「よう、久美子」
「あ、秀一」
宇治橋を渡っていたところを呼び止められ、久美子は振り向く。開かれた詰襟の隙間をぼりぼりと掻きながら、秀一はこちらに近付いてきた。
「いま帰りか?」
「見ればわかるでしょ。テスト期間中だから、学校じゃ吹けないし」
「だよな。お前も楽器、持ち帰ってんの?」
「まあね」
「だったらさ、今日この後一緒にベンチのとこで練習しようぜ。適当に曲でも合わせながら」
「えー、どうしよっかなあ。明日のテスト数Bだし。私は合間にちょっと音出しするぐらいで、後は勉強するつもりだったんだけど」
他愛もない会話をしながら秀一と肩を並べ歩く。五月も半ばを過ぎ、陽気はますます本調子になりつつあった。さわさわとそよぐ涼やかな風が頬を撫で、宇治川のせせらぎが耳に心地良い。こんな日は一年に何日もあるものではないというのに、どうして学校というものはこの時期テストなどという憂鬱な行事を課したりするのだろう。そのせいで生徒はこの快適さを堪能する余裕も与えられぬまま、黙々と机に向かうことを強いられてしまう。噛み合わぬ自然と人間の営みを、久美子はただただ恨めしく思うばかりだった。
「にしても今年はサンフェスに地区の演奏会と、色々忙しかったよな」
「だねぇ。そのせいで勉強追いつかなくて、もう大変」
「テスト、もしかしてヤバいのか?」
「んー、まあ赤点は取らないと思うけど。でも成績悪いとお母さんに小言言われちゃうし」
「それなら俺が勉強見てやろうか」
「いい。秀一に勉強見てもらうのって、なんか腹立つ」
「何だよそれ」
辛辣な久美子のひと言に、秀一の表情が呆れとも苦笑ともつかぬ形に歪む。
「でも頑張った甲斐あったよな。サンフェスも地区演の方も、どっちもバッチリだったし」
「うん」
「それに、すげー良かったと思うぞ。地区演での久美子のソロ」
「そう、かな」
そぞろな返事をしながらも、頬がぽうっと熱を帯びるのを感じる。定期発表会の本番があったのはつい先週、テスト期間直前の日曜日。当日のソロは我ながら良い出来栄えだ、とは久美子も思っていた。もちろん誰かに褒められることを期待していた訳では無い。けれどこうして秀一が自分のことをストレートに褒めてくれて、本音を言えばちょっぴり嬉しかった。足元に転がっていた石ころに何となくつま先を引っ掛けると、カツンと小さな音を立てて石ころはあさっての方向へ転がっていく。
「自信持って良いと思うぜ。でさ、練習だけど、今日がダメなら明日は――」
「あれぇ、久美子先輩だ? おーい、せんぱーい」
秀一が何やら言いかけたのを誰かの声が遮る。面を上げると、赤信号に隔てられた宇治橋西詰の交差点の向こう側に、ピンク色のカーディガンを羽織った女子が立っていた。スカートの柄を見る限り、どうやら北宇治の生徒ではあるらしい。久美子目掛けて「おーいおーい」と両手をぶんぶん振っているあたり、その子は間違いなくこちらのことを知り得ているようだった。
「お? あいつ吹部の……誰だっけ」
「知らない。てか、部員なの?」
「多分。どっかで見たような気がするんだよ、金管じゃなかったとは思うけど」
「私はぜんぜん覚えてない」
「そういうとこ、久美子らしいわ」
「はあ? それどういう意味」
などと悶着しているうちに信号は青へと替わり、件の女子生徒がパタパタと、カルガモの子供が道路を渡る時のような仕草でこちらに近付いてきた。彼女の提げているスクールバッグには鈴なりにキーホルダーが取り付けられていて、それらが一歩ごとにジャラジャラと小気味良い音を立てている。
「もー、何も返してくれないなんて、酷いじゃないですかぁ先輩。がんばって手ぇ振ってたのにー。がんばり過ぎちゃって、腕もげちゃうかと思いましたぁ」
「えと、あー、それはごめん」
何となく謝らなければいけないような気がして、久美子はしぶしぶ頭を下げる。胸元にある緑色のスカーフを見ても、この子が北宇治の一年生であることに疑いの余地は無いだろう。しかしながらこうして間近に見てみても、赤茶けた長い頭髪をポンパドールの形に括っているその女子には、やはり面識と言えるほどのものは無い。ただ何となく、そばかすの目立つあどけない顔つきがどこか記憶の片隅に残っているような気もした。もしかして、これが既視感というやつなのだろうか? 戸惑う久美子を慮ってくれたのか、秀一が探りを入れるような面持ちで女子に尋ねる。
「あーっと。君、吹部の子、だっけ?」
「もちろんですよー」
コホンと咳払いをひとつ挟んで、それからその女子は自己紹介を始めた。
「吹部一年の
オーボエ。それを聞いた久美子の脳内に何かがぴりっと弾ける。
「もしかして先月の楽器決めのとき、奏ちゃんのこと呼んでた?」
「あっ、覚えててくれたんですねー! そうです、あの時の梨々花ですー。あれー? 奏ってば私のこと、先輩になんにも話してなかったのかな」
それはまあ、そういうものだろう。誰と仲良くしてるか、なんて話は先輩と後輩の間柄でそうそうするものではない。目の前の梨々花は「もー奏ってばー」などとブツクサ垂れていたが、そのうち何かに気付いたようにはたと動きを止めた。
「てゆーか、もしかして先輩、梨々花のこと覚えてないんですか? 私一応、新入生指導で先輩に見てもらったりしてたんですけどぉー」
「ああごめん、ほら指導のときって、みんなの名前までは聞かなかったでしょ? だからその、名前が出てこなくて」
あたふたと取ってつけたような弁明に、ほんとですかぁー? と梨々花は怪訝な目を向けてくる。今年の一年は見た目にも個性的な人物が多いのだが、こちらとしては指導に手一杯で、一人ひとりの顔と名前を一致させられるだけの余力なんて全然無かった。もー、と頬を膨らませた梨々花に、久美子は潔く両手を擦り合わせる。
「ほんとごめん。怒っちゃった?」
と、そこで梨々花が「ぶっ」と噴き出した。
「ぜーんぜん、気にしてないです。良く良く考えたら梨々花、先輩とお話するの初めてだったかもーって今気付きました。あ、梨々花のことは気軽に『リリリン』って呼んでくれて大丈夫でーす!」
「あーうん。じゃあ、梨々花ちゃんで」
流石にそのノリにはついていけない。互いの距離感というものも大事にしたいところなので、彼女のことはきちんと下の名前で呼ばせてもらうことにした。
それにしても梨々花の語り口は独特で、掴みどころのない緩さにはこっちがペースを乱されてしまいそうになる。ある意味あすかとは対極の存在だ。先程オーボエ担当と言っていたが、ということはつまり、この子がみぞれの直属の後輩ということになるのか。今年は梨々花の他にも二人の新入生がダブルリードパートに入っていた筈だが、そんな彼女たちの織り成す普段のパート練習は一体どんな光景になっているのやら。いくら首を捻ってみたところで、久美子にはまるで想像がつかなかった。
「ところで先輩たちは、一緒にお帰りなんですか?」
「うん。秀一と私って、家が同じマンションだから」
「そうなんですかぁー」
その返答に何を思ったのか、梨々花は「ふーん」「へぇ~」と品定めするように、秀一と久美子をジロジロ見比べる。
「な、何?」
「もしかしてお二人、お付き合いしてるカンケーだったりしてぇ」
「おう、まあ……」
刹那、久美子はカカトで思いっきり秀一の脛を蹴り込んだ。ぐぇっ、と息を詰まらせた秀一が涙目になって身悶えするのを尻目に「全然そういうんじゃないから」と、久美子は笑顔で梨々花の推理を否定してみせる。
「っ
「バカ、部内で変なウワサ立ったらどうすんの。あんまり他の人に言わないって約束したでしょ」
「だからって蹴らなくたっていいだろ、蹴らなくたって」
「知るか」
二人して身を屈め、毒づいた声色で秀一の非難をいなす。そんなこちらの様子を面白がったのか、ウヒヒ、と梨々花が口の端に八重歯を覗かせた。ぜったい勘付かれてる。秀一の口の軽さを恨めしく思いつつ、どうにもばつが悪くなった久美子はなんとか話題を逸らそうと試みる。
「えっと、梨々花ちゃんはここで何してるの?」
「梨々花ですか? 今日はこれからクラスの友達のお家で勉強会するんですよー。明日の数学ヤバいー、超ピーンチ! 助けて梨々花ー! って頼まれちゃって」
「へえー」
意外なことに、と言うのも失礼な話だが、どうやら梨々花は数学が得意科目らしい。エッヘンと胸を張ってみせる梨々花に、久美子は少しだけ引け目を感じてしまう。高校入学からこっち、数学の成績はお世辞にも芳しいとは言えないものだった。親や教師にも何度そのことを指摘されたか分からない。その優秀な頭脳をほんのちょっぴりでいいから分けてもらいたいものだと、しみじみ思う。
「そうだった!」
こんなことしてる場合じゃない。勉強しないといけないのは自分も同じだということを、久美子は今の今まですっかり忘れていたのだった。ここまでのテスト科目に手間を取られていたせいで、明日の出題範囲も未だ網羅し切れているとは言いがたい。今日の追い込みが間に合わなかったら明日の科目は危険ラインを割り込んで、本当に大ピンチになってしまいかねないのだ。特に数学が。
「ごめん、私そろそろ帰らなきゃ。それじゃ梨々花ちゃん、秀一、また来週部活でね」
「お、おい久美子、」
「待ってください先輩!」
迫真の声色に、久美子はつい振り向かされてしまう。そこには懇願するような瞳をこちらに向ける梨々花の姿があった。強い感情のこもった視線に全身をびしりと縛られ、久美子はおずおずと、梨々花を正面に捉えるように向き直る。
「どうしたの?」
「あのー、本当はもっと早くに、先輩に相談したかったんですけどー……」
相談って何を? と小首を傾げると、梨々花は胸の前で指をもじもじと絡めながら、桃の蕾のように色づいた瑞々しい唇をきゅっとすぼめる。どの言葉を選ぶべきか、迷うような仕草を見せる梨々花の口が、やがて思いを解き放つように開かれた。
「先輩はどうやって、鎧塚先輩と仲良しになったんですか?」
虚を突くその質問に、久美子は思わず瞬きをしてしまう。
「どうやって、って?」
「そのままの意味ですよー。梨々花、どうやったら鎧塚先輩と仲良くなれるのかなぁって、最近悩んでまして」
「うーん、あんまり気にしすぎない方が良いと思うけど。みぞれ先輩と何かあったわけじゃないんでしょ?」
「なんにも無いです。なーんにも」
ふるふる。首の動きに合わせて、ウェーブがかった梨々花の髪がわさわさと左右に跳ねる。
「ホントになんにもなんです。鎧塚先輩、あんまり梨々花たちとお話してくれなくってー。オーボエうまーい、練習ねっしーん、でもずーっとダンマリー! みたいな」
「まあ、それはみぞれ先輩だし」
「でもでも、久美子先輩は鎧塚先輩と仲良しさんらしいじゃないですかー。どうしたらそうなれるのかなーって、一度聞いてみたかったんです」
「仲良しって、それ誰情報?」
「部長さんと副部長ですよー。鎧塚先輩のことを相談したら部長さんに言われたんです。久美子先輩が鎧塚先輩と仲良いからコツ聞いてごらんー、って」
「はあ」
果たしてあの人たちは何を考えてそんなことを言ったのだろう。その意図をもう一つ掴み切れなくて、久美子は己の眉間を指でつまむ。
みぞれ云々はともかく、優子達から体よく面倒事を押し付けられたみたいな感じがして、何となくいい気はしない。それにみぞれと仲良くなるのにコツも何もある訳が無かった。久美子自身、ひょんなことからみぞれと関わるキッカケを得て、いつの間にか普通に話すようになっていたというだけだ。そんな自分から梨々花に伝えられるアドバイスなんて、さして良いものも思い浮かびやしない。そうしてしばらく言い淀む久美子に名案を期待するのは難しいと思ったのか、梨々花はカクリとうな垂れた。
「鎧塚先輩にぜんぜんクチ利いてもらえなくって、すごく寂しいんですよぉ。ひょっとして梨々花、先輩に嫌われてるのかなー、なんて思ったりして」
そう語る梨々花はまるでしょぼくれた子犬のような顔をしていた。それがなんだか可笑しくて、久美子はつい唇の端から息を漏らしてしまう。
「あー、どうして笑うんですかー!」
「あははは、ごめんごめん。でもみぞれ先輩に限って、それは無いよ」
「ホントですかぁー?」
「うん。みぞれ先輩は何て言うかこう、自分から人に関わるのが苦手ってだけだから。あんまり深く考えないで、梨々花ちゃんは梨々花ちゃんのペースでアプローチしていけば良いと思う」
「それで、いいんです?」
「うん。どうせなら先輩の話しやすい話題とか振るのも良いよ。オーボエのこととか、先輩のやってるリズムゲームとか、あとお菓子のこと。みぞれ先輩ああ見えて、ソーダ味のお菓子とか結構好きだし」
「へぇぇ」
「あーそれと、バリバリ近付いてくるタイプは距離置かれるかも、ってぐらいかな。梨々花ちゃんの場合だったらこう、ソロソローって近付いていく感じで行ったら良いんじゃない?」
などと久美子が手振りを交えつつ指南をしているうちに、それまで沈んでいた梨々花の表情にぱあっと希望の光が差し込んでくる。
「わかりました! 来週からさっそく試してみます。アドバイスありがとうございまーす!」
梨々花は大袈裟に両手を開き、ぺこりと元気良く頭を下げた。それを見た久美子の口元からも緩く吐息が洩れる。こんな話で梨々花の悩みを解決できたかは微妙なのだが、ひとまずみぞれに接近するヒントを彼女が掴めたのならそれで良いだろう。あとは実践あるのみだ。
「ホント先輩に相談して良かったですー。梨々花、なんとかなりそうな気がしてきました」
「それなら良かったけど。じゃあ今度こそ私帰るから。またね梨々花ちゃん」
「はい! 久美子先輩、来週からもよろしくお願いしまーす!」
さっきと同じくぶんぶんと両手を振る梨々花に見送られながら、久美子は家路へと向かう。なかなかに強烈な個性を持つ人物ではあったけれど、しかし彼女とのやり取りを思い返してみると、ほんのりと心が温まるような気分だった。何だかんだで根は良さそうな子だ。みぞれ直属の後輩が彼女で、ある意味良かったのかも知れない。根拠なんてどこにも無いけれど、そう遠くないうちに梨々花とみぞれが打ち解けられそうな、そんな予感がしていた。
「待てって久美子。俺を置いてくなよ」
「あ、秀一? そう言えば居たっけ」
「
梨々花との話に没頭し過ぎていたせいで、秀一の存在が完全に空気と化していた。バタバタと後を追ってきた秀一の恨み節をあしらいつつ彼とふたり肩を並べ、木々の生い茂る土手道へと入る。
『あじろぎの道』と呼ばれるこの歩道は、観光名所としても良く知られる平等院鳳凰堂の脇をすり抜け宇治川の上流へと伸びる風情豊かな小道である。そのまま歩いていくと立ち並ぶ茶店や屋形船の船着き場を経て、やがて
「さっきの後輩、剣崎、だっけ。すげー奴だったな」
「だね。でもみぞれ先輩には、ちょうど良いぐらいかも」
「そうなのか?」
「みぞれ先輩って結構、自分の殻に閉じこもりやすいところあるから。あの子ぐらい積極的な方が先輩も打ち解けやすいんじゃないかって思う。多分だけど」
「ふうん」
しゃりしゃり、と靴の裏を撫でる小砂の感触が、なんとなくこそばゆい。ところどころの木漏れ日に肩を撫でられながら木々のトンネルを抜けると、そこにはお馴染みの木製ベンチが姿を現した。いつもだったら腰を下ろして少し休憩といきたいところだけれど、今はさすがにそんな余裕は無い。さっさと家に帰って勉強しないと、あとで泣きを見ることになるのは他ならぬ未来の自分自身だ。
「なんつーかさ」
「何?」
久美子は立ち止まり、秀一に続きを促す。
「先輩、って感じだな。久美子」
意味が、良く分からない。うなじの辺りにむず痒さを覚え、久美子は秀一から視線を逸らす。そこには陽の光を反射する川面の深い蒼色があった。さらさらと流れ行く水の音にちょっとだけ、体の熱が吸い取られていくような、そんな気がした。
ようやくテスト期間が明け、返却された用紙の上に踊る数字に一喜一憂する胃の痛い時間もやり過ごし、吹奏楽部は再び動き出す。
練習再開の初日である今日、滝からはコンクール用の課題曲と自由曲の楽譜が配られた。来月にはコンクール出場をかけた部内のメンバーオーディションも行われるし、それに向けて皆必死にしのぎを削ることだろう。彼らに負けぬよう、今年こそ全国金賞という目標に届くよう、一日も早く曲の全貌を把握し音を磨いていかなければ。――そうと分かっているにも拘わらず、久美子の気持ちはそれとは裏腹に、モヤモヤしていた。
「みぞれ先輩、希美先輩と同じ大学に行くのかー……」
それは今朝のこと。いつものように朝練の為にと向かった音楽室にて、希美は高らかに音大進学を希望している旨を明らかにした。そしてみぞれもまた、希美と同じ音大に行くつもりであることも。それ自体は別に悪いことでも何でもなかったし、上級生の進路にとやかく口を挟むつもりなど毛頭無い。久美子の心に引っかかっていたのは、みぞれが音大進学を希望する、その動機だ。
『希美が受けるなら、私も』
それを聞いてからというもの、どうにも舌の上にザラリと苦いものがまとわりついている気がして、それがずっと自分の中で違和感を訴えている。みぞれの希美に対する依存心はこの一年で解消するどころか、ますます深まってさえいるようだった。そこにもしも去年までのような、二人の断絶を招く事件が起こってしまったら? そんな悲観的な想像は正直あまりしたくない。あの場に同席していた夏紀と優子は特に反応もせず黙っていたのだが、彼女達はこの件をどう思っただろうか。夏紀が打ち合わせから帰ってきたら、後でそれとなく聞いてみることにしよう。
「なになに?
久美子の洩らした呟きを聞きつけてか、ずずいと葉月が身を乗り出してくる。
「うん、まあ」
「先輩たち、どこの大学行くって?」
「音大だって。まだ確定じゃないらしいし、どこって話も聞かなかったけど」
「へえー」
音大、という単語に葉月は瞠目した。
「凄いねー。でも確かに二人とも、どっちもプロになってもおかしくないぐらい演奏うまいもんね」
「技術は、そうだね。だけど音大の試験って難しいって聞くからなぁ」
「そうなの?」
「そうですよ葉月ちゃん」
今度は緑輝が話の輪に加わってくる。
「音大の試験は専攻する楽器の演奏だけでなく、ピアノとか声楽とかの副科実技、それに聴音や音楽理論と色々あるみたいです。大学によっては普通の入試みたいなペーパー試験もあったりするらしいですけど」
「ほへぇ。なんか大変そう」
緑輝の説明を受ける葉月はいかにも他人事、といった態度だ。もっとも音大を志望しているのでない限り、彼女のその反応は至極当然のものとも言える。人は己の能力や身分からあまりにも遠い領域の出来事を、現実として認識することは出来ない。ほとんどの人にとってのそれは既に身の回りにあるものか、もしくは新たに身の上に降りかかってきたものだけを指す概念なのだ。
「全国から上手な人が集まってくるから競争も激しいですし、あと学費も結構高いって言いますよね」
多少は事情を知っているのか、美玲もその話題に乗ってきた。こんな風に自然と周囲の会話に入って来れるようになってきたのは良い傾向だ。楽しそうに緑輝との会話を繰り広げる美玲の姿に、久美子はこっそり頬を緩める。
「みっちゃんの言う通り、音楽学部があるのは私学のところが多いですからね。国公立のとこに入れればそうでもないと思いますけど」
「その場合も、使う楽器は最低限自前ですよね。ああでも、傘木先輩と鎧塚先輩はどっちもマイ楽器なんでしたっけ」
らしいね、と久美子は美玲に頷く。南中出身の美玲は流石、そのへんの事情も把握しているらしい。南中ではマイ楽器を持っていなければフルートをやらせてもらえなかった、と以前に希美が語っていたのを久美子も思い出す。
「希美先輩のフルートもそうだけど、みぞれ先輩はもっと凄いんだよ。中学でオーボエ始めたとき、親にポンと買ってもらったんだって」
「そうだったんですか? オーボエってけっこう高い楽器ですよね。ダブルリードもお金掛かるし。それなのに気前良くマイ楽器買ってもらえるなんて、羨ましいなあ」
「みっちゃんもマイチューバ欲しいの?」
久美子の問いに、美玲はさめざめと青白い溜め息を吐く。
「チューバは、流石に厳しいかな。買うとしたらトランペットですね。持ち運びにも困らないですし、場所さえあれば吹きたい時に吹けますから。音大行くんじゃないにしても何かしらで音楽続けるつもりだったら、やっぱり自分の楽器は欲しいですよね」
感情の籠った美玲の言葉に、すごーい、とさつきが感嘆の吐息を漏らした。
「そこまで考えてるなんて、流石みっちゃん。私なんかマイ楽器買うっていう発想がまず出てこないもん」
「そう? さつきだって、高校卒業してもチューバ続けたいって思わない?」
「それはある! 私チューバ好きだし」
「だったらいつかは考えることになると思う。特に社会人バンドなんて、楽団所有の楽器がある方が稀だから」
「そっかー。でもチューバって絶対お値段張るよね、大っきいし。私のおこづかいじゃ一生かかっても買えなさそう」
「そこは親を頼らないで、自分で買いなさい」
「うぎゅ。おこづかいは冗談だってばぁ」
話はその後も脱線しつつどんどん盛り上がった。どの楽器がいくらするか、いつまで音楽を続けたいと思うか。そんなことを皆でワイワイ語り合っていたその時、ガラリと音を立てて教室の戸が開けられた。
「なんだかお喋りが弾んでますなぁ」
「げっ、あすか先輩」
引きつる葉月の声。しん、と肝が冷えるのが解る。去年までのパターンなら、これはあすかの一喝が飛ぶところだ。久美子の身体が危機に備え、ひとりでに歯を食いしばる。ところがあすかは場の空気に眉根を寄せることも無く、悠然とこちらに近づいてきた。そして傍の椅子をガタリと引くと、まるでそうするのが当然だったかのようにそこへ腰を下ろす。
「私も混ぜて混ぜて」
予想外過ぎるその振る舞いに、全員が呆気に取られる。とりわけあすかを良く知る卓也や梨子などは、まるでこの世のものではない何かを見ているような目つきですらあった。
「で、何の話してたの?」
「えっと、その、三年生の子達の、進路の話なんですけど」
こわごわと、梨子が経緯を説明する。それに葉月が続いた。
「傘木先輩と鎧塚先輩が、音大入るつもりらしいーって話を、久美子が。ね?」
「わ、私?」
「言ってたじゃん。そっからこの話になったんでしょ」
「いやいやいやいや葉月ちゃん? アレは別に、私からお喋りし始めたわけじゃなくって、」
やにわに向けられた水を久美子は全力で押し返す。冗談じゃない。この状況の責任を自分一人に押し付けられるだなんて、たまったものでは無かった。大体それを言うなら、こっちの独り言を拾って会話を膨らませたのは葉月だったではないか。久美子と葉月、二人で交わす視線だけでのやり取りは、どちらが責めを負うべきかという無言の応酬を繰り広げていた。
「ふぅん、そうだったんだぁ」
目前のあすかはニンマリと、愉快そうな表情を崩さない。それが却って怖さを何十倍にも増幅していた。いつ炸裂するとも知れない爆弾を抱える気分とは、まさにこういうものなのだろうか。怖気の立つ背中を掻きむしりたい衝動に久美子が駆られていたその時、それまでニコニコしながら黙って会話を聞いていた奏が唐突に声を発した。
「あすか先輩は、音大受験はなさらないのですか?」
あすかが無言で奏を見やる。その表情は彼女の長い横髪に隠され、ここからでは窺い知れない。びりりと殺気立つ得体の知れない空気が場を染め上げていく。ひと呼吸をするのに充分なだけの間を置いてから、あすかはクスリと吐息をこぼした。
「私はどうやったって、音大には行けないから」
「どうしてですか? 先輩、楽器も大変お上手ですし、音楽全般にもとてもお詳しいのに」
それ以上はまずい。久美子の内側で、危険感知のサイレンが最大級の警報を鳴らし始める。この先への深入りは、あすかの複雑な家庭事情にまで踏み込みかねない。そしてそれはあすかの最も嫌がる領域だ。そこを踏み抜こうとしている奏は果たして何も知らないだけなのか、それとも何かを察した上で意図的にあすかに仕掛けているつもりなのか。止めなければ、という気持ちに反して久美子の喉は二人から放たれる強烈な威圧感にギシリと縛られ、情けない音を洩らすことしか出来ない。
「だって私、ピアノ弾けないもん」
対するあすかの返答はあっけらかんとしたものだった。長い指で鍵盤を弾く形を作り、おどけるようにグニグニと動かしてみせる。凍っていた場の空気がスウっと浮上する、そんな錯覚があった。
「そうなんですか。先輩でしたら音楽の分野でも素晴らしい活躍をなさりそうなのに、少し勿体ない気もしますね」
「ぜーんぜん」
あすかは手を振り、わざとらしく謙遜してみせる。
「私より上手い子なんて全国に星の数ほどいるでしょ。音大行ってプロになるのは私なんかじゃなくて、そういう子だってば」
そんなことは無い。久美子はそう叫んでやりたいぐらいだった。あすかの奏でるユーフォの旋律はその辺の奏者にも引けを取らないどころか、今すぐにでもプロの領域に飛び込めるのではないか、とさえ思えるレベルだ。少なくとも、久美子の耳で聴く限りでは。けれどそれをここで言わなかったのは、今のこの場に求められたものでは無かったから。あすかにとって、この話題は適当に収めてさっさと切り上げたい類のものである筈だ。彼女に対してのそういう推察が、久美子の口にしっかりと戒めを施していた。
「ところで進路と言えばさ、後藤たちはもう進路決めちゃってんの?」
「あ、ええ、ハイ。まあ、」
いきなり話の矛先を転換されて狼狽えたのか、卓也はゴニョゴニョと口ごもる。
「一応、俺は東京行くつもりです。楽器修理士になりたいんで、向こうの専門学校に」
「おお、いいじゃないですか先輩! なんかイメージありますよ!」
パチパチと手を叩く葉月に久美子も同調する。確かに、寡黙でシャイな卓也には接客業なんかよりも、楽器と真摯に向き合う職人系の仕事の方が合っている気はする。作業用エプロンを身に付けチューバの調整をする卓也。そんな姿を容易に思い描けるところからして、それはとても可能性の高い未来だと思えた。
「梨子先輩はじゃあ、卒業したら後藤先輩と一緒に東京行くんですか?」
「えぇ、どうしてそうなるの?」
さつきに問われた梨子は顔を紅潮させ、少しの間あたふたとしていた。ぷっくりと柔らかそうな頬を手で押さえつけながら、彼女は堪えかねたように面を伏せてしまう。
「……まだ決まってないけど。でも、東京行きたいって気持ちは、あると言えばあるかなー、って」
キャー、と緑輝が黄色い声を上げる。「気持ちだけだから!」と必死に弁解する梨子の姿はあまりにもいじらしかった。
「長瀬がどこに居ても、待っててくれるなら、俺は頑張れるから」
「後藤君、」
呼吸を止めて見つめ合う二人。あまりにも甘酸っぱいその空気にあてられて、今度は緑輝とさつきの両名がキャーキャーとかしましい声を上げ始めた。傍で見ているこっちまで顔が紅潮しているのが鏡を見るまでもなく分かる。こういう時、人は『ごちそうさま』と言いたくなってしまうのだろう。
「……練習に戻ろう」
耳まで真っ赤にした卓也がそそくさと楽器を構える。その動きを合図に雑談タイムはお開きとなった。あすかも軽快に席を立ち、ユーフォを手にしてマウスピースに息を吹き込む。そんな彼女の動静を、久美子はそろりと窺った。結局あすかのお咎めは最後まで無かった訳なのだが、それはそれで何となく不気味な心地もする。あれほど練習好きで、練習以外のことが大嫌いだったあすかが、一体どういう風の吹き回しだ? それだけは久美子にも良く解らなかった。
他方、奏はと言えば、つい先程まであすかとの間に剣呑な空気を醸し出していたのが嘘のように、今は大人しくメトロノームの刻むテンポに合わせて課題曲の音をさらっている。あの日以来、奏はまた元通りに猫を被っていた。少なくとも目につく範囲では誰かに毒気を注ぐような真似もしていないし、周囲との間に軋轢をもたらすような状況にも陥ってはいない。ただ美玲とはあれ以来、接触する機会が極端に減っているみたいだった。それに他の部員達とも関わりは薄く、みんなで練習をしていても奏一人だけがどこかポツンと浮いているような感がある。その意味でも今の美玲とはまるで対照的だ。とりわけ夏紀とは相性が悪いとでも感じているのか、日常的な会話ですら二人が直接やり取りするのを久美子は久しく見かけていなかった。そこにも何となく、不穏な気配が漂っているような気がしなくもない。
一見して落ち着きを取り戻したかに思える低音パートの活動風景。けれどそれは綺麗に貼られた絆創膏のようなもので、一たびめくればそこには今もジュクジュクと、膿にただれた生傷がある。そんな危うい気配がそこかしこを這いずり回っているみたいだった。