「じゃっわーーーッ!!」
ようやく訪れた週末、土曜の朝である。
この一週間は、まあ色々と紆余曲折あったものの、この一か月のことを思えば比較的穏やかに過ごせたと言える。
さて、朝方から響く頓狂な叫び声を何ごとかと思われているかと思うが、まあ、それが誰かはこの特徴的な悲鳴から明らかであろう。
「ふわぁ……おはよう」
手に残る熱を感じつつ、俺はベッドから転げ落ちたそいつに向かい声をかける。
今日も今日とてそいつは、四つん這いの姿勢で手を尻に当てつつ悶絶していた。
「うぅ……なんだか込める力が日に日に強くなっておるような気がするんじゃが……」
「そう思うならいい加減俺の上で尻向けて寝るのはやめろ」
そう、毎日なのだ。
これが一回や二回ならば、俺もこうして手を上げたりなどしない。
しかしこう毎朝ときては、いっそわざとかと勘繰ってしまいそうだ。
「そう言われてもぉ……寝相なのじゃから仕方ないではないかぁ~。狭量なお人じゃ」
「ほぉ~? こんな毎日毎日同じ寝相になるってのか?」
「事実なのじゃから仕方あるまい!」
そう言って、いかにも自分は悪くないとでも言いたげに鼻を鳴らす。
ならばと、俺も冷静に宣告してやることにした。
「なら俺の対応も継続だな」
「そんなぁ! ……そもそもじゃな! 愛しき下僕に対するものとして、かような態度は如何なものかと思うぞ! 優しく抱き起こし、おはようの接吻の一つくらい――」
「八時か、丁度いい時間に起きたな。そろそろ花琳が呼びに来る頃かな」
「わしの話を聞けーっ!!」
朝っぱらから喚き散らすラピスを無視し、俺は寝間着姿のまま部屋を出ると、花琳が待つリビングへと向かった。
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「兄貴さ~、そろそろ窓開けて寝るのやめなよ。兄貴だって寒いっしょ?」
「うん? どういうことだ?」
花琳は紅茶を飲みつつ、そう声をかけてくる。
用意された朝食は互いに食べ終わり、のんびりとした時間が流れていた。
「どうもこうもないよ。例の猫、毎日来てんでしょ? 今日も声聞こえてきたよ」
「ああ、そのことか。いや、いくら叱っても懲りないヤツでな。窓閉めてても器用に開けてくるんだよ」
「なにそれ……」
「それより花琳。受験勉強の方はどうなんだ。順調か?」
ラピスに関する話題はなるべく避けたい俺は、やや強引ながらも話を変える。
「――ん? んー……ぼちぼちってとこかな。このままなら多分なんとかなりそう」
「そうか。ウチは高校からだとけっこう難しいらしいからな。頑張れよ」
「ほんとだよ。あたしも兄貴みたく中学から入れてれば楽だったのにさ」
「クジ運だからな、こればっかはどうしようもないだろ」
「まぁね~……」
俺の学校が中高一貫校だという話は大分前に述べたが、まだ説明していないことがある。
まあ、特に説明する必要もない話であったからなのだが。
それが何かといえば、妙な受験システムを取っていることだ。
中学受験では例え合格点を取れても、その後にあるクジで合格者の半数は落とされてしまうのである。
これは全国的にも珍しいシステムらしいが、他の学校でも採用しているところは何校かあるようだ。
それで俺は無事
あの時の花琳の憤慨ぶりは未だに思い出すのも恐ろしい。
ちなみに高校受験になるとこの馬鹿らしいシステムは捨て去られ、純粋な学力勝負となる。
妹は今度こそという意気込みでもって中学三年の今、来たる春に向け頑張っているというわけだ。
しかし、どうして花琳がウチの学校に行くことをこうまで固執するのかは謎である。
正直、花琳の学力は見た目に反し――というと失礼だが相当に高く、望むならもっと上の学校も狙えるはずだ。
……ま、そこまでは詮索するべきことでもないだろう。理由は人それぞれだ。
「――ま、でも高校の方は完璧成績だけで取るんだ。今度こそ頑張れ」
「ん、ありがと。……あ、そだ。今日ノート買いに行かないと。そろそろ切れそうなんだよね」
「ふーん……」
とりあえずの相槌を打った俺だが、妹の言葉をもう一度頭の中で反芻するに、ふとあることに思い至る。
「花琳、俺もついてっていいか?」
「え? ……あ、うん。そりゃ別にいいけどさ。どしたの兄貴、珍しいじゃん」
「俺も丁度買いたいもんがあってな」
ノートという単語で思い出した。
あいつに文房具の類を買い与えてやらねばならないことをだ。
今のところは俺のお古や、もしくはクラスの連中に借りたりしているようだが、いい加減一通りのものを用意してやってもよかろう。
……それに、例の
花琳にはうまいこと言って、山を越えた先の文具店に行くことにしよう。
「で、どうすんの? 食べ終わったらすぐ行く?」
「いや、こんな早くからは店も開いてないだろ。昼食ってからにしようぜ」
「そ、そっか、そうだね。んじゃそうしよっか。お昼、何か食べたいもんある?」
――ん?
「リクエストしていいのか?」
「うん。何がいい?」
花琳が食事の献立を聞いてくるときというのは、決まって機嫌がいい時である。
ちなみに機嫌が悪いときは、俺に対するあてつけのように俺が苦手なメニューばかりで構成される。
……サバ缶ひとつきりなどというのは流石にあの時くらいだが。
「そうだな……ちょっと考えていいか? あとで言いに行くよ」
「いいけど早くしてよ。あんまり遅かったらこっちで勝手に決めるからね」
「はいよ、んじゃまた後でな」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
「――てなわけだ。何か食いたいもんあるか? うまいこと言って多めに作ってもらうからさ」
「むうぅ~……」
部屋に戻った俺は先ほどの件をラピスに伝えるも、なにやら彼女は呻りつつ俺を睨めつけている。
「なんだその不満そうな目は」
「なんだではないわっ!!」
瞬間、ラピスの口から怒号が発せられる。
「おおっ!? ――ちょ、お前、声でかいって」
「折角の休日、ようやく一日自由になれる時間を得たというに……汝はなんじゃ、わしより他の女のためにその貴重な時を使うと申すか!?」
「他の女ってお前、妹だぞ……」
「なんでもよいわい! 下僕の忠勤に対し、この機にその労をねぎらってやろうという気遣いの一つもできぬのか貴様は!」
「あ、あぁ~……そういう……」
そこまで言われ、俺はようやく得心がいった。
……つまるとこ、ラピスは俺に構ってほしいのだろう。
まあ、こいつの言うことには一理ないこともない。
生まれて初めての労働を、まがりなりにもこいつは一週間やり通したのだ。
内弁慶なこいつにとっては、それなりのプレッシャーもあったことだろう。
なれば、その頑張りに対して何かしらの見返りが欲しいというのは自然な欲求である。
「……しかし自分で言うか、それを」
「汝が鈍いからじゃろうがっ!! わしとて、こんなことを自分から言い出しとうなかったわ!」
そう言うラピスの顔はやや赤い。
できれば俺の方から、そうした誘いの言葉をかけてほしかったのだろう。
「――ま、そりゃたしかに悪かったよ。じゃ、明日二人でどっか遊びにでも行こうぜ」
「……まことか」
期待が空振りに終わった直後ということで、俺を見るラピスの目は疑いの色が濃い。
「ああ、約束だ。休日は今日だけじゃないしな。どっか行きたいとこでもあるか?」
「むむ……そう言われてもの。わしはどこかに出かける、といった経験なぞしたことがない。汝に任せる」
「そうか。まあそういうことなら明日までになんか考えとくよ」
「うむ、期待しておるぞ」
返答するラピスの声からは、それまであった棘が消えている。
一応、機嫌は直ったようだ。
「で、言った通り今日は妹と出かけることになったんだが、お前はどうする? 家で待っとくか? ……それとも透明化して付いてくるか?」
「ふん、そんなうすらみっともない真似なぞ御免じゃ。今日のところは聖のところにでも行くとしよう」
「ルナに? でもお前、バイトは平日だけだろ?」
「聖とはまだ話すこともあるでの。ここ数日は忙しさでそれどころではなかったゆえな」
「そっか。んじゃ、ほれ。先に渡しとくぞ」
「む?」
俺はそう言って、財布から一枚の千円札を取り出す。
「まあ聖さんのことだし金は要らないって言うだろうけど、一応な」
「変なところで律儀な男じゃの、そなたは。まあよい、貰っておこう」
「聖さんがそう言ったからって無駄遣いすんなよ?」
「わしは
子供そのものだろうが。
実際はともかく――いや、最近のこいつを逐一観察するに、元々精神的にやや幼いところがあるのではと思わないでもない。
「そんで話を戻すけどよ、昼飯は何がいいんだ?」
「ふん、そんなもの要らぬわ! 聖に言って何ぞ作ってもらうわ、この金でな! ぜーんぶ使ってやるからの!」
「……」
千円札一枚がどれほどの多寡だと思っているのだろうか、こいつは。
いや、いち高校生にとっては大金には違いないが。それでなくとも最近出費が多いしな。
……そういえばこいつ、まだ実際には金を見たことがないのか。
そもそも何かを買うという経験すらしたことがないのだ、さもありなん。
いずれルナで給料が出るだろうし、そのへんはおいおい理解していくことだろう。
死神の服から制服に着替え直したラピスは、そのまますぐ部屋を出ていってしまった。
「……いずれ制服以外も用意しないとな」
ラピスは気にしていないが、学校も無いのに制服姿というのはいかにも変である。
妹の服を借りるにせよ、万が一バレたときのことを考えるとそれはあまりやりたくない。
「――ん? そういや、これが初めてか」
ふとあることに気付いた俺は、他に誰もいなくなった部屋で一言漏らす。
というのは、ラピスがこの世界に来てから初めて、俺は部屋で一人きりになれたことだ。
これはまたとない機会を得た。
俺は考えを巡らせ、この機に――あいつの目がない今、やっておくべきことを模索する。
「……そうだ、あれだ」
俺は腰かけていたベッドから立ち上がると、机へと向かう。
そして上から二番目の、小さな引き出しへと手をかける。
「おっと、忘れてた」
俺はポケットから財布を取り出すと、小銭入れの中から小さな鍵を取り出す。
もちろんそれは言うまでもなく、手をかけかけた引き出しの鍵である。
さて、こうして鍵をかけてまで秘匿している中身についてだが、もし期待されているのならば謝らねばならない。
……中に入っているのは、いわゆる少しいやらしい本の類である。
と言っても、せいぜいがグラビア程度のものばかりであり、こうまでして隠すほどのものでもないといえばその通りなのだが、思春期の男子としてはやはり恥ずかしいものだ。
特に母親や妹などに見られでもしたら、俺は一か月は悶える羽目になるだろう。
……まあ、仮に彼女らに見つかったところで白い目で見られる程度で済むとは思うが、一人だけ例外がある。
あの嫉妬深い死神。
ヤツにこれらのブツを発見されるようなことがあれば、どんな惨劇を呼び込むことか分からない。
他の女と話したくらいでぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるあいつのことだ、これは杞憂ではなかろう。
よって、他にもっと完璧な隠し場所に移動――ことによると涙を呑んで廃棄、という線すら考慮に入れねばならないだろう。
実に惜しいが、命には替えられない。
俺は手に持つ鍵でもってしてロックを解除し、すっとその引き出しを開ける。
中には、三冊ほどのそれら雑誌が入っていた。
「……やっぱ、もしものことを考えると捨てるしかないのかなぁ」
結構お気に入りだったんだが。
俺はその中の一冊を取り出すと、名残惜しげにひとつ頁をめくってみる。
「……ッ!」
ばさりと、乾いた音が響いた。
それは、俺が手に持った雑誌を取り落とし、床に落ちた音である。
「馬鹿な、そんなこと……!」
間違いなく鍵はかかっていた。誰も開けることはできなかったはずだ。
俺はもう一度雑誌を拾い直し、他のページにも次々と目を通していく。
「……」
全てのページをめくり終えた俺は放心しきった顔で、
まるで悪い夢の中にでもいるような気分だ。
俺がこうして虚脱しきっている理由はひとつ。
雑誌に載っている女性たちの
これが一つや二つならばまだ、単なる偶然と強引に思い込むこともできたろう。
がしかし全ページに渡り、そのすべてがときては、それもかなわぬこと。
念のために残った本についても確認してみたが、やはり同じような処置がなされていた。
「……あいつ、気付いてたのか? いや――」
そんな素振りはなかった。
大体鍵は俺が常に持っているのだ、あいつに開けられるはずがない。
……いや。
こんなチャチな鍵ひとつ、あいつの力をもってすればどうということもないだろう。
俺は
その理由は、これらがラピスに見つかっていたことそのものではない。
なにより恐ろしいのは――その上であいつが、普段通り俺に接し続けていたことだ。
これならば激怒でもしてくれたほうが余程いい。
……そして俺はこのとき、ラピスのとある台詞を思い出した。
『わしは、その女を殺してしまうやもしれぬ』
あの時も言い知れぬ凄みを感じたものだが――ことここに至り、それ以上の重みをもってして、俺の脳内に木霊し続けていた。