玄関で時間を確認すれば、もう一九時になろうかという時分だった。
随分と長いことミナと遊んでいたようだ。
これはラピスへの言い訳が面倒なことになるな、と思いつつ俺は戸を開ける。
中に入った俺を、まずは妹の怒号が出迎えてくれた。
「兄貴おっそい! あたしより早く出たくせになにやってたのさ?」
「いやすまん、ちょっと長引いてな」
「もう……晩ご飯もう出来るからね!」
肩を怒らせて台所へと戻る花琳を見送った後、俺は階段を上がり自室へと戻る。
「戻ったぞー。ちょっと遅くなったけど、これには訳が――……」
言葉は途中で途切れる。
部屋の中には、何者の姿も確認できなかった。
「あれ……? おーい、ラピスー?」
名を呼んでみるも、やはり返事はない。
分かり切っていたことだ。
もしあいつが居るのなら、そもそも俺がドアを開けた瞬間にも飛びついてくるはずだからな。
「しかし、部屋にいないとなると……」
まさか、まだ帰ってないというのか?
あいつが出たのは朝方だ。
ルナに行くと言っていたが……バイトも無いのにこんな時間までずっととは考え辛い。
ふと、俺の背にぞわりとした悪寒が走る。
もし――もし、あいつが一人でいるところに、偶然例の世界の追手と出くわしたのだとしたら?
俺の脳内は高速回転を始め、考え得る最悪の事態を思い描く。
仮に、仮にそうだったとして、あいつがその追手に掴まりでもしていたら――
「花琳っ! ちょっとまた出てくる!」
「はぁ!? ちょっ、ごはんごうすんの! ていうかこんな時間にどこ行くの!」
「忘れもんだ! メシは取っといてくれ!」
後ろから尚も花琳の怒鳴り声が届いていたが、俺は振り返りもせず夜道を駆け出す。
ここ一週間は平和に過ごしていたからか、俺もラピスも油断をしすぎていた。
ナラク一人をなんとか撃退することができたとはいえ、それで後続を断ったというわけではない。
状況はなにも好転などしていないのだ。未だ命を狙われているという状況に、何も変わりはしない。
やはり遅くとも日が落ちかける前には戻るべきだった……くそっ!
ルナへの道を辿る最中、俺は周囲に気を払うことも忘れない。
あいつの手がかりとなるものがあらば、ただの一つも見落とすことがないようにだ。
がしかし、今までそれらしい痕跡は一切発見できていない。
――いや、正確に言えば少しばかり気を取られたものはあった。
俺は今、例の山を越えてアーケードの入り口に差し掛かろうとしているところだが、山道の中腹あたりを走っている時、何者かの視線を感じた気がしたのだ。
しかし街頭もない山の中は真っ暗闇で、仮にそうだとして俺に確認の術はなかった。
その際とある少女のことが頭を過ったが……そんな有り得ないことを何故想像してしまったのか、それは俺にも分からない。
アーケードには店からの明かりは少なく、昼よりも夜の方がよりうら寂しい雰囲気を漂わせている。
俺はそんなシャッター街寸前の商店街を走り続け、ルナへと到着した。
「はーっ……はーっ……」
店の前で、俺は両膝に手をつき荒い息を吐き出す。
三十分以上ずっと走り続けてきたため、俺の息はすっかり上がってしまっていた。
それでも、常日頃から運動不足を実感している俺にしてはよく体力が持った方である。
おそらくはこれもラピスの言うところの能力向上の賜物なのだろう。
「――あれ?」
ふと見れば、店の扉には『Closed』の札がかかっている。
確か閉店時間はまだ先だったはずだが……店には光が灯っており、まだ中に誰かいるのは間違いないが。
ともあれ、俺は果たしてラピスがいるかどうか、ガラス越しに中を窺おうとした。
――が、そうするより先に俺の目に止まったものがある。
「……?」
店の前に、立て看板が立っている。
昨日までこんなものは無かったはずだ。
こんなことをしている暇はないと知りつつも、興味を引かれた俺はその立て看板に掛かてれいる内容に目を通す――と。
次の瞬間、俺は店の扉を蹴破るようにして乱暴に中へと押し入った。
そして、そんな俺の目の前に広がる光景は。
「「「――かんぱーい!」」」
他に客の居ない店の中で、三人の男女が陽気な声を上げている。
……そしてその中には、俺の意図する人物の姿もあった。
相当大きな音を立てたはずだが、彼女らは俺の侵入に気付いた様子もない。
俺は、一度大きく深呼吸をし――あらん限りの声を張り上げた。
「くぉらあああああっ!!!!」
その声でようやく中の三人は気付いたようである。
最初に声をかけてきたのは聖さんだった。
彼女の手にはビールの入ったグラスが握られている。
「おお竜司くん。なんだ今日は遅かったじゃないか」
「遅かったじゃないか――じゃない! なんなんだ表のアレは!?」
俺は敬語をも忘れ乱暴な物言いになってしまうが、それもこの場では致し方ないこと。
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以上が表の看板に書かれていた内容である。
俺の激高も理解して頂けたろうか?
「どっかの怪しげな夜の店かここはよぉ!?」
「こらこら、失礼なことを言わないでほしいな。たゆまぬ営業努力というやつだよ」
「どの口がっ……! あー、もう……ラピス!」
「――んむ?」
声をかけられたラピスは、パスタを頬張りつつ間の抜けた返事を返す。
今まで俺がしていた心配など、どこ吹く風である。
「どうしたのじゃ我が君」
「どうしたもこうしたもねぇ! お前は何とも思わねえのか!?」
「どう思う、と言われてもの。実際相当の売り上げに繋がったようじゃぞ――のう?」
「うんうん。一日でこれほどの利益を叩き出したのは初めてだよ。たまたま今日ラピスちゃんが来てくれてよかった。本当は週明けからと考えていたんだが」
実にのほほんとした二人のやり取り。
がしかし、俺が言いたいのはそういうことではない。
「そうじゃなくてだなっ! お前、ただでさえ人見知りするってのに……いいのかよ!?」
そう。
こいつは俺が傍にいる時こそ誰に対してもふてぶてしい、ともすれば無作法とも取れるほどに尊大な態度を示すが、いざ一人になれば別人のように気弱になる奴なのだ。
ここまで一人で――聖さんが居るとはいえ、こうして接客業を続けられてきたこと自体が奇跡に近い。
だが、それもいつまで続くか分かったものではない。
こいつが想像以上に打たれ弱い奴だということを、俺は誰よりもよく知っている。
「……ははあ、なるほどの」
口の周りをトマトソースで汚したまま、ラピスはにやりと俺に笑いかける。
「我が君よ。そなたの心中、そのおおよそはわしにも分かるぞ。端的に言って、わしが心配じゃと言いたいのじゃろ?」
「んっ……む……ま、まあ、えっと……」
その通りではあるが、それを素直に認めるのはどうも気恥ずかしい。
俺はつい言葉を言い淀んでしまった。
そんな俺の姿を見て、ラピスの笑顔はより深くなる。
「くっく……やはり何のかんのと言うても、わしのことが大切で仕方がないと見える。いやまったく、ほんに喜ばしいことじゃ。照れておる姿もたまらなく愛おしいぞ?」
「ちっ、違っ……」
「まったく、隙を見せるとすぐにイチャイチャしだすんだな君たちは。羨ましさでどうにかなってしまいそうだ」
グラスに入っている液体をぐびりと飲みつつ、聖さんが茶々を入れてくる。
「ていうかですね! 聖さんも言ってたじゃないですか、変な客を呼び込む恐れがあるって! 実際この前みたいなことがまたあったらどうすんですか!?」
「安心したまえ。そこは既に手は打ってある」
「はぁ!?」
「――そこで俺の出番ってワケよ、小僧」
とここで、三人のうち最後の一人――何故か閉店後も居座っているナラクから声が上がる。
見れば、身に纏っている服装もいつもとは違う。
小奇麗な、おおよそこいつが所持しているものだとは思えぬタキシード姿である。
「ナラク、お前……」
この珍妙な取り合わせに俺が質問しようとするのを、続く聖さんの言葉が止める。
「昨日の一件、実に見事な手際だった。そこで私はこのナラク氏に、もし職を探しているならこの店で一緒にと持ち掛けたんだ。ウェイター兼
「なんっ……」
「いやいやァ、この姉ちゃんから話を振られた時ァ、俺も半信半疑だったがね。ただ、いい加減あのオッサンどもに世話になりっぱなしってのも悪ィって思ってたとこだったからよ。それにいざやってみりゃァ楽なモンよ、ただその辺に座ってタダ飲みしときゃいいんだからな」
「キミの主だった役割はさっき言った後者の方だからな。お客様もラピスちゃんに接客されることを望んでいるはずだしね。しかしコーヒー代はしっかり給料から引かせてもらうよ?」
「なんだなんだ、ケチくせェな」
嫌な予感が的中した。これ以上ないほどに。
しかし……しかし、まさかこんなことになろうとは。
「――というわけだ、理解して頂けたかな?」
「……」
もはや俺は言葉を失ってしまう。
そして、愕然として肩を落とす俺を尻目に、ラピスは。
「聖っ! おかわりじゃ!」
呑気に料理のおかわりを要求していた。
「じゃんじゃん食べてくれたまえ。ラピスちゃんはこの店の救世主なのだからね――っと、おおそうだ。その前に」
聖さんはカウンターから茶封筒を持ってくると、それをラピスに手渡す。
「これは?」
「今週分のお給料だよ。本当は一か月経ってからにしようと思っていたんだが、いい機会だからね」
「おおっ! 報酬というわけじゃな!?」
「そうだとも。ただ思いがけず大金になってしまったから使い道にはよく気を――ラピスちゃん?」
聖さんが言い終わるのを待たず、ラピスはとてとてと足音をさせながら俺の元まで駆け寄ってきた。
「我が君、我が君っ! ――ほれ、貰ったぞ! どうじゃ!」
ラピスは封筒を掲げ、ぴょんぴょんと跳ねつつ俺にアピールしてくる。
「……ん、おめでとう。確かに頑張ってたからな」
今後のことを考えると不安だらけだが、この点は素直に褒めるべきだろう。
内弁慶なこいつが、まがりなりにも一週間しっかりと勤めを果たした結果なのだから。
「そうか、我が君も嬉しく思うてくれるのじゃな! わしも甲斐があったというものじゃ。よし、では――はいっ!」
「――は? はいって?」
何を思ったか、ラピスは手に持つ封筒を俺に差し出してきた。
意図を察せぬ俺は、小さく声を上げたのみである。
「は、ではないわ。ほれ、さっさと受け取らぬか」
「……預かっといてくれってことか?」
「なーにをとぼけたことを抜かしおるんじゃ。言葉の通り、汝に献上しようというのじゃ。それくらい分かっておろうが?」
「ばっ……お前、何を――」
ラピスのとんだ発言に、俺は奥の二人に目をやる。
案の定、白い目をした二人の視線が俺に突き刺さった。
「竜司くん……」
「小僧……流石の俺でもちっと引くぜ、そいつァ……」
「いやっちっ、違うんです! 俺はそんなつもりじゃ――……ていうかお前も何考えてやがんだよ!? お前の稼いだ金だろうが!」
二人の白眼視に耐え切れず、俺は慌ててラピスに訂正させようとするも。
当のラピスは何食わぬ顔で、あっさりと次の台詞を言ってのける。
「だから何じゃ?」
「いやだから、何も全部俺に渡さなくたってだな。お前だってこれからいろいろ欲しいものとか出てくるだろうし、そのために――」
「そんなものは有りはせぬ。欠片もな」
「いや、今はそうかもしれねえけど、今後のことを考えてだな」
「リュウジよ」
封筒をぎゅっと両の手で握り締め、ラピスは俺の名を呼ぶ。
「何度でも言うがの。わしはな、汝と共にいられる――それだけで十分なのじゃ。これ以上ないほどの幸福を、わしは常日頃から汝より受け取っておる。じゃというに、わしはそれをただ甘んじて享受しておるばかりじゃった。それを思えば、わしは嬉しさの反面、心苦しいことこの上なかった」
「……だから……んなこと考える必要なんて無いって言っただろ」
「そうはいかん。そんなことはわしという存在の名折れじゃ。よってわしは、どうにかして汝に感謝を形として渡したいと思い続けておった。そんな折にての、これじゃ。あまりに即物的ではあるが――のう、リュウジ。優しいそなたのことじゃ。もしただ受け取るのが心苦しいというのなら、これはわしの為だと思って受け取ってはくれぬか?」
「うっ……」
ラピスの真っ直ぐな視線、そして言葉に当てられ、俺は胃のあたりに鈍痛を感じる。
その痛みの正体は、ラピスに対する後ろめたさによるものだろう。
一見楽しげに働いていたように見えるが、先ほども述べたこいつの性格を顧みるに、その実かなり精神を擦り減らしていたはずだ。
そんな、不慣れな仕事を懸命にこなしていたのは、他の誰でもない、この俺のためだけなのだと――こいつは言った。
だというに、当の本人はどうだ?
そんな献身的な者を差し置いて、そこらで見かけた少女と連日遊び惚けている始末。
とてもそんな献身を受け取れる立場にはない。あまりに不釣り合い、分不相応だ。
ここにきて、俺はようやくその愚に気付く。
「――わかったよ。けど、こいつはお前の稼いだ金なんだ。預かっとくだけにしとくからな」
心中で己を罵倒しつつ、俺は差し出された給料袋を受け取る。
……受け取ってみて分かったが、封筒はかなりの厚みがあった。
仮に入っているのが全て千円札だとしても相当な額になるだろう。
あの人、一体いくら包んだんだ?
そう思い袋の中身を改めようとする行為は、合図もなく抱き着いてきたラピスによって中断される。
「――うおっと!? ……お前な、いい加減何も言わず突っ込んでくるのはやめろよ」
「ふふふ、そう言うな。わしは今、これ以上なく嬉しいのじゃ。まだまだ今まで受けた恩に報いるにはまるで足りぬが、こうして汝に尽くすことができてな……」
「お前……」
ラピスの温かい体温を感じながら、俺はまたしても良心の呵責を感じる。
……ミナのことは、いずれ正直に話そう。
相当な折檻を喰らうことになるだろうが、それは仕方がない。
問題はタイミングだ。
どの折に言うか――……
「……ん? おい、ラピス?」
「……」
俺の胸に顔を埋めたまま一言も喋らないラピスを訝しみ声をかけるも、彼女からの返答はない。
「おーい? ラピ――」
「さて! 我が君が迎えに来てくれたことじゃし、そろそろわしはお暇しようかのう!」
もう一度呼びかけようとしたところで、ラピスはぱっと俺の胸から顔を離すとそのまま振り返り、聖さんへ声をかけた。
「うん、確かにもう今日は遅い。親御さんも心配していることだろう。竜司君、送っていってあげなさい」
「は、はあ……それじゃ行くか、ラピス」
「うむ」
そうして振り返ったラピスの表情は、ぱっと見いつもと変わらないものに思える。
だがしかし、何故であろうか。
笑顔を浮かべる彼女の様子が、つい先ほどと比べ、
「おっとそうだ、竜司君」
「はい?」
「若いうちから女性に貢がせて生活するような男を目指すなどというのは感心しないよ」
「そんなんじゃありません! ったく――行くぞラピス」
俺が感じたちょっとした違和感は、そのような聖さんとのやり取りの中で雲散してしまった。