「ちょっとちょっと! 何なんすか一体!?」
地べたに正座し、腰を曲げて額を伏せるその姿勢は、まごうこと無き土下座のそれである。
フィクションでは何度か見たこともあるが、実際に間近で見るのはこれが初めてだ。
テレビ越しであればいっそ笑える仕草でもあるが、いざ自分がされる側になると笑えるどころか普通に――引く。
その理由が不明とあれば猶更というものだ。
俺は椅子から転げるように立ち上がり、やにわにこの珍妙な動作を始めた女性を止めんとする。
「ううう゛~……ごめんなさぁい……私にできることならなんでもしますからぁ、あの子のことは許してあげてぇ……」
「いやだから何言ってんすか!? とりあえず頭上げてくださいよ!」
「そのうちこっちから謝りに行こうとは思っていたの、本当よぉ……? でもまさか、そっちから……それもこんなに早くなんて思ってなくて……」
顔を伏したまま、震える声で訳の分からぬことを
「――はんっ」
と、そんなやり取りをしていると、横から鼻で笑う声がする。
横――すなわちラピスの方に目をやれば、俺とは違い、椅子に座った姿勢を崩していない。
どころか、テーブルに肩肘を乗せ、頬杖までをもついている。
ラピスはこれまで俺に見せたことのないような冷たい視線でもって、土下座する女を見下ろしていた。
「絵里とやら」
「……?」
ラピスからの言葉は予想外であったのだろう。
絵里さんはようやく頭を上げ、急に上げられた声の主に視線を向けた。
不安げな様子の彼女とは対照的に、ラピスは彼女を見下ろす表情を変えぬまま、ゆっくりと口を開く。
「かような安い頭なぞ、いくら下げたところで何になる? 謝意を示すならばもっと相応しいやり方があろうぞ」
「うっ……」
「それとも何か? 我が君を未だ軽んじておるということか。偶然とはいえ獲物にまんまと居所を知られるような痴愚極まる
「うう゛う゛~……」
声こそ荒げぬものの、ねちねちとした罵倒を続けるラピス。
それに対して彼女は一言も言い返すことなく、ただ言われるがままになっていた。
そして、そんな二人のやりとりを聞く俺は。
何故ラピスがこうまで激高しているのか、絵里さんもまた初めて出会った女――それもこんな幼女に対し、一言も反論せず言われるままにしているのか、そのどちらも皆目見当がつかなかった。
第一、絵里さんにとりラピスが言っていることはそもそもが理解不能なものであるはず。
だというのに、彼女の様子を見ていると、全てを理解した上で――そして、だからこそ何も言わずに責めを甘んじて受けているようにさえ思える。
「あああ~ごめんなさあい~っ! 私がぁ、私が悪いんですぅ! 私が……ちゃんとあの子のこと見てなかったからぁ~!」
絶えず続く罵倒に耐え切れなくなったのか、ついに絵里さんはわんわんと大声で泣き出してしまった。
ここで初めて俺には、ある予想というか予感が頭に浮かび始めていた。
思い返せば兆候のようなものは絵里さんと会った時……彼女の声を聞いた時からあったように思う。
加えて先ほどのラピスの言葉、そして今の態度を併せ考えれば、それはすなわち――
「答えになっておらぬぞ。……いや、もうよい。
そんな彼女にラピスは尚も冷たく当たると、笑顔で俺に向き直る。
俺は自分の予想が当たっていないことを祈りつつ、恐る恐る口を開いた。
「なぁ……っていうかよ……ラピス。もしかして、この人って……」
「ん?」
「……例の夢に出てきた、『アレ』ってことだったり――しないよな?」
最後の方は自信の無さから消え入るような声になってしまった。
が、俺のこの質問は、ラピスにとって――いや、二人にとって予想外のものであったようだ。
「――はっ?」
「……え?」
二人はそろって目を丸くし、俺を見る。
ラピスはそのまま2、3度瞼を
「……の、のう、我が君よ。まさか……まだ気づいておらなんだのか? ――今になって? は、はは、まさかの? いくら汝が鈍いとはいえ、この期に及んでかようなことがあろうはずが……」
「え……じゃ、やっぱりそうなの?」
「……!」
ぱくぱくと口を開閉させた後、ラピスの表情は――たちまち呆れたっぷりなものに変わったのだった。
「信じられぬ……いや信じられぬ。鈍いとは思うておったが、まさかこれほどとは……」
「あ……私、もしかして、墓穴を掘っちゃった感じ……?」
その後、ようやく絵里さんも椅子に座り、俺たち二人と彼女とはテーブルで向かい合う形となった。
「先ほどの言葉は撤回じゃ、撤回」
「もういいだろ……そう言うお前はいつから気付いてたんだよ」
「こやつを見た瞬間に気付いておったわ。だというに、汝は乳ばかりに目をやりおって……はぁ~、情けない情けない! 大体じゃの、我が君はいつもそうやってわしを――」
「ぐくっ……」
ここぞとばかりに言いたい放題に言うラピスだが、俺はそれに対し抗する術を持たない。
何故なら、それが事実に他ならないからだ。
ここで下手な言い訳を一つでもしようものなら、即座に十の言葉で反撃されるであろうことは想像に難くない。
「ええとぉ……竜司くん?」
「あっ、はっはい!?」
彼女に対し多少後ろめたいところのある俺は、急に話しかけられ狼狽してしまう。
「そのぉ~……私の正体についてはもう分かっちゃった――というより、私が自分から暴露しちゃったようなものだけど……。もちろんこのことは詳しく説明させてもらうつもり。でもその前にこちらから聞きたいことがあるのだけど……」
「あー……はい。なんでしょうか」
「……」
ラピスは口を閉じたがしかし、油断なく対面の女性を見据えている。
その視線から放たれる敵意は、まるで隠そうとする素振りすらない。
そんなラピスの様子に気付いているのかいないのか、絵里さんは構わず続けた。
「その……昨日途中で現れた女の人って、やっぱり貴方のお仲間だったり……?」
「へ?」
「――はぁ?」
俺とラピスは、揃って間の抜けた声を出す。
「すっごく怖かったわぁ~。私、泣いちゃいそうになっちゃったもの……。それで、どうなのかしらぁ……」
「貴様、何を寝惚けたことを――」
「ちょっと黙ってろ。……ええ、まあそんなとこです」
ラピスが即座に口を挟もうとするが、ここは一先ずそれを押し留めておく。
というのも、これは
先日はラピスの乱入によって事なきを得たが、実際のところあれが無かったらどうなっていたか分からない。
本人は先ほど俺を害する気がないというような言葉を述べていたが、生憎それをそのまま信用するほど俺はおめでたい頭をしていない。
どうも彼女は昨日の女――つまり、元の姿のラピスに恐怖を覚えているらしい様子だ。
ならば、あれは単なる幻です、現実ではこんなもんです――と、先にネタばらしをするのは得策ではないだろう。
事実、この俺の答えを聞き、彼女の表情は明らかに強張りを増した。
「うう……やっぱりそうなのねぇ~……。驚いちゃった……まさか二重の術式で作られた結界に入ってこれるなんて、思ってもみなかったわぁ。それに、あの鎌! なんなのぉあれ~!?」
「ま、それはおいおい話すとして……今度はこっちの番です。一応言っておきますが、嘘はやめてくださいね。そうなればこちらも昨日の女を――」
「はっはい! 大丈夫、絶対に嘘なんかつかないわぁ! や、約束!」
最初にこうして釘を刺しておかなきゃな。
とりあえず何よりも先に、一つだけはっきりしておかねばならぬ事がある。
「……信じます。それで――鈴埜にあの本を渡したのは、あなたなんですか?」
「ううん。それは違うわ」
一瞬の間も置かず、彼女は答える。
こうまで即座に返されると、かえって疑わしい。
まるで前もって準備しておいたかのようだ。
「本当ですか? 実際あなたはあの本を使って俺の夢に入ってきたじゃないですか。鈴埜を利用して、俺をどうかしようとしたのでは?」
「ううん……むしろ最初あの子がしたことに気付いた当初はね、私はなんとかあの本にかけられている魔法を解こうとしたの。――でも、無理だった。それに……」
「それに?」
「命に関わるようなものではないし、あの子がそんな手段に訴えるほど本気だって思うと……親としてつい叶えてあげたくなっちゃって……。でもやっぱり、今思うとそれはルール違反よね。勇気が出ないからって魔法なんかに頼るなんて、親として恥ずかしいわぁ。もし私が子供の時に同じことをしたら、ものすっご~く怒られたでしょうねぇ……」
懇々と続けた後、彼女は改めて俺に向き直り、そして深々と頭を下げた。
「竜司くん。今さらだと思うでしょうけど……あの子に代わって私が謝ります。本当に、ごめんなさい!」
「いや……っていうか……」
今の俺にとって、謝罪の言葉などどうでもいい。
それより、もしかしてこの人って……?
頭に上った疑問を、恐る恐る俺は切り出す。
「まさか絵里さんって、鈴埜の……?」
「あら、それも知らなかったの? まぁそうよねぇ~。表札を見たなら流石に気付くはずだもの」
うんうんと頷き、絵里さんははっきりと――明言した。
「はい、そうですよ。私は冥ちゃんの――貴方の言うところの『鈴埜』のお母さんです。この世界での名前は『鈴埜 絵里』」
「マジかよ……」
この人が――鈴埜の、母親だぁ!?
……若すぎるだろ!
姉妹って言われた方がまだ信憑性があるってもんだぞ!?
いや、そんなことより。
「じゃ、鈴埜も――それにあのじいさ――惣一朗さんも、あの世界の住人だってことですか」
「そう言うってことは、やっぱりあなたも惣一朗さんと同じなのね~」
絵里さんは頬に手を当てつつ、得心がいったと言いたげな表情を浮かべる。
「残念だけど、それはハズレ。惣一朗さんはれっきとしたこの世界の人間よ。冥ちゃんは――そうねぇ、ハーフってところかしら~」
「……」
俺は、力なく椅子の背もたれに倒れ込む。
――駄目だ。
思考回路が受け入れを拒否している。
まさか一年以上前から、あの世界の住人と関わり合いになっていたとは。
「……我が君。もうよかろう。話の本題に入ろうではないか」
それまで俺の言われた通り沈黙を守ってきたラピスが声を上げた。
天を仰ぎながら、俺は投げやりに答える。
「本題って、なんだよ……」
「決まっておる。こやつらの穢れをいただくという本来の目的じゃ。――のう絵里とやら、まさか嫌とは言わせんぞ」
「……」
絵里さんは暫くラピスの方に視線をやっていたが、やがて俺に再度向き直る。
「竜司君。ずっと気になっていたのだけど……この子はどなた? 話しぶりからして、私と同じ、あっちから来た子なのかしらぁ?」
「うーん……」
……まあ、とりあえず聞きたいことは聞き出せたし、これ以上隠しとく必要もないか。
「絵里さん、こいつが昨日の奴ですよ」
「へっ――」
……おおう。
人が硬直するって、こういうことなんだな。
そのまま数秒固まっていた彼女だが、程なくして顔面から冷や汗を滝のように流れ出でさせつつ、目に見えて狼狽する様子を見せ始めた。
「昨日のって、えっえっ……? う、嘘よね? だって――」
そんな彼女を見るラピスは対照的に、愉快さここに極まれりといった風情である。
漏れ出る笑みも隠しきれずといった様子だ。
「くっくく……そう、そうじゃ。こういう反応こそわしが望んでおったものじゃ。だというに、これまでわしの前に現れた連中ときたら、揃いも揃ってわしを軽んじおって……! 我が君も同じじゃぞ! まったく、この点ばかりは見習ってほしいの!」
「あー、うん」
「なんじゃその気のない返事は! ……はぁ、もうよい。始めるぞ」
「……えっ、――あっ!? お前、それ一体、いつ……!?」
一体いつ、そして何処から取り出したのか。
気付けばラピスの手には、例の巨大な鎌が握られていた。
ただでさえ大きなそれは、今や手に持つ彼女の身長とほぼ変わりない。
「あーっ! そ、それぇ!?」
「ふふふ、見覚えがあろう。これで信じたか、ん? ……おっとそうじゃ、もはや隠しておく必要もないじゃろ。これから幾許か補給できるとはいえ、無駄遣いは極力避けねばの」
ラピスは言うと、それまで隠していた角を出現させる。
元の格好ならばまだしも、今のような制服姿にはいかにもアンバランスで、山羊を思わせるそれは、一層その異様さを際立たせていた。
「うむ。やはりこうでなくば格好がつかぬというものじゃ。それでは改めて――」
「ちょっ、ちょっと待って!! それ、ほんとに! ほんとにまずいやつだからぁ!」
「な~にを今さら命乞いなぞしておるんじゃ。それでわしが許すとでも思うておるのか? ほれほれ」
「ひゃああ、近付けないで~っ!!」
……しかし、こんな強気なラピスは初めて見たかもしれない。
鎌の切っ先を絵里さんに突き付けながら嗜虐心たっぷりな顔付きをしているラピスは、今回の件に対する怒りに燃えているというより、心底今の状況を楽しんでいるように思える。
まあ、無理もないことなのかもしれない。
本人が言っていたように、これまでずっと舐められっぱなしの人生を送ってきたんだからな。
こんな機会なんて一度もなかったのだろう。
――とはいえ。
「まあ待て、ラピス」
「……む?」
「ふぇぇ……?」
彼女の喉元に切っ先を突き付けて弄ぶラピスを、俺は一度制する。
哀れ、絵里さんは既に泣き声だ。
「実際のとこ、その鎌を人に振るうとどうなるんだ? あの時の俺みたいになるのか? まさか直接相手を真っ二つにするとか言い出さねえだろうな?」
「いっそ、そうしてくれようかとも思うがの。――が、そうした場合、我らが糧とはならぬ」
「ならどうなるんだ。前にお前が言ってたみたいに、塩の柱になって砕け散るのか?」
「ひいっ!?」
絵里さんから小さく悲鳴が上がる。
自分がそうなる未来を想像でもしたのだろう。
「それはわしのさじ加減一つじゃな。魂ごと穢れを全て取り込むのであれば、当然そうなる。――そして勿論、わしはそうするつもりじゃ」
「いや……まぁ、そこまでしなくてもいいんじゃないか」
「……なんじゃと?」
「その、なんだ。その人も言ってたじゃないか、命に関わるようなものじゃないって。だってのに、仕返しに命を奪うなんてのは、ちょっとな……」
俺の言葉を聞いたラピスは、すっと目を細める。
それまでの喜悦に満ちていた笑みすら消失させ、感情を消した表情を作る――と。
「――馬鹿者!!」
「……っ」
たちどころに憤怒の形相に一変したラピスは、鎌の柄を地面に叩きつけ、俺を一喝した。
「汝という男は、どこまで甘いんじゃ! そんな言葉が真実であると、どうして信じられる!? 今の汝の言葉を聞き、こやつはきっと、腹の下で舌を出しておることじゃろうよ! ややもすると、今この場でわしが隙を見せたその瞬間、汝の命が絶たれるやもしれぬのじゃぞ! かような悠長なことを言うておる場合か!」
……しまった、言葉を間違えた。
一見愉快げにも見えたその実、ラピスは彼女が俺に危害を加えようとしたことに対し、相当腹に据えかねる想いを抱いていたらしい。
「ラピス……でも――」
「汝のそういう甘さはわしとて嫌いではない。しかしの、時と場合を選ぶべきじゃ。――安心せい、これはわしの独断じゃ。命を奪うことに対し、汝が気に病むことはない」
駄目だ、ラピスは本気だ。
このままでは間違いなく、次の瞬間にも対面の女性に鎌を振り下ろすだろう。
なんとか説き伏せようにも、彼女の言うことに一理あるのも確かなのだ。
実際問題、絵里さんの言うことには何一つ証拠などない。
だとすれば、ラピスのするままにさせてやるのが正しいのかもしれない。
「今すぐこの女を滅し、後顧の憂いを断つ!」
「まっ――」
ラピスが鎌を振り上げると同時に、俺はとにかく一度ラピスを止めんと席を立つ。
「それはどうか勘弁してやってくれんかね」
立ち上がった拍子に倒れた椅子が、大きな音を立てて転がる。
その音が余韻を残し鳴り響く中、俺たち三人の視線は、一様に扉へと注がれていた。
「いやぁ、怒鳴り声が五月蠅くてとても眠れやしないよ。隣の家まで聞こえていたらどうするんだい」
いつの間に現れたのか、部屋の入口にじいさんが姿を見せている。
「……なんじゃ貴様は。邪魔だてしようてか? どうせ貴様も一枚噛んでおるのじゃろうが」
「まあまあお嬢さん。とりあえずその物騒なものを仕舞ってもらえんかね」
先ほどと違い、片手に杖をつきながらなのは腰を案じてのものだろう。
そして彼の姿を見た絵里さんは、目にみえて狼狽を始めた。
「そっ、惣一朗さん!? あ、あああの、これは……」
「――エリザ。どうも君は僕に隠し事をしていたようだね」
「あああああ……! ちっ違っ……」
相変わらずの落ち着いた口調だが、絵里さんに話しかけるその口調には責めるような色がある。
おろおろと慌てふためく彼女を尻目に、じいさんは俺たちに視線を向けた。
「夢野くん。それに――おっと、そういえばそちらの子の名前は聞いていなかったね」
「……」
鎌を大上段に構えたまま、ラピスは横目だけでじいさんを見る。
返答がないと分かるや、じいさんはその巨大な大鎌にさして驚く様子もなく言葉を続けた。
「なにやら家内が君たちに失礼を働いたようだが……殺したいほどとは、一体また何をやらかしたのやら。……彼女の不手際は夫である僕にも責がある。命を奪うというなら僕からにしてくれ給えよ。しかしまずは君たちの口から詳しい話を伺いたいな。――エリザ、勿論君からもだよ」
「はひぃっ!?」
最後の言葉は、やや強い口調で。
絵里さんは反射的にビクリと身を竦ませた。
まるで悪戯が露見した子供を思わせる反応である。
「居間に行こう。エリザ、君はお茶を」
言い終わるや、じいさんはさっさと廊下に出てしまった。
「ふんっ……行くぞ、我が君」
ラピスは構えた鎌をやっとのことで下ろす。
結果的にじいさんの登場がラピスの行動を止める結果となり、俺は胸を撫で下ろした。
「やけに素直じゃないか。俺はまた、お前がじいさんにまで斬りかかるんじゃないかと気が気じゃなかったぞ」
「そうしてくれようかとも思うたがの。あの
確かに、もっと驚いてもいい場面だったはずだ。
やはり彼もまた、俺と似た修羅場を味わったことがあるのだろうか。それ故のあの落ち着きようなのか。
しかしそれにしても落ち着きが過ぎる気がする。
「ひんひん、お二人ともぉ、先に行っててくださぁい……」
両眼からぽろぽろと涙を流しつつ、しゃくりあげながら絵里さんは俺たちにそう促す。
……『エリザ』か。やっぱりじいさんの言ってたのが本当の名前なんだろうな。
しかしそうなると、まあよく考えずとも当たり前だが、じいさんもあの世界の関係者ってことか。
「はぁ~……」
暫くは平和な日常を取り戻せるかと思っていたのに、それが一週間もたたないうちにこの有様とは。
俺は長い溜息をつき、未だ鎌を持ったまま憮然とした表情を崩さぬラピスへ声をかける。
「とりあえず鎌を仕舞え。一通り話が終わってからでも遅くないだろ」
「……よかろう。しかし
「そうならないよう願いたいもんだ。俺もな」
――まったく、心からそう思うよ。
後輩の両親とあわや殺し合いなんて冗談じゃない。
先ほどは通り過ぎた部屋に戻った俺たちは、じいさんと机を挟んで並び座る。
お互い一言も喋らぬ時間がただ過ぎていったが、ややあって絵里さん――と呼んでいいものか、とにかく彼女がやってきた。
「お茶ですぅ……」
盆に乗せた人数分のコーヒー、そして茶菓子の入った小皿を、彼女は各人の前へ置いてゆく。
全て配り終えた時、見計らったようにじいさんが口を開いた。
「さて、何から話したものか……うん、しかしまあ、どうだね。まずは一杯」
「あ、はい。頂きます」
俺は小皿に乗った茶菓子を手に取る。
……こりゃまた、随分と高そうな菓子だな。
手触りのいい和紙で出来た包装を剥がすと、綺麗な正方形の菓子が現れる。
そんなことを思っている場合ではないことは重々承知ながら、甘いものに目がない俺は、僅かに心躍らせながら菓子を口に運ぼうとする。
「ていっ」
「あっ!」
――が、口に入れようとしたその瞬間、やにわにラピスのチョップが手首に放たれる。
手に持っていたそれは衝撃で俺の手を離れ、てんてんと机の上に転がった。
「お、おい!」
俺が抗議の意を含んだ視線を向けるも、ラピスは心底呆れたとばかりな声色で言う。
「ほんに汝ときたら……まるで童そのものじゃの。危機感といったものがまるで欠けておる。毒なぞ盛られておったらどうするのじゃ、たわけ」
「あっ……」
考えすぎ――とは言えない。
今この場においてはそれくらいの危機意識でもって臨むべきなのだ。
ラピスが言うには、俺と自分との命は直結しているらしい。
であればこの警戒も納得というものか。
「丁度よい。汝らどちらでもよい、今我が君が零したものを口にしてみよ」
ラピスの態度は、完全に対面の二人を端から敵と決めてかかっているものだ。
油断など一瞬たりとてするものかという強い意志を感じる。
いや、この状況下においてはそれこそが正しい姿勢なのだろうが……普段の姿を知っている俺からすれば、今のラピスはまるで別人のように映る。
「あっ、私が……」
「――いいんだ、エリザ」
落ちた菓子を拾おうとする絵里さんを制し、じいさんが菓子を拾い、そして何の躊躇もなく口に入れた。
「うん、おいしい。やはり何度食べてもここの金鍔は絶品だねぇ。君には代わりに僕のを差し上げよう。……お嬢さんも、これで満足かな?」
「――ふんっ」
ろくに返事も返さず、その代わりとばかり、ラピスはぷいと顔を逸らす。
「はっはは、随分と嫌われたものだ」
「あの、なんていうか……すいません」
「君が謝ることはない。それだけのことを彼女は仕出かしたのだろうからね」
ううむ……。
やはり俺だけがこの場の空気に未だ順応していない気がする。
「あの……じい、いや、惣一朗さん」
「なんだね急に畏まって。じいさんで構わんよ。実年齢を考えると少し悲しくもあるが、この外見では仕方ないことだ」
「あー……いや、まあ、今さら訂正するのもアレなんで。その……エリザってのは、絵里さんのことですよね?」
「その通りだよ。君たちはどうも訳知りのようだし、隠す必要もあるまい。彼女の本当の名はエリザベート。エリザベート・シュルディナーという」
まーた舌噛みそうな長ったらしい名前か……あの世界の人間は早口言葉が得意技なのか?
それでもラピスよりはマシだが。
「あーそれじゃこっちも。こいつはラピスって言います。本名は……えっと?」
「……こら。まさか臣下の名を失念したなどと言わぬじゃろうな」
……ぱっと思い出せなかっただけだ。
なにしろ俺がこいつの本名を口にしたのはただの一回きりなのだからな。
とはいえ、相当に怒り始めているらしいラピスへ、正直にそう答えられるわけもない。
「い、いやいや! そんな訳ないだろ!? えっと確か、タヒツ……いやタヒニツァル――ん?」
「貴様……」
いよいよラピスの目が据わり始める。
「いや違う! そうじゃなくて……エリザさん、どうしたんですか」
「……エリザ?」
俺に釣られ、じいさんもまた横の絵里さんを見る。
彼女の顔は蒼白に変わっていた。
「あ……あのあのあの……も、もしかしてぇ……」
震える声で、絵里さんは続ける。
「まさか……サナトラピス……――タヒニスツァル=モルステン=サナトラピスさん……だったり……? そっ、そういえば、昨日見たあの姿、伝説で伝えられてる姿に……」
ラピスはその言葉を聞き、にやりと笑う。
「ほっほ~う? 我が威光は貴様のような木っ端にまで行き渡っておると見えるの」
瞬間。
絵里さんは弾かれたように机の横へ飛ぶと、先ほどと同じ土下座のポーズを取る。
「ひゃあああ~!! すっ、すいませんでしたぁ~っ!! し、知らぬこととはいえ! その、サナトラピス様のご配下の方に失礼を……!」
「くかかか、そうじゃそうじゃ、ひれ伏すがよい」
それを見るラピスはたちまち上機嫌になり、震える彼女を嘲笑うかのような態度を見せた。
「おい」
「ん?」
破顔するラピスに俺はそっと顔を近付けさせると、対面の二人に聞こえぬよう小さな声で耳打ちする。
「お前、ずっと冥府で引きこもってたんだろ? なんでこの人がお前のことを知ってるんだ?」
「う~む、何故かと問われるとわしにも答えかねるのじゃが。しかし下界の者らはわしを遥か昔より知っておった風であった。細かいところまで見れば多少の違いはあったがの。例えばわしの信者と名乗る者らが作っておった偶像などでは、わしはローブを纏った白骨死体ということになっておった」
むしろそっちの方がイメージとしてはしっくりくるがな。
あんな褐色肌で頭に角が生えた、それも女の死神なんぞ、とても言葉から連想されるイメージからは程遠いものだ。
「なるほど。するとお嬢さん。君はいわゆる『死神』というやつなのかな」
「勝手に奴等がそう呼んでおっただけじゃがの」
俺は出来る限り小さな声を出していたつもりだが、ラピスの方が微塵も声量を抑えようともしなかったせいで、こちらの会話の内容はほぼ筒抜けだったようだ。
じいさんは数度頷くと、今度は俺に視線をやりつつ口を開く。
「ふむ――ところで夢野くん。今の言葉を聞き、君はどう思った?」
「どう、って……」
「妙だとは思わないかね。まったく別の世界であるはずなのに、あちらでの『死神』のイメージとこちらのそれで大した差異がないというのは」
「それはまぁ……確かに……」
実際は兎も角、ローブを纏った白骨死体というのは、まさしく俺たちの世界の死神のイメージそのままだ。
架空の存在であり、実際に目で見た者など――あちらの世界ならいざ知らず、こっちの人間たちが目にしたことなどあるはずがない。
だというのに、この奇妙な一致は一体どうしたことか。
単なる偶然にしては出来過ぎている。
「まあ、結論から先に言おうかな。回りくどいのは苦手だ。……夢野くん」
じいさんは両腕の肘を机に立て、眼鏡越しに俺を見据える。
「我々人類が有史以来空想・伝承上のものとしてきた事物――
驚愕に言葉を失っている俺に構わず、じいさんから更なる追撃がなされる。
「そしてこのエリザは、我々の知る言葉で称するなら、いわゆるサキュバスというやつだね」