「……それで? まずお前がなんで元に戻ってるのか説明してもらおうか。あの影については……まあ逃げちまったもんは今さら仕方ねえ。それに何にしろ、お前のお陰で助かったのも事実だしな」
「それなら最初から許してくれればよかろうに……」
「……何か言ったか?」
小さく呟くラピスへ、俺は鋭い視線を向ける。
「――な、なんでもないんじゃよ!? え、ええとじゃな、その前に、まずこの空間が何なのかという説明からせねばなるまい」
「前のお前ん時と同じだろ? もう慣れちまったよ」
「いいや。確かに似てはおるが、それはちと違うぞ、我が君よ」
「……違う? でもどう考えても俺のいた世界とは違うだろ、ここ」
「うむ、それはそうなのじゃがの。以前と違うのはな、今回のものこそ、まさに前回汝が勘違いしておった『夢』の世界に他ならぬということじゃ」
「何? てことは、この鎖も……」
「然り。現実のことではない。ゆえに汝が目覚めれば、その部分に傷の一つも残っておらぬはずじゃ。例の本を解読した際、この手の術理が施されていることは分かっていたでの、汝の寝入った後様子を窺っておったというわけじゃ」
どうもラピスは寝てからの俺をじっと見張っていたらしく、呪いの発動を察知してこの世界――俺の夢の中に乗り込んできた次第らしい。
その後もう少し詳しい説明がなされ、俺はようやく事の全容を把握できた。
ラピスの話を簡単にまとめると、これは夢の中の世界だから、どんな無茶なことでも起こすことができる、ということらしい。
つまるところ、目の前に鎮座する元の姿のラピスは、単に俺が自分の夢で見ている幻、というわけだ。
「てことはアレか、
「いいや? あくまでこの世界の中だけにおいては、わしはかつての力を有しておるよ。
「……ん? ならお前その気になりゃ、今からでもさっき逃げた奴を追いかけることだって出来るんじゃないのか?」
幼女化してからのこいつからは想像もできないが、実際のところ、死神の力というのは凄まじいものだ。
それはほんの一瞬とはいえ、実際に体験した俺がよく知っている。
力が戻っているという言葉が真実であれば、先ほどの影を追跡することなど容易いことだろう。
「ん……んう、ま、まあ……それは、出来なくもないがの……」
俺はそう思うのだが、どうもラピスは乗り気でないらしい。
ラピスは俺から視線を外し、ごにょごにょと要領を得ぬ言葉遊びを繰り返すばかりだ。
「そのぅ……なんというかじゃの。……いや、例の本にかけられた呪いからして、大した相手ではないということは明らかではあるのじゃぞ? し、しかしの。万が一ということもある。あの者らのように、何がしかわしに対する切り札を有しておらぬとも限らぬし、そうした相手を想定するならば、軽挙妄動は当然慎むべきで……そう考えると、わし一人で追うというのはやはり……」
「……はぁ?」
どうも無理やり俺の提案を拒否すべく理由を探そうとしているような、そんな素振りに見える。
その証拠に目は泳ぎ、口から出てくる言葉も一貫性がない。
「いや、汝が共に、というならわしもやぶさかではないが……とはいえ、この世界は現在、その鎖という一点を元に成立しておる部分がある。ここでそれを解呪することは容易なことではあるが、そうすると奴を今後追う術が無くなってしまうでな……。となれば、奴を追うならば汝をここに置いてということになってしまうわけで……わしとしてはそれはそれで心配というか……守るべき主を残してなど言語道断というか……」
「お前……」
薄々感じていたことだが、ここにきてようやく確信が持てたことがある。
俺は目の前の死神へ向かい、それを言葉にしてやることにした。
「お前……実はすげえヘタレだろ」
一瞬、俺の言葉の意味を測りかねた様子で呆けたような表情を作ったラピスであったが。
次の瞬間には顔を真っ赤に茹で上がらせ、俺に食ってかかるような剣幕で喚き始めた。
「へっ……へへへ、ヘタレじゃとーーーっ!? こ、このわしを、冥府の王であるこのわしを、こともあろうにヘタレ呼ばわりとはどういう了見じゃ!? 我が君といえど言ってよいことと悪いことがじゃな――!」
「いやだってお前、なんか俺が心配だとか色々理由付けてるけどさ、つまるところ心細いだけだろ?」
「ぐむっ……! そ、そんなことは――」
何のことはない。
つまりこいつは、ただ怖がっているだけなのだ。
まあ、それだけ酷い目に合わされてきたってことなんだろうし、そう思えば無理からぬことではあるが……。
だが、それにしても、と思う。
「俺はお前の力をちょっと体験しただけだが、あの時から実はおかしいと思ってたんだよな。あんな力があるならよ、あいつらを倒すことはできないにしても、逃げることはできたと思うんだよ。俺は実際にその場面を見たわけじゃないけどな、どうせお前、予想外の事態に気が動転してたんじゃないのか?」
「う……うぐぅぅ……」
「いやまあ、そりゃ出会い頭いきなり剣を突き立てられりゃ驚くだろうし、恐ろしくもなるとは思うぜ? でもよ、あんな力があってされるがままなんて、どうにも理解できないっていうか……考えられるとすりゃ、お前があいつらにビビりまくってたせいで――って、おい?」
気付けば、俺の目の前から彼女の姿が消えている。
視線を下に動かすと、果たしてラピスはそこにいた。
何故か両脚の膝を立て、それを両腕で覆った――俗に言う、体育座りのポーズで。
「お、お~い……ラピス?」
「……」
顔を両腕に沈み込ませているラピスの表情は、俺からは伺い知れない。
がしかし、俺の言葉が聞こえていないわけでもあるまいに、それでも返事を返さないところを見れば、明らかに気分を害していることは明白である。
「ど、どうした? ほ、ほら、そろそろこの状況をどうにか――」
「……知らぬ」
「へ?」
「――知らぬったら知らぬ! なんじゃなんじゃ、好き放題抜かしおって! そんなに言うなら汝が自分でなんとかするがよかろうよ!」
顔を埋めたまま、ラピスはそう言い放つと、それきり一切何も喋らなくなってしまった。
俺がこの突然の変化に付いていけず、暫し呆然としていると。
「……ぐすっ……」
俺の耳に、小さく鼻をすする音が届く。
「ええ……」
――こいつ、泣いてやがる。
マジかよ。打たれ弱いにも程があるだろ。
この精神面の弱さを鑑みるに、先ほど言いかけた俺の予想は恐らく当たっている。
そう思えば、普段のあの居丈高な態度も――もちろん元の性格もあるのだろうが、精神的な脆さを隠すためという側面もあるのだろう。
だとするなら、先の俺の言い方はあまりに無遠慮というか、少しこいつを買い被りすぎていたものであったかもしれない。
「ああもう、分かった分かった。ちょっと俺も言い過ぎたよ」
「……」
むっつりと黙り込んだラピスの周囲には、見て分かるほどに負のオーラが渦巻いている。
幼女の姿ならばそうでもないが、いい大人の状態でここまで情けない姿を晒されると、見る側としてはいたたまれない気分になる。
今や顔まで完全に覆い隠され、ただの真っ黒な塊と化したラピスに向け、俺はフォローの言葉を続ける。
「いやほれ、ああは言ったが、もちろん感謝してるんだぜ? わざわざ俺のためにここまで助けに来てくれたんだろ? お前がいなきゃ今頃どうなってたことか」
「……」
……むう。
反応がない。
やはり少々わざとらしかったか。俺は演技力がある方でもないしな……あまり回りくどい方法は逆効果かもしれない。
ならばと、俺はもっと即物的な方向に舵を切ることにした。
俺は中空に向かい、あたかも独り言のような風を装いつつ声を出す。
「こんな献身的な奴隷を持って、俺はほんと幸せ者だなぁ~。こりゃ主人としては、なんか褒美でも出すべきなのかなあ?」
「……っ」
――おっ。
今、少し反応があった。
この方向で舵取りを続けるのが正解のようだ。
「でもなぁ~。褒美ったって、誇り高き死神様が何を欲しがってるかなんて分からないしなぁ。 ……ああいや、それにそもそも、そんなの元々欲しがってないって可能性もあるよなぁ? ただの人間である俺なんかからじゃなあ?」
「――ッ!」
ラピスの体が大きく跳ねた。
俺は彼女から視線を切り、何もない空間に向かい続ける。
あと一押しといったところだろうか。
「仕方ないよな。じゃあ俺一人でなんとか――」
ぎしりとベッドを揺らしながら、俺の目の前に腰を下ろすものが目に入り、俺は言葉を切る。
「……」
もちろんそれは言うまでもなくラピスであり、黙って俺を射竦める彼女の目は、やや腫れていた。
「……よう」
「――ふんっ」
俺がとりあえずといった感じで出した声を聞くや、わざとらしくぷいと顔を背けるラピス。
「おーい、まだ怒ってるのかよ。悪かったって言ってるじゃんか」
「……心がこもっておらぬ、心が。そんな形ばかりの謝罪などお見通しじゃ、聞く耳持たぬ」
変わらず俺から顔を背けたまま、ラピスは言う。
聞く耳を持たないなら、何故俺の目の前に移動する、とはもちろん口には出さない。
もしそう言えば、この面倒くさい死神はいよいよ臍を曲げてしまうことだろう。
しかし、この姿のこいつを見たのは数日ぶりだが……。
やはり、悔しいが俺はどうしても見蕩れてしまう。
顔を背けている今、見えているのは横顔のみだが、そのすらりと伸びた鼻筋や、閉じた目から伸びる長い睫毛。
肌には染み一つ無いばかりか、毛穴までも存在していないのではないかと思われるほどに艶のある、美しい褐色である。
先ほどさんざ貶した俺だが、この横顔を眺めているだけでも、目の前の人物が人ではない、およそ高次の存在であることははっきりと理解できる。
「……なんじゃ、言い訳は終わりか?」
ただ呆けて彼女を見ていただけの俺をどう勘違いしたのか、ラピスは黙る俺に辛抱を切らしたようで、自分から口を開いた。
開かれた緋色の瞳が、再度こちらを向く。
「あ、いや……」
「言っておくがの、わしは本当に怒っておるぞ。まさかわざわざ助けに来て、こうまで遠慮なしに貶されようとは思いもせなんだわ」
「いや、だからな、それは――」
「じゃがの。ことによれば、先ほどの無礼を忘れてやってもよいと、わしは思うておる」
それまでのむくれ面から一転、邪悪な笑みを浮かべ始めたラピス。
その笑顔は、これからとんでもない事態を引き起こすであろうことを、十分に予感させるものだった。
そしてその予感は果たして、次の瞬間にも現実のものとなる。
「くっく……まったく、汝は本当に、後先を考えぬ男よのう? わしは以前言うたよの? 人の発した言葉には力が宿る、と。わしはしかと聞いたぞ。褒美を授けるとな?」
俺は、どうしようもない馬鹿だ。
この24時間のうち、何度同じ後悔を繰り返すのか。
ラピスの心底嬉しそうな笑顔を見ているうち、ふと学校帰りに彼女が言っていたことを思い出す。
半ば不意打ちのような形で言質を取られた、例の約束事。
『力が戻った際は、わしに汝の――』
背に、ぶわと冷や汗が噴き出るのを感じる。
「この姿に戻れた際には、どうしても汝にはしてほしいことがあった。それを今回の褒美兼、わしへの詫びとしてもらおうかの?」
「い、いやいや、待て! さすがにそれはまだ早――」
「あの時は断られたがの。今ならば汝もそう邪険にはすまい?」
「……え?」
予想していたものとは違う言葉が発せられ、俺は戸惑いを含んだ声を出した。
「あの時、わしは汝に、抱き締めてくれと頼んだ。覚えておるか?」
「あっ……」
それは、かつて俺との別れを覚悟したラピスが、最後の願いとして俺に望んだこと。
だが、知っての通り、その願いが叶えられることはことは無かった。
他ならぬ、俺の手によって。
「まったく、あの瞬間のわしの心の内といったら、見せられるものならば見せてやりたかったわ。やはりわしはまた裏切られるのかと、自棄になって汝を殺してやろうかとすら思うたぞ」
おいおい、呆けた顔しておいて、内心そんなこと考えてやがったのか。
あの時、即座に行動を起こしたのは正解だったな。
「……まあ、後の汝の行動を見て、結局わしは更に心を奪われてしもうたのじゃがな。まったく、罪な男よ」
ラピスはそう言って小さく笑うと、再度俺の目を見ながら言葉を続けた。
「さて。夢の中というのが少しばかり不満ではあるが――まあ、現実に元に戻れた際には再度所望することとしよう。――ほれ」
言って、ラピスは半身分、身体をこちらに寄せた。
その様を見れば、俺にどんな行動を求めているかは明白である。
だが、彼女の求めているものが何であるかを察しながらも、未だに踏ん切りの付かない俺に向かい、ラピスはやや悲しげな声になり、言う。
「……まさか、今回も断ると言うのか?」
……卑怯だ。
そんな――目を潤ませながらの、その言葉は。
やはりこいつは死神ではなく悪魔だなどと、心の内で小さく毒付きつつ、俺は。
「あっ――」
自由になる左手を彼女の肩に回し、引き寄せる。
小さく喉から声を漏らしたラピスは、そのまま抵抗することなく俺の胸に抱かれた。
露出過剰な幼女状態とは違い、全身を衣服で覆われているおかげで、俺の肌に届く感触はローブのそれのみであったが、ローブ越しであっても、その下にある柔らかな肉の感触がしかと伝わってくる。
更にはふわりと、それまで嗅いだことのない甘い香りまでもが俺の鼻を
俺はたまらず、何故か一言も発さないラピスへと声をかける。
「……おい、何か言えよ」
その声に反応して、俺の肩に顎を乗せている状態のラピスから声が上がる。
表情は見えずとも、その声は満足そうで――まさに至極の至り、とでも言いたげな色を浮かべていた。
「ふふっ……。わしから抱き着いたことはあれど、汝からこうして抱き寄せられるのは初めてのことじゃからの。望外の喜びに、つい声を出すのも忘れてしもうたわ」
声と共に吐き出される吐息が、俺の耳に当たる。
温かなそれは、くすぐったくもありながら、全く不快ではない。
どころか、吐息のかかった部分がそのまま蕩け落ちそうな、そんな危険な甘ささえ
声をかけたのは悪手だった。
俺はますます身体を硬直させ、微動だにできなくなってしまった。
形の上では彼女を抱きしめているのは俺だが、これではどちらが抱かれている方なのか分からない。
「くくっ……。汝はやはり
さっきまでガキみたいにすねて泣いていたくせに、ものの数分も経たぬうちに余裕たっぷりな態度に変貌している。
悔しさが俺の心を焼くが、実際こいつの言う通りなのだから反論のしようもない。
「しかし、わしも人のことは言えぬかの。するのとされるのとで、こうまで違うものだとは思わなんだ。かつては果たして動いているのかすら不明瞭に感じたわしの心臓が、今や張り裂けんばかりじゃ」
……頼むから、少し顔を離してくれないか。
このまま耳元で囁かれ続けたら、そのうち本当にどうにかなってしまいそうだ。
だがしかし、それを口にすることは、何故か――出来なかった。
「――いかんの。我慢しようと思うておったが、どうにも堪え切れそうにない」
硬直を続ける俺へ向かい、更に熱さを増した吐息がかかる。
今や俺の耳は溶けて無くなっているのではないかとすら思われた。
「……のう、我が君――いや、リュウジ。ここは夢、所詮は仮初の世界じゃ。……なれば、二人で甘い夢に溺れてみるというのも悪くないとは思わぬか……?」
「お前、一体何言って――」
やにわにラピスは、
それと同時に、俺の胸部分に、やけに柔らかな感触が――二つ、届いた。
いや、常識外れに大きなラピスのそれにあっては、こうされるより前から既にその存在を俺へアピールし続けていたのだが、俺はなんとか意識をそれから外そうと努力し続けていたのだ。
しかしながら、ここまで意図的に押し付けられた今、それももはや限界である。
一体この二つの感触の正体が何なのかは、状況を考えれば考えるまでも無きこと。
「汝は前々から、わしの
言いながら、ラピスは俺の左手を優しく掴むと、ゆっくりと
まずい。
これは、まずすぎる。
力を失ってしまった姿ならばいざ知らず、この状態のラピスにこのような態度を取られると俺は弱い。
……そして、大した抵抗も出来ないまま、俺の腕はそのまま――