すっかり日も暮れて。
辺りは電灯に照らされて、まるでここだけが別の空間であるかのように、ぼんやりと浮かび上がって。
しばらく夜風とともに考え事やストーリー構想を行なった俺は、さらなるリラックスを求めて最後の地へと足を運んだ。
その最後の地とは、この露天風呂の中でも一番の休養をもたらしてくれるお風呂、寝ころび湯だ。
寝ころび湯は、その名の通り寝転がって利用するお風呂で、横に六人分の仕切りがある。
それぞれに石の枕が設置してあり、雨よけのための東屋は、ヒノキそのままのホワイトを保っていて温かさを感じさせてくれる。
寝ころび湯だから、入ってきて人がいると股間を凝視する羽目になるのが弱点だが、平日のこの時間帯なら心配する必要は無い。
俺は左から二つ目のスペースに、仰向けに寝転んだ。
すると、嘘みたいに身体がすうっと湯に馴染み出す。
爽やかに通り過ぎる夜風とじんわりと暖かい湯がちょうどいい温度を作り出して、その狭間で最高の癒しを受けているようである。
このまま目を閉じると、本当に湯の中に溶けだしてしまうんじゃないかって本気で心配するほどの幸福。
忙しない現代でも、生きててよかったって思わせてくれる。
だんだんとフェードアウトしていく意識に身を任せて、目を閉じ、蕩けてしまうのも悪くないかもしれない。
そんなことを思って目を閉じると、どこか別の世界に旅立つかのように意識が消えていくのがわかった。
なにか、夢を見ていた気がする。
なんだったかは思い出せないけど、きっと楽しい夢を。
えーっと……なんだったかな。
まぁ、なんでもいいか……。
徐々に意識を取り戻す、俺氏。
少し、寝てしまったようだ。
貸し切り状態の温泉の中で寝るなんて、なんて贅沢なのだろう。
と、至福を噛み締めること数秒。
……なんだか、下半身に違和感を感じる。
なんだなんだ、嫌な予感がしてきたぞ……?
気持ち悪さとか、痛さとか。
そういったものでは全然ない、軽いタッチが繰り返される。
重い目を擦って、そのちょこんちょこんとした違和感のする方へ向けてみると……。
我らが部長、茨木が、俺の大輔をつんつんしていた。
もう一回確認しよう。
我らが部長、茨木が、俺の大輔をつんつんしていた。
…………、……。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁァァァっ!」
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁァァァっ!」
「な、なんでお前が男湯にいるんだ!」
「な、なんで蛍原がここにいるん!」
お互い、質問をぶつけ合う。
いや、そんなことじゃない。
もっと重要な問題がここにはあるわけで……。
「ってか、なんでお前は俺の股間を指でつんつんしてたんだ!」
「っ……! お、お風呂で冷たくなって人が寝てたら、生存確認するじゃない! それよ!」
「だったら声をかけるとか、体を揺するとか、何かしらすることがあっただろ!」
「〜〜〜!! とりあえず前隠せ!」
あ。そういえば俺、全裸だったんだっけ。
茨木には一旦退出してもらって、一人、服を着て、髪を乾かして。
ドライヤー片手に考える。
……つんつんされるの、気持ちがいいな。
「お前、バイトなんてしてたんだな」
「短期でこの間からだけどね〜」
風呂から上がって、今は状況説明も兼ねてさっき素通りしたマッサージチェアがあるスペースで、茨木と話している。
どうやら、茨木はここでバイトをしていて、営業時間が終わったから清掃に入ったらしい。
そうしたら、たまたま寝ころび湯で寝落ちしていた俺がいたんだとか。
それで、なんとなくつんつんしてたら俺が起きた……と。
「なんでバイトなんか始めたんだ? やっぱりお金?」
「んー、まぁそんな感じかな。親に進路を認めさせるのにも、バイトしてるとこなんか見せておこうかなって」
「ふうん……」
茨木の、進路か。
正直、親に認められないような進路なんてどんなものか気になったが、聞かないでおこう。
俺だって、夢を人に言うのは躊躇いがある。
ま、普通に大学に行きたいけど行かせてくれないのかも知れないし、そういった特殊なものじゃないのかもしれないけど。
やっぱり、無神経になんでも聞くのも良くないな。
そう思って、それについては深く掘り下げないことにした。
……で。
今の茨木の格好の話になるんだが、施設の従業員用の浴衣を着ていて、なんだか落ち着いた大人な雰囲気を醸し出していて、艶かしい。
非常に、綺麗である。
薄い茶色の髪と若草色の生地が、妙にマッチして、尊い。
「にゃっ! なんで蛍原、急にあたしに手を合わせるん!」
「お前が神々しいくらい綺麗だからだ」
「は、はぁっ!? 〜〜〜! そ、そんなこと言っても入館料は安くならないからねっ!」
「そんなこと思ってないさ。ただ、ただお前が美しかったから……」
「そ、それ以上言ったらあたし怒るよ! あたしだって、恥ずかしいことくらいあるんだからねっ!」
……後半は、ちょっと遊んだ。
なんか、顔を真っ赤にして全力で照れ、涙目で恥ずかしがる茨木がかわいくて、いじってしまった。
綺麗なのはほんとだから嘘じゃないんだけど、なんだろう。
Sに目覚めてしまったのかもしれない。
「そ、それじゃああたしはもう仕事戻るからねっ」
「おう、また明日学校でな」
そう言って、茨木は背を向けて数歩足を進める。
しかし、次の瞬間ぴたりと足を止めると、振り返らずに聞いてきた。
「蛍原は、さ。夢とか……あるん?」
俺は、正直に言おうか迷った。
正直に言ったら、また馬鹿にされるかもしれない。
考え直せと諭されるかもしれない。
……でも。
「俺は、小説家になりたい」
「……っ」
自分に、嘘は吐きたくなかった。
それに、茨木を信じたいと思った。
「……そっか」
茨木は最後まで振り返らなかった。
ただ、さっきよりも少しだけ視線を上げて、ゆっくりと歩きながら。
「また、明日ね」
と、右手を軽く上げるのだった。
続く。