志摩家の庭は奇々怪々の様相である。
「何やってんの……父さん……」
「リンにダンボールの魅力を教えている。なあリン、ダンボール箱はいいものだろう?」
「うん! ダンボール好き!」
二十代半ばの女性が巨大なダンボール箱を持ち上げており、その真下に老人と幼女が体育座りで向かいあっていた。まるで二人が被っているダンボール箱を女性が持ち上げたような形だ。
実際その通りの状況で、ダンボールを持ち上げている女性はひきつった笑顔を浮かべたまま、一度ダンボールを二人に被せ直す。
きっかり三秒ほどたったのち、女性はダンボールを投げ捨てて言い放った。
「孫に変なこと教えないでよ、父さん!」
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志摩家に特大の怒号が響く数分前のこと。
老人は困惑していた。
自分の生まれ育った実家の庭先。娘夫婦の生活も安定し、定年退職した自身の老後についても見通しがついた春のことだ。かねてより興味のあったツーリングとキャンプを始めようと思い立ち、現役時代に買ったはいいものの使う時間が無くどこかへしまいこんだキャンプ道具を探し始めた。
まずは庭にある小さな倉庫へ向かい、扉をあける。そして扉を開いた先の光景に老人は絶句したのだ。
そこにあったのは空っぽの段ボール箱。数年前に娘が買ってきた冷蔵庫の外箱で、成人男性一人が入ってもまだ余裕があるサイズだ。保証書がついてるから念のためとっておいたのか、それともゴミ箱や収納箱として使う予定でもあったのか。こんなものをしまいこんでいた娘の意図はともかく、倉庫の中にある物品としてはさほど不自然ではないだろう。
そんなダンボール箱に対し、なぜか老人は使命感を感じている。
ダンボール箱を被らなければならない。この世に生まれおちて六十余年、初めて覚える謎の感覚に老人は眉をひそめるばかりだった。
彼とてダンボール箱を初めて見たわけではない。しかし成人男性がすっぽり入れるだけの空っぽのダンボールが、空いたスペースをあらわにして鎮座している光景を見るのは初めてといってよかった。
理由はともかく、老人は使命感に突き動かされるまま倉庫に入る。それからダンボールを倉庫の外へ引っ張り出して、細く引き締まった両腕でダンボールを持ち上げ、被った。
カポッ、と心地よい音とともに視界が暗くなる。ほどよい閉そく感に老人はしぜんと笑みを浮かべている。
続いて老人は中腰でダンボールを持ち上げ、被ったまま庭先を走り回った。春のうららかな陽気の中、民家の庭先をダンボールが走り回る光景は妙にシュールだ。
といっても本人は真剣そのもの、先ほどまでの笑顔は鳴りを潜め、難しい顔で考え込んでいる。ダンボールを被って動き回っていると使命感は満たされるが、新たに謎の郷愁を感じる。ここではないどこか、殺気が満ち銃声と爆音の響く血なまぐさい場所でダンボールと生死をともにしていたような――
「くっ、くく、はははは!」
突如老人は笑いだす。あまりにも荒唐無稽な事実とタイミングの悪さを知ると、笑いをおさえきれなかった。
脳裏にひらめいたのは前世の記憶だ。享年八十歳、伝説の傭兵とも呼ばれた一人の男の記憶。葉巻を愛し、ダンボールにこだわり、戦いの中に生き、袂を分けた親友と決着をつけて果てた男だった。一般的な日本の家庭に生まれた自身とは比べ物にならない劇的な人生だが、紛れもなくその男がかつての自分だったという強い確信がある。それに、幼いころからなぜか柔道や合気道、その他格闘技全般に秀でていたのも、前世で骨の髄までしみ込んだ近接格闘術、CQCの影響だったとすれば得心できる。
「ははは! 今更思い出しても仕方ないだろう!」
が、前世を思い出しても老人はもう老人だ。
友を得た。職を得た。生涯の伴侶も、大切な娘も、孫娘だってできた。人生の酸いも甘いも味わい、人並みの不幸と幸福を乗り切ってきた。戦うことでしか生の充足を得られない戦士ではないし、今の幸せを捨ててまでかつての自分に戻る気にはならない。もう少し若いころに前世を――空っぽの大きなダンボールを見つけていれば話は違っただろうが、すべては今更だ。
老人はダンボールの中で膝を抱え、前世をじっくりと反芻しだした。ダンボールの安心感が懐かしい記憶を思い出させてくれる。かつての師であり、母親であり、敵でもあった彼女と出会ったころのこと――
「おじいちゃん、何してるの?」
「!」
ダンボールの間から陽光がさしこむ。スネークの頭上にビックリマークが飛び出た。
小さな両手でダンボールを持ち上げているのは、五歳になる孫娘のリンだ。娘に似てきれいな黒髪が日光を反射している。
かわいらしく小首をかしげるリンに向け、老人はおごそかに口を開く。
「ダンボール箱を被っている」
「なんで?」
「分からない。だがこの箱を見ていると、無性に被りたくなったんだ。いや、被らなければならないという使命感を感じた、という方が正しいかもしれない」
「しめーかん……?」
「ああ。リンは三時のおやつが目の前にあったらどう思う?」
「たべたい!」
「そうだろう。それと同じだ。ダンボール箱が目の前にある。すると被ってみたくなる。人間はこうあるべきという、確信に満ちた安らぎがそこにあるからだ」
「んー?」
「分からないか?」
「うん」
「ならお前も被ってみろ。そうすれば分かる」
「うん!」
幸か不幸かリンの感性は老人のソレを引き継いでいた。体育座りで向かい合いダンボール箱を被ると、リンはなんともいえない安心感に満たされる。不思議な感覚にリンは頬を紅潮させ、「わあ……」と声を漏らす。
「どうだリン。ダンボール箱はすごいだろう?」
「うん、すごい……」
リンはお風呂の湯船につかっているときのように蕩けた表情で、その様子からダンボール箱の素晴らしさには世代も世界も関係が無い、と老人は確信した。ダンボール箱はスパイのマストアイテムとしての側面だけでなく、人類普遍の価値、母なる海に通ずる何かを有しているのだ。
こうして孫娘とダンボール箱の素晴らしさを共有する余生も、悪くないかもしれないな。
そんな老人の思惑に対し娘が「変なこと教えないで」と猛反発するのは、このすぐ後のことだった。
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老人が前世の記憶を取り戻してから十数年後。
「お母さんしょうゆとって」
「はいはい」
「ありがと」
志摩家のリビングで母と娘が朝食をとっている。父はいつも早めに仕事へ出るので朝食は二人だけだ。特に和気あいあいとしゃべり合うわけではないが、朝のニュース番組をBGMに和やかな雰囲気が漂う。
女子高生となったリンは、母親似の黒髪をシニョンに結ってぼうっとテレビを眺めていた。朝に弱いのか眠たげに目を瞬いている。
『続いて今日のすごい人のコーナー!』
「あ、おじいちゃん」
「相変わらず元気でやってるのねぇ」
ニュースがひと段落して次のコーナーに移行すると見知った顔が画面に映し出され、リンの目がわずかに見開かれた。母は呆れまじりに苦笑しながら、画面の中で渋いキメ顔をする老人に目を向けた。
『このコーナーでは今話題になっているスゴイ人を特集していきます。今回のスゴイ人はこの人!』
ニュース番組だかバラエティだかよくわかんない企画だなぁ、とリンは内心で茶々を入れつつテレビに集中する。
『七十七歳にして無人島でのサバイバル生活を愛する、通称「スネーク」さんです!』
「どうも、スネークです」
リンの祖父――老人は定年退職後、キャンプに加え無人島でのサバイバル生活を趣味とした。もともとアウトドア系の趣味に興味があり、しかも都合よく前世の記憶と知識を取り戻したので、時間も金もあるのだからとサバイバルを始めたのだ。知識と暇があれば活用したくなるのが人情だった。
現役時代の友人のコネを活用し渡航可能な無人島の情報を集め、後は現地で送迎をしている漁師さんを探して渡航。目いっぱいサバイバルを満喫して帰港し、さらに近場のキャンプ場をはしごする生活を繰り返している。
転機はリンの母のSNSだった。祖父の元気すぎる生活を「もう少し落ち着いてほしい」という旨で投稿したところ、大衆の耳目を集めフォロワーが急増、テレビ局やアウトドア系の雑誌からたびたび連絡が来るようになった。本人のオープンな気質もあいまって人気が増し、今やサバイバル技術の第一人者として知られている。
「リンは絶対ダメだからね」
「分かってるよ。毒虫とか怖いし行かない」
「ダンボールでキャンプもダメ」
「……」
「リン?」
「わ、分かったよ」
おじいちゃんっ子のリンだが無人島生活にはついていけそうもなかった。文明の恩恵をしっかり享受する女子高生にサバイバル生活はつらい。
といっても大好きな祖父のマネはしたくなるもので、中学のころからキャンプを始めた。その際テントの代わりにダンボールを持っていこうとしたが、「絶対やめて」と両親に懇願され断念。大人しく一般的なテントを使ってソロキャンプを楽しんでいる。
『スネークさん、持ち物はそれだけですか?』
『ああ。ナイフ一本あれば大抵のことはどうにかなる。見ていろ』
祖父がナイフを手に川へ突っ込む。
『数分後』のテロップが流れると、片手に巨大な魚を、口にナイフをくわえた祖父が戻ってきた。
『大きな魚ですね!』
『まあまあだな。さて、こいつを焼きたいところだがこの雨じゃ難しい』
『となると、干物とかにするんでしょうか?』
『いや、このまま食う。サバイバルビュワー!』
『ちょっ、カメラ止めてカメラ!』
『ちなみに寄生虫はよく噛めば死ぬから平気だ』
謎の効果音とともに生の川魚をむさぼる祖父。続いて『しばらく音声だけでお楽しみください』というテロップ。リンは「おいしくなさそう」と顔をしかめ、母は頭を抱えた。
「リン、言っとくけど人前でああいうこと……」
「しないよ。人前じゃなくても」
祖父のことは大好きだ。でも全部マネしたいとは思わない。人をそんなに影響されやすいヤツみたいに言うのはやめてほしい。
と内心で憤慨するリンだが、彼女が自覚している以上に祖父の影響は強かった。
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富士山にほど近い、本栖湖のふもとキャンプ場。
冬場で他のキャンパーの少ないがらんとしたそこに、リンは一人テントを設営しソロキャンを満喫していた。たき火のはぜる音以外何もない静まり返ったキャンプ場に一人でいると、自然にまぶたが重くなる。夕食を食べた満腹感があるからなおさら眠い。
しかしあったかいスープを飲み過ぎたせいか厠が近い。
リンはゆっくりと立ち上がり、言った。
「脱ぐか。で、トイレ行こ」
寝ぼけているわけでも酔っているわけでもない。リンは大真面目な顔で厚い防寒具に手をかけ――
「いやいや、何をしてるんだ私は」
すんでのところで思いとどまった。
『おじいちゃんって、無人島だとよく上半身裸だよね。虫に刺されるし傷もつきやすいのに、なんで?』
『気持ちいいからに決まってるだろう』
『気持ち……いい?』
『欲を言えば下半身も脱ぎたいんだが……お前のお母さんに「本気で泣くよ」と脅されているからな。あれで我慢している』
驚くほど頑丈な祖父とは違い、リンは普通の女子高生だ。真冬の湖畔で裸になろうものなら風邪は必至、悪くて低体温症で死ぬだろう。いくら開放感のあるガラ空きのキャンプ場でもそれはまずい。危ないところだった。
そそくさとトイレへ。手早く用を済ませ、そばにあるベンチに目をやる。そこで昼間寝ていた同年代くらいの女子の姿は消えていた。さすがに夜通しここで寝るほど無謀ではなかったらしい。
キャンプに戻ってスマホで祖父関連のニュースでも探そう、とリンが踵を返すと――
「ううううう」
「!」
リンの頭上に赤いビックリマークが飛び出した。
敵は一人。ベンチで寝ていた女子が大粒の涙を流しながらこちらを見つめている。振り返ったらそこにいるホラーっぽい演出のせいでリンの恐怖心と警戒心が一瞬で高まった。
即座に戦闘態勢へ移行、どんな動きにも対応できるよう神経をとがらせる。
すると涙を流す女子は、助けを求めるように片手をリンへ突き出した。
「ふんっ!」
「えっ、なになに!?」
その手を取って優しく関節を固めつつ、女子の背後へ。空いた手を首に回し、のど元にスマートフォンを突き付けた。祖父から教わったなんちゃって護身術、マイルドCQCである。
「あ、ご、ごめんつい」
「びっくりした~!」
優位な状況になったことでようやく平静を取り戻したリンは、即座に拘束を解除する。解放された女子は目を丸くしてリンに向き直った。
「今の何!? 合気道? ジュードー!?」
「CQC、かな。意味はよく知らない。それよりごめん、急に技かけて」
「ううん、私もびっくりさせちゃったから。こっちこそごめんだよ」
そう言って笑う彼女の瞳から、新しい涙は流れなかった。驚きで不安が吹っ飛んだらしい。
「私そこでキャンプしてるんだ。ここじゃ寒いし、移動しない?」
「キャンプ!? うん、行く行く!」
そうして移動した二人はお互いの事情――おもにベンチで眠っていた女子、各務原なでしこの事情を話しあった。お札にも印刷されている富士山を自転車で見に来たなでしこは、ベンチで休憩しているうちに爆睡。気付いたら陽が落ちてて、帰り途も暗くて帰るに帰れないとか。
カップ麺をごちそうするとなでしこは姉の携帯の番号を思い出し、迎えを頼むことに成功する。
後は迎えが来るまで待つだけだ。
「でもキャンプなんてすごいよねー。あれでしょ、ナイフ一本で蛇捕まえて、魚とか生で食べるやつ!」
「違わい」
「え? でもテレビで、『この程度東南アジアのジャングルに比べればキャンプみたいなものだ』ってスネークさんが言ってたよ! 今朝テレビで見た!」
「おじいちゃん……」
リンは頭を抱えた。祖父のせいでキャンプのハードルがすさまじく高くなったかもしれない。人混みの苦手なリンにとってはありがたいが、キャンパーをサバイバリストのように勘違いするのは勘弁してほしい。
「キャンプってのは、こうやってテント張って、たき火たいたり景色を眺めたりしてのんびりすること。生き残ること最優先のサバイバルとは違うよ」
「そうなんだ! たき火で景色ながめて、テントでのんびり……楽しそうだねっ!」
「ん……まあ結構楽しいかな」
たき火を囲った二人の談笑は、ゆったりと、しかし途切れることなく続いた。
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「あれ? 斎藤からだ」
姉の車で帰って行ったなでしこを見送った後、テントに戻ってきたリンは、友人から新着メッセージが届いていることに気がつく。どうやらついさっき、なでしこと話している間に送ってきたらしい。
「なんじゃこりゃ」
内容は朝の番組のクリップ画像だった。焼いた蛇にかぶりつく祖父に『うますぎる!』と字幕のついたワンカット。斎藤からは『共食いおじいさん』のメッセージが添えられている。
(そういえば、アイツもうまそうにカレーめん食ってたな。食い意地の張ってるおじいちゃんと、案外気があったりして)
リンの脳裏に、並んで蛇にがっつきながら「うますぎる!」と叫び合う祖父となでしこの姿が浮かび、小さく吹き出してしまう。
そうして他愛ない想像と、斎藤とのやり取りにふけっていると、あっという間に夜が更けていくのだった。