「惣一朗さん! どうしたんですか!?」
「なんだ、居たんじゃないか。これはさっき――」
何やら声が聞こえる。
一人はじいさんのものだ。そしてもう一つは、声の質から女性だと思われる。
だが今の俺には、その声の主を視認することはできなかった。
なにやら柔らかな障害物に顔面全体を覆われ、視界が暗闇に閉ざされているためである。
直ぐに飛び退くだけで良さそうなものだが、心の中のもう一人の俺がそれを躊躇させていた。
……何故だか心が安らぎ、ずっとこのままで居たい気持ちになる。
そんな感触に顔全体を包み込み込まれ、思わず俺は目を瞑ってこのまま身を委ねそうになるが――
「――おおっ!?」
服を後ろから引っ張られ、強引に一歩引いた形にされる。
その下手人を確認せんと振り返れば、明らかに不機嫌そうなラピスの顔があった。
「いつまでそうしておるんじゃ、たわけ」
「おまっ、何すんだ!」
「
「まぁ……そうだったんですか。もう、だからお出かけの時は私も一緒にっていつも言ってますのに……」
俺の耳に届くのはじいさんの声だけではない。
聞いているだけで脳みそが耳から流れ出ていきそうな、そんな鼻にかかったような声に俺が振り向けば。
「あなたが惣一朗さんを助けてくれたのねぇ。本当にありがとう~」
目が点になる、とはこのことを言うのだろう。
正面を向き直った俺の目に映るのは、にっこりと微笑む一人の女性の姿。
見た目から想像するに、年は20代の中ほど、といったところだろうか。
まず最初に俺を驚かせたのは、その女性の瞳だった。
両目は左が緑、右が青とそれぞれ色が違う。オッドアイというものを実際この目で見るのは初めてだが……まるでエメラルド、そしてサファイアを想起させるが如きその美しさを前にしては、左右の色違いという違和感などどこかへ吹き飛んでしまった。
左目の下にある泣き
大きな瞳はやや垂れ気味で、甘ったるい声と相まって殊更優しげな雰囲気を醸し出している。
緩くウェーブのかかった髪を肩まで伸ばした先、首から下に視線を移動させたところで、俺は先ほどぶつかったものの正体を察した。
巨大な双丘が、そこにはあった。
じいさんに肩を貸していて腰を落としていたゆえ、顔から突っ込む形になったのだろう。
縦線が入った厚めのセーターを着用しているというのに、そのあまりの大きさゆえに全く存在を隠せていない。
……ややもすると、ラピスのものより大きいかもしれない。無論それは言うまでもないが、元の姿での話だ。
つい俺の視線はそこで留まり、じっと凝視してしまう形になってしまう。
「あ゛いっ……!!」
そうしていると、突如として内腿に激痛が走った。
頓狂な叫びを発した俺は、痛みに身体を跳ねさせながら周囲に視線をやる。
横のじいさんも正面の女性も、何ごとかと目を丸くしている。
であれば、犯人は一人しかいない。
俺は怒りの形相で今一度後ろを振り向くが、俺以上に怒りを湛えている様子のラピスが目に入るや、喉まで出かかっていた糾弾の言葉は引っ込んでしまった。
ラピスは呆れの色を交えた声色で、じとりと目を細め言う。
「なーにが『お前だから』じゃ。よく言うわ、大きければ誰でもよいくせに」
「うっ」
……何故後ろにいたのに、俺の視線がどこに向かっていたのかを察しているんだ、こいつは。
先ほどの痛みの正体はおそらく、ラピスが腿を思い切りつねくったせいだろう。
とはいえ、俺の視線が彼女……絵里さんと言ったか――の胸に向いていたのは紛れもない事実であり、途端に羞恥の念に捕らわれた俺は、じっとこちらを睨むラピスからつい目を逸らしてしまう。
と、そこで絵里さんから声がかかる。
「ええっとぉ……」
「あっ、す、すいません! えっと俺、夢野っていうもので……」
顎に人差し指の先を乗せたポーズで、やや戸惑った声を出す彼女に向け、俺はとってつけたような謝罪と、今さらながら自己紹介を始める。
この絵里という女性は、じいさんの孫か何かだろうか。
こうして改めて見ても、とんでもない美人だ。
彫刻がそのまま人となったような、まるでこの世のものとも思えない美貌で――って、あれ?
……似たような印象を、つい最近誰かから受けたような。
「え、あら? あなた……」
「はい?」
ふと何かに気付いた様子で、彼女は何か口に出そうとするが。
「どうした絵里、もしや君の知り合いかね?」
「――あっ! ち、違いますよぉ~惣一朗さん。 ほ、ほら、腰を悪くしたならすぐに休まないとダメですよぉ」
と、先の言葉はじいさんの横槍で有耶無耶にされてしまった。
「さ、惣一朗さん。肩に掴まってください。早くお部屋で休みましょうね」
「うん……すまないな。そうだ絵里、彼らも入れてやってくれ。助けてもらった礼もしたい」
「えっ、いや、俺はそんな……」
「後で彼らにお茶を。――っと、おお、そうだ。君たちに紹介がまだだったね」
じいさんは絵里さんに肩を借りて土間から上がると、俺たちを振り返り、言う。
「彼女は絵里、そして僕は惣一朗という。絵里は僕の妻だ」
「はぁ、そうで……――はっ!?」
既に二人の名前を耳にしている俺は生返事を返しそうになったが、途中じいさんの言葉、その意味するところに思い至り、弾かれたように大声を出してしまう。
「これも何かの縁だ。彼女共々、これからよろしく頼むよ……っと、おう、いたた……」
「ほらぁ、惣一朗さん! すぐに横にならないとダメですってば! ――あっ、貴方たち、申し訳ないんだけど、お布団を敷くの手伝ってもらえるかしらぁ?」
「へっ……あ、はい……」
「ごめんなさいねぇ。さ、行きますよ惣一朗さん」
そう言うと彼女は、あっという間にじいさんを連れ、奥の部屋に消えてしまう。
そして玄関に取り残された俺は、ぽかんと口を開けて、ただその場に留まっていた。
「……冗談、だよな?」
大人と子供どころか、孫くらいの年齢差だぞ……。
いや、そういえばあのじいさん、さっきも自分の年が40代だとか下らない冗談を言ってたな。
「ったく、悪ふざけの好きなじいさんだ。ほれラピス、行くぞ――……どした?」
くいくいと服を引かれる感触に釣られ、俺がラピスに視線をやれば、何か言いたげな顔をした彼女と目が合う。
「……我が君よ、
「またその話か。その話はナシだ、無し。あんな普通のじいさんに手を出せるかよ」
きっぱり俺がそう言い切ると、何故かラピスはきょとんとした顔つきに変わる。
「んん? ……ははぁ、なるほどの」
「なんだどうした?」
「我が君。汝は見当違いをしておるな。穢れを取り除くという行為を、さもその者の命を奪うことじゃとでも思うておるのじゃろう? 今まできちんとした説明をせなんだわしも悪いがな」
いやそりゃ、お前は死神だろ。そんな存在が言うことだ、俺でなくとも、誰が聞いたって同じように思うはずだろう。
とはいえ、そう言うからには俺の予想とは違うものなのか。
「違うのか? ああ、お前の言う通りてっきり俺は、相手を殺してどうにかすんのかと思ってたぞ」
「場合によりけりじゃな。まあ、あの者であれば問題なかろうよ。彼奴が実は稀代の大悪党――とかでなければの」
「……いくらなんでも、そりゃないだろ」
「であろう? なれば何を思い悩むことがある、我らの命がかかっておるのじゃぞ」
「……ま、おいおい機会を見てからな」
「悠長なことを……まあよい、しかしこのこと、ゆめ忘れるでないぞ」
「へいへい。んじゃ行くぞ」
そう言って、玄関の扉の所で立ち往生していた俺は、中へと一歩踏み出そうとし――
「――ッ!」
瞬間、俺は今日この場で何度目か分からぬ、背後へ振り向く動作を行う。
だが今回に限り、その目的はラピスではない。
俺の視線はさらにその先――これまで通ってきた道に向かっている。
「む、どうしたのじゃ我が君。急に振り向いたりなぞして」
「……」
ラピスの声にも反応することなく、瞬く間に流れ出でた冷汗で
――今のは……?
俺が一歩踏み出さんとした瞬間、背中に叩きつけられたもの。
今のは、まるで――そう、『殺気』と呼ばれるものではないか?
不意に後ろから猛獣が襲い掛かからんが如き予感に釣られ、俺はこうして振り向いたのだが――
果たして俺の視界には、何の変哲もない、人ひとり見当たらぬ光景が広がっているばかりだった。
「おい、お前。今何か感じなかったか?」
「んぅ? 何か、とは?」
視線だけを動かし、ラピスもまた先ほどの気配に気付いたのかを問うが、彼女は特に何も感じなかった様子である。
俺の勘違いか……?
しかし、何も無いことが分かってなお身体に覚えるこの
殺気という言葉で、俺の脳内に、あのエデンという女のことが脳裏によぎる。
しかし奴が発していた、まるで蛇のそれを思わせる粘ついたものとは違う……今のはもっと直接的な、純粋な殺意であるように思えた。
「どうしたのじゃ、顔色が悪いぞ」
「……いや、なんでもない。さっさと中入ろうぜ」
扉を閉めながら、俺は尚も辺りを見回したが、やはり何も変わったところを発見することはなかった。
……やはり、気のせいだったのだろう。
そう半ば強引に自分に言い聞かせ、俺は中へ足を踏み入れたのだった。
………
……
…
「うん、そうそう。そこに敷いてもらえるかしらぁ?」
「あ、はい。――よっ……と。おい、反対側持ってくれ」
「まったく、なんでわしがこんなことぉ……」
押し入れの中から布団一式を取り出した俺は、じいさんを肩に抱えている絵里さんに代わり、床に布団を敷くべく動く。
ラピスはぶつくさと文句を言いつつも、俺の言う通りに動いてくれていた。
「さあさあ惣一朗さん、お布団の準備ができましたよ。はい、そ~っと……」
「う、うむむ……くっ」
腰を落とす際に痛むのか、苦しげな声を出しつつ、じいさんは絵里さんの手を借りて横になる。
そのまま掛け布団を肩まで被せた後、彼女は俺たちに向き直り、言った。
「ふぅ、これでよし。二人とも、本当にありがとう~。助かったわぁ。それじゃあ、ちょっと待ってて頂戴ね。お茶の用意をしますからね~」
「ああ、いやホントお構いなく……」
「若いコが遠慮しないの。待ってる間惣一朗さんの話し相手になってあげてね~」
そう言い残し、彼女は襖を開けて出ていってしまう。
じいさんは寝た体勢のまま眼鏡を外すと、安心したように目を細めた。
「ふぅ……いや、本当にありがとう。最近は腰を悪くすることも無かったから油断してしまったかな……それにここまで手伝わせてしまって、実に申し訳ない」
「いや、まあ、別にこれくらい……」
「うんうん、最近珍しい若者だね君は。年長者に対する気遣いができている。言葉は少々ぶっきらぼうだがね」
最後の言葉は余計なお世話だったが、嫌味のない素直な称賛に俺はたちまち気恥ずかしくなる。
誤魔化すように頭をボリボリと掻きつつ、俺は視線をじいさんから逸らす。
……しかし、雑然とした部屋だ。
そこそこの広さの部屋のようだが、どこに視線を向けてもそこかしこに本がうず高く積まれており、体感的にはどうも狭苦しく感じる。
本のタイトルはついぞ聞いたことのないようなものばかりで、内容すらはっきりとしない。
……いずれにせよ、本を殆ど読まない俺にはどうせ分かるはずもないのだが。
「はは、汚いだろう? ここは僕の自室兼仕事部屋なのだが、どうも片付けが昔から苦手でね。これでも絵里のおかげで大分マシになったのだが」
俺があちこちに視線をやっていることに気付いたのだろう、じいさんから声がかかる。
そう言われてみれば、ひとつ気になっていたものがあった。
部屋の角に鎮座する、小さな机。
やはり部屋の様子と同じく物が所狭しと置かれているが、その上にこれまで目にしなかったものらが目に入る。
それに目をやりつつ、俺は言った。
「じいさん。あんた、物書きなのか?」
黒い高級そうな万年筆とそれに、何やら書きかけの原稿用紙。
加えて部屋にひしめく図書の量と併せて考えれば、頭に上るのはそれしかなかった。
それに、これは単なる勝手なイメージにすぎないが――確かにこのじいさん、小説家と言われれば、実にしっくりくる風貌をしている。
俺の言葉を受け、じいさんは何故か口ごもりつつ答える。
「んん……まぁ、一応……そういうことになるかな。ちっとも売れてはいないがね。生活は常にカツカツだよ。君は読書は好きかい?」
「いやぁ……正直、あんまり。部活の後輩にもよく言われますよ、もっと本を読めって」
「はっはは、先輩思いじゃないか」
「そうだったらいいんすけどね……ただ単に俺をなじる口実ってだけな気も」
「ははは、ならばそうならないよう、その後輩の鼻を明かしてやればいい。僕の蔵書は少し変わったものが多いのだが……よければその中から僕のお薦めを読んでみるかい?」
「あーいや、まあ、それはまた今度……っていうか、具合悪いんだから寝てないと駄目っすよ」
どうも話が面倒な方向へ行きそうな予感を感じた俺は強引にこの話を終わらせ、じいさんにそう促す。
じいさんの方も元より本気で言っていたのでもなかったのか、特にそれ以上話を広げることもなく素直に従い、それからは三人とも口を開かぬ時間が続いた。
やがてじいさんから寝息が聞こえてくる。やはりああ言いつつもかなり体力を消耗していたようだ。
と、そうしてじいさんが寝入ったタイミングで、背後の襖が再度開かれる。
現れた女は、相変わらずの微笑みを浮かべたまま間延びしたような声を出す。
「お茶が入りましたよぉ~……あら、惣一朗さん、寝ちゃいましたか。――よかった……」
「え?」
「あ、ううん! なんでもないのよぉ~? さあさ、お茶の準備ができたから、二人ともついてきて頂戴ね」
「あ、はい。――おい、行くぞ」
「……」
「どうしたんだよ」
腰を上げた俺は、未だ横に座ったままのラピスを訝しみ視線をやる。
どうも何かがおかしい。
おかしいというのは、こいつがやけに静かなことだ。
それはそれで助かるのは事実ではあったが、いつも事あるごとにぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるこいつが、今の今まで何をも発さずいたというのはなんというか――らしくない。
意を向けられ、俺を見上げる形となったラピスは、何とも言えぬ表情をしている。
「……ん? いやいや、感嘆しておるのじゃよ。意外と肝が据わっておるのじゃとな。――いや、元より肝心
「……?」
うんうんと頷きつつ、なにやら感心したような風で語り掛けてくるラピスだが、俺には一体何のことを言っているものか分からない。
――まあ、いずれにせよ、願わくばこのまま大人しくしておいてほしいものだ。
「なんかよく分かんねえけど……ほら、さっさとしろ」
「うむ。いざ参ろうではないか」
……こいつはなんでそんな意気込んでるんだ?
「はいはい、この先の部屋ですよぉ~」
「え? ここが居間じゃ……」
襖を一つ隔てた隣の部屋は、大きな木製のダイニングテーブルのが鎮座する、いかにも客人をもてなすにうってつけな部屋に見えた。
一目見て、てっきり俺はここで茶をもてなされるものとばかり思ったのだが。
「う~ん、そうなんだけどぉ。隣の部屋で話してたらぁ、せっかくお休みになった惣一朗さんを起こしちゃうかもしれないしねぇ~。悪いんだけど、こっちの台所まで来てもらえるかしら~」
「ああなるほど、そういうことなら……。ところで絵里さん」
「なぁに~?」
「あなたは――じいさ、いや惣一朗さんの孫か何かで?」
俺たちを先導して歩いていた絵里さんは立ち止まって振り向くと、きょとんとした顔を見せる。
「あら? 惣一朗さんから紹介されてたわよね?」
「いやまぁ、そうなんすけど。いくらなんでもその、絵里さんが若すぎるっていうか……」
「うふふ竜司くんたら、口が上手いんだからぁ。こんなおばさんをつかまえてぇ~もぉ~!」
ころころと笑いながら、絵里さんは手をひらひらとさせる。
確かに仕草はおばさん臭いものを感じさせるが……いやいや、アンタがおばさんだったら世の妙齢の女性を皆ババア扱いしなきゃなんねえぞ。
って――あれ?
俺、下の名前……名乗ったっけ?
「惣一朗さんの言ってたことは本当よ。私は正真正銘、あの人の妻ですよ~」
「そ、そっすか……」
……あのじいさん、案外好きモノだったんだな。
あんなヨボヨボになってもこんな絶世の美女を捕まえられるチャンスがあるとなりゃ、俺含めモテない世の男性諸君にも希望は残されてるなぁ。
改めて俺は、眼前の女性の姿を見直す。
髪は染めているのか、それとも地毛なのか、頭頂部は濃いブラウンだが、そこから髪先にかけて段々とピンク色が差しつつ明るくなっていく、いわゆるグラデーション模様になっている。
髪形そのものだって、いかにも若い女性が好みそうなセミロングのボブスタイルで、これでおばさんと自称するのは無理があろうというものだ。
加えて透き通るような白い肌、それに日本人離れした瞳の色も加味して考えるに、恐らく外人さんなのだろう。
「ごめんなさいねぇ、こんな台所なんかで悪いんだけど……よければ座って頂戴」
言う通り、俺たちが通されたのは彼女の言葉通りの場所だった。
ウチにあるようなシステムキッチンでない、まさに『台所』と呼ぶにふさわしい、昔ながらのものだ。
とはいえ広さ自体はそこそこあり、中央には椅子とテーブルもある。
部屋の内部にはおそらく俺たちに供するために準備したのだろう、
薦められるままに俺はその中の一つに座り、続いてラピスも俺に倣う。
――が。
「絵里さん?」
絵里さんは俺たちが座ったのを確認しても、それまでの直立した姿勢を崩さぬままでいる。
そればかりか、それまでの柔らかな微笑みは姿を消し、悲しげなものへと様変わりしていた。
この突然な変化に、俺は訝しみながら彼女へ言葉をかけようとするが、やにわに彼女は俺の前に歩み寄るや――
「ごめんなさ~い!!」
……言葉とともに、地に膝を付けた、平伏の姿勢を取ったのである。