうだったような気がするが、今年も空は青々と晴れ渡っていて、そのど真ん中では燦然と輝く太陽が雲を押しのけ唯我独尊とばかりに浮かんでいる。野外で催し事をするには絶好のお日柄、というやつだ。今日はサンフェス当日。びりびりとした熱気に焼かれる肌の痛みを堪えながら、久美子たちは会場の一角で演奏前の音出しを始めていた。

 今年の衣装はどうやら担当の三年生がかなり気合いを入れたらしく、山吹色をベースとしたラテン風コスチュームである。帽子に青く大きな羽根の飾り物があったりして可愛らしいのは良いのだが、全体のデザインはだいぶ肌の露出度が高いものとなっていた。とりわけおヘソが丸見えになっているのにはなかなか慣れることが出来ない。誰が見ている訳でも無いだろうに、何となく周囲の視線がそこに集まっているような気がして、どうにも意識してしまう。

「ダメですよ久美子ちゃん、姿勢が前かがみになってます! もうすぐ本番なんですから、もっとシャッキリしないと」

「うえぇ~、流石に恥ずかしいよ。緑ちゃんはコレ平気なの?」

「こういうのは恥ずかしいーって思うから恥ずかしくなるんです。これをキッカケに観客が北宇治のパフォーマンスを見てくれるって考えれば、ぜーんぜん気にならないですよ」

「相変わらず、緑のメンタルは鋼だねぇ」

 呆れてみせた葉月もまた、片手でおヘソの辺りをさするようにしている。それとは対照的に緑輝は体を反らし、なめらかにくぼんだ小さなおヘソを誇示するように堂々と胸を張った。彼女のこの精神的タフネスさに、少しはあやかりたいものだ。

「ガード隊もそろそろ準備の時間ですので、緑たちは行きますね。本番がんばりましょう!」

「うん、頑張ろう」

 三人は手首の曲がった敬礼で互いの健闘を誓い合う。いつの間にか久美子たちの間で定着していたこのポーズだが、果たして最初の発案者は一体誰だったのだろう。今となってはそれに答えられる者は誰も居ない。何しろ、誰ともなしに始めた風習なのだから。

 低音パートの輪を抜けガード隊に合流していく緑輝と求の背を眺めながら、久美子はゆっくり息を吸い込み、それから一気に吐き出す。本番前に緊張を解きほぐす、一種のルーティーン。これをすることで雑念を払い気持ちを一つに集中させる。もうすぐ本番だ。否応なしに高まる緊張感が胸の内側をひっきりなしにノックしている。頭の血がギュッと引き締まるようなこの感覚は、全身の神経をすみずみまで研ぎ澄ましていくような、そんな気がした。

 とその時、周囲がにわかにざわめき出す。ワンテンポ遅れて、離れたところから「キャアアアアアアア! せんぱああああい!」と黄色い悲鳴が挙がった。この明らかに場違いな叫び声の主に、心当たりは一人しかいない。反射的に、久美子達は優子がいるであろう列の先頭へと目を向ける。そちらの方角から息せき切って駆け寄ってくる人物に、まず初めに反応したのはあすかだった。

香織(かおり)?」

「あすか、」

 汗だくになりながら肩で荒く息をつく(なか)()()香織。この様子からするに、どうやら彼女はずいぶん遠くから駆け足でここまで来たらしかった。

「どうしたの、そんな天地がひっくり返ったみたいな慌てっぷりで」

「どうしたの、じゃないよ。あすかのことが心配で、見に、来たの」

「ホントだよ。全く、他人事みたいに言って」

 その後ろから同じく息も絶え絶えに走って来たのは、昨年度の部長であった小笠原晴香だ。二人はこの春に北宇治を卒業した吹奏楽部のOBであり、現在はそれぞれ別の大学に進学している。つまりあすかとは同窓生の間柄だった。屈むような姿勢で息を整えたあと、次に顔を上げた晴香の顔には明らかな非難の色が浮かんでいた。

「何があったのよあすか。卒業旅行から全然連絡取れないって思ってたら、他の子からあすかが留年したって話聞いて。それで私も香織も、すごいビックリしたんだよ」

「まあまあ、二人とも落ち着きなって。色々あってこうなっちゃったけど、とにかく久しぶり!」

「呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ、もう。あすかってば」

 相も変わらず、あすかを窘める晴香の口調は保護者みたいだ、と久美子は思った。高校当時と同じ髪型と言い、地味めの服装と言い、どこをとっても晴香らしさはあの頃のままという感じがする。ともあれ雑なあすかの対応に膨れっ面を向けているところからして、彼女も本気であすかの身の上を心配していた内の一人ではあったのだろう。

 対する香織は大学に入って随分とイメチェンをしたらしく、可愛らしさを感じさせたあの頃のショートボブからは少しだけ髪を伸ばし、髪色も明るめに染めているようだった。横に流した前髪は彼女のキュートな面立ちを強調させつつ、より大人らしく艶を感じさせるものがある。高校在学中の香織が『マジエンジェル』だったとすれば、現在の香織はまさに『マジ女神』に片足を突っ込む、その過渡期であるかのようだ。

「手紙の返事も連絡も全然無かったし、私、本当に心配したんだから」

「あすかが留年なんてホント信じられない。やっぱ去年のことが原因?」

「お母さんのこととか、大丈夫なの?」

「あーもー、ワケ分かんない。ちゃんと説明してよ」

 二人の無軌道な質問攻めに、あすかはあーだこーだと適当なあしらいを繰り返す。そんな彼女たちの喧騒ぶりは周りの部員を大いに動揺させた。特に香織に至っては他の後輩のことなどどうでもいいのか、さっきから周囲に目もくれずあすかにぴったり刺さったままになっていて、それが余計に場の混乱ぶりに拍車を掛けている。

「香織せんぱーい! かーおーりーせぇんぱああい!」

 そうこうしている内に向こうから優子が全速力で突っ走って来るのが見えて、げ、と久美子は思わず眉間に皺を寄せてしまった。まもなくここに去年までのかしましい光景がありありと再現されることだろう。本番に向けて集中を高めたいというのに、そんな落ち着きの無い状況になど巻き込まれたくない。そう思い、久美子は気配を殺して静かにその場を離れた。

 どうにか人いきれを抜け出すと、そこにはちょうど植え込みの形作る木陰が広がっていた。よし。ここなら落ち着けそうだ。ユーフォの管を握り、久美子は今一度ゆっくりと息を吸い込む。と、

「久美子」

 聞き覚えのある声に名を呼ばれ、久美子は振り返る。

「梓ちゃん」

 そこには立華の伝統、水色のコスチュームを身に纏う佐々木梓が立っていた。梓のその手にはいつもと同じく重厚な輝きを放つトロンボーンが抱えられている。スカートからはみ出した太ももはほんのり日に焼けていて、日々の練習に鍛えらえたお陰なのか、極上の形に引き締まっていた。それと共に昨年よりも一層主張するようになった彼女の胸元を注視した途端、久美子の喉がひとりでにゴクリと音を鳴らしてしまう。

「おお、梓じゃん。久しぶりー」

 そこへ二人の声を聞きつけたのか、はたまた久美子同様にあすか周りの喧騒から避難してきたのか、葉月がひょっこりと顔を出した。

「久しぶり。二人とも、会うのはこないだの合同演奏会以来かな?」

 梓も葉月に手を振って応える。北宇治と立華、両校の吹部員は三月に行われたドリームパークでの合同演奏会を通じて交流を深めていた。とりわけ同じ学年同士は休憩中の食事を共にしたり練習時に互いのミスを指摘し合うなどしていたため、今ではほぼ全員が気楽に名前を呼び合えるぐらいには仲良くなっている。

「立華の他の皆は?」

「皆あっちにいるよ、あみかも志保(しほ)も。一緒に来ようって言ったんだけど、本番前だし集中したいから、って断られちゃった。ちょっと敵情視察するぐらい、別に大したことじゃないのにね」

「敵情視察って、それバラしたらまずいんじゃないの?」

「おっと、うっかり口が滑っちゃった」

 などと言いつつも、梓の表情にはたっぷりの余裕を見て取ることができる。失言を装ったそれは大方、梓なりのリップサービスといったところなのだろう。

「それにしても今回の北宇治の衣装、一目見てビックリしちゃったよ。けっこう攻めてるね」

 あはは、と久美子は苦笑する。客観的に見ればやはりそう思われても仕方無い。あまりウエスト周りを注視されたくなくて、久美子は抱えていたユーフォをお腹へあてがうようにそっと下げる。

「先輩たちがかなり張り切っちゃったみたいでさ。それにしても、毎年こうやって新しく衣装作るのも何か勿体無いよね。立華みたくマーコン出たりとか、使い道多いわけじゃないし」

「そう? 私は羨ましいけどなぁ、毎回違うコスチューム着れるのって」

「梓はそう言うけどさー、立華みたくどこに出るにもコスチュームがバッチリ決まってるのも憧れるよ。『これぞ立華』みたいってゆーか、伝統って感じで」

 葉月の意見に「そうかもね」と、梓は笑声を上げる。そんな彼女の快活な表情には、ちょっぴりの誇らしさも混じっていた。

 『水色の悪魔』とも称される立華は主にマーチングコンテストにおいて、全国でも最高峰の強豪として知られている。それのみならず、公式の大会以外でも様々なパフォーマンスを各所で行う彼らの姿に憧れて、日本中から立華へとやって来る生徒は毎年後を絶たない。けれど実際にそのコスチュームに身を包み、大舞台で華々しく演技演奏をすることの出来る人数はごく限られているのだ。言わば立華のコスチュームを着ることは、それ自体が実力の証明書。一年の頃からそれを成し遂げている梓にとってその水色の装いは、きっと自らに抱く絶対の自信を裏返しにして着ているようなものに違いない。

「ところでさ、久美子」

「うん?」

 不意にちょいちょいと梓が手招きをした。何だろう? と久美子は耳を梓の口元に寄せる。

「私の勘違いかもだけど、あそこにいる人、久美子の先輩だよね。確か田中先輩? だっけ」

 遠慮がちに梓が指を差したその先には、未だ香織に絡まれている真っ最中のあすかの姿があった。ああそうか、と久美子は気が付く。件の合同演奏会、あすかはそれに参加していた。それも奏者としてではなくドラムメジャーとして。練習の為に立華に出入りする機会も多かっただろうし、梓があすかのことを知っているのも当然と言えば当然の話である。

「なんでコスチューム着てここに居るの? あの人去年、三年生じゃなかったっけ?」

「あー。それはまあ、色々と複雑な事情があって……」

 透き通った梓の瞳は好奇心と困惑の色を半々に織り交ぜていた。どう答えたものかと久美子が言葉に迷っていたその時、会場にしつらえられたスピーカーがガガッと大きなノイズをがなり立てる。

『間もなく、第二十四回サンライズフェスティバルの、開会式を行います。出演者の皆様は団体ごとにまとまり、運動場にご整列下さい。繰り返します……』

「あ、ヤバ。そろそろ行かなくちゃ」

 アナウンスの声に梓がサッと身を翻す。「それじゃね久美子」とそのまま小走りに駆け出そうとして、はたと梓は立ち止まり、こちらへと振り返った。

「本番のパフォーマンス、絶対負けないからね」

 弾けるような梓の笑顔。その奥からぶわりと醸される彼女の覇気が、凄まじい圧で久美子になだれ込んで来る。

「こっちこそ負けないから。お互い、最高の演技しようね」

 応えた久美子の肌がビリリと痺れる。きっと立華は今回も、音に動きにと聴衆を魅了することだろう。今の梓はずっと高いところに居る。恐らくは今の自分よりも。一瞬、いつかの麗奈の顔が眼前をよぎる。梓の演奏に触発され思わず一緒に吹いてしまった麗奈の、高揚したあの顔を。

 負けたくない。握り締めた手の内側で、その想いがじわりと強い熱を放っていた。

 

 

 

 

 サンフェス本番を大盛況のうちに終えた北宇治だったが、さりとて一息つく暇も無く、次なる本番に向けての練習はより一層厳しさを増していた。

「そこ、クラリネット。音の形がまちまちでブレているように聞こえます。全員の音をちゃんと揃えて下さい」

「はい」

「それとホルン、音量が全体の音にマッチしていません。ここで求められているのはあくまでも周りの音を包み込むようなメゾフォルテです。その意識をしっかり持って下さい」

「はい」

 今週末には続けざまに地区の定期発表会がある。今回の催しはどちらかと言えば、音楽クラブに所属する学生向けのものだ。サンフェスのような大観衆向けの演奏会とは少々趣が異なるとは言え、本番は本番。気の抜けるところなど一つたりとて有りはしない。次また次、と振られる練習メニューを着実にこなしながら演奏の精度を高めることは、次に控えるコンクールの大舞台でもきっと生かされる。そう信じて久美子は目の前の音符を一つ一つ、丁寧に音へと換えていく。

「では、もう一度頭から行きます。先程も言ったように冒頭はもっとおどけて、しかし音を暴れさせないように」

「出だしのピッコロは音の抑揚をハッキリつけて下さい。今の演奏だと平坦に流れてしまって、像がぼやけています」

「トランペット、もっと堂々と吹いて。何人か音がぎこちなくなっています。ここはあなた達が主役です」

 矢継ぎ早に飛ばされる滝の指摘に奏者は応え、音を修正していく。その作業を延々と繰り返し、その度に少しずつ音が整っていくのを感じながら、合奏練習は滞りなく進められていった。

「それでは本日の合奏はここまでにします。明日はパート練習のみとなりますので、各パート今日の課題をしっかり解消しておいて下さい」

「ありがとうございました!」

 どへぇ、と一斉にくたびれ果てた声が漏れる。本番終わってまた本番という過密スケジュールのせいもあり、部員たちの疲労もそこそこ蓄積していた。加えて既に連休も明けてしまったため、これから本番までの全体練習時間は平日の放課後のみととても少ない。自ずと練習時の集中力が大事になり、少しでも気を抜けばそこを容赦なく滝につつかれる。おかげで精神は二重に消耗し、練習が終わる頃には全員揃ってグッタリ、という有りさまだった。何ともハードな状況だが地区発表会当日はもう目の前だ。こうなったら是が非でもやり切るしかない。

「ハイ、みんな注目」

 壇上の優子がいつものように手を鳴らす。続けて読み上げられる諸々の事務連絡を流し聞きしながら、久美子はぼうっと考え事をしていた。

 もうすぐ本番だ。今回はソロもある。あすかのような音を奏でることはまだまだ叶わないけれど、あんな風に吹けるようになることは今の自分にとって大きな目標の一つである。うまくなりたい。もっと音を磨きたい。じりじりと背中を焦がされるような気分に駆られ、久美子はこっそりと息を吐く。

「じゃあ久々に、私とタイマンで個人レッスンやる?」

「勝手に人の思考を読まないで下さい」

 あすかの揶揄をいなしつつ、久美子は自分の楽器ケースの金具をばちんと閉じた。美玲の言ではないが、疲れているところに重度の練習を重ねるのは効果的とは言えない。消耗した唇は音を歪めるし変なクセもつきやすくなってしまう。そして一旦ついてしまったクセを矯正するのには、そうした練習に費やしたのと同じくらいの時間と労力を要するものだ。人によってはうまく修正できぬままドツボに嵌まってしまうことすらも往々にしてある。それよりは限られた時間の中でも何をすべきかをしっかり考え、休むべき時にはきちんと休息を取った方がよほど良い。そのことを、久美子は今までの経験から学んでいた。

「なんだ、ちゃんと解ってるじゃないの。つまんなーい」

「つまんないって何ですか。っていうかあすか先輩こそ、今日も居残り練習ですか?」

「居残りなんて、そんな大層なもんじゃないって。私の場合は単に吹き足りないだけだし」

 笑い混じりにそう語るあすかを見ていると、こっちがゲンナリしそうになってくる。この人の音楽に関するバイタリティは一体どこから湧き出てくるのだろうか? けれどあすかの言っていたことは、居残る理由としてはせいぜい半分といったところだろう。もう半分の理由を久美子は知っている。先程の発言はカマをかけたつもりだったのだが、流石にあすか相手にはそう易々と通じなかった。だから今回はあえてもう一段、カマをかけてみる。

「そう言えば最近、夏紀先輩も良く居残り練習してるみたいですよね。楽器、まだしまってないですし」

 そうと気取られぬよう、空っぽのケース棚を見つめながら久美子はうそぶく。あすかはそれに反応を示さなかった。

 しばしの沈黙。私知ってるんですよ、と事の次第を説き明かすのは簡単だ。けれどもそれは自分達に迷惑をかけないようにしたい、という夏紀の思いを踏みにじることに等しい。きっと夏紀は今も学校のどこかで自身の音と必死に向き合っている。そしてここのところの夏紀の演奏は、周囲の誰もがそれと分かるほどの目覚ましい向上を遂げていた。それはもちろん、あすかとの昼夜を問わぬ特訓の賜物なのだろう。

 あすかの指導がいかに的確で、かつほんの些細な乱れも許さぬ厳しいものであるのかは、久美子自身が一番良く判っている。けれど夏紀の伸び具合から推察するに、彼女が受けているであろう特訓メニューは自分が受けたものよりも倍は厳しいに違いない。さっきの話と矛盾するようではあるけれど、そのぐらい無茶な追い込みを掛けでもしなければ、以前の夏紀の状態からほんの僅かな期間でここまで伸びる事など到底不可能だった。それほどの苦行を夏紀がこなせているのは、他ならぬ彼女自身の弛まぬ努力によるものだ。

 これがあと一ヵ月早かったなら。そしたら今回のソロだって、自分ではなく夏紀が吹くことになっていたとしても決しておかしくはなかった。そんな夏紀の陰なる努力の成果を、自分はきちんと感じている。認めている。久美子があすかとのやり取りに込めていたのは、そういう想いだった。

「黄前ちゃん、何だか変わったね」

 やにわにあすかが目の前に回り込んでくる。急に何ですか、と身を反らしつつ、久美子はあすかに尋ねた。

「変わったって、どこがです?」

「ちょっとだけ大人になった。そんな気がするよん」

 伸ばされたあすかの手に、久美子の髪はわしゃわしゃと揉みしだかれる。大人になった。そのことばの感触はとてもくすぐったくて、少し、心地良かった。

 

 

 

 

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