次の日。
本日最後の授業を終えた俺は、下駄箱で靴を履き替えている所である。
いつもは言わずとも横に張り付いているあいつの姿はない。
元々俺の高等部と、中一として学校に入り込んだラピスとでは授業時間割にズレがある。
十五時台で自由になる中等部と比べると、こちらはそれより一時間ほど遅い。
俺の方を待っていれば約束である十六時に間に合わないことから、彼女は今日、一足先に店へ向かっているはずである。
「……」
門のところで一度足を止めた俺は、憮然とした表情で何もない横の空間に目をやる。
教室を出てから今まで、俺はなんとも形容し難い違和感に襲われ続けていた。
なんなのだろう、この違和感は。
――それから、無言で歩き続けること数十分。
たまに一ノ瀬と一緒に帰る時以外、一人での帰路というのはいつもの日常風景であった。
大体俺は、こうして一人の時間を持てるようになることを望んでいたのではなかったのか。
……だというのに、何故こうもイライラしなくてはならないのか?
「……大体、俺はこんな早くから店に行く必要なんてないんだよ。折角久しぶりに一人になれたってのに……どうかしてるぜ」
心の内では既に気付いているのだが、しかしそれを認めれば何かに負けたような気がする。
よって俺は、こうして一人毒づくことでそうした結論に至ることを押し留めていた。
呪詛のような独り言を呟きつつ、俺は歩みを進めていたが。
「……さむっ」
不意に
いつの間にか例の山道の中腹辺りまで歩いてきたようで、店まではあと二十分ほどといったところだろう。
どうも暗い気分が抜け切れていない俺は、気分転換がてら、両の腕を上げて大きく伸びをする。
「ふぅ~……んっ?」
ゴキゴキと音をさせつつ、ついでに何の気なしに辺りを見やると、最初からそこにいたのか――それとも今現れたのか、一匹の獣が目に入った。
道路の端にちょこんと座ったそいつは、大きな黒い瞳で俺をずっと見つめている。
動物の顔の判別に自信はないが、人を見てすぐに逃げ出さない様子からして、まず間違いなく昨日の狐であろうと思われる。
「おいお前、危ないぞ。このへん滅多に車は通らないけどよ……そんな毎回都合よく誰かに助けてもらえると思うなよ」
「――?」
無論人の言葉を理解できるはずもないそいつは、目をこちらに向けたまま、軽く首をかしげてみせる。
……確か狐ってのはイヌ科の動物だったか。
そう言われてみればなるほど、今の仕草ひとつ見ても、どこか似たようなものを感じさせる。
狐は立ち上がると、ゆっくりとした動作で俺の元まで近寄ってきた。
脚元をゆっくりと回りつつ、ふんふんと俺の匂いを嗅いでいる。
こうした動作を見るに、やはり根っからの野生というわけではなさそうだ。
俺は少し迷った後、その場にしゃがみ込み、そいつの頭へと手を伸ばす。
噛みつかれることを警戒し、また驚かせないよう、動作はあくまでゆっくりと――などという気遣いは全くの無用であった。
「……おいおい。いくらなんでも無警戒すぎるぞ」
そいつは俺が手を伸ばすや、なんと自分から撫でられに来た。
キュウキュウと子猫のような、あるいは子犬のような気持ちよさげな声を上げながら、目を細めされるがままになっている。
それだけに止まらず、次いでそれこそ犬のように地面に腹を見せて倒れ込んだのを見れば、このような台詞も口から出てこようというものだ。
「犬は飼ったことないけど……こうしてると、なんというかペットを飼う人の気持ちも分かるな。ほれほれ」
間違っても噛みつかれることなどないと分かった俺は、今や遠慮なしにぐりぐりと胸のあたりを撫でまわしている。
ひと撫でするたび、前足をぴこぴこと動かして反応してくれるのが何とも面白く、そのまま暫く俺は夢中になって撫で続けていた。
そうして胸から腹にかけてを満遍なく撫でまわしている中、俺はあることに気付く。
このことに気付けたのは、こいつが現在の腹を見せる姿勢を取っているおかげだ。
「おっ、お前メスだったんだな」
撫でる手を止めることなく俺は、ふと目に留まった下半身部分に目をやりつつ言う。
「――ッ!!」
「うおっ!?」
と言った瞬間、それまで大人しく撫でられていた狐は何を思ったか急に跳ね起きる。
それも動作の途中、俺の手に噛みつくというオマケつきで、だ。
「いっちち……」
もっとも本気のものではなかったらしく、手からは血も出ておらず、軽く二つの歯型が付いたのみである。
とはいうものの、流石に野生動物に噛まれたとあれば一応後で病院に行く必要があるかもしれない。
しかし、一体また何故急に態度を変えたのだろうか。俺の撫でた場所が悪かったのだろうか?
「おいお前、急に何を――ん?」
いつの間にかそいつは、道路と山中の境となる場所に移動していた。
それそのものは特別不思議なことでもない。
俺が声を上げたのは、そいつの立つ場所――その背後を見てのものだ。
この道は子供の頃から何度も通っている。何の変哲もない寂しい山道を切り開いて作られた道路で、山を下りるまで途中何物も目を引くようなものは無かったはずだ。
だというのに。
「こんなとこに道なんてあったっけ?」
狐の背後には、明らかに山の奥に向かい伸びる道らしきものがある。
ただ草木を刈ったのみ、といった風貌のもので道、と呼べるかは甚だ怪しいところだが……とにかく俺の記憶にそんなものはない。
俺が気付いたせいかは定かでないが、まるでそれを合図にしたかのように狐は山中へと歩を進める。
そのまま姿を消すかと思いきや、そいつは三、四歩ほど歩いたところで歩みを止めると、また俺をじっと見つめてくる。
その瞳は、まるで何かを訴えようとしているかのようであった。
まさかな、とは思いつつも、俺がゆっくりと狐の元まで足を向かわせれば、それに反応して狐は山中へと進んでいく。
そしてまた、数歩歩くと俺の方を振り返ってくるのだ。
この不可解な動作を俺が訝しんでいると、足元からペキリと何かを踏み折ったような音がした。
「……なんだこれ?」
足元には、木の板が一枚転がっていた。
俺が踏んでしまったせいであろう、それは中央から真っ二つに折れてしまっている。
その板には、なにやら文字が書き込まれてあった。
俺はしゃがみこむと、踏み折った二枚の板を繋ぎ合わせてみる。
『#同…×首;%稲荷』
殆ど腐りかけた木の板に書かれた文字は、もはや殆ど解読不可能なほどに薄くなってしまっている。
それでも何とか辛うじて数個の漢字は読み取れたが、なんのことやらさっぱり分からない。
と、ここで、狐から鳴き声がひとつ上がった。
視線は一瞬板の方に向いていたようであったが、再度俺を見やると、もう一度声を上げる。
俺にはそれがまるで「こっちに来い」と言っているように聞こえた。
試しに足を踏み出せば、やはり狐は一定の距離を保ったまま、山中に歩を進める。
この一連の流れに俺は不気味なものを感じ始めていたが、しかしここではまだ興味の方が勝った。
仮にこいつが妖怪か何かだとしても、まさか助けてくれた人間を取って食ったりはすまい。
それからどれほど歩いただろうか。
辺りの森はいよいよもって深さを増し、歩む道もまた段々と細くなってきている。
まだ日は高いというに、山中の鬱蒼とした木々の中にあっては光も僅かにしか届かず、俺は何度も木の根に足を取られそうになる。
やはり引き返すべきか、との思いが頭をもたげ始めてきた頃、ようやく視界の先に開けた場所が見え始める。
「あっ! ――おい!」
と、それまで付かず離れずの距離で俺を先導していた狐が、やにわに駆け出した。
あっという間に見えなくなった狐を追うべく俺も足を速めると、やがて俺はその開けた場所に出る。
そして、俺は視界に現れた”それ”を目にした途端、言葉を失う。
目の前には、小さな廃墟が一つ鎮座していた。
正確にはそれは神社である――いや、あったのだろう。
俺があえてそういった表現を用いたのは、その神社の見た目が、目を覆わんばかりに荒廃しきっていたからだ。
窓や入口に貼られた障子紙は全て変色しボロボロに破れており、屋根の一部は完全に崩落している。
一つずつある”奉”と刻まれた石、それに石灯篭の存在がなくば、俺もすぐにはそれが神社の跡地であるとは分からなかったろう。
加えることに石造りの土台らしきものも二つほど確認できるが、上には何も乗っておらず、果たして何の目的で置かれているものなのかは分からない。
「おいおい……こいつはちょっとシャレになんねえって……」
完全にホラー映画の世界だ。
人気の無い暗い森の中でこのシチュエーションは、流石に雰囲気がありすぎる。
興味本位でここまで来た迂闊さをようやく後悔し始めた俺は、急いで踵を返そうとするが。
「――コン!」
「えっ?」
それまで聞いたことのない声色の鳴き声に俺が視線をその元へとやれば、いつの間に現れたのか、神社の入り口に例の狐が座り込んでこちらを見ている。
思えば、初めてこの狐から狐らしい声を聞いたような気がする。
「なんだってんだ……お前、本当に妖怪かなんかなのか? 俺を取って食おうってのか。恩知らずなヤツだな」
内心この場の不気味さに冷や汗をかきっぱなしなのだが、そのことを気取られないよう、俺は精いっぱいの虚勢を張る。
狐はそんな俺の見栄張りに気付いているのかいないのか、立ち位置を神社の前から移動させた。
止まった場所は、先ほど俺が何だか分からないと言った二つの土台の元である。
よくよく見れば、二つある土台、その一方の下には砕け散った石がまばらに散乱している。
次いでもう片方へと視線をやると、妙なものが目に入った。
灰色の、小さな固形の物体である。
暗さゆえこの距離からでは仔細を確認できないため、俺は近づいてそれを拾い上げてみる。
「……人形? いや、石像か、これ」
それは、掌に乗るほどの小ささの、何かを模した石像だった。
「これ……狐か?」
四方から観察し、ようやく狐を模した石像であると俺は気付く。
赤い前垂れを首から下げた、うす汚れきったそれを、足元の狐はじっと見つめている。
そして気付いたが、二つある土台は、大きさに大分違いがある。
俺の目の前にあるものは、隣のものに比べると二回りほども小さい。
それこそ、俺の手にある石像には丁度いいサイズである。
「なんだ、これを戻せってのか?」
「コン!!」
先ほどよりも更に大きな声で、いかにも狐らしい鳴き声でもって返事を返してくる。
そうすることでまた妙なことになりはしないかとの思いが無いではなかったが、俺は石像を土台にちょこんと乗せる。
「……」
ここ最近は超常現象など慣れたもの、何か不味いことが起こりそうならその瞬間逃げ出そうと俺は構えていたが。
「……なんだ、何もないのか?」
注意深く周囲を探り続けること数分、何も起こるような気配はない。
また狐の方はといえば、今度は元の通り建物の入り口に戻っていた。
そしてまたも、こちらを呼ぶように声を上げる。
「今度は何だよ……」
次にまた何かありそうなら、今度こそこいつの言うことなど無視しようと心に決めつつ、恐る恐る俺は近付く。
入口の扉の前には、一メートル四方ほどの木箱が置かれていた。
これもやはりボロボロの状態だが、どこかで見たことのある形状だ。
「なんだこりゃ? ……ああ、もしかして賽銭箱か、これ」
「――コン!」
どうやら当たりらしい。
神社にある箱、それも上部に梯子上の
横にいる狐は、俺と賽銭箱を交互に見比べつつ、何か期待するかのような目を向けている。
いよいよもって妖怪の類であるとの思いが強くなってきた。
「ったく……分かったよ。入れてやっから俺を呪ったりしないでくれよ?」
とにかくことを穏便に済ませるため、俺は財布を取り出し、一枚の五円玉を投げ入れる。
投げ入れられた硬貨は、乾いた音を立てて中へと吸い込まれていった。
すると。
「――おおっ!? ……お、おうおう、分かった分かった。よしよし」
その途端、狐はぶんぶんと尻尾を振りつつ、俺の足元を犬のように回り始めた。
どうやらお気に召したらしく、会った当初のように自ら頭を差し出し、俺が差し出した手に撫でられるままになっている。
「させたいことはこれで全部か? んじゃ、俺は行くからな」
ひとしきり撫で終えた後、俺はそう言ってその場を後にしようとする。
今度こそ狐の方は何をも言うことなく、戻ろうとする俺をじっと見つめているのみであった。
元の道路には驚くほど早く戻れた。
というか、どう考えても距離が短くなっている気がしたが、そこはもう気にしないことにする。
スマホで時間を確認すると、優に一時間以上の時が経過していた。
「しっかし、まあでも……何も起こんなくて良かったってとこかな」
ラピスが居ない今、俺一人では対処不可能な事態になっていた可能性は捨てきれない。
実はけっこう危ない橋を渡ったのではないか、との思いがようやく浮かび上がってくる。
……そういえば、あの木の板で辛うじて読めた文字に”稲荷”ってのがあったな。
もしかすると本当に狐の神様か何かだったのかもしれない。
「ま、あいつって存在があるからな。そりゃ、こっちでも
ともあれ、一応は危害など加えられることもなくことを過ごせた。
今日の夜にでもまた、この話をあいつにしてみよう。
そう思い、山を背に歩き出さんとした時のこと。
『――ありがとう』
……気のせいだろうか。
人の声のようなものが聞こえた気がする。
『またね、おにいさん。それと……責任、とってね』
気のせいではない。
澄き通ったように美しい声が、後方から届いてくる。
「……?」
がしかし、振り向いた俺の視界には何も映ってはいなかった。
目の前にはただ、暗い森が広がるばかりである。
「勘弁してくれよ、ったく……。次から道変えようかな……」
俺はそう独り言ちると、喫茶店への道を再度歩み始めたのであった。