「……よっし、こんなもんだろ」
何やらにやにやと笑いながら浴場から出てきたラピスの体をバスタオルで拭き終えると、今後これに味をしめることがないよう、俺は釘を刺しておく。
「言っとくが次からは自分でやれよ。今回だけだぞ」
「なんじゃなんじゃケチなことを。このわしの世話を焼けるなど、世に二人とおらぬ光栄なのじゃぞ?」
「代われるもんなら代わってやりたいよ――って、おい。何やってる」
「――ん?」
勝手なことを言いながら、ラピスは入る前に着ていたローライズパンツをまた履き直そうとしている。
見咎めた俺が声をかけるも、何故止められたか当の本人は全く理解してない様子で、間抜けな顔を向けた。
「何じゃ? まさか我が君よ、このまま裸で過ごせと言うか? まったく、我が主の性癖には驚かされるばかりじゃの……」
腹立たしいジト目になりながら、そんなことを言う。
「違うわ、バカ。風呂に入る前に着てたもんをまた着てどうす――」
言いかけて、俺はふと思った。
まあ、体臭に関しては仕方がないが、人間と違って排泄の概念がないこいつに、果たして下着を替えるという作業が必要なのか、という疑問だ。
もしかしたら隠れてしている可能性もあるが、少なくとも俺が知る限り、そういうことをする素振りはなかった。
人間ではないのだし、本当に全く必要ないのかもしれない。
「……んでも、なんか嫌だな。――おい、お前の力で服の替えを作ったりできないのか?」
「……出来ぬこともないが……何故そこまで拘るのかわしには理解できぬのう。まあ、命令じゃと言うなら仕方ない。そこまで力を使うわけでもないしの――ん、ほれ。これでよいか?」
言うや、瞬く間にラピスの掌の上に、二着目のパンツとチューブトップが出現する。
「上下だけか?」
「この衣だけはそう簡単に複製できるものではないでな。やろうと思えば可能じゃが、かなりの力を失うことになるが……」
「ん、まあそれならいいや。それに直接肌に密着してるようなもんでもないしな。んじゃさっさと着替えて部屋に戻ってろ」
「了解じゃよー。……んむ、では先に戻っておるぞ!」
さっさと着替えを済ませると、ぱたぱたと足音をさせその場を後にするラピス。
「――あ、おい! これ忘れて――」
着たのは上下とマントのみで、長手袋とブーツを忘れてしまっている。
俺がそれに気づいて声をかけるも、既に彼女は二階へ上がってしまった後であった。
「……これ、洗っていいもんなのか?」
黒い長手袋は、何らかの滑らかな素材で出来ており、そのまま洗濯機に放り込んでいいようなものには思えない。
それに、手首には羽飾りらしき装飾もある。
洗濯機で洗濯してしまえばボロボロになってしまうだろう。
そしてもう一つ、ブーツの方はといえば。
他の衣服と同じく黒づくめのニーハイブーツは、これまた高級そうな素材で設えられている。
というか、そもそもこういった靴をどうやって洗えばいいのか、俺には皆目見当がつかない。
小学生の運動靴とはわけが違うのだ。
そんなことを考えていると。
ブーツを手に持ち考え込む俺の鼻に、クッキーのような匂いが届いてくる。
……今日散々嗅いだ、あの匂いだ。
そういえば、ブーツってのは物凄くムレるという話を聞いたことがあるな。
しかもあいつはずっと素足だ。それもこの三日ずっと履きっぱなしとくれば……
「……」
俺の脳裏に、冒険心に似た感情が芽生える。
「――いや、何考えてる。そんなことしたらマジもんの変態だぞ……」
………
……
…
「ほら、手袋はそのままにしといたが、ブーツはとりあえずファブっといたからな」
「……ふぁぶ……? ――いや、そんなことより汝よ、妙に時間がかかったのではないか?」
「――ん、ん? ああ、その、消臭剤がなかなか見つからなくてな」
「……んむぅ……汝がそう言うのならばよいのじゃが……」
「――そ、そんなことよりほれ、話の続きだ。何か案があるっつってただろ」
俺はこころなしか早口になり、ラピスに話を急がせる。
何もやましいことは無いのだ。
妙な勘繰りはやめてほしいものだな。
「うむ。わしはこの三日間、何か方策がないものかと考えを巡らせておった」
「以外に殊勝じゃないか。どういう風の吹き回しだ?」
「何を言うておるか。我が主の心を安んじんと、己が力のことを後回しにしてまで思慮する健気な奴隷のこと、少しは労わってやろうとは思わぬのか?」
「そりゃ、これから次第だな」
「なんとも厳しい主じゃことよ……。して、わしの案というものはな、汝よ。まず先に尋ねよう。この問題の根底にあるものは何じゃと思う?」
「何って……お前を人の目に触れさせないために隠し続ける必要がある……ってところだろ。分かり切ってることじゃないか」
「うむ、うむ。そこじゃよ。その前提が無くなれば、問題は一気に解決するのではないか?」
「……話が見えねえぞ。勿体ぶった言い方はやめろ」
「――つまりじゃな、わしの案というのは単純じゃ。汝の学び舎の一生徒となるのじゃよ。――このわし自らがな」
「……」
開いた口が塞がらぬ、とはこのことだ。
「……馬鹿馬鹿しい」
ややあって、俺は呆れたように言う。
「むっ! なんじゃ、何ぞ不満でもあると?」
対するラピスは、明らかに不服そうである。
こいつまさか、本気でそれが可能だとでも思ってるのか?
「――不満とかじゃなくてだな、そんなことできるわけないだろ。手続きやらなんやら、一体どうするつもりだ? 学校に入るとなりゃ、当然生まれや育ちも報告する必要がある。異世界の神様だって言って、んなことが通ると思うのか?」
俺のそんな、当然の反論を、ラピスは一蹴する。
「まったく、くだらぬことを憂慮しおって。そんなことに気が回らぬわしじゃと思うのか?」
……思う。
と言葉に出せば、どうせこいつはまた不貞腐れるんだろう。
「とりあえず、言葉にせなんだのは正解じゃと言うておくぞ?」
……目ざとい死神様には、俺の考えなどお見通しであったようだ。
「わしはな、汝が昼、食事を摂っておる間、汝が通う『学校』とやらについて色々と調べて回っておった」
――そういえば、昼休憩の時はこいつの気配がなかったな。
俺が知らない間に、そんなことをしてたのか。
「この三日、調べを進めておったが、丁度今日のことじゃ。汝らに色々と偉そうに話をしておった連中が集まる場所を突き止めたのはな」
こいつが言っているのは職員室のことだろう。
いくら透明化しているとはいえ、随分と思い切ったことをする。
「さらに隣接された部屋には、組織の長らしき者がおった。それら二つの部屋に置かれておった書物に一通り目を通したわしは、この案を思いついたというわけじゃ」
「色々と言いたいことはあるが……お前、昼休憩はたった45分だぞ。そんな短時間で読める量なんてたかが知れてるだろう」
「はっ……」
俺の言葉を受けたラピスは、完全に馬鹿にした呈で鼻で笑う。
その顔付きはとてつもなく憎たらしいもので、俺はつい手が出そうになるのを必死で堪える。
「あまりわしを見くびるでないぞ? 我が死神の目にかかればな、一度
――言われてみれば、思い当たる節はある。
俺は正直、頭の出来はそれほど良くはない。
成績はまあ、よく言って中の下、といったところだ。
当然記憶力だってそこまでいいわけじゃない。
しかし、この三日間というもの、確かに俺の記憶力は目に見えて向上していた。
具体的には、教師が話すその内容が、ノートに記さずとも全て記憶に残っている。
さらには、開いた教科書のページの内容だって、今すぐ
「……まあ、その辺は分かった。――で、具体的にどうするつもりなんだ」
「うむ。計画というのこうじゃ。まず――」
………
……
…
朝の教室の中で、俺は一人、椅子に座り渋い顔をしていた。
めっきり冬も深まった中で、まだエアコンの温風も十分に行き渡っていない室内は凍えるほど寒く――そのせいで、というわけではない。
昨日の晩から今まで、俺は不安と緊張でロクに眠れなかった。
だというのに
なので俺も同じく、遠慮なしに奴のケツをひっぱたいてやった。
流石に二回目ともなるとそれが俺の仕業であると気付いたようだが、文句を言いたいのはこちらの方である。
とはいえ、今俺が苦い顔をしているのは、そんな些末なことを思い出しているからでもなく、もっと重要な心配事があるからなのだ。
――それは、ここ数日間ずっと俺の傍にくっついている、
「夢野。お前珍しく早いと思ったら随分暗い顔してんな、大丈夫か?」
「一ノ瀬……」
仏頂面を続ける俺へ突如声をかけてきた男。
一ノ瀬 敦(いちのせ あつし)。俺の数少ない友人の一人であり、小学校時代からの腐れ縁でもある。
陸上部に所属する一ノ瀬は、朝練終わりなのだろう、やや汗ばんだ顔を俺に向けている。
「いや……なんでもない。ほら俺、朝弱いからな」
「……そうだったっけ? いや確かにお前、学校来んのいつもギリギリだけどさ。前に一回俺が聞いたらお前、家が近いからつい限界まで寝ちまうんだって言ってたじゃんか。低血圧だとかそんな話は聞いたことないぞ」
「今日突然そうなったんだよ」
「……なんだそりゃ。まあいいや、もうSHR始まるから戻るわ」
そう言って、一ノ瀬は自分の席まで戻る。
丁度そのタイミングで始業のベルが鳴り、やや遅れて担任が教室に入ってくる。
……つい数週間前までは、これが当たり前の光景、変わらぬ平和な日常であったはずなのに。
SHRが終わり、一限目の授業が始まる。
がしかし、俺は教師の話など全く耳に入っておらず、頭の中は別のことで一杯だった。
――話は、昨日のあの時点に遡る。
ラピスの話というのは、以下のようなものだった。
まず、学校が誰かしかを転校生として迎え入れる場合、まず転向前の学校からの書類――その生徒の詳細が記されたものが必要となる。
それに市の教育総務課とのやり取りなどを通じた後、どうたらこうたら。
このあたりは正直、何を言っているのかさっぱりだった。
しかしラピスの方は、今まで市役所にすら行ったことがないくせに――やけに自信満々に、流暢に一連の流れを解説していた。
何故かと問えば、一番偉い人間らしきものが部屋の中一人で居たので、軽い催眠をかけて聞き出したのだという。
……校長もとんだ災難だったな。
粗方必要なことを聞き出した後、必要な書類を死神の力で偽造し。
更に校長の記憶の一部を書き換えることで、本来存在するはずのない転校生を作り出した――
「――っておい! お前、俺が知らない間にそんなことやってやがったのか!? 校長は大丈夫なのかよ!?」
「精神操作はかなりの力の消費を伴うがの、これからずっと透明化を続けるよりはマシじゃ。言わば、先行投資というやつじゃな。――なに、操作といってもごく低級なものじゃ。その後の精神に影響などはない」
まるで悪びれず様子もなくそう言い放つラピスを前に、俺は頭を押さえつつ、言った。
「大体お前……もう手続きは終わらせたって……俺はまだその案によしとも何とも言ってねえぞ。勝手に――」
「ほう? ならば我が君よ、汝にはわし以上の妙案があるとでも? いやいや、さすがは我が主。こんな奴隷の愚案など一蹴する、さぞ素晴らしい一手を用意しておることじゃろうな。いやぁ、これは余計な気を回してしまったようじゃ。して我が君よ、汝が考える秘策とはなんじゃろうか? ぜひ聞かせて頂けませぬかの?」
「ぐ……」
こいつ……!
もちろんそんな案などあるわけがない。
そしてそのことはこいつも重々承知のはず。
それを分かっていて、俺をからかっているのだ、こいつは。
この腹立たしいニヤけ顔を見れば一目瞭然である。
「くっそ……それ、本当に大丈夫なんだろうな」
「わしを信じよ。事前準備に抜かりはないぞよ」
「いや、それはまあ……もういい。もうやっちまった後だからな。それ以外のことだ。生徒になるなら必要なものも結構あるぞ。パッと思い付くのは……そう、制服とか――いや、これはお前の力でどうにかなるか」
「うむ、造作もないことよ。……ほれ、どうじゃ? 帰り際に見かけた者の一人をそのまま真似てみたぞ」
「……」
瞬時に身に纏う衣服を様変わりさせたラピスを見た俺は――不覚にも、息をすることすら忘れてしまう程の衝撃に見舞われる。
深い紺色のブレザーに、緑と黒のチェック模様のスカートという、特に特筆すべき特徴などない、ありふれた制服姿。
がしかし、元々の顔の造形が整い――いや、整いすぎているため、まるで外国の人形のような、ある種作り物めいた印象すら、学生服姿のラピスからは感じられる。
学校指定の制服など、これまで飽きるほど見てきたはずなのに。
着る者が違えばこれほど違うのか、と思わせるものだった。
さらに黒いニーハイブーツではなくローファーを履いた上の、白いハイソックスを履いた腿とスカートとの間には、褐色の地肌がちらちらと見え隠れしており、何か妙に艶めかしいものを感じさせる。
……こいつの肌なんぞ、この数日で散々見てきたはずなのに、何故こうも惹きつけられるのだろう。
「……我が君? どうした、何かおかしなところでもあるかの?」
「ああいや……ゴホン! ――ま、まあいいんじゃないのか。しかしお前、角はどうにかしろよ」
都合のいい勘違いをするラピスに、動揺を悟られまいとひとつ咳払いをした後、俺はとってつけたようにそう指摘する。
「おお、そうじゃそうじゃ忘れておった。こればかりは透明化させ続けるしかないのう。しかしこの一部分だけであれば力の消費は微々たるものじゃ」
「――はあ、覚悟を決めるしかねえか。そんじゃ、明日からはあれか、同級生として接すればいいんだな」
……となると、こいつには俺と他人のふりをするよう言い聞かせておかないとな。
ただでさえ目立つ外見をしているんだ。
人目のある中で、今までのようなやり取りをするわけにはいかない。
特に衆人環視の中、『我が君』だとか『ご主人』なんぞと言われてみろ。
もしそんなことになれば、俺は間違いなく次の日以降登校拒否となるだろう。
「いいや、我が君。それはまずかろうよ」
「……ん? どうしてだ?」
ラピスは若干視線を落とし、少し寂しげな表情になる。
「……わしとしても、出来る事ならそうしたかったがの。しかし残念ながら今のわしの姿では――汝と同い年、というのは流石に無理があろう」
「……まあ、確かにな」
いくらなんでも、この姿で高校生というのは無理が過ぎる。
ギリギリ中学生といって通るかどうか――といったところだ。
「よって汝の学び舎における、最も年齢層の低い者らが集まる階層にと決めた。……わしが残念じゃと言うたのはこれが原因じゃ。……しかし、このままわしが力を失い続け、汝の命を危うくすることは、わしにとっても望まぬことじゃからな……」
「つまり中一か。……まあ、それならギリギリいける――かな」
少し発育の遅い中学生と思えばまあ、そう不自然でもない。
それに日本人離れした外見をしていることもあり、そこで誤魔化すことも可能だろう。
「なんにせよ、実際にそうなってみないと何とも言えないな……」
「なに、形の上では全く問題ないのじゃ。あとはわしのこの演技力でもってすれば容易いことよ」
「今まで俺以外とロクに喋ったことすらない引きこもりの神様が随分な自信ですな」
「言い方ぁー!」
痛いところを突かれ、ムキになって糾弾するラピスの相手をしていると、やがて妹と両親が帰ってきた。
そこからはあまり大声で話す訳にもいかなかったので、明日また昼休憩にでもどこかで待ち合わせをし、事の進展を聞き出してから改めて対策を練る、ということで、昨日のところはとりあえずそこで話を終わらせた。
――そして、一夜明けた今。
俺は深い後悔の念に苛まれていた。
ラピスとは校門のところで別れたのだが、いざ一人になってみると、もっと詳しい打ち合わせをしておくべきであったという気持ちが強く持ち上がってきたのだ。
具体的に言えば、ひっそりと目立たず学園生活を送るための方策を、真剣に考えておくべきだった。
なにしろ――俺はある程度慣れてしまったから自覚に薄れていたせいもあるが――ラピスの外見は、あまりにも目立ちすぎる。
肌の色や髪色もそうだが、角という唯一の違和感を払拭した姿のあいつは……端的に言って、美少女然としすぎているのだ。
幼すぎる外見など問題にならないほどに。
事実、学校までの道程で、老若男女問わず振り返らぬ者はいなかったことが、それを物語っている。
並んで歩く俺の肩身の狭いことといったらなかった。
男の中には俺に殺意をもった目を向ける者までいたのだ。
そこで道中、人目がある中ではあまり話しかけたり親しくしないようラピスに言おうとも思ったが、それに思い至った際には既に学校前で、俺は完全にタイミングを逃してしまった。
……まあ、約束の昼休憩時にでも話せばいい。
場所は体育館裏の目立たない所だから、そこなら人の目を気にせず話せるだろう。
――だが、それが分かっていても、俺には一抹の不安があった。
約束の時間までには4つの授業を挟む。
そして当然、その合間合間には10分ほどの休憩時間がある。
俺の不安とは、その僅かな時間にあいつがここにやってきやしないか、というものだ。
いくら話し合っていないとはいえ、そこまで考え無しではないだろう。
なにしろ冥府の王様であり神様なのだ。それに何万年も生きてきてもいる。
それくらい、ただの人間である俺が言わなくても――
心の平衡を保つため、必死にそんな慰めを自分に言い聞かせ続けていると、一時間目の授業が終わった。
「……」
休憩時間に入り、三分が経過した。
未だ奴の気配はない。
……やはり、考え過ぎか。
最近、俺はあいつを馬鹿にし過ぎていたのかもしれない。
後で会ったら、まあ一言謝ってやっても――
――若干緊張が緩み、そんなことを考え始めた俺の耳に、バタバタと廊下を走る音が届く。
近付いてきた足音は、俺の教室の前で止まり。
……俺は、死を宣告される前の囚人とはこんな気持ちなのか、などと現実逃避を始めた。
「我が君! ただ今参りましたぞー!」
俺はどこか達観した目で、扉を開け放ったその人物に向け、ゆっくりと振り返ったのだった。
万に一つの可能性を信じ、恐る恐る視線を動かすも、そんな都合のいいことがそうそう起ころうわけがない。
振り返った先には、肩で大きく息をしながらこちらを笑顔で見る、予想通りの顔があった。
また、ここまで派手な登場をしておいて、
教室内の視線全てがその人物に注がれるのが、雰囲気で感じられた。
だが、当の本人はそんな周りの奇異の視線などどこ吹く風で、脇目も振らず真っ直ぐに俺の元まで駆け寄ってくる。
「ちょっ……待っ――ぐふっ!」
慌てて椅子から立ち上がろうとした俺へ、両手を広げた姿勢になった女は軽く跳躍すると、勢いをつけたまま俺に抱き着いてくる。
安定を欠く姿勢になっていた俺は、その勢いを
「我が君ぃ! 息災であったか!? わしはもう、文字通り半身が
「……」
――終わった。
俺は、胸に顔を埋め、勝手なことを喚き散らしている女に押し倒された格好のまま、諦念に達しそうになる。
ここで言う女とはもはや念を押すまでもない――ラピスである。
がしかし、このままされるがままになっては、いよいよ俺の学園生活は終わりを告げることとなる。
俺は一念を奮起し起き上がると、コアラのように抱き着くラピスに向け、言う。
「……申し訳ないですが、人違いではありませんか?」
苦しい。
苦しすぎる。
だが、俺のこの言葉で察してほしい。
俺たちの関係をつまびらかにしたくないということを。
俺は必死で、合図のつもりで片目を瞑ってみせる。
――が。
「なにをつまらぬ戯言を言うておるのじゃ。冗談でも笑えぬぞ? それよりほれ、久方ぶりに再開した愛すべき『奴隷』に向け、何か言うべきことがあるのではないか?」
余計事態が悪化した。
周囲の視線がラピスから俺に動いたのが感じられる。
周りを窺えば、クラスメイトの俺を見る目は――まるで犯罪者を見る
そして、その中には。
「……!」
俺が秘かに、ちょっといいなと思っていた女子の姿が。
彼女の目は、汚らわしい畜生か何かを見るが如き、残酷な色を携えていた。
俺はその瞬間、全てをかなぐり捨て、叫び声を上げて暴れまわってやろうという気を起こしかけた。
そして、そんな俺の自棄を止めたのは。
「……おい、夢野」
「一ノ瀬ッ――」
戸惑いながらも話しかけてきたのは、俺の友人、一ノ瀬である。
この上友人にまで絶交されようものなら、俺はいよいよ心の平衡を保つことはできないだろう。
返事を返すより前に言葉を発したのはしかし、俺に抱き着いたままのラピスであった。
「なんじゃ汝は。我が君の知り合いか? 我等が逢瀬を邪魔だてしようというか? ならば――」
「――うおらぁ!」
「じゃわあ!?」
俺は一喝と共に、ラピスの脳天に渾身の拳骨を叩き込む。
短い悲鳴を上げて俺の胸から降りたラピスは、苦しげに頭を両手で
「……う、うぬ? ……あーえっと……夢野。説明してくれるか? なんでお前、中学生――しかも外人の女子と知り合いなんだ?」
「一ノ瀬ぇ……!」
持つべきものは友達。
心の友という、どこかのアニメキャラが言っていた言葉が俺の胸に去来する。
これは千載一遇のチャンスである。
汚名を返上するならばここしかない。
「――あ、アレだ! この子転校生みたいでな!? 今日学校行く途中に偶然話しかけられて!」
「わ、我が君、一体何を――あじゃああ!?」
ラピスの頬を思い切りつねりあげ黙らせつつ、俺の頭は高速回転を始める。
「そ、それで――えーっと……そ、そう! それでな、なんか日本に来てまだ日が浅いらしくてな! 言葉遣いとかも変なのはほら、そのせいみたいなんだよ!」
「そ、そっか……でもお前ら、今日会ったばかりにしちゃやけに親しげじゃないか?」
俺の勢いに飲まれつつも、我が親友はなんとか会話を続かせようとしてくれる。
これはまず間違いなく、クラスメイト達から今後ハブられることのないようにという心遣いあってのもの。
有難くて涙が出そうだ……
「あーいや、それはだな。外国から来てから今まで友達が一人もいなかったらしくてな、ちょっと舞い上がってんだろ。……ははは、いやぁそれにしても外人ってのはコミュニケーションの取り方も違うよなぁ! 驚いちまうよ!」
――相変わらず苦しいが、なんとか話は繋がった。
この話に信憑性を持たせるため、今後何か方策を練らなくてはと思っている最中、またもぞろ余計な茶々を入れようとする者がある。
「お、おい、我が君一体何を言って――」
「おーっと! 休み時間もそろそろ終わりだな! ほら君、そろそろ戻りなさい! 高校と中学は別の棟なんだから急がないと授業に遅れるよ! ――ほれ、さっさと行け!」
「え、ええ――えええ……? わ、わがきっ」
「それじゃあな!」
俺は口早に捲し立てつつ、ラピスの背を強引に廊下まで押し移動させると、音を立てて教室の扉を閉じる。
「いやみんな、お騒がせしました。ほら、俺たちも次の準備しないとな? ――は、はは……」
誤魔化せたかは怪しい。
……怪しいというか、全然ダメな気がする。
周囲の刺すような視線の中、俺はよろよろと自分の席に向かう。
そしてその途中、一ノ瀬が横切った俺の背に声をかけてきた。
「……夢野。後で詳しく話、聞かせろよ」
「……もちろんだ。助かったよ、一ノ瀬……」
……今度、こいつには飯でも奢ってやろう。
――それから休憩時間になる度、俺は教室前で奴を待ち構えることにした。
案の定ラピスは毎回姿を見せ、その度にひと悶着起こしつつも、なんとか俺は奴を撃退し続けることに成功した。
そんなことを三回繰り返した後、やっと昼休憩の時間がやってきた。
約束では体育館裏に集合ということになっているが――
「――あっ!?」
俺は、ここにきて自分がとんでもないミスを仕出かしていることに気付いた。
――
急に頓狂な声を出した俺を、クラスメイト達が訝しんだ目で見る中、一体この後どうすればよいか、俺は必死に思考を巡らせる。
……しかし、そんな思慮の時間は、すぐさま終わりを迎えた。
「我が君ーっ! ”たいいくかんうら”とは一体どこじゃろうか!? 人気のないところで話をすると言うておったが、わし一人ではとんと分からぬでな! 案内してくれい!」
まだ授業が終わって数分も経っていないというのに、大声を張り上げながら教室内に入ってきたラピス。
そして同時に、彼女の言葉を聞いたクラスメイト達の囁く声もまた、俺の耳に届く。
「……人気のないところでって……夢野あいつ、あの子に何するつもりなんだ?」
「何も知らない外国の子に……ていうかあの子、本当に中学生? 小学生じゃないの? ……夢野くんて、ロリコン? ……きもっ」
「……何にしろ最低だよね。死ねばいいのに」
……爆発寸前だった俺の精神は、ついに限界を迎えた。
「――あああああ!!」
頭を抱え、叫び声を上げる俺を皆が蔑視の目でもって見つめる中、俺の肩に手を回し話しかける者が一人。
「――夢野。丁度いいじゃないか。ここでメシ食いながら話、聞かせてもらおうか?」