そのリュック……というかザックは、無骨な机にもたれるようにして置いてあった。
先ほどの魔法陣と同じく、これまたミナでなければ見つけられなかったであろうと思われるほどに小ぶりなものだ。
しかし夜目が利く彼女とは違い、部屋の端々では辛うじてそれがザックであろうという風に見えるのみだったので、俺は近づいて確認してみることにする。
「……見た感じ普通だな」
緑色のそれは、一見したところ妙な部分はない。
しかし長らく人の出入りも無かったであろうこのビルの中にあって、それは全く埃を被っていない綺麗な状態だ。
やはり最近ここに入った人間の持ち物なのだろう。
……いや、と言うか。
「おいナラク。これまさかお前のじゃ――なんだよその顔は」
人をからかうのが好きなこの男のこと、さてはと思い俺は振り返って奴の顔を見たのだが、ナラクはおよそ俺が想像していたのとは全く違う表情をしていた。
眉間に皺を寄せ、口角の片方を斜めに落としたその顔は、いかにも面白くなさそうなものだ。
俺に声をかけられたことに気付いたナラクは取り繕うように言う。
「んっ……あ、ああ。いや、俺んじゃァねえよ。大体明らかに俺の体のサイズと合ってねぇだろが」
「まあ、そりゃそうだけどな」
どうも怪しい。
もう少し探りを入れてみる必要がありそうだ。
「でもお前、なんか心当たりはあるんじゃないのか?」
「……」
「おい」
ナラクは俺の追及から逃れるように目を逸らす。
どう考えてもおかしい。こいつのこんな態度はついぞ見たことがない。
「ねぇねご主人。なんだかその中からいい匂いがするよ?」
いつの間にか俺の横に来ていたミナは、鼻をふんふんと鳴らしつつ言った。
「匂い?」
ビル内のカビ臭さしか俺の鼻には届いてこないが。
「じれったいの。とにかく中を
「あっ、おいラピス! お前な、そんな考え無しに……」
俺が制止しようとするのを尻目に、既にラピスはザックを開け始めている。
そのままラピスはがさごそと中を物色していたが、やがて気落ちしたような声が聞こえてきた。
「……なんじゃ、少しは期待していたのじゃがな」
「おいラピス、どうしたんだ。何かあったのか」
「有るといえば有るし、無いといえば無いの」
「なぞなぞかよ。いいから見せてみろ」
「ん、よいぞ。ほれ」
言うや否やラピスはザックを逆さまにし、中のものを地面に乱暴に投げ落とす。
その乱暴なやり方に俺は閉口するが、とりあえずは確認が先だと目を地面にやるも。
「……なんだこりゃ?」
「そうじゃろ。わしもそう言う他ないわい」
俺が気の抜けたような声を出したのも無理のないこと。
出てきたのはコンビニのパンが大量に、それに少しばかりの缶詰といった具合で、未知の物体など一切目に入らなかった。
「ごはんがいっぱいなの! ご主人、ねえこれ食べていい? 食べていい?」
俺とラピスが揃って似たような顔をする中、一人ミナだけがはしゃいでいる。
「いや、これは人のモンだからダメだ。あの連中のなら好きにしていいけど、どうも違うっぽいしな」
「ええ~……」
「メシは帰ったら花琳が作ってくれるから我慢しろ、な」
「はぁい。ところでこれなんなの? 見たことないのね。おさかなさんが書かれてるけど」
ミナはサバ缶を手に取りながら言う。
「なんだ知らないのか。こりゃ缶詰っつってな。この中に……ってなんだ、やけにボコボコだな」
言うように、彼女が手に持った缶詰は所々歪に凹んでいた。
よく見ると他の缶詰もそうだ。
「まあそれはいいか。……というかこの辺、よく見たら似たようなのが転がってるな」
ようやく暗闇に目が慣れて辺りの地面を見渡せば、そこら中にパンの包装袋が乱雑に投げ捨てられている。
それも菓子パンばかりなところを見るに、大方近くの子供でも入り込んでいるというセンが濃厚だろう。
しかし。
「ならあの魔法陣は何だっつー話だよな」
話を聞くに、何者かが来ていること自体は確実なのだろうが。
「なあ、お前はどう思――ラピス?」
緊張感を失いつつラピスに話を向けようとするが、彼女は未だザックのある場所に座り込んだままだ。
ミナと同じく勝手に食べようとしているのではないかと思い注意しかけるが、それは俺の思い違いだった。
「我が君。横にあるポケットからこんなものが出てきたのじゃが」
言って、手に取ったものを俺に見せるラピス。
彼女の掌に収まるほどの大きさのそれは、長方形の形をした木箱のようだ。
「なんだそれ?」
「わしにも分からぬが……しかしこれだけは多少の力を感じるぞ――どれ」
ラピスは躊躇なく木箱の蓋を開けると、俺にも見えるよう中の物を取り出し掲げる。
「むう、これは?」
ラピスは取り出したそれを不思議なものを見るような顔でして見つめていたが、俺はその物体について見覚えがないこともなかった。
頭の中に浮かんだ名前を、俺は口に出す。
「……爪楊枝?」
そうとしか形容のしようがない。
いや、爪楊枝にしては若干長いような気もするが。
他に変わったところといえば、先の方が赤い染料で塗られていることくらいか。
「
ぽかんとした顔でオウム返しするラピスのことはひとまず置いておき、俺も手に持ってまじまじと見つめてみる――が、特に別段変わったようなところもない。
木箱の中には同じものが更に10本程度収まっている。
「いやでも、力を感じるとか言ってたよな」
「うむ。非常に微弱なものではあるがの」
「これが楊枝じゃないってんなら……どうなんだ、何か思い当たることはあるか?」
「現時点では何も無いの。持ち帰って詳しく調べてみれば何ぞ分かるやも知れぬが」
「うーん……」
このまま素直にこれを持ち帰ってもいいものだろうか。
ラピスの言うことが真実なら、やはりこのザックは例の世界の住人の物ではあるのだろう。
だとすれば、これが罠ではないとは言い切れない。
わざと目立つ場所に置いておき、持ち帰らせることそのものが目的という可能性も十分にあり得る。
「いや、それは止めておこうぜ。どんな仕掛けがしてあるか分かったもんじゃない」
「左様か。我が君がそう言うなら、わしとしてはどちらでも構わ――」
「いや、そいつは持って帰っとけ」
触らぬ神に祟りなしとばかり放置を決めようとしたその矢先、無口になっていたはずのナラクから声がかかる。
俺はナラクを睨めつけ、言った。
「お前、やっぱ何か知ってるんじゃないか。こいつの持ち主のことも知ってるんじゃないのか? なんで隠してたんだ」
憎々しげに俺が言うと、ナラクはばつの悪そうな顔をする。
こいつのこんな顔も初めて見たかもしれない。
「ちっ……隠してたワケじゃねぇよ。思い出したくなかっただけだ」
「なんでもいい。またお前みたいな奴なのか?」
言葉を受け、奴は明らかに不快そうに顔を歪める。
「冗談はよせよ。あんな奴と一緒にされちゃいくら俺でも不愉快ってなもんだぜ。しっかし分かんねェな……なんでまたあのガキはよりによってあいつを送ったりしたんだ。
「やっぱ知ってんじゃねえか。で、どんな奴なんだそいつは」
「ふん。……ま、安心しろ。そいつが俺が思った通りの奴ならな、単純な強さなら話にならねぇ。クソザコもいいとこだ」
「そんな奴ならなんでお前、さっきから変な顔してたんだよ」
「ただ単に嫌いなんだよ。……いや違うな。ムカつくっつった方が正しいか。ああいう手合いは駄目だ。見てるだけでイライラしちまう」
嘘を言ってるような口ぶりでもなさそうだが、どうも要領を得ない。
次にどう言うべきか俺が
「あーあ、ったくよ。まったく興覚めもいいとこだぜ。――ま、とりあえずよ、俺の言った通りにしとけ。そうしときゃお前ら三人なら――いや、その嬢ちゃん一人でも楽勝だろうさ」
「ふえ?」
急に意を向けられたミナは間の抜けた顔をした。
「ミナのこと? おじさん」
「今度はお前とも遊んでみてェもんだ。俺の力が戻った時にでもな」
「???」
「……呑気な顔だねェ。嬢ちゃんよ、そこの小僧のことを気に入ってんのかい?」
「うん! 大好きだよ!」
それまでどう返事をしたものか迷っていた様子のミナだったが、この質問には即座に返答した。
それこそ、聞いている俺が恥ずかしくなるくらいの大声でだ。
そしてナラクの方はといえば、このミナの言葉を聞いて何故か屈託のない笑顔を浮かべる。
「くっくく……そうそう。人間だろうが神だろうが、そうじゃなくっちゃァいけねぇよ。自分のやりたいことのために生きなきゃな。ったく、
「あ、おい! まだ聞きたいことが――」
言い終わる前に、ナラクはビルの窓から外に飛び出してしまった。
慌てて窓に駆け寄り外を窺うも、既に奴の姿は視界のどこにもない。
「……消えちゃった。あのひと、ミナと遊びたいって言ってたね」
「多分ミナの思ってるような意味じゃないぞ」
俺は溜息をつきながら、呑気な顔をしているミナに言う。
あの戦闘狂め。
こっちはそれどころじゃないってのに。
「で、結局どうするつもりなのじゃ」
「……ま、一応言うとおりにしてみるか。嘘を言ってるようにも見えなかったしな」
気付けばもう日も随分と傾いてしまっている。
ザックそのものは全く力など感じられないとのことだったのでそのままにし、件の木箱だけを持ち、俺たちは帰宅の途についた。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「で、どうなんだ。何か分かったのか、それ」
「うう~む……」
例の爪楊枝に似た何かを手に持ったまま、ラピスは呻る。
帰ってからすぐに彼女は詳細を知るべく色々としていたようだったが、どうもこの態度を見るに経過は芳しくないようだ。
そしてこの俺の予想は正しかったらしい。
「正味なところ詳細は分からぬの」
ラピスは疲れたように言うと、机の上に手に持っていた物を雑に投げ捨てる。
「なんだ、お前でも分かんないくらいのすげえモンってことか? でもそれを見つけた時は……」
「いやいや逆じゃ、逆。内包されておる力があまりにも貧弱すぎるのじゃ」
「ん? なら楽勝じゃないのか?」
よく分からないことを言うラピスに素直な疑問をぶつけると、彼女はいかにも『ものの分からぬ奴だ』と言わんばかりの目をする。
「はぁ~……やれやれじゃ」
そう言って、溜め息をつきつつ両手を肩の上で振る。
……なんだろう、とてつもなく馬鹿にされているような気がするぞ。
「分かりやすく言うとの、
説明しつつも自分を上げることは欠かさない。まったくその点だけは一貫してる奴だよ。
まあしかし言いたいことはなんとなく分かった。
「デカけりゃいいってもんじゃないだろ、ものごとはよ」
「ほほぉ~? 汝がそれを言うかの。いやいや、確かにその通りではあるがな?」
にやりと嫌な笑いを浮かべるラピス。
こいつがこの顔をする時は決まってロクなことがない。
そして今回もそれは同じようだった。
ラピスはにやけ顔のまま愉快そうに口を開く。
「わしはしっかりと気付いておったぞ? 最初に出会ったあの時、汝の視線がわしの体の一部に釘付けであったことをな」
一瞬何のことか分からなかったが、その意味に気付いた瞬間、俺の体温は急上昇する。
「おまっ、それとこれとは話がっ……!」
「否定はせぬのじゃな」
「ぐっ……!」
気恥ずかしさのあまり出すべき言葉を間違えた俺の言葉じりを捉えたことに気をよくし、ますますラピスの笑顔は深いものとなる。
そしてチューブトップに手をかけつつ、
「”大きいことばかりが良いわけではない”と言うなら、何故今のわしのそれに興味を持たぬのじゃ。わしは一向に構わぬと言っておろうに。小さいながらも多少は、ほれ」
それを捲り上げようとする。
「やかまっしい! 大きなお世話だ! しまえ胸を!」
「くかかかっ! ……まあそれはそれとして、じゃ。たしかにあの男の言うとおり、これしきの力しか持たぬのであればしょせん我等の敵ではないの」
ひとしきり俺をからかって満足したのか、ラピスは話を元に戻す。
「とはいっても気を抜くわけにもいかないだろ。もうちょいあいつから詳しい話を聞き出しとこうぜ」
「うむ。備えあればなんとやらじゃ」
「お前いつの間にそんな言葉を覚えて――っていうか、そうだ。お前もナラクもそうだけどさ、何ですんなり話が通じてんだ?」
あまりに自然にことが推移していたために疑問に思わなかったことだが。
よくよく考えるとおかしな点があることに、今になって俺は思い当たる。
「どういう意味じゃ?」
「いや今さらなんだけどな。ほら、俺とお前って出会ったときから普通にその、日本語で会話できてたじゃん? それっておかしくねえか?」
俺の言葉に若干呆れた様子でラピスは答える。
「本当に今さらじゃの。……まあわしの場合ならばな、以前の姿であれば対象を見ただけで凡その意思疎通を確立することができた。言語など言うに及ばずの。今の姿だとそう容易にとはいかぬのが面倒なことじゃ。しかし楽しくもあるぞ。今学校では英語とやらを学んでおるが、あれは簡単すぎて飽きてしもうた。のう我が君、そなたはあの学び舎ではわしより数年先の内容を学んでおるのじゃろ? 他の言語を学べるのはいつじゃ。できればもっと難しいものがよいのじゃが」
「……知らねえよ。大学にでも行ったら分かんじゃねえのか」
「??? なんじゃ我が君、なにか気分を害しておるようじゃが」
不思議そうな顔をするラピスに対し、俺は苦い顔になるのを隠し切れない。
魔術やらなんやらに関してならば今まで俺の人生に全く関わり合いの無かったものなのでどうということもないが、俺もよく知るところの分野でこうも差を見せ付けられると……自分でも狭量だとは思うが、やはり面白くない。
「気のせいだ気のせい」
「そうか。それで他の連中――あのナラクなどが同様である理由じゃが、これはまあ本人に聞くがよかろう。わしもそこまでは知らぬよ」
にべもなく言い放つ。
「まあ神だの魔法だのが当たり前になりつつあるからな。今さらその程度どうでもいいっちゃどうでもいいか」
「それより我が君よ」
「うん、なんだ」
「今宵は久しい二人きりの夜じゃというに、かような色気のない話は止めにせぬか」
「久しいってお前な……」
ところでお気付きだろうか。
先ほどから会話をしているのが俺とラピスの二人のみであるということに。
俺はミナのことに思いを馳せると、自然と表情が強張ってしまう。
「しっかし、本当に大丈夫なのかね……」
「なに、風呂のときも正体は隠し通したのじゃろ。そこまでたわけた娘でもあるまい」
「そりゃそうかもしれんけどな」
俺がこうして気を揉んでいる理由は、ミナが現在花琳と一緒に居ることにある。
これが一時のことならまだよかったのだが。
「あいつの動物好きを軽く見てたな。今から思えばマロンのこともあいつが一番可愛がってたような気がする」
ことの発端はちょうど夕食を食べ終わった時だった。
部屋に戻ろうとする俺を止めた花琳は、今日は自分がミナと一緒に寝るのだと主張し始めたのだ。
『兄貴は昨日一緒に寝ただろ! 自分だけ一人占めなんてずるいじゃん! 交代々々にすべき!』
とは彼女の言である。
その場では曖昧に茶を濁した俺は部屋に戻ってミナ本人の意向を聞くと、『ご主人と一緒じゃないのは寂しいけど……お姉さまとならいいよ』とのことであった。
そうして今に至るというわけだ。
「ミナのやつ、花琳のこと妙な呼び方してたよな。昨日風呂でなんかあったのかね?」
「さての、知らぬ。……そんなことよりっ!」
「どわっ!?」
ラピスはベッドに腰かける俺に近寄ってきたかと思うと、身体ごと体当たりをかまして俺を押し倒す。
「お前な、そうやって身体ごと突撃すんのは止めろっつってんだろ。角が刺さったらどうす……」
しかし俺の苦言は、俺に馬乗りになる彼女の言葉で遮られた。
「――まったく汝ときたら、隙を見せれば他の女の話ばかり。先日のことをもう忘れたとみえるの」
先ほどと似たような笑顔を貼り付けてはいるが、若干そのニュアンスが異なっているように見える。
ほんのわずかな差でしかないのだが、俺も彼女のそうした微妙な差異を見て取れるようになってきたようだ。
とはいえ彼女の言葉はあまりに深読みが過ぎる。
「いやそりゃ考えすぎだろ……ってか穿ちすぎだ」
しかしラピスは納得しかねるようで、ふんとひとつ鼻から息を吐くと、俺の胸に腰を下ろしたまま腕を組んで見下ろしてくる。
「いーや。ここらでひとつ、我が君には念を押しておく必要があるとみた。……よいか。たしかに一応許可はしたがな、わしは今でもあのこむすめが汝と共におることが腹に据えかねておるのじゃぞ」
「……」
……まあ、そうだろうことは俺にも分かっていた。
説得の時だって不満がありありな様子だったからな。
むしろよく了承してくれたものだと思う。そこは素直に感謝せねばならないだろう。
「わしも神であった者、一度口にした約束を反故にしたりはせぬ。汝の言うことならどんなことでも従うつもりでもおる。……しかしじゃ。それでもわしばかりが我慢をせねばならんというのはあまりに不公平が過ぎるとは思わぬか?」
「……どうしろってんだよ」
「贅沢を言うつもりはない。こうして二人だけの時くらい、他の女の話はしないでほしいのじゃ。つまりその……」
ラピスは急にしおらしい態度になり、目線を俺から外す。
気恥ずかしげにしたその顔には、若干の赤みが差していた。
「こむすめのことは……我慢する。でも、今みたいなときは……わしだけを、見てほしい」
最期の方は殆ど聞き取れないくらいに小さいものになっていた。
同時に俺は、今さら何を恥ずかしがることがあるのかという気持ちと、彼女にここまで言わせてしまったこと――いや、こうして直接的に言われねば気付かない己の鈍さに対する苛立ちの両方を感じる。
自分をことさらに尊大に見せたがるこいつにとっては、俺が思う以上に気恥ずかしい台詞だったのだろう。
ならばせめて、今からでも俺もそれなりの態度を見せねばなるまい。
「……わかったわかった。ほれ」
「あっ……」
ラピスの背に手を回し、自分の胸元にまで抱き寄せる。
彼女の体はまるで抵抗を感じることなく倒れ込んできた。
俺はそのまま背に回していた手でラピスの頭をポンポンと叩きながら言う。
「確かにお前にゃ借りが山ほどあるもんな。悪かったよ」
「……別に、借りなどと……」
こういうことに関してだけは妙に遠慮をするのが分からないところだ。
「お互い様だ。俺だってあの時お前を助けたことを笠に着るつもりもないしな。ま、そういうことにしとけ」
「うん……」
言葉すらもしおらしくなるラピス。
そんな彼女の態度に気を緩めてしまったのもあろう、俺はつい考え無しに思いついたことを口にしてしまう。
「明日も色々やることがあるんだし、さっさと寝ようぜ。そういえば結局鈴埜は――……あっ」
「……」
口を滑らせてしまったことに気付くも、時すでに遅し。
約束をした矢先からこれである。つくづく自分の短慮さが嫌になる。
恐る恐る視線を胸元のラピスに剥ければ、案の定こちらを責めるようなジト目の彼女と目が合った。
「い、いやラピス。今のはつい、その」
「はぁ~……。もうよいわ。まったくしょうがないお人じゃことよ」
烈火の如く怒りだすかと思いきや、意外にもラピスは溜息を一つついたのみで、俺を強く責めようという気はないらしかった。
ラピスは俺の胸の上から移動し、横にぴったりとくっつく形になる。
次いで顔をぐいと近付けたラピスから発される甘い芳香が俺の鼻腔をくすぐる。
「……これで貸しがまた一つ増えたの。大変じゃな、このままでは一生かかっても払い切れぬほどの負債を抱えることになるぞ?」
「そうとは思ってないんじゃなかったのかよ」
「気が変わった」
「なんだそりゃ」
「くふふ……女心と秋の空、というやつじゃ。言っておくが一銭も負けるつもりはないからの。それこそ死しても払い続けてもらうゆえ覚悟するのじゃな」
妙に語彙まで堪能になりやがって。
やはりこの死神との付き合いは相当長い期間に渡ってのものになりそうだ。
いやむしろ終わりなどあるのだろうか。
それならそれで構わないか――などと馬鹿なことを頭に思い浮かべつつ、俺は傍らの熱いくらいのぬくもりと共に眠りに落ちていった。