四肢を椅子に縛り付けられている俺は、その差し出された手に応じて腕を伸ばすことはできない。
たとえ身体が自由になっていたとしても、何メートルも上にいる彼女とでは距離的に叶わぬことではあるのだが――しかし問題はそんなことではない。
なぜ、彼女がここに居るのか。
……いや。
そもそも、本当に
確かに服装、それに顔付きは見紛うことなく彼女のそれであるが――二点、俺の記憶にない要素が今の彼女にはあった。
僅か二点ではあるが、あまりに大きすぎる違和感である。
まず下半身だ。
彼女の背後、腰からは尻尾――そう形容するほかないものが生えている。
それも一つや二つではない。
ボリュームのある赤い毛で覆われ、先端のみが白くなっているそれらは、合計で五本にもなる。
さらには頭。
彼女の頭頂部、その左右には獣の耳らしきものが鎮座している。
これら二つの要素を視認した俺が真っ先に頭に思い浮かべしは、先日怪我を治してやったあの狐のこと。
そうした思いを俺が馳せている中彼女は、立っていた巨大な氷柱から飛び降りる。
まるで空中を浮遊するかのようにゆっくりと降り来たる彼女は、キラキラと輝く
その様子は幻想的で、こんな事態だというに俺はすっかり目を奪われてしまう。
「おにいさん……」
俺の目の前にまで降り立った彼女の声は、やや悲しげな色を湛えている。
「……お前、ミナか。ミナなのか?」
「……うん。そうだよおにいさん」
それから数秒、互いに口を開かぬ静寂が訪れる。
先に口を開いたのは俺からだった。
「お前……あの時の狐か。……そうなんだろ?」
「……やっぱり気付いてたんだね。誤魔化せたかなって思ったけど」
「いいや、信じてたさ。けどまあ、今のお前を見ちまったらな」
「んふふ、そうだね。嘘ついてごめんなさい、おにいさん」
笑って言う彼女の声は、やはりミナのものに相違ない。
「それで、何で自分からそれをバラすようなことしたんだ」
「こうしないとおにいさんを助けられないから。……気持ち悪いよね。安心していいよ、ここから連れ出したら、二度と姿を見せないから。だからちょっとの間がまん――」
「ばっかお前、何言ってる」
「え?」
俺がそう言うと、ミナは短く声を上げた。
しかしながら彼女の勘違いは、口上を遮ってでも訂正しておかねばならないことだ。
「実際俺はとんでもねえピンチだったんだ。俺を助けに来てくれたんだろ? いやほんと、感謝してるぜ」
「……おっ、おにいさん。ミナのこと、気持ち悪いって思わないの?」
「まあ、確かに驚きはしたけどな。なんていうのかな、もう慣れちまったよ。……むしろ『ああ、やっぱこうなるか』って感じだ」
「???」
ミナは明らかに動揺した素振りを見せている。
耳はぴこぴことせわしなく動き、尻尾もまた彼女の心の乱れを表すかの如く、不規則に揺れ動いていた。
そのような動きを見て、俺は素直な感想を口にする。
「それにどこが気持ち悪いって? 可愛いじゃないか、その耳と尻尾も」
「……ッ」
彼女の肌色は白く、それこそ雪を思わせるものだ。
そんな顔色が、瞬時に真っ赤なものへと変わる。
「……おにいさんって、
「は?」
「ううん、なんでもないの。それじゃ、まずはおにいさんを自由にしてあげるね」
ミナがそう言うや否や、それまで四肢に感じていた違和感が瞬時に掻き消える。
「――よっと。さて……」
やっと自由になった俺は椅子から立ち上がると、改めて辺りを見回してみる。
周囲にはミナが落としたとみられる氷柱がそこかしこに見られ、それこそ俺のいるこの場を除き、視界に映る限りあらゆる場所に突き刺さっている。
と同時に、そうした氷柱は全て淡い光を周囲に放っており、ようやくこの場所が果たしていかなる地であるか、そのおおよそを察することができるようになっていた。
と言っても、特別何かがあるわけではない。
どうやらこの場は一面全て荒い砂地であるようで、どこどこまでも変わらぬ光景が続いていた。
しかし今の俺にとり、風景のことなど二の次。
俺は全方位を見回しラピスを探すも、現状見渡す限り彼女の影も形も見えない。
どうやら相当遠くまで行ってしまったとみえる。
あいつのことだ、氷柱程度でどうにかなるとも思えないが……
「おにいさん、ほら。いくよ」
ミナは言って、俺の袖をくいくいと引っ張る。
「はやくしないと、あの女のひとが戻ってきちゃうよ! ほら急いで!」
「いや……」
短期的に見れば、ここはミナの言葉に従うのが正しい。
しかし後のことを考えると、それは果たして正解と呼べる行動なのかどうか。
仮に今首尾よく逃げおおせたとして、それから先はどうなる?
俺は結局この後家に帰らなければならないわけで、そうすると当然、あいつともまた相見えることになる。
第一、今回のことは俺が不義理を働いたせいなのだ。
ここであいつを置いてただ逃げ出すというのは、いかにも道理が立たぬ話。
ラピスの怒りをさらに根深いものにするだけだ。
「……ミナ。悪いが俺はここに残るよ」
「何言ってるのおにいさん!」
ミナが声を荒げるのを、俺は努めて落ち着いた声でもって応える。
「……悪いのは俺なんだよ。だからミナは先に帰っててくれ。このままだとあいつ、また妙な勘繰りをしかねないからな」
もう手遅れだとは思うが、それもまた甘んじて受ける必要があろう。
身体の自由は効くようになったことで最悪の事態は回避した。
あとはまた拘束されぬよう気を付けつつ、なんとか彼女を説き伏せるほかない。
それは俺の責任である。
「拘束を解いてくれてありがとうな。無事に帰れたらまた改めて、お礼を言いに行くよ」
「……」
ミナは何をも答えない。
「だから」
「それじゃ、ミナも残る。一緒にあやまろ?」
何を言いだすのか。
俺は仰天し、必死で彼女を説き伏せようとする。
「おっおい! 人の話聞いてたか!? ……ていうか残ってると本気でヤバいんだって! お前が知らないのも当然だけどな、あいつは――」
「そんな危ない人なら、なおさらおにいさんを放っておくなんでできないの。もし死んじゃったら絶対にミナ、おにいさんを許さないからね」
にこりと彼女は微笑み、静かにそう宣言する。
穏やかな口調とは裏腹に、彼女の顔には揺り動かぬ決意の色がある。
「なんでお前、そこまで……。あの時助けてやった礼のつもりならな、さっきので十分だよ」
「ううん。そんなのじゃないよ。
「約束?」
俺が問うと同時、ミナの笑顔はより深いものとなった。
「はいなの。おにいさんはミナと約束したもんね。死ぬまでずっと、ミナを
俺は落ち着きを失いつつも、必死で記憶を手繰る。
次いで俺が間抜けな声を上げたのは、ある出来事を思い返してのこと。
「……あっ!?」
「だから。