「しっかしよく食べるよね」
翌朝。
共に朝食を摂っている花琳が視線を下に向けつつ言う。
「今までが今までだったろうからな」
「やっぱ野良ってのはキツいんだろね。ほれ、もっと食べるかー?」
顔を綻ばせつつ、花琳はミナをわしわしと撫でる。
言うまでもないことだが、彼女は現在狐の姿だ。
妹の愛撫に応えるように、ミナは顔を上げ花琳に向かい頷いてみせる。
「あ~っもう、カワイイなお前はー! よしよし、おかわりもってきてやっからなー」
そうして花琳は、ここ数年俺にすら見せたことのない慈愛に満ち溢れた表情で台所に消えていった。
……なんとも釈然としない気分だ。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「実際どうなんだミナ。花琳のメシは」
ミナと共に部屋に戻った俺は、部屋に入ってすぐ人の姿へと戻った彼女に質問してみる。
「お姉さまのごはんすっごくおいしいよ! ミナあんなおいしいの、もう何十年も食べたことないのね!」
「ん……ま、それならいいんだが」
何十年というスケールのでかさに一瞬たじろぐも、俺はまだ疑念を拭えずにいる。
手前味噌になるが、花琳の料理の腕は確かに相当なものだと、そこは俺も認めるところではある。
しかしそれでも、彼女は花琳と俺に気を使ってこんなことを言っているのではないか──そう勘繰ってしまう。
というのも、妹はミナのために特別な食事を用意しているのだが、その内容というのが問題なのだ。
動物に濃い味付けは体に毒だという花琳の用意するそれは、端的に言って凄まじく味が薄い。
これは俺も実際に味見して確認済みである。
滋味を感じられる……だのと
「まあなんだ、もし味付けに注文でもあったら言えよ。俺からそれとなく花琳に伝えとくから」
「はいなの!」
まったく元気のいいことだ。
──ま、元気なのは喜ぶべきことなのだが。
心なしか顔色も若干良くなってきたような気もするが、それでもやはりまだ彼女は痩せ過ぎのきらいがある。
「ひゃっ!? ご、ご主人っ!?」
「うーむ……やっぱもうちょっと太らねえとダメだぞ。不健康に見えちまう」
脇腹のあたりをポンポンと触りつつ俺は言う。
軽く触っただけで皮下の肋骨に触れることができるほどの痩せようである。それも服の上からだというのにだ。
ラピスとは違い、ミナは普通に食事を摂る必要がある。
これでよく何十年もあんな人気の無い山の中で生きていけたものだと感心するほかない。
比べると彼女の腰から生えている五本の尻尾は毛量豊富であり、それがまた本体の華奢さを強調しているかのようだ。
「お前さ、俺と会うまでは普段何食ってたんだ?」
「へっ……? え~っとね、木の実とかが多かったかな」
「ああ、まあ山ん中だしな。そりゃそうか」
文字通りの野生児といったところだな。
「あとは虫さんとか」
「ふんふん……──えっ?」
しれっと飛び出た台詞に、俺はミナを二度見してしまう。
いや、狐なんだし不思議じゃない……のか?
というか考えてみれば今の姿と獣の姿、どちらが彼女の本体と言うべき形態なのだろう。
人の状態で虫をバリバリと食べているところは正直、想像したくない。
「あとは山道を通った誰かが捨ててった食べ残しとかなの。やっぱり人間さんたちが食べてるものは山の中にあるものよりおいしかったのね」
「お前……ずっとそんな暮らししてたのか?」
「おかあさんと一緒に暮らしてた時は違ったよ。山の外にも出ていけたし……でも、ミナ一人じゃなんにもできないから。えへへ……」
そう言って自虐的な笑顔を作るミナ。
どうも彼女は自分を卑下しがちな節がある──特に自分の母親と比べて。
元気そうに振舞ってはいるものの、ことによれば人ひとりの一生分以上にもなろうかという年月を一人で過ごしてきたのだ。
それを鑑みれば、彼女の精神的消耗は測りがたい。
俺ならとうにどうにかなってしまっていることだろう。
「だからね! 今はミナ、とっても幸せだよ! あったかくておいしいご飯もそうだし、それにそれに! お湯で身体を洗えるだなんて夢みたいなの! ミナ、寒いのには強いほうだけど、やっぱり冬に川の水に入るのはキライだったのね。夜寝る時だってもう一人ぼっちじゃないって思うと──」
「……頼むミナ、そこまでにしてくれ」
俺は目頭を押さえつつ彼女を制止する。
危うく声が震えてしまいそうになった。
朝っぱらからなんて重い身の上話をするんだこいつは。……いや聞いたのは俺だが。
「どうしたのご主人。お体悪いの?」
「いいや、なんでもない。なんでもないさ」
かぶりを振って誤魔化した後、彼女の頭を優しく撫でる。
単純に重ねてきた年月で言えば俺なんぞ比べ物にならないくらいの年上なのだろうが、そんなことは関係ない。
この少女にはこの先そんな思いをさせるわけにはいかないと、俺は思いを新たにした。
……しかしそうなるとまた先ほどの疑問が再燃してくる。
すなわち、先の件はただ単に彼女の味覚のハードルが低いだけではないのかという疑念だ。
今までロクな食べ物を食べていなかったゆえ、酷く不味いものでもなければなんでも美味しく感じてしまうだけなのやも知れない。
「まあなんだ。一緒に暮らす以上遠慮はすんなよ。喰いもんのことにしろ、他のことにしろな」
「はいなのね!」
「よしよし……ん?」
彼女の頭を撫でていないもう片方の腕を引かれる感覚がある。
振り返ると、なにか言いたげな表情のラピスと目が合った。
「なんだラピス。どうした」
「……」
問うも、口を引き結んだ彼女は何をも発しない。
目の色からして何かを訴えたがっていることは分かるが。
解せぬ俺は俺はもう一度問い直す。
「おい」
「……わしも」
「え?」
ようやく口を開いたラピスは、むっつりとした表情で語気を荒くする。
「わしだってこむすめに負けず劣らずの境遇だったはずなのじゃがなっ!」
「ばっ、馬鹿! 急にでかい声出すなって! 下に聞こえたらどうすんだ」
「むうう~っ……」
慌てて俺は、どうどうと動物を落ち着かせる時に似た仕草でラピスを宥める。
妹が階段を登ってくる音がしないことを確認し。
「……ったく、一体何が言いたいんだお前は」
俺は気持ち声を押さえつつ、少々咎めるような声を出す。
「”何が”ではないわ。今言うた通りよ。こむすめに負けず劣らず──いや、もっと長い間わしは辛酸をなめ尽くす立場にあったのじゃぞ。単純な期間の多寡は言うに及ばず……それに比べればこむすめのそれなど比較するのもおこがましいわ」
「いやそりゃ知ってるよ。最初に会った時に話してくれたじゃないか」
「そういうことを言っておるのではないわっ! まったく察しの悪いことときたら……よいか?」
ラピスは鼻息荒く言葉を続ける。
「あの氷穴で封印されておったこと自体はそう苦痛でもなかった。一人きりというのは慣れたものであったゆえの。いかんせん腹が減るのが困りものではあったがな。もっとも辛かったのは、
「思い出したくもないなら言う必要ないだろ……ていうか何でこのタイミングなんだよ」
「汝が何から何まで言ってやらねば分からぬ朴念仁だからじゃっ!!」
彼女は激高し叫ぶも、俺は彼女の怒りがどこに根差しているのか皆目見当がつかない。
またぞろ俺の思慮足らずのせいであろうとは思うが。
「いや、だから大声を──」
「聞き捨てならないのねっ!」
「ああ、もう……」
だしぬけに大声を出したのはラピスではなく、今度はミナの方だ。
自体が収束するどころかますます混迷を呈し始めている様に、俺は頭を抱えてしまう。
「あなたが過去にどうだったかは知らないけど、ミナだってとっても辛かったんだから! あなたになにが分かるのね!」
「はっ、ぬかしおるわ。たかだか数十年だか数百年程度で喚きおって。そもそも汝には母も父も居たのであろうが。この贅沢者め、そんな汝に、存在して以来永々と一人でおったわしの気持ちなど分かるまい。下界を覗き、手の届かぬ温もりを盗み見ることしかできなかったわしの気持ちなどな」
「そっちこそ。あなたはずっと一人だったんだから、大好きな人を無くす気持ちなんて分からないでしょ? だいたいあれくらい凄い力があるならその力でどうにでもできたんじゃないのね? なのにただ誰かが会いに来るのを待ってただけなんて、甘えてただけなんじゃないのね?」
「きっ、貴様っ! もう一度言ってみ──」
「いい加減にしろ!」
階下に声が漏れてしまうことを危惧していたが、このまま放っておけばいよいよ収拾がつかなくなる。
そう判断した俺は、二人を一喝したのだが、一応の効果はあったようである。
とはいえ二人はひとまず罵り合いを中断したものの、未だ険悪な目つきで睨み合っているままだ。
「朝っぱらからお互い不幸自慢なんぞやって虚しくならねえのかお前ら! ……ラピス。一旦落ち着け」
「むむむ……」
未だ矛を抑えきれないといった様子だが、今回の件では彼女の気持ちも分からないでもない。
俺はミナに向き直り、やや厳しい態度でもって言う。
「ミナ。今のはお前が言い過ぎだ。ほれ、ラピスに謝るんだ」
「……わかったの」
不満はありありといった体だが、その後ミナが謝罪の言葉を述べたことで一応はここで落着となった。
「ったくもう……」
ほんと、どうしたもんかな……。
♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢ ♢
「──んぱい。先輩」
「……ん、ああ。どうした鈴埜」
時は変わって、放課後の部室でのこと。
話しかけてきた鈴埜に対し、俺は視線は向けず声だけで答える。
「どうしたじゃありませんよ。ここにきてからずーっと心ここにあらずって様子じゃないですか」
「……そう見えるか。……いや、そうだな……」
「何かあったんですか?」
「ううん……どう言ったもんかな……」
鈴埜の指摘は的を射ている。
結局あの後、登校中から下駄箱で別れるまでずっと、ラピスは不機嫌なままだった。
これから一緒に暮らしていくのだから、なんとか二人の仲をもうちょっと良いものにする必要がある。
第一、このままだと俺の精神が持たない。
しかし考えたところですぐさま有効な対策が思い浮かぶわけもなく、今日ここに至るまでずっと俺はそのことばかりを考えていた。
「鈴埜。お前は姉妹とかいるのか?」
「……? いいえ、私は一人っ子ですが。それがなにか?」
俺の言葉は相当意外なものだったようだ。
無表情な鈴埜にしては珍しく、わかりやすく驚いた顔をしている。
「いや、ただ何となく聞いてみただけだ」
しかしすぐに落ち着きを取り戻した鈴埜は、瞬時に元の無表情に戻る。
「気持ちに余裕があるようで何よりです。死神に憑りつかれている身の上だというのに」
「おいおい、憑りつかれてるって言い方は随分じゃないか」
「はぁ……まったく大物というか、危機感が欠如しているというか……」
「褒めてんのか貶してんのかどっちだよ」
「お好きに。ところで当の人物が見当たりませんが?」
「ああ、あいつは今日バイトに行ってるよ」
「バ、バイト!?」
と思えば、またしても驚愕した表情へと戻った。
しかも先ほどより感情の振れ幅は大きかったようで、目をかっと見開いてさえいる。
まあ、無理もないことだが。
『冥界の死神が人間界でバイト』だのと、一体どこの三文小説か漫画かというものだ。
「よくそんなことが可能でしたね。雇い主は閻魔大王か何かですか」
「いくらなんでもそりゃないだろ……」
「冗談ですよ」
「お前のはどっちか判断しにくいんだよ」
冗談なら笑いながら言うとかしろってんだ。
「しかし困りましたね。先日の件で話すことがあったのですが」
「先日……? え、お前まさか」
「ご安心を。自殺幇助をする気はありませんので。もう一つの可能性の方です」
「ああ、それなら……。いや、でもどっちにしろよく見つけられたな。昨日の今日で」
「こればかりは運が良かったと言う他ありませんね。とはいえ当人がいらっしゃらないのであれば詳細は次回としましょうか」
「そうすっか。後言うことっつったら……いや、これは言ってもしょうがないな」
「なんですか。そんな言い方をされると気になるじゃないですか。言うだけ言ってみてくださいよ」
妙に食いついてきた鈴埜に負け、つい学校にまで持ってきていた例の拾った箱を彼女に渡す。
鈴埜は外箱の様子や、中に入っている謎の板を数本取り出してしげしげと眺めていたが。
「ふーん……確かに見たところ、特別妙なところはありませんね」
当然と言うべきか、やはり思った通りの反応をした。
「だろ。でもラピスが言うには若干の魔力が込められてるらしいんだ。それにナラクの奴も思わせぶりなことを言ってたしな」
「……」
「……あ、悪い」
これは明らかに失策だった。
鈴埜に対し、ナラクの名前を出すのどう考えても配慮に欠けることだ。
しかしばつの悪そうな顔をする俺とは裏腹に、鈴埜は一瞬眉を寄せたのみで、ひどく平然とした様子で言葉を発する。
「いえ、おそらく先輩が思っているほどではありませんよ。とはいえ流石にあの方に対して好感を持つというのは難しいですけど」
「そりゃそうだろ……むしろボコボコにしてやりたいくらいだろ」
「流石にそこまでは。──ところで先輩。込められている力が小さすぎてラピスさんに分からないというなら、ここは一度私の母に見せてみては?」
「へ? エリザさんに?」
これはまた思ってもみない提案だ。
「ええ。もしかすると父もお役に立てるかも知れませんし」
「なるほど……それは考えになかったけど、確かに考えて見りゃエリザさんは元々向こうの人だし、惣一朗さんもああいう手合いとの付き合いは俺なんかよりずっと長いだろうしな」
「決まりですね。それでは部活が終わり次第向かいますか」
「そうすっか。ついでにちょっと遠回りになるけどラピスも拾っていこう。いやでもどうせなら……」
「?」
俺は一瞬迷ったが、どうせラピスのことも知られてしまった今なら対して問題にもならぬだろうと判断した。
これから俺たちに関わっていくと宣言した以上、隠していたところでいずれ知られてしまうことだろうしな。
「なあ鈴埜。連れて行くの、もう一人増えてもいいか?」