願いを叶える書物。
彼は、「愛されたい」と願った。

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愛されたい。

 愛されたい。

 

 窓も無い独房のような部屋で、部屋を照らすぼんやりとした緑色の光を眺めながら、衣服を何も身につけていない少年は祈った。

 何の感情も無い、硝子細工のようにさえ見える灰色の瞳は、他に見る場所も無いからずっと緑色の光を眺める。首筋には火傷の痕。胸や腹にはどす黒い痣と、蚯蚓脹れの痕。陰茎の皮も小さな火傷の痕が斑点のように付けられており、足の爪は一枚たりとも残っていなかった。

 

「……ごめんなさい」

 

 消え入るような声。喉は枯れ、嗄れた老婆のような声になってしまっている。

 誰に謝っているのだろうか。謝らなくてはならないのだろうか。少なくとも彼は、謝らなくてはならなかった。

 

「……ごめんなさい。弱くて、ごめんなさい……」

 

 ガシャン。

 

 窓も無い。何も無い。あるのは、母の魔術で造られた緑色の照明だけ。

 そんな部屋で音が鳴るとしたら、唯一この部屋と外の世界を繋ぐ扉が開かれる時か、閉じる時。この二択だ。さっきまでは扉が開いていなかった為、この音は扉が開く音だろう。彼は首も動かさず、目だけで扉の方を見る。

 

 汚物を見るような瞳で、母が見ていた。どん、と置かれる水とパン。そして空の瓶と小さな器。

 

「…………」

 

 ガシャン。扉が閉まる。

 

 今日は、何もされなかった。殴られることも、鞭で打たれることも、魔術で身体を焼かれることも。何もされなかった。

 

 人にはどう頑張っても、生まれつき決められていることがある。決められていて、変えられないことがある。誰が産んでくれるか。そして、どれだけの魔力を体内に擁するか。

 

 彼は、どちらも運が悪かった。

 母親は自らの体内に擁する魔力が極端に少なかった。だからこそ、子どもにはせめて平均程度の魔力を擁して欲しかった。

 しかし、彼が神から受け取った魔力は母親とそう変わらない、微々たるものでしか無かった。母親は産んだ自分の魔力が極端に少なかったからだ、と自らを責めた。

 運命の質が悪かったのは、彼の魔力量は母親よりほんの少し「多かった」ことだった。自らを責め、精神を蝕まれていた母親は完全に壊れ、彼を虐待し始めた。

 

 何が悪かったのだろうか。

 不完全に産まれてしまった彼が悪いのだろうか。

 母親は彼を愛することが出来なかった。父親は記憶にすら無い。

 

「……ごめんなさい」

 

 あの緑色の照明も、母親の魔力がもう少しあればもっと明るくなるのだろう。しかし、無い物は無いのだ。そのせいでこの独房は部屋全体をはっきりと見渡すことすら出来ないのだ。

 ある意味、母親の魔力量がこの程度でよかったのかもしれない。これ以上の魔力で身体を焼かれた暁には、今頃生きてはいないだろう。いや、死んだ方がマシなのかもしれない。

 

 願わくば、もっと明るい光を。僕の持つ、母より優れた魔術でこの部屋を照らしたく無いから。それをしてしまえば、母親の存在を完全に否定しちゃう気がして。

 だから、僕以外の誰かが、僕を照らしてほしい。

 

 願わくば。

 

 願うことすら億劫だったが、この時、彼は「願った」。

 緑色の光ではなく。暖かい色の光を浴びたい。ただ、そう願った。

 

 目が痛い。

 

 最初に感じたのはそれだった。ずっと、暗闇と緑しか見ていなかった。白い光なんて、見ていなかった。目が慣れていなかったんだろう。思わず目を閉じる。

 

 何かが地面に落ちた音が聴こえた。その音に怯えて目を開け、恐る恐る音のした方を見る。

 

 そこには、淡い光を放つ、一冊の本が落ちていた。

 

 この部屋に穴など無い。出入りが出来るのはたった一つの扉だけ。母親がこのような本を彼に持ってくるはずが無い。つまり、この本はどこからともなく「現れた」のだ。

 そして、彼が願った内容は叶えられた。淡い、白い光を放つ本。確かに、その本は緑色ではない光を放っていた。

 

 願わくば。

 願わなければ、叶わない。例え願うことすら億劫だとしても。

 

「……あっ」

 

 どうすればいいのか解らなかった。確かに、「緑色の光ではない光を浴びたい」とは願った。しかし、叶うはずも無いと思っていたのだ。叶ってしまった今、彼はどうすればいいのか解らなかった。

 身体を引き摺るように動かし、本へ向かう。何故向かっているのだろう?身体中が痛い。前に進みたいのに、中々進めない。普段は何も考えず口から懺悔の言葉を漏らすだけの人形が、久々に人間に戻っている気がした。

 

 身体が熱い。全身が軋むように痛い。

 あの光を求めてしまったら、何かが壊れてしまう気がする。

 それでも、求めずにはいられない。

 願ってしまったのだから。

 

 意識が飛びそうだ。どうしてこんな痛い思いをしながらあの本に手を伸ばしているんだろう?

 愛されたい。

 視界が霞む。涙が出てきた。寒気がする。だけど。

 

「……っ、お願いします」

 

 彼は願った。

 

 愛されたいと。

 

 本は輝き、独りでにパラパラとページが捲られていく。そして、見たこともない記号が浮かび上がり、光となって消えていく。まるで、記号が天井に、空に消えていくかのように。

 そこで、意識は途切れた。

 

 

 

 

 ~~~

 

 

 

 

 聖書信仰。

 

 神の落とし物、と言われた「願いの書物」を崇め、聖書に祈ることで神が願いを聞き入れ、その願いを叶えてくれるという。

 人々がそのような信仰を始めたのは、ひとえに彼が原因なのだろう。

 

 題名も無い。表紙は薄汚れており、中のページには何も書かれていない。そんな本を大事そうに抱えた、傷だらけの全裸の少年。灰色の髪は栄養が行き届いておらず、息は浅い。そんな少年が、謎の無を擁した本を抱えて教会に現れたのだ。

 

 彼は愛された。

 

 責め苦を嫌という程味わった、と語るような身体。その身体の大きさは刻まれた傷に比べてあまりにも小さく、そして今にも消えてしまいそうな薄幸さがあった。敬虔な信者はその傷だらけの少年に美しさを感じ、神父は悪魔に囚われた天使が下界へ逃げてきたのだと跪いた。

 彼は母親の失敗作から、小さな天使へと生まれ変わった。

 

 服を貰った。高級貴族が着るような、美しい絹で編まれたローブを。

 部屋を貰った。朝は鳥が囀り、夜は月明かりが部屋を照らす、静かな部屋を。

 食事を貰った。敬虔な修道女達が祈り、命を頂く肉。神父が微笑みながら育てた野菜。信者が捧げるパン。それらをふんだんに使った料理を、毎日、毎日。

 

 彼は愛された。

 天使の子は、教会のシンボルとなった。

 

 彼が教会の礼拝堂に現れると、信者達は有り難そうに祈りを捧げた。修道女達と目を合わせると、顔を紅潮させて目を背け、背中に手を回してもじもじとしていた。神父は片膝をつき、彼を賛美する詩を作った。彼は、今までの人生で痛めつけられたその分を取り戻すかのように、ひどく愛された。

 

 それが気持ちよかった。今まで、これ程寵愛されたことは無かった。思い通りになることは無かった。自分が生きていていい、という想い。自分が認められている、という想い。自分が居ないと世界が成り立たない、という想い。それが絶頂にも成り得る快感だった。必要とされたかった。

 

 彼は愛された。

 信仰だけでなく、歪んだ愛情すら享受した。

 夜中に自分の部屋の扉を叩く音がした。扉を開ける音、叩く音。それらには敏感だった。それが、彼に傷を与える合図だったから。すぐに目が覚めた。

 扉の先には、一人の修道女がいた。恥ずかしそうに頬を染め、精一杯の声で自らの罪を独白した。

 

「罪深き私を……赦してください」

 

 あの部屋に居た頃は、自分が許しを乞うて いたというのに。今となっては、誰かに赦しを求められるようになった。求められるようになったのだ。それが彼には耐え難き幸福だった。罪を赦した。傷だらけの身体に、七つ目の罪という傷がついた。修道女の穢れなき黒い法衣を、白が汚した。その罪は自分にはない。何故なら、僕は求められているのだから。

 その日から、夜中に彼のもとを代わる代わるの修道女が訪れた。誰もが自らの罪を認め、懺悔をする。そしてそれを彼が赦し、黒を汚す。嬌声が響き、淫らな匂いが部屋を覆う。天使の寝床は人の子の液で濡れ、その罪を償う為に女は腰を振る。まるで罪を背負うことを悦ぶかのように、甘い声で啼くのだ。

 

 彼は女の快楽などどうでもよかった。この、火傷の痕で黒く変色した陰茎でも、このように誰かに求められるなら。それだけで、絶頂を超える快感が得られるのだ。修道女達が懺悔をしている時間そのものが、彼にとって最高の自慰の時間だった。

 

 彼は愛された。

 

 扉を叩く音。今日は一体どの修道女が罪を背負いに来たのか?扉を開ける。

 そこにいたのは、神父だった。

 

「天使よ……私の罪をお赦しくだされ」

 

 彼は、同性であるはずの男にも愛されてしまったのだ。或いは、天使に性別など無いのかもしれない。その薄幸さ、傷だらけの身体は、神父の隠れた被虐性をひどく刺激したのだ。

 部屋を覆う彼の嬌声。白く美しい天使の寝床を、白が汚す。鎖で手を縛られた。蝋燭で身体を炙られた。しかし、自然とあの母親に虐待されていた頃のことは思い出さなかった。寧ろ快感だった。何故なら、僕は求められているのだから。

 

 同性での性行為は不浄とされ、教義に基づくならば禁止されていた。しかし、彼は本来その教義を説くはずの神父すら狂わせる程、彼を愛させてしまっていた。当然ながらそれは彼の表情が、雰囲気が、姿だけがそうさせたわけではない。

 

 彼は天使になるべくしてなったのだ。

 

 彼は愛された。

 何故、愛されたのだろうか。

 彼が倒れていたその時に持っていた、一冊の本。ページをどれだけ捲っても、そこに文字は書いていない。

 ただ、表紙に書かれた歪な文字。

 

「愛されたい」

 

 傷だらけの少年と、歪なタイトルの書物。その二つが、どれ程修道女達の母性を刺激しただろうか。どれ程神父の偽善的な心を刺激しただろうか。

 

 それだけでは無かった。

「愛されたい」というタイトルのその書物は、彼には不釣り合いな程膨大な魔力を秘めていたのだ。そしてその魔力は異質であった。修道女も、信者も、神父でさえも、その書物に込められた美しい魔力を見たことも聞いたことも無かった。本来「魔」という負の感性が付き纏う言葉であるはずなのに、あまりにもその魔力は「聖」なるものだった。まるで、神や天使が扱うような。それほどに美しい魔力だった。

 

「愛されたい」。この書物は聖書として崇められることとなった。そしてその書物を持つ彼も、聖書に選ばれた……或いは、聖書を天より預かった天使である、と同じく崇められた。

 

 彼はそれで満足だった。自分の存在が求められることが満足だった。

 同時に彼は渇いていった。求められれば求められる程、もっと、もっと求められたくなる。

 彼は、自分がこの書物のおかげで求められているということを理解していた。これを失ってしまえばまた愛されないかもしれない。そもそも、あの独房のような部屋にこの書物が現れなければ今のような愛される生活を送ることすら出来ていなかったのだ。この書物は特別だ。この書物と出会うことが出来た僕は特別だ。そう信じて疑わなかった彼は、書物だけは誰の手にも触れさせなかった。それこそが、彼の心を繋ぐ鎖のようなものだった。

 

 愛されたい。

 

 そう願えば叶ってしまった。記号が、文字が空へ飛び、まるで本当に「神、或いは天使が願いを叶えてくれた」ようだった。

 

 来る日も来る日も、彼は愛され続けた。穢れなき愛情も、醜く歪んだ愛情も、全てを受け入れた。例え「愛」という名の哀れみであろうと、それは愛なのだから。

 修道女や神父達の愛情は日に日に苛烈になっていった。罪深き私の為に、首を絞めてください。嗚呼、罪を犯した私を罰する為にその鞭で私を打ってはくれませんか。なんということでしょう、罪深き私は天使様の剣を踏み付けるという更なる罪を背負ってしまった!

 彼はその全てを赦した。

 

 

 ……嗚呼、若し神が存在するのであれば、真に最も罪を背負っているのは僕なのだろう。

 

 

 それでも、僕は愛されたい。

 きっと、僕の罪は愛が赦してくれるのです。そうでしょう?神様。

 

 だって、僕が母さんから受けていたあの仕打ちだって赦されたのは、きっと僕が愛されていたからなんだ。母さんが、僕を愛していたから赦されたんだ。

 そうだ、何を考えていたのだろう。僕は最初からずっと「愛されていた」じゃないか。

 

 

 願わくば。

 

 

 あの緑色の牢獄で、初めてあの書物に願った時。「愛されたい」という、純粋で狂気的な願い。

 何故そう願ったのだろうか。それは「愛されてなどいなかったから」である。それ以外に何も無いではないか。

 

 あの光を求めたら、何かが壊れてしまう気がする。

 彼の心は、既に壊れてしまっていた。一方的で、余りにも勝手な愛情を受け入れ過ぎた。底はとうの昔に抜けているのに、容器が満たされないと嘆き、それでも尚求め続けるのだろう。

 

 

 

 愛されたい。

 

 愛されたい。

 

 愛されたい。愛されたい。愛されたい。あいされたい。あいされたい。あいされたい。あいされたい。あいされたい。

 

 

 

 

 身体が熱い。修道女に殴られた頬が、快楽を誘う道具のように使われ続けた陰茎が、神父に蝋を垂らされた背中が、縛られた手足が痛い。

 

 一人でに、書物の頁が捲られていく。その魔力は留まるところを知らず、初めて見た時のような輝きを放つ。

 

 人々の願いを集め、その想いの強さで魔力を解き放つ、神の落し物。其れが彼の元に渡ったのは唯の偶然でしか無かった。

 再度願われた、「愛されたい」という壊れた願い。その願いを叶えるべく、書物は魔力を解き放つ。

 

 

 ──しかし、その書物が願いを叶えるには、その魔力は余りにも「魔」に満ちていた。

 

 

 空間を包む混沌、砕け散る空。鳥は地に堕ち、人は見えない地面に磔にされる。地の底は呻き、天使はただ叫ぶのみ。

 

 書物は捲られ続け、白紙の頁に新たな記述を刻み込んでいく。

 

 

「お赦しを」

「彼を犯したい」

「我が物にしてしまいたい」

「天使様を雌のように啼かせてみたい」

「情欲の履け口が欲しいの」

「背徳の快感を」

「啼きたい」

 

 

 人の想いから魔力を生み出すこの書物は、修道女や神父達の歪み切った願いから魔力を生み出した為に、魔に染まり切ってしまったのだ。

 

「聖」なる信仰を行う為に、罪を赦してもらおう。そう言い訳をして「魔」に染まった彼女達を責める者はいない。その事実を知る者は皆、同じように彼を犯し彼に犯された、「魔」に染まった者しかいないのだから。

 

 

 

「あいされたい。ねえ、あいされたいんだよ。かあさん」

 

 

 

 痛みは増していく。意識は飛んでしまいそうだ。言葉を話すことすら辛い。息も出来ない。

 だけど、そう呟き続ける。唯、僕はあいされたい。あいされたかったんだ。

 

 

 

 彼の世界は、砕け散った。

 

 痛みは引かない。苦しみ悶え続ける。

 辺りは朽ちた楽園が広がっていた。彼に赦しを乞い続けた聖職者達は、砕けた教会の礎となった。目の前には、魔力を解き放ち、輝きを失った書物があった。「愛されたい」という、歪なタイトル。

 

 風に吹かれ、書物は捲られ、最後の頁が顕になった。そういえば、彼は最後の頁を見たことがなかった。

 

 

 忘れもしない文字。彼に似た、少し歪な文字。然れど、彼よりも少し綺麗で、上手な文字。

 

 

 

 

 ──ごめんなさい。私は、貴方を愛したい。けれど、愛せないから。

 

 ──貴方を愛する人が、現れますように。

 

 

 

 其れは、純粋な願い。


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