拾った死神様は豆腐メンタルのヤンデレ幼女でした   作:針塚

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第一夜

 

「うーっす。お、鈴埜。相変わらず早いな」

 

 授業が終わり、部活に顔を出した俺は、いつものように鈴埜の横に座ると、行きがけにコンビニで購入していた漫画を読み始める。

 

「……来て早々漫画ですか。先輩、自分の部活が何か理解してます?」

「ん~? んー……」

 

 帽子の(つば)の下からこちらを見つめる鈴埜の目を見ながら、俺は適当な相槌を返す。

 鈴埜 (めい)

 学年は中学二年生で、俺の三つ下にあたる。

 中高一貫校であるところの我が学校では、中等部も高等部も部活は一緒くたにされている。

 といっても、運動部になるとまた違うようだが。

 

 鈴埜は中一の時に入部してきたが、入部当時は俺に対してもオドオドした態度でもって接し、まるで震えるハムスターか何かのようだった。

 それが今や、毒舌を振り撒く小悪魔さながらというのだから、女の変化というものは恐ろしい。

 さらに今年部長という肩書を手に入れた鈴埜は、どうもやる気というか、使命感に燃え始めたように見える。 

 

 部長になってから被り始めた、まるでおとぎ話の魔女を彷彿とさせる三角帽は、その一環だろうか。

 お互い座った状態で向かい合うと、俺は背の低い鈴埜を見下ろす形になる。

 

「没収」

 

 俺の手から、手にした漫画が奪い去られる。

 横を向けば、見るからに不機嫌そうな鈴埜の顔があった。

 

「あ、おい、何すんだ!」

「何だじゃありませんよ。まったく、高二にもなって勉強もせず、漫画ばかり読んで……」

「お前は俺のおふくろか! 放っとけ!」

「大体どうせ読むならですね、先輩。この前渡したの、読みました?」

「え」

 

 俺は言葉に詰まってしまう。

 この話題だけは避けたいところだ。

 

「あ、ああ~……うん。よ、読んだよ?」

「私の目を見て言ってくださいよ。なんで逸らすんです?」

「……すまん。最初の数ページは読んだんだが、その、内容がさっぱりで……」

「はぁ~……」

 

 当てつけのように大きなため息をついた鈴埜は、再度俺に向き直り、言った。

 

「どうせそんなことだろうとは思ってました。ですから、今日はいつもとは違うものを用意してきました」

「いや、鈴埜……悪いが、やっぱ俺、どうもオカルト系の本はやっぱ、難しいっつうか……」

 

 こいつが渡してくる本ときたら、どれもこれも哲学めいたものばかりで、一体何を言いたいのかさっぱり分からないものばかりだ。

 その上、説明もなしに謎の固有名詞を初っ端から連発しまくってくるせいで、ただでさえ分からない内容が一切頭に入ってこない。

 これなら教科書を読んでいた方がマシとさえ言えるレベルなのだ。

 

「安心してください。これはおバカな先輩にも分かるよう、限界まで分かりやすさを追求した造りになってます」

「お前今、さらりと酷いことを言ったな!?」

「じゃあ今までの本をきちんと読んで、その内容を私に伝えてみてくださいよ」

「ぐっ……」

 

 俺はまたしても言葉に詰まってしまう。

 

「分かったよ。一応チャレンジしてみる」

「一応じゃありません。全身全霊をもって望んでください。これすら分からないようであれば、私にはもう手の施しようがないです。まったく、どれほど私が苦労したか……」

「まるで自分が書いたみたいな言い方をしやがるな」

 

 一瞬。

 鈴埜の表情が強張ったように見えたのは、俺の見間違いだったのだろうか。

 

「今まで先輩に渡した本の作者様達に申し訳が立たないだけです。――とにかく。約束ですよ」

「へいへい」

 

 ………

 ……

 …

 

「はぁ……気が重いが仕方ねえ」

 

 自宅に戻った俺は、鈴埜から押し付けられた本を机に置き向き合ったまま、気怠げに呟く。

 外見からして、見るからに固そうな内容が書かれていそうな、大仰な装丁がなされた本である。

 頁を開く前から意気消沈してしまいそうになりながらも、俺はとりあえず表紙をひとつめくってみる。

 またぞろ難解な単語の羅列が待っているとばかり思っていたのだが、目に飛び込んできたのは、ただ一枚の絵が書かれているだけの頁であった。

 難解どころか、そもそも文章自体が存在していない。

 

 ぺらぺらと頁を送ってみるも、どこどこまでも文章のない、まるで幼児向きの絵本のような内容が続いているだけだ。

 確かにこれなら俺でも読める――というか、これは『読む』と言えるのか?

 

 まあ、これなら楽勝だ。

 一気に気分が楽になった俺は、描かれている絵の一つ一つを読んで、いや、見ていく。

 

「なんつうか、意図が分からないっていうか……なんだ? もしかして、読み手にこういうのをやれっつってんのか?」

 

 絵にはすべて、一人の人間が描かれている。

 可愛らしくデフォルメされた絵柄だが、その内容が異様だ。

 階段から落ちる絵。机に頭をぶつけている絵。

 どの頁を開いてみても、ロクな目に合っていない。

 酷いものになると、手首を刃物で切っているものまであった。

 そうしたケガばかりしているせいか、描かれている人物は常に血を流している。

 

「見た目は絵本みたいでも、内容は流石オカルトってとこか。悪魔召喚の儀式でもすんのかよ……ん?」

 

 悪趣味な内容に辟易し出した俺は、自然と頁を送るスピードを速める。

 文章が無い上に、頁数そのものもたいしたことがない本だ。

 何分も経たないうちに最後の頁に到達する。

 

 最後のページに書かれていたものは、やはりそれまでと変わらず、文章のない、ただの一枚絵。

 ただし、それまでとは絵の意図しているところが違うように思える。

 というか、その意図がさっぱり意味不明なのだ。

 

 書かれているのは、渦がひとつ。

 螺旋状の渦が、1ページ全てを使って描かれている。

 そして本の中心、つまり渦の中心部にあたる部分にだけ、赤いインクでバツ印がなされてある。

 これは一体、何を意味しているのだろうか……。

 

「おーい兄貴ー、メシだぞー」

 

 階下から花琳の声が俺の耳に届く。

 おっと。

 もうそんな時間か。

 思ったより長い間、この最後の頁と向き合っていたようだ。

 最後のページだけは意味不明ではあったが、一応全部読破はしたのだ。鈴埜も文句あるまい。

 渦の意味については明日、あいつに聞いてみよう。

 

 本を閉じようとした、その瞬間。

 意図せず紙の端を撫でるように触ってしまい、指先に鋭い痛みが走る。

 

「つッ――!」

 

 突如として襲い来る痛みに、俺はつい、弾かれたように指を振ってしまう。

 一文字に切り裂かれた指先から、一滴の血が飛ぶ。

 自由落下に任せる液体を止めることなど当然叶わず、落下点にある紙へ飛沫状の染みを描く。

 

 借りた本を汚す。それも血という、考え得る最悪の液体で。

 鈴埜に何と言おう。

 なんと言い訳をしたらよいのか。弁償しようにも、こんな悪趣味な本が大手本屋に売られているとは考え辛い。

 

 それら、当然浮かぶであろう考えは全て――まるで一切、頭に上ることはなかった。

 俺の目は、血の落ちた頁に釘付けになっていたのだ。

 

 紙に書かれた『渦』が、動いている。

 まるで本物の渦のように、ゆっくりと回転運動をしている。

 黒いインクに血の赤が混じり溶け合い、不気味なツートンカラーを描く。

 やがて渦は――例えるなら風呂の栓を抜いた後のように、中心部のバツ印に吸い込まれ、消えた。

 残ったのは、小さなバツ印のみである。

 

「なん――」

 

 あまりにも衝撃的な光景に耐えられず、さりとて黙っていては余計恐怖が増しそうに感じられた俺は、何でもいいから声を上げようとする――が。

 こと(・・)はそれだけに留まらなかった。

 本から、一筋の光が走る。

 

「……ッ!」

 

 次の瞬間、俺は声にならぬ声を上げ、腰を折った前屈姿勢になる。

 それは突如として去来した、左胸の激痛によるもの。

 締め付けられるような痛みを覚えつつ、視線をそこに向ければ、俺の左胸――ちょうど心臓の位置から本までの間が、鎖によって繋がれていた。

 

「かっ……! こ、これっ……なんっ……!?」

 

 鈍い光を放つその鎖の先は、完全に俺の胸を貫通し内部に侵入している。

 俺の体内にどう入り込んでいるのか伺い知る術はないが、この息苦しさは、直接心臓を絡め捕られているかのようだ。

 呼吸が困難になり、意識が朦朧とする……

 

「おい兄貴ー! 寝てんのかー!? 開けんぞー!」

 

 その時。

 妹の声が、階下ではなくドアの向こう側から響いた。

 

「かっ……」

 

 ――いや。

 ここで助けを求めることが、果たして正しいのだろうか?

 この鎖が、花琳にまで襲い掛かからないとは限らない。

 すんでのところで思いとどまった俺は、飛びそうになっていた意識を気力でもってして押し留め、ありったけの声を振り絞る。

 

「だ、だいじょうぶっ……だっ……! 今着替えてるところだっ……からっ! 開けるな!」

「えっあっ……そう。は、早くしろよな! 下で待ってっからね!」

 

 階段を降りる妹の足音が小さくなってゆく。

 ――やはり、助けを求めるべきだったろうか?

 だが、それももう取り返せぬ後悔だ。

 いよいよもって万事休すか。そう思われたが、何か違和感がある。

 

「……? あれ……?」

 

 先ほどまで感じた息苦しさが、綺麗さっぱり消え失せている。

 どころか、胸に刺さっていた鎖すら、まるで初めから存在していなかったかのごとく、姿を消していた。

 本に目を落とすも、俺が血を落とす前の状態に戻っている。

 ……まるで訳が分からない。

 

 オカルト本だからって、なにも現実にホラーめいたことを起こさなくてもいいだろう。

 俺は手早く本を閉じ、そのまま明日鈴埜に返すため学校鞄に突っ込んだ。

 階下からまたしても妹が呼ぶ声が聞こえる。

 今すぐ行くと叫んだ後、急いで一階に降りる。

 とにかく一刻も早く、この部屋から出ていきたかった。

 

 その後夕食を済ませた後は風呂に入り、寝るまでダラダラと、リビングで何をするでもなく過ごした。

 あの場所に戻りたくなかったのである。

 睡魔に襲われ部屋に戻ったのは、時計の針が天辺を回った頃だった。

 

「……」

 

 寝床に入る前、もう一度あの本を開いて先ほどの現象が果たして本当だったのか調べようかとも思ったが、何か嫌なものを感じた俺は、そうすることなく布団に潜り込んだ。

 あれはただの幻聴、幻覚だったのだ。

 強引にそう自分を納得させ、これ以上要らぬことを考えないようさっさと寝ようと決めた。

 

 横になってから、時間にして十分も経ってないであろう。

 既に意識はぼんやりとし始めている。

 俺はあまり寝付きのいい方ではないのだが、妙な体験で神経をすり減らしたせいか、今日はすんなりと眠れそうである。

 

 明日……学校が終わったら……すぐにあの本を……返……

 

 ………

 ……

 …

 

 やけに寒い。

 布団に(くる)まっているはずなのに、まるで外に投げ出されているかのようだ。

 

「はっ……ぶしゅっ!」

 

 身震いを走らせた後、俺は大仰に咳をひとつ打った。

 今日はやけに冷えるな……。

 

 ――いや。

 いくらなんでも寒すぎる――というか、身体に何の重みも感じないのは一体……?

 

「あ……あれ? 布団……」

 

 目を開けた俺は、まず、それまであったはずの布団が無くなっていることに驚く。

 がしかし、そんなことは些細な問題であると、周りを見渡した俺は気付くことになる。

 

「なん、だ、ここ……?」

 

 ここが自分の部屋ではないことはすぐに分かった。

 明かりを消して寝ていたというのに、辺りが妙に明るい。

 それだけでなく、立ち上がるために地面に手をついた瞬間、驚きのあまり声を出してしまうほど冷たい感触に襲われた。

 地面に目を落とせば、成程それもそのはず、周囲の地面は一面氷で覆われている。

 天を見上げても、漆黒の暗闇が広がっているばかりで、見慣れた自分の部屋の面影など微塵も残っていない。

 

 改めて周囲を見渡すも、どこどこまでも氷に包まれた台地が広がっているばかり。

 ここにきて俺は、今現在自分が夢を見ているのだと自覚した。

 夢の中ではどんな荒唐無稽な出来事が起こっても夢だと気づかないことが多いと聞くが、今回ばかりは違ったようだ。

 

 そうだと分かれば、俺の心境は俄然楽になった。

 天からの光源は皆無だが、辺りは青白い光が無数に立ち込めており、それが氷塊へ乱反射を繰り返し、幻想的な風景を演出している。

 寒すぎるのが難点だが、これはいい不思議体験になりそうだ。

 

 ――が。

 楽しかったのは歩き始めた当初だけだった。

 どこまで歩いても風景は変わることなく、一様に氷の世界が広がっているのみ。

 途中真っ赤な水が流れる大河を発見したときはワクワクしたが、それきり何も目を引くものはなかった。

 

「はあ……もういいや。そろそろ目が覚めてもいいんだぞ、俺」

 

 寒さに震えながらそう独り言ちる。

 しかし残念ながら現実世界の俺が目覚めるには今しばらくの時が必要らしい。

 立ち止まっていると余計寒さが増すばかりなので、仕方なく俺は歩みを進める。

 さらに歩き続けていくうち、段々と道幅が狭くなってきたことにふと気付く。

 左右は大きな氷塊に囲まれ、狭い一本道の様相を呈している。

 いよいよ道幅が狭くなり、人ひとりがやっと通れる位になってきた頃、ようやく道の終着らしきものが見えた。

 

 それは、氷の洞穴とでも言うべきもの。

 ゲームなんかだと奥にボスやレアアイテムでも転がっていそうなシチュエーションだ。

 単調な道程に飽き飽きしていた俺は、心なし浮ついた気分で洞穴内部へと歩を進める。

 

 ……

 

 妙である。

 段々と息が苦しくなってきている。

 直接心臓を何者かに掴まれているような感じだ。

 この不快感は、洞穴内ゆえに酸素濃度が低いとか、そういった類のものが原因ではないように思われた。

 

 興味本位でここまで来たが、やはり引き返すべきか。

 そう思い始めた頃だった。

 どこまでも直線的だった細道の先に、左に曲がっている箇所がある。

 そこを曲がると、急に視界が開けた。

 

「――」

 

 俺は、その光景を前に、呼吸をすることも忘れ、ただ立ち尽くしていた。

 一見すれば、そこにはただの広い空間があるのみで、それそのものは特別何をか言うべきこともない。

 俺の目はただ一点、中央に鎮座する氷塊に注がれていた。

 

 人が、縫い付けられている(・・・・・・・・・)

 ある点を除けば、氷塊にもたれかかって座っているように見えなくもない。

 だが、縫い付けられているというのは言葉通りの意味で、身体の下腹部に、巨大な鎌が突き刺さっているのだ。

 恐らくは後ろの氷塊にまで貫通しており、その人物はピクリとも動かない。

 更に両腕を上げた姿勢の先端、その掌には、これまた巨大な杭が刺さっており、見るからに痛々しい。

 俺は、恐る恐る氷塊に近づく。

 

 ――今から思えば、何故このとき、こんな勇気を出せたのか不思議だ。

 夢の中だからという安心感が俺の背を押したのだろうか?

 

 目の前まで近づき、標本のようにされたその人物をつぶさに観察する。

 全身黒いローブに身を包んでいるうえに、フードを被った頭を項垂れさせているため、果たして男なのか女のかすら分からない。

 だが、ひとつ奇妙な点がある。

 頭部の左右から何か、角らしきものが生えているのだ。

 山羊の角に似たそれに興味を引かれ、俺はふと、触って確かめてみたい衝動に駆られる。

 

 俺が手を伸ばし始めた、その時であった。

 死んでいるとばかり思っていたその人物から、声が放たれたのである。

 

「……なんじゃ。ここまでしておきながら、まだわし様の力を削ごうてか。まったく、呆れるの……」

 

 生きていると分かった驚きで?

 

 ――いや。

 

 俺はこの時、あまりにも優艶なその声に、伸ばし始めた手のことすらすっかり忘れ、ゆっくりと頭をもたげるその様を、ただ見ていることしかできなかったのだ……。

 

 ゆっくりと頭を上げたその人物の顔が、俺の視界に入る。

 ――女性だ。

 

 それも、とんでもない美人――いや。

 そんなありきたりな表現が失礼にあたるほどの、途轍もない美しさを湛えた女だった。

 黒一色の衣装であるうえ、小麦色の地肌をしている色彩――とだけ書けば、暗い地味な印象を与えると思われるかもしれない。

 しかし、フードの下から見える白金の頭髪、そして紅玉(ルビー)を思わせる、紅く大きな瞳が、周囲の青白い光彩と相まり、目が眩むほどの輝きを発している。

 地味どころか、目を奪われるほど見事なコントラストであった。

 

 事実、俺は言葉通り目を奪われ、女の声に何をも返事を返すことができず、ただ阿呆の如く口を開けていたのだから。

 

「人間よ」

 

 黙ったままでいる俺をどう解釈したのか、女は緋色の瞳を細めさせ、抑揚のない声でもって続ける。

 

「あれからどれほど経ったのか、もはやわしには知る術もないが――恐らくは随分と(とき)が経過していることじゃろうな。じゃからわしについては話の上でしか知らぬのじゃろう。……何を言われてここまで来たのか知らぬが、()()ねよ。……焦らずとももう、わしに残された刻は少ない」

「い、いや、お、俺は――」

 

 古風な喋り方をする女の話は、ただの一つとして理解できるものがなかった。

 どう反応して良いものかわからず、みっともない狼狽を続ける俺の姿をどう解釈したのか、女は再び頭を項垂れさせると、諦めたように言った。

 

「何もせず帰れぬというなら、好きにせい」

「……は?」

 

 好きにしろとは、どういう意味だ?

 

「……随分久方ぶりじゃからな。できれば軽いもので勘弁してもらいたいものじゃが、言って聞くような貴様らでもなかろう。よう分かっておるよ」

「あんた、一体何を言って――」

「腕を()ぐか? 眼球を潰すか? いずれにせよ、はよう済ませよ」

「……」

 

 ――この女……

 

「……気が済んだら、さっさと去ぬるがよい。……わしを、静かに死なせてくれ……」

 

 言い捨て、それきり何も言葉を発しなくなった女を見下ろす俺は、それまで女に感じていた感情の一切を忘れ果てていた。

 

 がしり。

 

「ッ!?」

 

 女の体が、ビクリと痙攣したように跳ねた。

 俺は女の角を掴んだまま、強引に頭を上げさせる。

 

「……き、貴様っ! 角を掴むなこの無礼者が!!」

 

 再び視界に現れた女の表情は、それまでとは正反対に、素の感情を溢れさせている。

 

「おいこら、何を勝手なことをベラベラしゃべくってんだ?」

「なっ――」

 

 珍妙な格好をしたコスプレ女め。

 どうせ腹に刺さった鎌も、手の杭だって見せかけのトリックだろう。

 仮に本当だとして、そもそも夢の中での出来事なのだ。

 全ては見せかけ。実際に存在しているわけではない。

 そう思えば、現実の俺ならこんな美人を前にすればまともに喋ることもできないだろうが、何の遠慮もせずに思ったことを言い放つことができた。

 

「あんた、いくら夢――俺の想像だからってな、失礼すぎるだろ」

「ちょっ、き、きさっ、貴様っ! 揺らすな揺するな! こ、このわしに対しこのような――」

「俺がそんな拷問じみた真似をする人間に見えるってのか? ああん?」

 

 俺は角を掴んだまま、ぐりぐりと手を動かす。

 頭を左右に振られながら、それまでにない焦った様子で俺を()めつけ、俺に非難の声を浴びせ続ける女。

 そんなやりとりを暫く続けた後、ようやく互いに落ち着きを取り戻し始めたタイミングで、俺は掴んでいた手を放すと、言った。

 

「で、こりゃ一体どういうことなんだ」

「……貴様、本当に何も知らぬのか。如何にしてここまで来たのじゃ」

「そりゃ俺が知りたいよ。こっちこそ聞きたいことが山積みだ。……それ、本当に刺さってんのか?」

 

 俺は、女の下腹部に突き立てられている鎌に視線を落とす。

 

「うむ。このせいでわしは何処(いずこ)へも行くことが出来ぬ。……まあ、仮にこれが無かったとしても同じことなのじゃがな……」

「こうして普通に喋っててあえて聞くのもどうかと思うが……お前、なんで生きてんだ?」

「くくっ……」

 

 何かおかしいことを言っただろうか?

 女は急に破顔し、小さな笑い声をあげる。

 

「ふふ、人間。どうやら貴様、本当に何も知らぬようじゃな。いや、このわしを知らぬなど、下界ではあり得ぬことよ。となれば――さしずめ、別の次元から来た、といったところかの?」

「……?」

「こうして名乗るのもいつ以来じゃろうの。――聞け、人間。わしの名は『タヒニスツァル=モルステン=サナトラピス』。穢れの収穫者にして、冥府の王である」

 

 冥府?穢れ?

 何一つとして言葉の意味が理解できない。

 それに、とても一回で覚えられそうもない長い名前は――分かっていたことだが、日本人ではないようだ。

 ……まあ、夢だしな。

 

「下界のものはわしを『死神』とも称しておるようじゃ。人間どもにしては、なかなか良い通り名を付けたものじゃと思うておるぞ」

「……で、その冥府の王である立派な死神様が、なんでこんなことになってんだ?」

「……さての。知らぬ」

「おいおい、知らないはないだろ」

「本当に分からぬのじゃ。ある日突然、我が居城に押し入ってきた不届き者ども。そ奴らに捕らえられ、あれよあれよという間にこの有様じゃ」

「そんな奴等、神様ならどうとでもできたんじゃないのか?」

「同じ神連中が相手であれば、それも可能であったかも知れぬがの……」

 

 随分設定を盛ってるみたいだな、俺の脳内は。

 自称死神は一瞬目を伏せ、暗い表情を浮かべたかに見えたが、すぐさま元の表情に戻り、言う。

 

「――で、人間。貴様、これからどうするつもりなのじゃ」

「どうするもこうするも……」

 

 このやりとりも目が覚めるまでの話だ。

 どうせそうなれば、この一連の出来事も綺麗さっぱり忘れているに違いない。

 夢とはそういうもの。

 しかし、それを言葉に出すのはあまりに無粋に思われたので、俺は曖昧な返事を返すに止めた。

 

「恐らくわしが捕らえられておるこの場は、およそ天界の何処かであろうが、どこであれ人が長居できる場所ではない。……いや、と言うより、今貴様がこうして平気でここに立っておること自体、本来有り得ぬはずなのじゃが――む?」

「どうした?」

「汝、貴様――呪い(・・)を受けておるな? ……なるほど、そういうことか……」

「おいおい、一人で納得してないで説明してくれ」

 

 何か得心がいったような素振りを見せた死神は、俺の質問には取り合わず、こんなことを言い出した。

 

「……人間よ。汝を元の世界に返してやろう」

「え? そりゃ、そうしてくれると有り難いが……」

「ただし一つ、条件がある」

「……なんだ?」

「そう身構えるな。条件とは言っても、無理強いはせぬ。条件というか、頼みごとじゃ。例え汝が断っても元の世界には返してやろう」

「……いいだろ。聞くだけ聞こう」

 

 一瞬、女の顔が、しおらしいものへと変化したように見えたのは、俺の見間違いだったろうか。

 

 ――死神は、ゆっくりと、しかし強い意志を感じさせる声でもって、言った。

 

「この先暫く、わしの話し相手となってくれぬか?」

「――は?」

「……駄目か?」

 

 殊更柔らかな声を作り言うその様は、男ならば誰一人として断る術を持たないであろう魅力に満ちていた。

 当然、この俺も。

 

「い、いやまあ、それくらいなら……」

 

 つい俺は、無責任にもそう答えてしまう。

 そんなことは有り得ないというのに。

 

 俺の心情はつゆ知らず、女は、見てわかるほどに破顔すると、嬉々として言葉を続ける。

 

「よし、では人間。わしの掌に刺さっておる杭を抜くがよい」

「え……」

「片方だけでよい。ほれ、はようせんか。元の世界に帰りたくないのか?」

「い、いや――わ、分かったよ」

 

 俺は一瞬躊躇ったが、言われるままに女の左手に刺さっている杭に手をかける。

 氷塊深くまで達しているそれを抜くのは大変な労力を要するかに思われたが、拍子抜けするほどにあっさりと抜けた。

 

「くっ……」

 

 死神が痛みに顔を歪める。

 掌には大穴が空いていたが、不思議なことに血は一切流れ出でていなかった。

 そればかりか、俺がこうして見ている間にも、手に空いた穴が塞がり始めている。

 ……さすが、なんでもありだな。

 

「いやいや、ようやく片手が自由になったわい。礼を言うぞ」

「あ、ああ……」

「それで約束じゃが――むむ? ……人間、あれは?」

「え――」

 

 急に何かに気付いた様子の女は、俺の後方に視線を向けると、続き指を指す。

 つい俺はその指先の方向に頭を向ける――つまり、後ろを振り返る形になる。

 

「――ッ!?」

 

 頭部を鷲掴みにされる感覚に襲われたかと思うと、強引に顔を振り向かせられる。

 そのまま身体ごと凄まじい力で引き寄せられた、次の瞬間。

 

 俺の唇を、やわらかな感触が襲った。

 視界に映るは、宝石の如く輝く緋色の瞳。

 

 数十秒?

 あるいは数秒にすら満たぬ時間だったかもしれない。

 ようやく頭から手が離れ、自由になった俺は、弾かれたように飛び退く。

 尻もちをつき、今起きた出来事が信じられないといった様子の俺を、女は心底愉快そうな表情でもって迎える。

 

「……ふうむ。下界を覗き見た際、男女がこうしておったのを真似てみたのじゃが、どうも彼奴(きゃつ)らと反応が違うのう」

「な、なな……お、おまっ……!」

「――くくっ。しかしそれはそれで愉快な反応じゃの。次に汝が来るまでの間、その顔を思い出して楽しんでおくこととしよう。――ではな、人間。また会おうぞ」

 


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