そんな薫を慰めてくれるたった唯一の存在が、弟の明だった。
明は薫の二つ下の二年生で、心優しい子供であった。
彼も母親に暴力を受けていたが、薫が母に気づかれないように明を逃がして自分が被害に遭っていたこともあり、大きな傷を追うことは少なかった。
そして母がいなくなると二人は寄り添い、震えて眠る。
……薫が生きようと思える一番の理由が、弟の明への心配であった。
自分が死んだら明はもっと酷い目にあう。
だから自分が死ぬ訳にはいかない……と。
薫が小学校に通い始めて、一ヶ月が経った。いつものように通学班と離れて弟と登校した彼女は、自分の席にたどり着くと絶句した。
机の上に躍るのは、血のようなおぞましい字体で描かれた「死ね」という文字。
その周りにも、不特定多数の人物によるものと思われる「学校に来るな」「空気が悪くなる」「バカ」「二度と顔を見せるな」といったような罵詈雑言が無数に書き記されていた。
……それを見た薫は、絶句した。
突如として自身の脳内から溢れ出る、汚い感情、闇の感情。
(なんで……あたしばっかり……?)
他の奴らは家庭環境にも恵まれて、友達も満足につくれて、自由なのに。
なのになんであいつらは、自由のない人間をより貶めることが出来るん……?
薫の言う「あいつら」とは、悪口を書いた特定の人物のことではなく、この世の中全てのことを表していた。
薫は次の瞬間、走り出そうとした。
しかし、そんなことをしたら周囲を悦ばせてしまうだけ。嘲笑われてしまうだけ。
……薫は、滂沱のように生み出される涙を必死に押し殺して、体育館と校舎の間にある、誰からも見られないようなスペースへと向かった。
……しかし。
「……っ!」
先客がいた。
それも、よりによってクラスメイトである。
(うっわ……。なんでよりによってこんなとこを……)
薫は、全てを諦めた。
もう涙を隠すことなんて、出来やしない。
泣いているところなんて見られたら、どれだけ馬鹿にされるかわかったもんじゃない。
もう、あたしは嘲笑われて生きる運命なんだ……と。
……しかし、そこにいた男子生徒は薫の想像していたような反応を一切しなかった。
彼は薫を一瞥すると、すぐさま下を向いて反対方向へと姿を消した。
(え……? あいつ、なんなん……?)
薫は、その不思議な男子生徒がどこか他の生徒と違うことに気がついた。
その違いがなんなのかはすぐに明らかになったが……、とりあえずそれが立花薫と蛍原大輔のファーストコンタクトであった。
この出会いから数日。
二人が再び顔を合わせるまで、そう長い時間はかからなかった。
……なぜなら、こうなるのは必然。
男女がそう区別されない小学校の段階では、殊に必然であった。
それは、初めての体育の授業時間のことである。
立花薫は、準備運動のペアを探していた。
あいにく女子の人数は奇数。
既に出来上がったクラスのコミュニティの中、彼女が入っていくスペースなどどこにも存在しなかった。
また、その場にもう一人、準備運動のペアを探している人物がいた。
……何を隠そう、あのときに薫が顔を合わせた男子生徒、蛍原大輔である。
彼は体育の時間になるとペアの相手が見つからず、あまり話したことのない生徒と三人で準備体操をすることが多かった。
といっても、コミュニケーションが苦手な彼のことである。
その実態は、仲良く準備体操をする二人の横で、道端の電信柱のようにぽつんと突っ立っているだけであった。
周囲の生徒が準備体操を次々と始める中、二人だけが取り残されている。
……二人が組むことになるのは、やはり必然のことなのであった。
そして、この日から怒涛の毎日が始まる。
二人はことあるごとにペアを組むようになり、それと同時に周囲には奇異の視線を受け、冷やかされることも少なくなかった。
しかし、彼らは大人であった。
幼い頃から過酷な状況に身を晒していた薫、そして思春期に入りほたる以外とは遊ばなくなって孤立した大輔。
……二人は精神的に、気持ちが悪いほどに大人なのであった。
薫はこの歳にして社会そのものを害悪として憎み、大輔は周囲の人間全てを馬鹿だと認識していた。
つまり、彼らは強かった。
そして二人は意気投合し、家が近いことを知ると登下校も共にするようになった。
……しかし、幸せな時間もそう長く続くものではない。
一年近くが経った頃、薫の母親は再婚を決めた。
相手は、あの走り屋の男。
これまで不満など特に感じたことはなかった彼女だったが、結婚が決まると、男は結婚式をしたくないと告げてきた。
実は彼にもまた離婚歴があり、原因は喧嘩別れであった。
彼女は、焦りを覚えた。
……結婚式をしないということは、私との結婚を周囲に隠そうとしているのではないか。
大事にせず、いつでも別れられるようにしているのではないか。
経済的な問題だとしたら、彼はどの程度の式なら行えるのだろう。
いや、彼の貯蓄について聞いたことはなかったっけ…………?
彼女は、急速に不安になった。
結婚前の男女が不安や焦りを抱くことをマリッジブルーといい、これは一般的によくある事だ。
そして大抵の場合、こういった不安を解消するのはお互いのパートナーや親である。
……が、しかし。
薫の母は、世間一般とは違ったストレスの発散法を取ってしまった。
……いつものように、薫と大輔は肩を並べて通学路を歩いていた。
いつもの家々に、いつもの草木。
「ねえねえ大輔、先週図書室で借りた小説、読んだ?」
「……ん……ああ、あれか。海賊のやつだろ? あれなら、面白くって一日で全部読んじゃったよ」
「ほんと!」
小学五年生に進級し、彼らが出会ってから一年近くの月日が経過した頃。
二人は、本の虫になっていた。
大輔は周囲の喧騒から逃れるために読書は手段として最適であったし、薫は母親がいない自宅で祖母から貰った絵本やティーン向けの文庫本を読み漁っていた過去がある。
そこで、お互いにおすすめの書籍を貸し借りし、感想を語り合い。
そんな毎日を過ごしていたのだった。
本日彼らが語ったのは、未来から来た海賊の少女が、先祖を他の海賊から守るというストーリーの文庫であった。
ストーリーのラスト、海賊たちから先祖を守った少女は、戦いが終わると力尽きてしまう。
しかし、彼女は英雄と称され、永久に讃え続けられるのだ。
二人は、英雄に憧れた。
ーー自分を犠牲にしてまで他人のために尽くす。そんな英雄に、憧れていた。
続く