雷神が目覚めた日
どうしてこうなった。
額に汗を浮かべながら視線を這わせる。
完全に囲まれていた。
目の前に立ちはだかるのは赤毛の大男とある意味マッドなサイエンティストっぽい雰囲気を放つ科学者然とした淑女。
後ろには〈風鳴翼〉というシンフォギア装者の少女とボディーガードらしき優男がいる。
前門の虎、後門の狼とはこのことか。
なら横に逃げればいいじゃない。
そんな屁理屈を考えた奴は今すぐ私と変われ、いや変わってください。
両サイドもなんかよくわからない制服を着たお兄さんやお姉さんに固められてるんですよ?逃げられる訳ないじゃないですか。
——終わった。
私はきっとあのマッドな科学者にあんなことやこんなことをモルモットのようにされるんだろう。
そしてボロ雑巾のように死ぬんだ。
なんと短い人生だったのだろうか。
生まれてから16年、私〈
もっとも、昨日までの記憶が一切ないので、あんまり実感がわかないから実質一日だけの人生だが。
そもそも何故こうなったのか一旦整理してみよう。
大きく息を吸って吐いた私は、ここに来るまでのことゆっくり思い出した。
* * *
「知らない天井だ」
目が覚めての第一声はそれだった。
いや、知らないどころではない。
どこだここは。
「どこだここは」
はっ、思っていることが口から出てしまった。いけないいけない。
ベッドから上半身だけを起こして室内をグルリと見渡してみる。
広くもなく、狭くもない、でも少し手狭なワンルーム。
たぶん、一般的に見れば快適なんだろう。
だが、こんな部屋を私は知らない。
というよりそもそもの話——
「私は……誰」
——昨日までのことが何一つ思い出すことができない。
昨日食べた晩御飯のメニューすら出てこないのは一体どういうことだ。
あれ?思い出すってこんなに難しいことだったっけ?
こんな高等技術を人間は何となく使っているということなのだろうか。
だったらもっと誇って然るべきだろう。
ベッドから降りて必死に記憶をたどって見るも、やっぱり思い出せない。
そんな折、テーブルの上に何やら資料が置かれているのに気づいた。
手にとってパラパラとめくって見ると、私立リディアン音楽院という高校の資料らしい。
その下には入学案内と書かれた紙と、顔写真付きの学生証が置いてある。
そこから推察するに、私はこの私立リディアン音楽院の新入生ということになるのだろうか。
名前の欄には〈鳴神 小詠〉と書かれている。
どうやらそれが私の名前らしい。
「うわ……」
マジマジと見た学生証の写真は驚くほどやる気のない眼差しをしていた。
近くに置いてあった鏡で自分の顔を見れば、目は写真と同じく半分閉じられてやる気がない。
しかも寝起きということもあって、死んだ魚みたいな目になっていた。
これはひどい。
膝丈まで伸ばされたクリーム色の白髪も伸ばしっぱなしという印象で、毛先に行くにつれてふんわり広がっている。
どうやら自分は相当な癖っ毛で、手入れも面倒くさがるほどだったらしい。
わからない。
わからないことだらけだ。
でもひとつだけわかることがある。
「……遅刻だ」
時計の針はもうすぐ九時を差そうとしていた。
資料によれば入学式は十時から、でも学校の場所なんて覚えているわけがないし、唯一の手がかりは資料にある校舎の写真だけだ。
……ともかく、入学初日から遅刻はマズい。
私は手早く、クローゼットにかけてあった制服のようなものに袖を通し、寝癖のついた髪を適当に整えると、足早に部屋を後にした。
* * *
私が通うべき私立リディアン音楽院はすぐに見つかった。
この道をまっすぐ行った先、小高い丘の上にある。
あんな立地にあるのに見つけられない方がどうかしてるだろう。
「だからって!なんであんなところに建てたのよッ!」
目下、街中を全速力で駆け抜けている最中の私が見つめる先にはリディアン音楽院がある。
問題はその道程だ。
緩やかではあるが、校門まで勾配が続いているではないか。
ふざけるな。
運動部でもないのになんで朝からランニングでエクストリームしなければいけないんだ。
体力を無駄に使うとわかっていても文句を叫ばずにいられない。
通学路でもあるこの道を歩いてる人は私を置いて他には誰もいない。
そりゃそうだ、通学時間なんてとっくに過ぎてるし、むしろ遅刻ギリギリだもん。
間に合うかすらも怪しい。
「はぁ……はぁ……」
息を整えるために立ち止まる。
流石に自宅から走りっぱなしなので疲れた。
両膝に手をついて大きく肩で息を整えるのだが、そこで異変に気付く。
——いや、気づいてしまったのだ。
「……?」
息を整えて周りを見渡す。
誰もいなかった。
そう、
通学時間が過ぎたとはいえ、ここは街のど真ん中、しかも九時過ぎだというのに、人っ子ひとりいないのはおかしい。
人の気配すらなく、街中の喧騒も聞こえず、車すらも走っていない。
不気味なまでの静寂がこの場を——この一帯を包んでいる。
その時だった。
フワリと風が吹いた。
黒い、煤のようなものが渦を巻いて舞い上がる。
「……!!」
それが意味するところを直感的に、私は察知した。
走ることに夢中になって気づかなかった光景が鮮明に視界に焼きつく。
倒れた自転車、持ち主不明の鞄、店員すらいないコンビニ。
そして、あたり一帯に散らばる黒い物体の山。
記憶がないというのに、それがなんなのかわかる、わかってしまう。
「ノイズ……!」
「———————!!」
声にならない鳴き声が後ろから聞こえた。
振り返るとそこには獲物を見つけたと、道路を埋め尽くす勢いで、ノイズが集まり迫っている。
——死んだ。
そう思うのも当然だろう。
人間がノイズに太刀打ちできる力なんてない。
触れればあらゆるものを炭素に変えるか、自壊するしか能のない、食物連鎖の底辺にいるような存在相手に、人間は無力なのだ。
まあ、触られただけでアウトだから、当然といえば当然なのだが。
しかもコイツら、人の叡智の結晶である現代兵器が何ひとつ効かないというオマケつき。
抵抗することもできないため、私たち人間にできることは、ノイズが勝手に自壊するまで逃げることだけ。
だから、ノイズと遭遇した人間の三割は、そこで死を覚悟するのだと言う。
「……はぁ」
——それだというのに。
「遅刻確定だ……」
私は頭に手を当てて、そんなことを口走っていた。
なぜ逃げるでもなく、死を覚悟するでもなく、その言葉が出てきたのかは定かではない。
だが、確信はあった。
逃げなくていいと、死ぬことはないと。
大きく息を吸う。
私は何かに導かれるように、胸に手を当てていた。
記憶はない、が身体は覚えている。
そんな感じだ。
瞳を閉じて、身体の内側に、心の中に潜る。
浮かび上がる詩を、湧き上がる旋律を、聖なる謳を詠いあげる。
「——————————————」
それは人の耳には到底言語として聞こえないような謳であり詠だった。
どこまでも透き通る旋律は波となり、色のない言霊は葉風となって舞い上がる。
遥か彼方、星が生まれた音色を奏で詠みあげた刹那、眩いまでの光が私の身体を包みこんだ。
* * *
私立リディアン音楽院地下。
そこには日本政府直轄の機関・特異災害対策機動部二課の本部があった。
最新鋭の設備が揃えられ、数十人の職員が詰めかける指令室には警報が鳴り響き、その場にいる全員が険しい顔でモニターと睨めっこをしている。
その職員であり、情報管制担当の藤尭朔也と友里あおいがモニターを見て叫んだ。
「ノイズの反応を確認!」
「出現位置特定……リディアンから距離二百!」
「近い……。友里!本件を我々二課で預かることを一課に通達!」
「了解!」
その報告を受けた二課の司令・風鳴弦十郎が冷静に指示を下す。
「藤尭ッ!翼に連絡だ!」
「とっくにしてます!現場に急行中!到着まで三百秒!」
「まーったく、こんなに朝早くからノイズが出るなんて、仕事熱心というかなんというか……」
弦十郎の隣に立つ櫻井了子はやれやれといった感じにボヤく。
「確か今日って、リディアンの入学式だったわよね?」
「ああ。……ノイズまで入学式に呼んだ覚えはないのだがな」
「……ッ!新たな反応を確認!」
再び現場の解析を行っていた藤尭が声を上げる。
しかし、その声はどこか上ずっており、驚きが含まれているようにも感じた。
それを受けて弦十郎と了子の顔が再び険しく変わる。
「反応絞り込みました!位置特定!」
「ノイズとは異なる高出力のエネルギーです!」
「波形を照合!急いで!」
自らも椅子に座り、集積された情報の精査、照合を行い、そして、目を剥いた。
「この反応……もしかしてアウフヴァッヘン波形!?」
凄まじい速度で情報処理され、一致した波形とその名が巨大なメインモニターに表示される。
【TAKEMIKADUCHI】
「〈
今まで平静を保っていた弦十郎が、あまりの衝撃と驚愕で立ち上がって声を荒げる。
隣に座る了子もまた、信じられないものを見たと言うように愕然と見つめている。
特異災害対策機動部二課に所属する者なら誰もが知っていた。
それは、かつて失われたとされる聖遺物の名だということに。