「ふーっ……ふう……」
ミナは四つん這いの姿勢で地に伏したまま、荒い息を繰り返し吐き出している。
「ほっほーう。流石はリュウジ。そ奴めの弱点をこうも早く発見するとはの。そのまま大人しくさせておれ」
何か聞こえてきた気がしたが、このとき俺は、声などに気を回す余裕はなかった。
理由は二つある。
まず、未だ手に持った尻尾の存在。
そのボリュームのある赤毛は実に触り心地が良く、ひと撫でするごとに適度にこちらの肌に気持ちのよい刺激を与えてくる。
ラピスの髪はまるでシルクのそれを思わせたが、比べるとミナの尻尾は上等な羽毛のようで、実に甲乙付け難い。
どちらも永遠に感触を楽しんでいたくなる、そんな抗いがたい磁力を有しているのだ。
さらに加えることに、もう一つの理由とは、
「ふわあっ…… うっ、んんっ……!」
……ミナがこのような反応を見せることだ。
こんなことに気を取られている場合ではないことは無論、頭では理解している。
しかし。
こちらが僅かに手を動かす度、彼女はピクピクと身体を跳ねさせ、小さく声を上げる。
その声を聞くたび、何故だか胸に
「ご、ごしゅじん……がまん……できないの……? で、でも……帰ってからにしよ……? ……ね、ね? とりあえず一旦休憩して――」
ミナは喘ぎつつ口を開く。口元の地面は彼女の涎でじとりと濡れている。
上唇の下からは、大きめな犬歯がちらりと見えており、何故だか今はそれすらも艶めかしく映った。
懇願するミナの表情は、様々な感情が入り混じったものだ。
もちろん本人は狙っているわけでもないのだろうが……涙を貯め許しを乞いつつも、しかしどこか期待する気持ちを含んだその目は、強烈に対するものの嗜虐心を煽った。
「……」
「あっ……!?」
俺は無言で、かつ無心で手の動きを速める。
「あ゛あ゛あまたあっ! なっ、なんでぇっ!? ごしゅじっ、なんでもっと激しっ……!? ――あっ、あっあっあっ!」
もはや彼女の喘ぎは叫びに近いものへと変貌している。
が、その声には隠し切れぬ喜悦の色があり、そのことが一層俺の欲望を燃え上がらせた。
……熱中のあまり周囲のことなど忘れかけた、その時。
「いつまでやっておるか貴様らーーッ!!!」
「――はっ!?」
怒号が飛んだ。
そこでようやく俺は心の平衡を取り戻し、改めてミナを見る。
「……♡ ……♡♡♡」
ミナはぐったりとし、何をか言う気力すらも無くなってしまっているようである。
そんな彼女の状態を確認したことと、ラピスの一喝によりようやく冷静になった俺は、慌ててラピスに釈明する。
「あっいや、これは……ま、まあ落ち着けって、な?」
「やかましいわーっ!!」
比喩ではなく、ラピスの背後で大爆発が起こった。
加えて彼女は、まるで幼稚園児くらいの子供のように、その場で地団駄を踏みつつ叫ぶ。
……その様子は、もちろん怒ってはいるのだが、先ほどまでの黒い殺意に塗れたものとはまた違うような気がした。
あえて言うならば、少しばかり『いつものラピス』が戻ってきたとでも言おうか。
「ぐぎぎ……もう本当絶対なにがあっても二度と金輪際許さん! 許さんからな!!」
「……えっと、許さないってのはミナのこと?」
「貴様もじゃたわけーっ!!」
叫びと同時、もう一度爆発が起こる。
「子を成した後でなくとも、貴様の態度によっては何度か元の次元に帰してやろうかと思うておったがの! もう堪忍袋の緒が切れたっ! 二度と元の世界になど帰さん!」
「えっ……」
なんということか。
やはり実際の
……そして今、その最後の慈悲も他ならぬ俺自身が潰してしまったということか。
「……そ、そう言うなって。ほれ、機嫌直してくれよ。な?」
「ええいうるさいうるさいうるさーいっ! 大体何なんじゃリュウジ、貴様も! いくら術で操られておるとはいえ、かくの如きうらやまし――もといっ! 望まぬ行為を行うとはっ! 貴様も半分神の身となったからには、こむすめの稚拙な術程度跳ね返してみせぬか馬鹿者がーッ!」
地団駄を踏みつつ、鎌を振り回しながら叫び散らすラピス。
あまりに滅茶苦茶に振り回すもので、俺が止めに入ることもできない有様だ。
「ふーっ……ふーっ……」
ひとしきりその場で暴れ、ようやく一旦落ち着いたのか、ラピスは肩で大きく息をしつつようやく動きを止める。
そしてギロリと鋭い視線をこちらに向けると、
「……とにかく。ことの発端は全てこの女狐にある。貴様にはこの後ゆっくり『教育』を行うとして……まずはこやつの始末じゃ」
言って、鎌を大上段に振りかぶった。
「待てっ! 待ってくれラピス!」
「ならぬっ! 言うたであろう、堪忍袋の緒が切れたとなっ!! こやつを滅しさえすれば、貴様にかけられておるであろう術も解けることであろうよ!」
息巻くラピスは俺の制止を振り切り、ついにミナに向け鎌を振り下ろす。
ことがこうまで煮詰まれば、俺も覚悟を決める必要があった。
そも、俺一人傷一つ負わずに終わろうなど、土台筋の通らぬ話。
そう思い立った俺は、鎌の軌道へ腕を瞬時に伸ばした。
「――なっ!?」
俺のこの行動にラピスは驚いた素振りを見せたが、既に十分にスピードの乗った鎌の動きを止めることは適わなかった。
……まるでスローモーションのように、切っ先が腕の中に吸い込まれていく様子が俺の目に映る。
そして。
「くっ――ぐうっ……!」
「ば、馬鹿者っ!」
腕にずぶりと刺さった傷口からは止めどなく血が流れ出で、俺はその激痛にくぐもった声を上げる。
しかし同時、俺は安堵してもいた。
というのも、確かに尋常でない痛みこそあるものの、あの時のように力を吸い上げられていくような感覚には襲われていないからだ。
今や俺はラピスの半身となった――というのは本当のことらしい。恐らくはこのことにより、ある程度鎌の力を打ち消しているのだろう。
であれば、今この場においては、単に刃物に刺されたというだけに過ぎない。
これがもしミナに対してであったなら、こうはなっていなかったことだろう。
俺の安堵はそれ故のものであった。
――とはいえ。
「う……くっ……」
痛いものは痛い。
なんとも情けないが、どうしても俺の口からは痛苦による声が漏れ出でてしまう。
「あ……あ……」
ラピスは鎌の柄を握ったまま、声にならぬ声を上げている。
その目からはそれまであった殺意も怒りも、そのいずれもが完全に消え失せており、見えるのはただ、狼狽の呈のみ。
『とんでもないことをしてしまった』とばかり、後悔の念に囚われている風ですらある。
「……」
ついにラピスは眼の縁に涙すら溜めはじめる。
そんな彼女を見る俺は、逆にこちらこそが悔恨の念に襲われることしきりであった。
……二度と泣かすまいと誓ったというに、この体たらく。
己のこれまでの軽率を恥じ、自分を責めることは後でいくらでもできる。
それより、まずは――
「ラピス」
俺は一言、彼女の名を呼び。
「……リ、リュウジ……? ――え、えっ……!?」
痺れ動かぬ右腕はそのままに。俺は残った左腕でもって、彼女を抱き寄せる。
俺の半分ほどの体躯でしかない彼女はとても軽く、俺は抱き寄せた彼女を持ち上げ、更に抱擁を強めた。
――同時、彼女の手から鎌が取り落とされ、少し置いて、乾いた音が響いた。
それに従い俺の腕からも鎌の切っ先が抜け落ち、その際に鋭い痛みが俺を襲ったが、俺はそれをおくびにも態度には出さず、彼女に言葉を向ける。
「……ごめん、ラピス」
「ひゃっ!? ……なっ、何を……っ」
今、俺の口は丁度彼女の耳元あたりに位置しており、言葉と同時、彼女はビクリとその身を震わせた。
「今回のことは悪かった。間違いなく全部俺のせいだ」
「……」
ラピスからの返答はない。
しかし俺は構わず続ける。
「お前が怒るのも当然だし、確かに俺は責任を取らなきゃいけないよな。グダグダ言い訳を言ってすまなかった。だけど……」
「……”だけど”、なんじゃ?」
ようやく返事を返したラピスの声色には、再び影が差している。
この先俺が何を言うか、ある程度察してのことだろう。
「あの子は本当に無関係なんだ。……いや、100%無関係ってわけじゃあないが、彼女に咎はない。……だから、許してやっちゃくれないか?」
「……ならぬっ! やはりそなたは彼奴に操られておるのじゃっ! かようなことを言い出すのもそのせいに他ならぬっ! わしは絶対に許さぬぞ!」
「ラピス……」
俺は少し頭を引き、彼女の顔を真正面から見据える。
そんな俺から、何故だかラピスは俺から視線を外し、更には顔を赤くした。
「なっ……なんじゃ。――ふ、ふん。そんな顔をしても無駄じゃからな? そ、そんな……困ったような顔をしても……」
やはり彼女の決意を変えるには言葉だけでは足りぬようだ。
……しかし、どうする?
力づくで――というのは、最も愚かしい手段だ。
そもそもそれが可能かというのは兎も角、それはあまりに道理が通らぬ話。
彼女の体、そして心を傷付けることなく、ここで場を収める妙案を捻り出さねば、ミナとラピスは再び戦いを始めることだろう。
そうなれば今度こそミナの命はない。
俺の頭は今までにない高速回転を始める。
ことここに及べば、もはや言葉でどうこうするのは無理。
であれば、行動で示すほかない。
しかし、さりとてどうする?
仮に俺が地に頭を擦り付け土下座をしようが、そんなものはただ形だけ。ラピスの考えを変えさせることは到底無理だろう。
それどころか、より一層ミナへの怒りを増幅させることにもなりかねない。
――待て、考え方を変えろ。一回この場を整理しよう。
まず、彼女の怒りはミナに向かっていることは確かだ。
その理由は、俺が彼女に何らかの術でもって篭絡されているという、ラピスの勘違いによるもの。
……では、その勘違いを正すことができれば、あるいは?
言葉でなく、それを行動でもって示すには――。
「ラピス」
「な、なんじゃ。妙にあらたまりおって」
「……」
俺の頭にはある考えがあった。
もはや俺の乏しい頭では、これ以外の策など考え付かない。
……つまりは、ラピスこそが一番である、他の女に誘惑されているなど有り得ぬと、それを分からせればいいのだ。
これから俺が行う行動は、普通に考えればあまりに単純で、その程度で普通どうにかなるようなものではないが。
ラピスが
そのことを考慮に入れれば、勝算はある。
「……なんじゃ、黙り込んでしまいよって」
「ラピス。俺が騙されてなんかないってこと、その証拠を見せよう」
「はぁ? 何をするつもっ――」
俺は、彼女の言葉を最後まで言わせなかった。
完全な不意打ちではあったが、お互い様だ。
……考えてみれば、俺だって最初、こいつに同じことをされたのだからな。