夢野
俺の妹。中学三年生。
ブリーチで染め上げた長い金髪に、校則で禁止されているはずのピアスを耳に空けたその姿を見れば、10人中が10人、いわゆるヤンキーという言葉が想起されるだろう。
さらに吊り目がちな上、黒目の小さい、俗に言う三白眼――もっともこれは生まれつきであって意図的なものではないとはいえ――をしているとくれば、もはや何をかいわんや、である。
その妹が今、まるで待ち構えていたかのように玄関で腕を組み、俺を睨みつけている。
「――お、おお。花琳……帰ってたのか」
妹の機嫌を窺う意味でも、当たり障りのない会話でまずは探りを入れようとするが。
「――兄貴。ちょっと聞きたいことあんだけど」
その目論見は一撃で粉砕された。
「ど、どうした?」
しまった。
つい噛んでしまった。
益々花琳の視線が鋭くなる。
このタイミングで妹が『聞きたいこと』など、思い当たる節は一つしかない。
まさか、バレたのか。
あの死神め、奥の方だったから大丈夫だとか抜かしてたくせに……やっぱり貧乏神だ、あいつは。
そうだとするならば、何か言い訳を考えねば――捻り出さなければ。
ここを穏便に切り抜けられるだけの、尤もらしい理由を。
「……ニンニクの匂いがする。……兄貴、どっかで晩御飯済ませてきた?」
「――は?」
が、しかし。
妹の口から出てきたのは、思いがけない台詞。
「あ、ああ……いや、その、なんだか急に中華が食いたくなってな、はは……」
適当な理由を口に出しつつ、俺は秘かに胸を撫で下ろす。
どうやら服の持ち出しの件はバレていないようだ。
――が。
ことによると、そのほうがよほどマシだったのかもしれない。
「そんなの言ってくれればあたしが作ってやるよ。それとも、なに? あたしの作る中華なんて食えないっての?」
妹の目に、炎が宿るのが見えた。
「い、いいいや、決してそういうわけでは……」
しまった。もっと言葉を選ぶべきだった。
夢野家の両親は共働きで、二人そろって帰宅は夜遅く、夕食作りは妹に一任されている。
花琳が小学生の時までは二人で外食ばかりであったが、ある時を境に、妹は急に家事に目覚め始めた。
今では炊事洗濯、それに掃除といった家事の一切合切を全て、花琳一人で切り盛りしている。
鈴埜の台詞ではないが、無精者の俺に代わり、花琳は本当によくやってくれている。
俺自身、そのことについては常日頃から感謝しきりであった。
――しかし、ちょっとした問題がないでもない。
毎日の日課になっているおかげか、花琳の料理の腕前は今やかなりものであり、俺も味についてあれこれ言うこともなかった。
第一手伝いの一つもしない俺に文句のつけようなどあろうはずもない。
問題というのは、妹の料理を俺が少しでも残そうものなら、それはもう烈火の如き怒りでもって俺に詰め寄ってくることだ。
その後は数日に渡り完全無視を決め込み、俺がどんなに謝ろうと怒りが収まるまでは一切の口を利いてくれなくなる。
またその間、家事すらしてくれなくなるので、その間俺が代わりに不慣れな家事の一切を行わざるを得なくなるのである。
料理関係は細心の注意をもって接すること。
この大前提を、ここ数日の騒ぎにかまけて俺はすっかり忘れてしまっていた。
「外で食べるにしても、なんであたしを誘わなかったの? 今までこんなこと無かったよね。ここ数日でもう二回目。一回目は見逃してあげたけど、こう立て続けにされちゃね……」
畳みかけられる。
「あ、ああー……いや、それはだな……」
「……兄貴さ、なんか隠してない? 隠してるよね? いいよ、答えたくないなら身体に聞く」
俺の視線は、花琳の身体、そのある一点に集中する。
先ほどから気になって仕方がなかったもの。
彼女が右手に持つ、木刀にである。
元はといえば俺が中学の修学旅行の際、一時の気の迷いで購入してきたものだ。
今から思えば、なんという馬鹿な真似をしたものか。
鬼に金棒を与えるようなものではないか。
これを花琳が持ち出すときは、決まって怒りが頂点に達している時なのだ。
「あ、あの……花琳さん?」
俺の呼びかけにも応じず、ずるりと伸び来たる木刀の刀身が、俺の首筋に触れる。
赤樫の冷たい感触が、心腑の底まで届いたかに感じた。
「お、落ち着けって。とりあえずさ、その木刀を仕舞おう、ね?」
冷や汗をかきつつ必死に宥めすかす俺の言葉にも、花琳は全く取り合わない。
「おいおい兄貴、今木刀は関係ねーだろぉ? あたしが質問してんだからさぁ、それに集中しなよ。どうしたのかな兄貴、もしかして木刀背負わされるような、何か後ろめたいことでもあるのかな?」
「な、ないない! 後ろめたいことなんて何もない!」
嘘である。
がしかし、この上妹の怒りを買うような真似をすれば、それこそ間違いなく俺の命の弦が危うい。
「ふぅん……そう。そうなんだ。あたしに嘘をつくんだ?」
「だから違っ――」
妹の目から光が消える。
いよいよもって猶予はない。
力の消失がどうとかの前に、このままでは実の家族に殺されてしまう。
どうにかしなくては。
これまでにないほど思考を高速回転させた俺は、ある一つの考えに至る。
それが果たして事態を好転させる結果になるか。
思慮する時間はもはやなく、考えるより先に言葉が突いて出た。
「お、お前ももうそろそろ受験に向けてスパートかけなきゃいけない時期だろ!? だ、だからほら、これ!」
俺は手に持つビニール袋を妹の眼前に差し出す。
「……うん?」
訝し気な視線を送る妹へ向け、俺は言葉を続ける。
「家事はお前に任せっきりだからな……。毎日飯の用意までしてくれて、本当に感謝してるんだ。でもそのせいでお前、なかなか勉強する時間も取れないだろ? だからほら、たまには休ませてやろうと思って、帰り際コンビニで買ってきたんだ」
もちろんこれも嘘である。
ラピスは命を長らえる糧にはならないとは言っていたが、もしかしたらということもある。
そんな一縷の望みをかけ、帰り際に食べ物を少しばかり購入していた。
「……」
数秒の沈黙。
「……でも、だったら、なんであたしを誘わなかったんだよ」
気持ち声色が穏やかになった気がする。
畳みかけるならば今である。
「いやほれ、あの中華料理屋けっこう遠いだろ? 少しでもお前には勉強する時間を持ってほしくてな」
……どうだ?
――やはり、言い訳としては苦しいか?
こいつはそこまで思い至ってないようだが、ここでもし『それなら何故前回は買ってこなかったのか』と追及されれば、もはや俺に弁解の余地はない。
ここは追撃の手を緩めず、さらに何かを言うべきかもしれない。
――だが、どうやらそれは杞憂に終わったようだ。
「……そ、そう。そっか。そんなに兄貴、あたしの受験のこと気にしてくれてたんだ」
手ごたえあり。
俺からふいと目を逸らした妹の頬は、僅かに桜色に染まっている。
勉強を後押しする兄。この線で攻めるしかない。
「そ、そりゃあもちろん、あたりまえじゃないか! お前、俺の高校受験すんだろ? ウチの学校、中学と比べて高校からってなるとなかなか難しいからな」
「――わかったよ。そういうことなら、いい。……許したげる」
助かった。
生還した。
九死に一生を得た。
一時はどうなることかと思ったが、山は越えたようだ。
「でもな兄貴。メシがいらないなら前日のうちに言ってくれよ。食材が無駄になるだろ」
「あ、ああ。すまん。次から気を付けるよ」
服は後でこいつが部屋に居ない隙を狙って戻しておけばいい。
どうやら今夜は、なんとか何事もなく過ごせそうである。
「そんじゃあたし、風呂入ってくるから。兄貴も後で――」
ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間。
またも花琳の目が鋭くなる。
「お、おい、花琳?」
先ほどと違うのは、彼女の視線が俺の方を向いていないということ。
視線の先を追えば、俺のやや後方、何もないはずの空間に向いていることだ。
そのまま無言で一歩踏み出し、俺の真横に立つ形になるや否や、妹は木刀を振りかぶり――
「……ふっ!」
何を思ったか、思い切り床に叩きつけたのである。
「……」
「……花琳さん? ど……どうしたんですか?」
思わず俺は、本日二度目の敬語になってしまう。
またぞろ何か過失をしでかしてしまったのか。
「……いいや。何でもねーよ。勘違いみたいだ。あ、兄貴。その床直しといてな」
しかし花琳はそう言い捨てるや、俺の手からビニール袋を奪うと、さっさと姿を消してしまう。
「……」
去っていく妹の後ろ姿に、俺は何をも声をかけることができず、ただぽかんと立ち尽くすのみであった。
「一体何だったんだよ……ていうかこれ、どうやって直せってんだよ……。母さんと父さんに何て言えばいいんだ……」
嵐が去った後のような玄関で、俺はそう嘆く。
そして無残に凹んでしまったフローリングを一瞥するや、こめかみに痛みが走るのを感じる。
「……仮にも神様がこれかよ……」
俺は頭を押さえつつ、またも深い嘆息を漏らす。
妹が破壊した床。その周辺に、水溜まりらしきものが広がってゆくのが見えたからである。