並んで家に向かう途中、俺はラピスに声をかける。
「……で、結局俺はどうすればいいんだ」
「どう、とは?」
「本だよ、本。意図的だとうとそうでなかろうと、このままそれを鈴埜に返すと不味いことになるんだろ?」
「いいや、それそのものは今や問題ではない。汝にかけられておった呪いは既にあの時、わしが解いておるでな」
――そうか。
言われてみればそうだった。
『最後の会話』の前に、俺にかけられている呪いを断ち切った、なんて言ってたっけ。
まあ、言葉の通りそれが最後、とはならなかったわけだが。
「……ん? ならお前、なんで横から奪うなんて真似したんだよ。もう解けてんなら問題ないだろ」
「我が君よ、少しは頭を働かせんか。そうしてしまえば今後同じようなことが起きたとして、事前に対処できるか分からぬじゃろうが。なに、
ラピスは随分と鈴埜のことを疑っているようだが、俺にはどうしてもあいつがそんなことをする人間とは思えない。
大体、そんな呪いやらなんやらをかけられるほど俺はあいつに恨まれてもいないはずだ。
それより、こいつは今、妙なことを言ったな。
「おい、気になることって――」
「あーっ!!」
俺が聞き返そうとするや、ラピスは突然、頓狂な叫び声を上げる。
「そうじゃ、忘れておった!」
「何をだ!?」
「――らぁめんじゃ!」
俺を見つめるラピスの顔は、まさに迫真といった呈そのものをしている。
「……は?」
「は、ではないわ!! 約束したじゃろうが! それに――ええと、なんという名であったか……おお、そうじゃ! 思い出した! ”ギョーザ”も付けると、わしはしかと聞いたぞ!!」
……頭が痛くなってきた。
つい先ほどまで真面目な話をしていたかと思えば、これだ。
俺は呆れ顔で――対照的に真剣な表情を浮かべる死神に向かい、言う。
「まあ俺が薦めたもんだから仕方ねえけどよ。もしかして、俺があんな匂いのキッツいもんばっか食わせたせいでお前――」
「――その先を口にすれば、どうなるか分かっておろうの?」
――俺はそろそろ、後先考えてモノを言ったり行動する、ということを心に留めておくべきなのかもしれない。
結局、約束していたラーメンに餃子に加え、炒飯までこの死神様に馳走する羽目になった。
………
……
…
中華料理屋を出た時には既に日は落ちかけており、家に着いたのは六時を回るころだった。
ラピスはすぐさま本の解読に取り掛かると言って、今は部屋でその作業中である。
そして俺はというと、一階の台所まで降りてきていた。
戸の向こう側からは、トントンという包丁の音が聞こえる。
俺の目的はその音をさせている人物、妹の花琳であった。
玄関に靴があったので、先に帰宅していることは分かっていた。
丁度この時間はあいつがいつも夕食を作っている時間帯なので、俺は迷わずここに向かったというわけだ。
俺の目的とは、妹にある頼みごとをすることである。
戸を開け、台所に立つ花琳を目に捕らえた俺は、先んじて彼女に声をかける。
「おう花琳、ただいま」
「……」
……あれ?
さほど広くない室内だ。俺の声が聞こえていないはずがないのだが。
そういえば、家に帰った時点で違和感はあった。
俺の帰宅時、あいつはいつも玄関まで出迎えてくれる。
といっても投げやりな「おかえり」の言葉をかけてくるのみだが、それでもこれまで一度だって花琳が先に帰宅している際、妹がそれを欠かしたことはない。
些細な違和感であったので、俺も特に気にしなかったのだが……
「……おかえり、兄貴」
俺がたじろいでいると、ようやく彼女の口からいつもの言葉がかかる。
――が、まな板に乗っている人参を切る手を休めず、目線は下に落としたまま。
……これは嫌な予感がする。一度出直して――
「――なに、兄貴。どしたのさ、なんか用?」
一歩遅し。退路を断たれてしまう。
こうなれば、無視して逃げてしまえば却って事態は悪化するだろう。
それに、花琳がまだ不機嫌だと決まったわけじゃない。
仮にそうだとしても、俺に対してではないはずだ。
今日ばかりは前の時と違い、俺に思いつく負い目はない。
中華料理屋でも、メシを食っていたのはラピスのみで、俺は水しか飲んでいないからな。
ならばと、俺は当初の目的を遂行することにした。
「あー、えっとな。ちょっとお前に頼みたいことがあって……」
「……なに?」
「あっその前に、ほれ。これ、今日の弁当。今日のも旨かったぜ」
「――ん。そこ置いといて」
「ああ」
心なしか、俺から見える花琳の横顔が和らいだ気がする。
今さら言うまでもないことだが、俺の毎日の昼食は全て、花琳手製の弁当である。
ちなみに「旨かった」というのは弁当の空箱を返す際に俺が言う決まり文句であり、これを言わないと露骨に妹は不機嫌になる。
酷いと翌日は日の丸弁当、などという日すらあった。
――話を戻す。
頼みごとをするなら、雰囲気が若干緩くなった今であろう。
「で、頼みごとってのがな――ちょっとお前に余計な負担を強いることになるんだが……もちろん嫌だったら断っても全然構わないし……」
「回りくどいんだよ。今さら一つ二つ面倒が増えたって変わんないよ、何なのさ」
「いや――そのな、弁当のことなんだが。明日から余分にもう一つ、作ってもらえるわけにはいかねえかな?」
「……はぁ?」
「ああいや、もちろんずっとって訳じゃない。ただ――できれば一か月くらいは……」
何故こんな突拍子もない話を俺が始めたか。
これには勿論訳あってのこと。
――訳とはもちろん、ラピスに関わることだ。
今日はあいつの昼食を用意し忘れてえらい目にあったが、よくよく考えると昼食問題は割と逼迫した問題だった。
コンビニか何かで用意するとしても、それを購入する金の出所は当然、俺の財布からだ。
パン一つに飲み物だけの質素なものだとして、一食200円強。
それが一か月ともなると、俺の小遣いではかなり厳しい。
ラピスはそもそも食事が必要ないのだから、用意せずともよい――とはいかない。
そうなれば、あいつはこれからの学校生活で妙な目でもって見られることとなるだろう。
目立つことは極力避けたいのだ。
俺としても、今日のような羞恥プレイはもう二度と御免である。
そこで俺が苦肉の策で思いついたのが、今回の頼み事であった。
これが通れば、当座は凌ぐことができる。
もちろんずっと妹に負担をかけるわけにもいかないので、そのうちバイトでもして金の問題はなんとかするつもりである。
「……理由を聞いてもいい? まさか兄貴が二人分食べるわけでもないんでしょ?」
「ああ、そりゃな。いやほれ、一ノ瀬のためにな。――お前も知ってるだろ?」
「知ってるけど、あの人がどうかしたの」
「いやぁそれがな、あいつも弁当組なんだけどよ、あいつの母さんが何かの病気で入院しちまったらしくてさ。暫くは学食かコンビニ飯らしいんだよ。可哀相だしよ、お前さえよけりゃ、退院するまではあいつにも自慢の妹の弁当を食わせてやろうかなって思ってさ」
最後のは多少わざとらしかったろうか。
それに、理由としても苦しさはどうしてもある。
が、そもそもダメで元々のつもりなのだ。
断られたら仕方がない、と楽観的に俺は
「ふぅん……そっか。――兄貴、ところでさ」
ここで初めて、花琳は俺に顔を向けた。
続く花琳の言葉を聞いた、その時の俺の気持ちをどう例えたものか。
一言で言えば――「やっちまった」である。
ついさっき、物事はよく思慮すべしと心に誓ったばかりだというのに……
「私さ――帰り道、鈴埜ちゃんに会ったんだよね」
――おかしい。
何故ここであいつの名前が出てくる?
それも、よりによって今日、このタイミングで。
「す……鈴埜に?」
「途中まで一緒に帰ってね? 面白い話も聞いたよ」
花琳は薄い笑顔を顔に張り付けたまま、声だけは愉快そうに続ける。
……しかし、何故であろうか?
片手に持つ包丁を、未だ手放していないのは……
「兄貴さぁ――なんか最近、仲がいい女の子がいるんだってね?」
「……」
まずい。
まずいぞ。
ラピスのことは折を待って妹にも伝えるつもりではあったが、今ここでとは予想もしていなかった。
突然すぎて頭が回らず、俺の思考は空転するばかり。
「あ、いや、それは、えっと――」
「それも小学生みたいな小さい子なんだってね、しかも外国人だって? 鈴埜ちゃん言ってたよ。すっご~く仲良さそうだったって。やるじゃん、兄貴」
――鈴埜おぉぉぉぉ!!
あいつ、どこまで話しやがった!
「いやぁ、いいんだよ別に私はさ? 全然モテなかった兄貴に彼女ができそうだなんて、妹として素直に祝福してあげるよ」
素直に祝福する気があるなら、何故そんな深みのある笑顔をする!?
「でもさぁ……」
一言呟いて、ゆっくりと花琳は俺の方向へ一歩踏み出す。
右手には未だ包丁が握られたままである。
その表情には微笑を浮かべているものの、目までは笑っていない。
「妹としてはさ、あんまり身内が恥ずかしい真似をするのは困るんだよねぇ。何も知らない外国人の子に、なんだっけ――『ご主人様』とか呼ばせるなんてのは――」
さらにこちらに近づきつつ、抑揚のない声で言葉を続ける花琳。
そしてとんでもない聞き間違いをしている。
いや、意味としては同じようなものだが……
「ちっ、違う違う違う!! そんな呼ばせ方はしてな――」
「へぇ。本当のことだったんだ……?」
「あ゛っ……!」
またもやってしまった。
この場においては、そもそも鈴埜の話はまるっきりのガセだと、そう言うべきだったのだ。
後悔先に絶たずとはよく言ったもの。
「うっ……」
眼前にまで迫った花琳。
その表情からは、ついに形ばかりの微笑すら消えてしまっていた。
「――スマホ」
「えっ……」
俺の目をじっと見つめながら、花琳は一言。
その意を即座に察せぬ俺は、戸惑いの声を上げるが、間を開けず妹は続ける。
「兄貴。スマホ、出して。早く」
「あっ……ああ……」
なんのためだ、と聞くことはできなかった。
俺は妹の剣幕に押され、言われるままにポケットから取り出したスマホを渡す。
「――あっ、花琳。ロックかかってっから指紋認証で――」
「いい。番号知ってるから」
「そ、そっか」
……ん?
どうしてそれを知ってる?
たとえ家族とはいえ、そこまでは伝えていないはずだが……
「……メール……通話記録もそれらしいのはなし、か。ふーん……」
――なるほど、合点がいった。
花琳は今、鈴埜から聞いた女子と俺との親密度を測ろうとしているのだ。
となれば、その点については心配することはない。
ラピスはもちろんスマホなどは持っていないため、いくら調べようと何も出てくるはずもない。
俺は態度には出さず、ほっと心の中で胸を撫で下ろす。
がしかし、そんな俺の心を見通したかのように、妹は視線をスマホから俺へと戻すと、再び鋭い視線を向けた。
「……ま、そのあたりは今度また確認するとして――」
今度は何を言うつもりだ……?
俺が身構えていると、花琳はぐっと顔を近づけてくる。
血筋とはいえ、黒目の小さい三白眼でもってこう迫られると、とても女とは思えぬ迫力がある。
鼻と鼻が触れそうなほどに接近した花琳は、瞬きひとつせず、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「兄貴。確認するけど、弁当って、
「あ、ああ……! も、もちろんだ!」
「本当に本当? もし嘘だったら――」
ぴとり、と俺の首筋に冷たい
鋭い視線に射竦められている俺はその物体に視線をやることはできなかったが、この状況ならば確認せずともわかる――包丁の背部分だ。
……刃の方でなくて良かったと思うべきか。
「――ほ、本当だ!! 嘘なんかじゃない!」
だからその手に持ってるものを下ろしてくれと、俺は心の中で叫ぶ。
「……じゃ、今から一ノ瀬さんに確認しても、大丈夫だよね?」
「あ、いや、それは……ううっ!?」
ぐぐっと、首筋に押し当てられた包丁に入る力が増す。
「大丈夫だよね? だって兄貴、嘘なんかついてないんだもんね? まさかあたしに嘘ついて……他の女の子のために利用しようなんて、そんなことあるわけないよね?」
――万事休す。
スマホの中には当然、一ノ瀬の番号が登録されている。
この場で改められれば、あいつが余程機転を利かせられる男でない限り、俺の嘘は即座に露呈してしまうだろう。
さりとて確認しようとするのを止めれば、それもまた俺の言葉が嘘だったと自ら白状するに等しい。
「――じゃ、電話するね」
死刑宣告に等しい言葉とともに、妹の指が液晶を滑る。
目的の番号を見つけたのだろう、人差し指を一度浮かせ、最後の引き金を引――
………
……
…
「……なんじゃ、我が君。何故そんな疲れ切った顔をしておる」
戻った俺の顔を見たラピスは訝しげに言葉をかけてくるが、俺はそれどころではないとばかりに無視し、懐からスマホを取り出す。
結局、妹が事の真偽を確認することはなかった。
花琳の行動を止めたのは、俺ではなく、母親だった。
まさに絶妙なタイミングで帰宅した母は、台所で密着する俺たちを見るや、ことの詳細を問いただした。
花琳も、流石に親の前でまでは俺に強く迫れないとみえ、俺はその後母へ説明をする中、タイミングを見計らって抜け出してきたのだ。
「……一ノ瀬かっ!?」
この九死に一生を得たチャンスを無駄にしないよう、部屋に戻った俺はすぐさま一ノ瀬へ電話をかける。
目的はもちろん、妹への口裏合わせだ。
迷惑げな一ノ瀬を説き伏せ、俺はなんとかその目的を果たした。
「――はぁ~……」
俺は憔悴しきった顔で、その場にへたり込む。
……本当に、今後こそはマジで、絶対。
考え無しに行動するのはやめよう。
「……我が君よ。何があったかは知らぬが、そろそろ話をしてよいか?」
「ああ……なんだ話って……」
怪訝な顔付きをしたラピスに、俺は疲れ切った顔を向ける。
「何ではなかろうよ。調べは大方済んだぞ」
「随分と早いな」
俺が下でひと騒動起こしている間、ラピスは本の解読を進めていたらしいが、時間にすれば20分も経っていない。
「だから言うたであろう。わしの智謀をもってすれば、こんなことは容易いことじゃとな。どうじゃ、見直したであろう」
そういう余計な一言が無ければな。
ふふんと得意げなラピスは、機嫌よさそうに言葉を続けた。
「さて我が君よ。わしは先ほど、気になることがあると言うたよの」
「ああ、俺も聞こうと思ってたんだ。なんだ、気になることって」
「うむ、順序だてて話そう。話はわしらの邂逅からになるが」
「構わねえ。分かったことは全部話してくれ」
情報はできるだけ細部に渡るまで共有しておいた方がいい。
今回のことに限らず、俺たちは命を狙われている立場だということを忘れてはならないのだ。
「そもそもの話になるがの。世にはそれこそ数え切れぬほどの次元が存在する。汝の次元とわしのおった世界の次元がたまたま繋がることなど、万に一つの可能性では利かぬほどの、ほとんど奇跡とすら断じてよいものじゃ。それも汝のような、そういった術に長けておるわけでもない人間となど――まず有り得ぬことよ」
「まあ……そりゃそうだろうな」
そんなもの、それこそ宝くじの一等に当選するより低い確率だろう。
「――がしかし、特定の条件を満たさば、それでも奇跡のような確立には変わりないとはいえ――僅かに可能性を上げることはできる」
「それが、この本に関係してるってわけか」
「その通りじゃ。次元同士を繋ぐに最も手っ取り早いことは、目的とする地でもって、元の次元との
「おい……なら、まさかそれ……」
「あの鈴埜というこむすめにそんな力があるようには思えぬ。であるならば、じゃ。即ち――」
話が嫌な方向に流れるのを俺は感じていたが、そう思っても事実は変えることはできない。
ラピスは一度言葉を切ると、改めてはっきりと、言った。
「何者かが力を貸したに違いない。それも、元々わしがおった次元に属する、何者かがな」