ナラクに続き中へ入ってみると、カビ臭さを伴った空気が鼻孔に触れた。
部屋自体は普通の雑居ビルの一室といった様相で、埃の被ったロッカーやデスクなどが雑然と置かれている。
別段特別なものは一見無さそうにも見えたが、部屋の中央部になにやら見慣れぬものがあった。
「おお、まだ残ってんな。これなら話が早いぜ」
「ナラク、これは?」
俺が指差したのは地面だ。
丁度二メートル四方ほどの範囲に、白いチョーク?のようなもので描かれた、なにやら落書きのようなものがある。
謎の幾何学模様の集合それに大きく描かれた五芒星を見るに、俺の脳裏には『魔法陣』という言葉が連想された。
これが今でなければ、忍び込んだ子供あたりが描いた落書きだと思ったろうが……。
「大方お前にも想像ついてンだろ? こいつで俺はこっちに転送されてきたってワケさ」
……ま、そうだろうな。
今さらこの程度、驚くには値しない。
「嘘ではないようじゃの。……しかしなんじゃこの無駄の多い術式は。随分と程度の低い者が作成したようじゃな」
「くっくく……手厳しいねぇ。一応こいつァ最高の魔術師連中がこしらえたモンらしいのによ。お前じゃない他の神から得たとかなんとか言ってたぜ?」
「はっ。神たるものの力を利用してこのザマか。その利用された同胞も浮かばれぬわ。所詮矮小な人間のすることよな」
「ま、そのしょぼい人間どもに何万年も捕まってたヤツも――いてっ!」
軽口を叩こうとしたその矢先、ラピスに腿をつねられる。
「おまっ……」
「要らぬことは口にせぬことじゃ」
文句を言いたげに睨むも、当の本人はそっぽを向いてそう言い放つのみ。
俺はつねられた腿を撫でながら、今一度地面の魔法陣に目を向けた。
「ったく……。それで、これはまだ使えるのか?ならとっととぶっ壊しちまおうぜ」
「いーや、こいつは今はただの模様さ。魔力をどんどこ突っ込めばまた使えるらしいがね。俺にゃそういうのは全くできねぇからな」
「お前、それじゃどうやって元の世界に戻るつもりだったんだ?」
「なーに、そのうち後続が来るだろうからな。そいつになんとかしてもらうつもりだったんだよ」
なんて適当な奴なんだ。
もしその後続とやらが来なかったらどうするつもりだったのか。
「ねーねーご主人。こっちにも似てるのあるよ?」
「え?」
ミナの視線を追い部屋の奥に目を向けると、確かにもう一つ魔法陣があった。
最初のに比べると一回りほど小さい。
「おいナラク、ありゃなんだ?」
「んん……? いや、俺が来た時にゃ無かったな」
「ホントかよ。お前何か隠してんじゃ――」
「これ、ちと見せてみよ」
ラピスは俺たちを押しのけその魔法陣まで行きしゃがみ込むと、手をかざしながら何やら独り言ち始めた。
「術式としては先ほどのものと全く同じじゃの。そして――……ふむ、まだ微かな魔力の残滓を感じるぞ」
「つまりどういうことだ、ラピス?」
俺の問いに、若干眉をひそめつつ彼女は答える。
「素直に予想するなら、既にそのたわけの言うところの『後続』とやらがこの地に来ておる、ということじゃろうな」
「……やっぱもう来てんじゃねーかっ! 何が”あと数ヶ月は大丈夫”なんだよ!?」
「おいおい、そう俺に突っかかられても困るぜ。それに考えようによっちゃ良かったじゃねェか。事前に知っとけば準備もできるってモンだろ?」
「調子いいことばっか言いやがって……この先もこんなペースで来られちゃ命がいくつあっても足りないぞ」
「だいじょうぶだよご主人っ! もうご主人にはミナがいるからね! もしご主人の命を狙うようなやつが現れたら……」
それまでの
彼女は目を細めると、臓腑までも凍えそうな声色になり、言う。
「氷漬けにした後、バラバラに砕いてやるのね。で、海にでも捨てよ?」
「なあミナ。怖いから真顔でそういうこと言うのは止めような?」
薄々気付いてはいたが、どうもミナは見た目通りの性格というわけではないようだ。
しかしその全容を知ることはなにかとてつもなく嫌な予感がする。
「頼りになる嬢ちゃんじゃねェか。なーに、その時は俺だって協力してやるさ。俺の代わりにそいつをサナトラピスに差し出してやりゃいい。小僧、お前も大将ならドーンと構えてろって」
「はぁ……もういい。しかしミナ、よくこっから見えたな。言われなきゃ気付かなかったぞ」
廃墟と化したビルの内部は当然電機など通っているはずもなく、この部屋も相当に暗い。
入口付近からでは奥の方は殆ど見えないほどだ。
「やっぱ動物だけあってそのテの能力が高いとかなのかね」
「うーん……自分じゃ気にしたことないけど」
「まあ何にせよよく見つけたぞ。えらいえらい」
「んっ……」
ぐりぐりと頭を撫でると、ミナも気持ちよさそうな声を出しながら頭を掌に押し付けてくる。
今は人間の姿とはいえ、こうした態度を見ていると、やはり元は動物なのだなと思う。
「――んっ、ごほん」
と、わざとらしい咳払いのした方向へ目を向けると、ラピスがなにやら言いたげな目でこちらを見ていた。
彼女は「ふぅ」と、これまたわざとらしい溜息をつき、
「わしも色々と役に立ったはずなんじゃがなぁ~? いやいや、分かっておるよ? そこなこむすめと違いわしは崇高なる神、遥かな高みに属す存在じゃ。そのような者のなすこととしては、この程度褒めるに値せぬと。我が君はそう言いたいわけよの? まったく辛いところじゃなぁ~、それほどの多大な期待を寄せられておるとは。わしは果報者じゃ。感謝感謝じゃの」
……言葉通りに受け止めるほど俺はおめでたい頭をしていない。
彼女は最後にくかかといつもの笑いを発するも、明らかに気分を害していることは確実である。
そしてここまであからさまな態度を取られれば、いくら鈍い俺とてその理由に気付く。
俺はミナの頭を撫でるのを止めてラピスの元まで行き、
「分かってる分かってる。お前のおかげで色々と知ることができたんだ。今日の殊勲賞はもちろんお前だよ」
少しわざとらしい言い方になってしまったが、俺はそう言ってミナにしたようにラピスの頭を撫でる。
「うむ、それでよい。そなたも多少は心の機微というものが分かってきたようじゃな」
両腕を組んだ仁王立ちの姿勢で、ラピスは頭を撫でられ続けている。
……まあ、こいつが機嫌を損ねる直前で止められたのは幸いだ。俺も少しは成長しているということだろうか。
暫くそうした後、俺は手を放そうとするが、
「こら、手を休めるでない。……む、そうじゃ。よいぞ」
即座に咎められ、俺は仕方なく手を動かし続ける。
俺は後ろから彼女の頭を撫でているため今ラピスがどんな表情をしているのか伺い知ることはできないが、時折ふんふんと発される鼻息の音が聞こえてくるあたり、だいたいの想像は付く。
「むむぅ~っ……」
後ろからはミナのものと思しき唸り声がする。
……勘弁してくれ。俺は一人しかいないんだ。
そのうち二人の仲をなんとか改善しないと、いずれトラブルが起きそうな予感をひしひしと感じる。
「くくく……モテる男は辛いねェ。よっ、色男」
「やかましい!」
どうもこいつの馴れ馴れしさもどんどん上がってきている気がする。
人を殺そうとしといて、どんな精神構造をしているんだ。
「……ん、あれ? ご主人、こっちにも何かあるよ」
そう言って何かを見つけたのは、またしてもミナである。
これまた気付きにくい机の陰に、小さなリュックが置かれていた。
9月は仕事に忙殺されており、殆ど執筆の時間が取れておりません。
来月より元のペースでの更新に戻れますので、今しばらくお待ちを。
捨て猫を拾いました。詳しくはTwitterにて。
ワクチンや去勢手術などでもまた時間を取られ、これもまた執筆ができない要因ともなっておりました……が、こちらはご容赦いただきたく