小さく息を吐いて、残る冷たさに首を抑える。露出した首に風が当たると冷たい。それは当然であり、だからこそ自分の手のひらの温度で温めようと思ったのだが、体全体が冷えていた様子で、触れた手はとても冷たかった。それは触れたことを後悔するくらいに。
「さっむいなぁ……」
ろくな衣服も渡されやしない。上層部でも一部くらいだ、この箱庭で贅沢ができるのは。ここは箱庭を騙っている、残酷な世界だ。だからこそ、触れる冷たさに凍えている。
「生きてるのか、生きてないのか、これじゃあわかんなくなるよ」
小さく呟いた。というのも静かに、小さくだ。少しでも声を張ってしまうと聞こえてしまう。だから声を殺して、夜半に外の景色を見ながら座っている。
眼前には大きい丘。あの丘の向こうにはなにがあるのだろうか? 一体なにが待っているのだろうか。こんな、小さな世界では、ろくに生きることすら難しい。だから小さく息を吐いて遥か彼方に思いを馳せる。
生きているのか。生きていないのか。その境界というのは非常に曖昧だ。自分が生きていることを証明することなんて、死ぬまでできないのかもしれない。だからといって死にたくはない。死ぬのは怖いから。体が弾けて、血が溢れて、そのまま死ぬ。体の中にものを留められなくなる。だから死ぬ。
ならば死とは喪失なのかもしれない。そう思う。
死ぬことで失うものが多すぎる。だから人は死を失うのか。なによりも、ものを失うことを恐れているから死ぬことが怖いのか。
「わっかんねぇなぁ」
一つ呟いてこっそりと持ち出してきたパンの欠片を口に放り込んだ。それを噛むこともなく飲み込む。固く、味もなく、埃に塗れたパンなんて味わうほうが間違っている。普通なら食べないのかもしれない。でも、自分らにはこの程度の食事しかないから、それを食べるしかない。
美味しいものがいっぱい食べれる世界ってどれだけ幸せなんだろう。好きなものと好きじゃないもので別けても問題なく栄養が足りる世界ってどんなモノなんだろう。
この箱庭じゃあ味わえることのないものなんだろう。
周囲を見回すと、大きく囲われた世界。固く閉ざされた世界。大きい丘、欠けた先の世界。
知りたい。見たい。行きたい。……生きたい。
だから、この囲われた世界から逃走したかったのだ。それが自分の望みだった。生まれたときからここにいて、外の世界なんて知らない。昔は母親だっていたけれど、その母親は外の世界に消えたっきり戻ってこない。
だから外の世界はそんなに生き心地がいいのだろう。それがとても、羨ましい。
だっておかしいじゃないか。普通、人はこんな場所にとらわれないだろう? なんで自分らはこんな囲われたくだらねー世界に捕らわれているのか。憎くはないか? 恨みはないか?
このくだらない世界から、逃走したくはないか?
永遠の問いかけ。この世界で完結している自分たちに、答えなんて出せるはずもない問いかけ。
だってここから出ていった人は二度と帰ってこない。それはあの丘に横たわる死骸になったか、逃走に成功したのかの判別がつかない。だけど、みんながみんな『死んだんだ』という。
だってさ、家族を置いて逃げる人がいっぱいだ。その家族に戻ってくると告げて消える人がたくさんたくさんいるのだ。だから、生きているだなんて思えない。身内の情がそんなに浅いなんてだれも思いたくない。
くしゃみをむりやりこらえ、寒さにただ黙して耐える。視線はただ水平に。はるか彼方、あの丘の向こうを睨めつけていた。
パジャマは自分をなんだと思っているのか女らしい服装ばかりだ。あるいは子供を全て幼い趣味だと思っているのかもしれない。ともかく、自分が着ているパジャマは質素であるが、染色は女児に好かれそうなピンクに染まっている。
なんともまぁ、好みでない。自分の好みからは程遠い。しかし防寒性があるだけましだ。身を削って働いた甲斐があったと思える。しかし決定的に空いた穴は埋まらない。外に行けばきっと埋まってくれるだろう。
丘の傾斜は酷く急。なれていても、慣れていなくても、どちらにせよその丘は無情に命を噛みちぎる。体力が切れて足が止まった途端、そこを刑吏がどんと撃つ。だから丘は殺人的だ。
しかしそこさえ超えてしまえば後に待つのはただ平坦な、外の世界。
殺人的なあの長い丘を超えれれば、この命はきっとなにかの意味があったのだと思えるだろう。
だから、体力を付ける。自分らに与えられる仕事に力仕事、体力仕事は一切ない。ただ機械のように体を動かす仕事。ひたすら、ひたすら、ずっと。そんな生活を何年続けてきたのだろう? その感覚すらとうに果てた。とっくのとうに消え失せていたのだ。
……いつから外の世界に憧れたんだっけ。
たしか、ずっとずっと昔。自分がまだ子供の頃。今も子供といえば子供だが、しかし体も大きくなった。体の細さは変わりはしないが、随分、昔と比べて大きくなったと思う。
たぶん。
そんな自分が求める先。どこだろう。外。そう自問自答して、自分は今日もありふれたつまんねー世界を生きるのだろう。
丘の傾斜は推定30度。人間が登るには非常に厳しい。そのさきへ、そのさきへ、向かう方法をずっと前から考えている。こっそりと部屋で体を鍛えている。
───反逆の刻まで、牙を研ぎ続けている。
耳元で囁くのだ、声が。この世界から逃げろ、逃げろ、と。まったくくたばった自分の影が、ずっとずっと囁いている。殺した記憶の影でずっと囁く。
ならば、自分はそれに応えようと思った。確実さを確保するために随分と長い時間、偵察してきた。おかげで刑吏の動き方、そういうものは把握することができている。
だからきっと、行けるだろう。
そんな不確かな予感を持った。
睦言のような予感だった。
───今日、脱走することを決意した。
生きることに意味はあるのか。命に意味はあるのかという問に答えられる者はいやしない。
そんな人間がいるのなら、おぞましすぎて見てられない。直視することもかなわない。見てしまうと毒々しい神々しさで自分の瞳が潰れてしまう。だから、きっとそんな人間はいやしない。
息を殺した。
刑吏が見回りをして、全員丘から視線を外す時間は晩飯時を少し遅れたくらい。何回も見てきたのだ、もう感覚で間隔を把握している。
草葉に身を隠し、刑吏が消え去るのを待つ。まだ、まだ……まだ───今。
タイミングを掴んで、なるべく音を殺しつつ踏み出した。ゆっくり動いていられない。刑吏に気づかれてしまうかもしれない。だから、ゆっくりは進まない。
最初からトップスピード。
一歩目の段階で地面から静かに力を引き出した。体を傾け、自分の体重を推進力へと変換しながらも、一歩目、丘の土に足を浸す。
そこまでこれれば、あとはどれだけ早く走り抜けられるかの勝負だった。走って走って、全力で走った。だから喉が痛い。肺が擦れて血を吐きそうだ。最悪の気分だ。けどまだ気づかれてない。大丈夫。まだ行ける。
走る。
後ろを振り返っても、刑吏の姿はまだ見えない。そろそろ足が痛い。けどまだもう少し、丘はある。少しだけ、あと少しだけ。なんとか走ってしまえば、こっちのもの。
息ももう切れる。足の痛みに顔が歪むのを自覚する。しかし丘はもう少しで超えられる。超えられる、超えられる……超えられる。
丘の向こうに体を転がすようにして、走りきった。
「はは、あははは、はははははは……?」
実感が徐々に追いついてくる。酸素を欲した体は上下に動いていた。息がつらい。でも生きている。生きているなら問題ない。
「───ふぅ……」
外の世界を見る。漸く手にした、きっとある明日と自由を、その目に見た。
「ひかり……」
綺麗だ、と素直に思った。とても綺麗な、赤い赤い光だった。
体を動かす。ああ、とても綺麗。綺麗。綺麗。あの光に触れたい。あの光は? なに?
あと少し、あと少し。
もう少しだけがんばってみる。
痛い。とても痛い。
ああ、なぜ? なんで?
どこに自由はあるの?
ただ犯され続けるなか、
きっとその
───世界を恨んでいた。
透明文字使用してみました
トリックにもなってねーとりっくだなぁって反省してます