琴吹紬は、お父さんが誕生日の日には家にいてくれることが決まって、とても嬉しかった。
楽しい夕食の時間も、それまで以上に楽しいものとなった。
「ごちそうさまでした」
夕食を終えた琴吹紬は、自分の部屋に戻ると、軽音部のみんなにメールで「再来週の日曜日は、お父さんは家にいて、みんなに会ってくれることになりました」と送信した。
それぞれの家で軽音部のメンバーは、このメールを受信した直後、一斉に平沢唯宛にメールを送った。
『決まったぞ、唯。ちゃんと勉強しろよ! ……律』
『勉強しろ! 勉強しろ! 勉強しろ! ……澪』
『唯ちゃん。試験勉強がんばってね。……紬』
『唯先輩。寝ちゃダメですよ。勉強の時間割守ってくださいね。……梓』
たて続けに、送られてくるメールに、平沢唯は「頑張るからね。みんな心配しないで」と独り言をつぶやいた。
そして、気持ちを新たにして教科書を見直していた。
中野梓だけが、もう一箇所、別の人物にメールを送った。
平沢唯のお目付け役である妹の平沢憂に、である。
『憂。唯先輩のこと、頼むね。……梓』
平沢憂は、中野梓からメールを受け取ると『わかったよ、梓ちゃん。任せておいて……憂』と、返信した。
その後、平沢憂は2Fの自分の部屋を出て、1Fの台所へと向かった。
姉である平沢唯のために夜食を作るつもりなのだ。
「うーん。何を作ろうかな?」
冷蔵庫の中を覗き込んだ平沢憂は、うどん玉の袋を見つけた。
「そうだ。鍋焼きうどんを作ろう!」
しかし、本当に平沢憂はなんでもできる。
あっという間に、ぐつぐつと美味しそうな匂いのする、鍋焼きうどんを作った。
「……お姉ちゃん、入るよ!」
平沢憂は再び2Fに戻ってくると、自分の部屋のとなりにある、姉の平沢唯の部屋をノックした。
姉の返事を聞いた平沢憂は、鍋焼きうどんの入った土鍋を持って部屋に入っていった。
しかし、平沢唯は妹の顔を見るなり、いきなり泣き顔になった。
「……憂……どうしよう。全然、頭に入っていかないよ……」
机の上には、教科書と参考書、ノートがひろげられている。
ちゃんと勉強はしていたようである。
しかし基本的に『一点集中型』の平沢唯は、広く浅くの記憶をするものは、もっとも苦手なのである。
平沢憂は持っていた土鍋を、部屋の真ん中にある卓上机に置くと「お姉ちゃん。大丈夫だよ。私も一緒に勉強するからね……」と、笑顔で励ました。
「でも、お姉ちゃん、お腹すいたでしょ。夜食作ったから食べて」
「憂。……ありがとうね」
勉強机から離れると平沢唯は、卓上机のほうへ移動した。
そして作ってもらった夜食を、美味しそうに食べ始めた。
憂は、いつも思うのである。
「お姉ちゃんの幸せそうにご飯を食べている姿が、自分にとって一番の幸せなのだ」ということに。
平沢憂は、頬杖をつきながら、平沢唯が、夜食を食べ終わるのを待った。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした!」
にっこりと笑いあった姉妹は、姉は勉強机に戻り、妹は、食事の片付けをしたあと、自分の部屋に戻り、試験勉強用の教科書類一式を持って、再び姉の部屋にやってきた。
いよいよ本格的に、2人は試験勉強を始めた。
その頃、琴吹紬の父親は、自室の書斎で仕事の残務処理をしていた。
書斎は夫婦の寝室とドアを隔てて同じ間取りの中にある。
イタリア製の、いかにも社長が使いそうな大きな机に、各種の書類を散乱させていた。
(ふぅ、少し休憩するか……)
そう思って背伸びをした時に、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ……」
ノックした相手はわかっている。
この部屋に入れるのは、自分と紬の母親だけである。
「お疲れ様……。少し休憩されてはいかがですか?」
そう言った紬の母親は、暖かいブラックコーヒーと、3枚のクッキーを持ってきた。
「あいかわらず、絶妙のタイミングで持ってくるな」
「……でしょ。書斎にお父さんが入ってからの時間で、大体わかりますから」
紬の母親は、そう言うと、持ってきたコーヒーとクッキーを、夫の机の隅に置いた。
本当に仲の良い夫婦である。
琴吹紬が、ひねくれず、素直に成長できたのは、この両親の背中を見て育ってきたからであろう。
紬の母親は、夫の机の近くに、予備の椅子を持ってきて腰掛けた。
「今日、夕食の時、紬さんが、お父さんにお願いをされた時、お父さんびっくりされていましたね」
「ああ。いろんな意味でびっくりさせられた……」
「紬さんが、お友達を家に連れてくるなんて……」
「ああ、そんなことは初めてのことだなぁ……」
紬の父親は、自分の記憶を振り返るように答えた。
そうなのである。
琴吹紬は、今まで一度も自分の友達を、家に招待したことがない。
友達がいなかったわけではない。
むしろ、父親は、他の子よりは多い方だと思っていた。
しかし、なぜか紬の友達が家を訪れた事がなかった。
あまり、娘のことをあれこれ言わない父親だが、この点だけがずっと気にかかっていた。
「お母さんは、紬のお友達は見たことあるんだろう?」
暖かいブラックコーヒーをすすりながら、紬の父親は妻にむかって訊ねた。
「はい、紬さんの学園祭の時のステージを見ましたから……」
夫の問いに、微笑みながら紬の母親は答えた。
琴吹紬が2年生の時の文化祭学園ライブを、紬の母親は、執事の斎藤と共に、こっそり見に行っていたのである。
このことは、娘の紬にも話していない……。
「どんな子達なんだ?」
「……本当に優しそうないい子達ですよ。紬さんは、いいお友達を持ったようです」
「そうか……いい子達か……」
「そうですよ。お父さんに、ちゃんとお礼をしたいと言ってくるような子達です」
「そうだな。いい子達のようだ……」
紬の父親は、ゆっくりとコーヒーカップを机に置いた。
「でも、お父さん……お友達で良かったですわね」
「どうしてだ?」
「これが『彼氏を家に連れてくる』なんてことでなかったからですよ」
「……おい、お母さん。それこそ、びっくり仰天してしまうぞ」
紬の両親はいずれは来るだろう、その時のことをお互いに想像して笑いあった。
「ウフフ、そうですね。……でも、お父さん。今年のお誕生日パーティーは、本当に楽しい日になりそうですね」
「……そうだな。再来週が楽しみだ。絶対に仕事が入らないようにしておかないといけないな」
紬の母親は、実は父親が最後に言った、この言葉の約束が聞きたかったのだ。
今回は、紬だけではないのだ。その大事な友達までくる。
『急用だから』の一言では、紬の立場が危なくなってしまう。
その為に、父親の決意が聞きたかったのだ。
父親としての言葉の約束を聞いた、紬の母親は満足そうな微笑みをして「お父さん、コーヒーのおかわりは、いかがですか?」と、夫に訊ねたのだった。
両親が書斎で話をしている頃、琴吹紬は、自分の部屋で椅子に座り、アルバムをみていた。
かわいいクマさんの表紙で、『紬のアルバム』と達筆な文字で書いてある。
紬の母親が、紬が生まれた時に書いてあげたものである。
琴吹紬は、自分の小さかった頃に撮った、いろいろな写真を見ていた。
両親と家の前で撮った、小学校入学の時の写真。
初めて、両親と行ったプライベートビーチでの写真。
小学校、中学校の時のお友達との写真。
そして、高校入学して、本当の親友になった『放課後ティータイム』のメンバー達との写真。
ひとつひとつの写真を、時に笑いながら、時に懐かしみながら、紬は見ていた。
「私、お友達を初めて家に呼ぶんだね……。なんだか、恥ずかしいけど……、とってもうれしい!」
琴吹紬が、自分の友達を家に呼ばなかった理由。
それは、自分の家を見たお友達が、今まで以上に自分との距離をとるのではないかという恐れからであった。
琴吹家の屋敷は、世間一般から見ると『大豪邸』と呼ばれる部類である。
敷地に入る入口には、立派な門があり、そこからまっすぐに屋敷玄関まで、遊歩道がある。
遊歩道の左右には、たくさんの木々が植えてあり、四季を通じ色々な表情を見せる。
つまり、世間で『大豪邸というのはこんな感じだろう』と思っているイメージそのままの屋敷なのである。
ずっと『普通』というものに憧れていた琴吹紬は「もしお友達を家に呼んだら、その時から、絶対に普通の友達でいられなくなる」と怖がっていたのである。
しかし『軽音部』の友達は違う。
絶対にそんなことにはならない。
今まで知り合ったお友達とは全く違う、何もかもをさらけ出していいお友達。
琴吹紬は、そう思っているのである。
『軽音部』での様々な写真をみたあと、アルバムを閉じた琴吹紬は、椅子から立ち上がり、自分の勉強机にむかった。
机につくと、琴吹紬は、一冊のノートを引き出しからだした。
表紙には、『作曲ノート』と書いてある。
琴吹紬は『放課後ティータイム』の演奏するほとんどの曲を作曲している。
つまり、このノートは彼女と『軽音部』の仲間達との交流の証なのである。
そして、あたらしいページを開くと、五線譜の上に、コードを書き始めた。
新しい曲のイメージができたのだろう。
琴吹紬は、一心不乱に作曲ノートへコードを書き始めたのである。
「憂……ここんとこ、どう覚えたらいいの?」
「ここはね、お姉ちゃん……」
平沢姉妹の試験勉強は、彼女達、姉妹を知らないものには、どちらがお姉さんで、どちらが妹なのか、わからないぐらい逆転している。
卓上机で勉強している妹に、姉が質問をして、妹は立ち上がり、姉の勉強机の側に立って、説明するのである。
普段は、ここまで勉強する平沢唯ではない。
少しでも楽しようとする姉なのだが、今回ばかりは違う。
『軽音部』として、琴吹紬のお父さんへのお礼がかかっている。
とにかく、無理やりにでも頭の中に、知識を入れようと悪戦苦闘している。
少し、かわいそうなくらいである。
「お姉ちゃん。少し休もうよ……」
平沢憂は、姉に提案をした。
「……休憩して大丈夫かなぁ。覚えたものが消えていかないかなぁ……」
「大丈夫だよ。逆に、少し休ませたほうがいいと思うよ」
「……うん、わかった」
平沢唯は勉強机から離れると、卓上机の方に来て、平沢憂の前に座った。
平沢唯の背中には、自分のベッドがあり、その上に愛する『ギー太』が横たわっている。
平沢唯は、極力愛する『ギー太』を見ないようにしていた。
『ギー太』を見てしまうと、触りたくなってしまう。
触ってしまったが最後、もう勉強できなくなりそうなのである。
「お姉ちゃん。試験が終わるまでの辛抱だね」
「うん。試験が終わったら、もういいってぐらい、弾きまくるんだ!」
「頑張ってね。お姉ちゃん……」
仲良し姉妹の試験勉強の夜は、ゆっくりとふけていった。