その日の夜のことである。
夜10時を過ぎる頃には、斎藤が予想したとおり雪が降り始めた。
琴吹紬は、自分の部屋で弾き語りの練習をしていた。
父親と母親の部屋は、ずっと離れているし、キーボードの音も絞っているから練習がバレることはない。
「うーん、やっぱり、まだ言葉がうかんでこないわぁ……」
琴吹紬は、そう呟くと、フッと窓の方を見た。
「……あっ、雪だ」
キーボードから離れて、窓辺に立った琴吹紬は、降り出した雪を見ていた。
紬の母親は自室で編み物をしていたのだが、まだ帰ってこない夫が少し心配になった。
帰りが10時を回るようならば、紬の父親は必ず妻に電話を入れるのだ。
その電話が、まだかかってこない……。
よっぽど自分から電話をしようかと思ったのだが、やはり待つことにした。
10時30分を過ぎた頃、紬の父親が帰ってきた。
「おう……まだ、起きていたのか?」
「はい、お帰りなさい」
「うん、ただいま」
そう言うと、紬の父親は着ていたコートを、ハンガーにかけた。
「明日から、北海道へ出張になった」
「えっ……。いつまでですの?」
夫の脱いだスーツを、片付けていた妻は、ちょっと驚いて聞き返した。
紬の父親は笑いながら「大丈夫だよ、出張は土曜日までだ。ちゃんと日曜日には家にいる」と答えた。
紬の母親は、安堵したかのような顔つきになり、今日、夕食での娘からの伝言を伝えた。
「そうか……」
そう言うと父親は「風呂に入ってくる」と言って、部屋を出て行った。
翌日、木曜日の放課後である。
『軽音部』のメンバーは音楽準備室での練習に熱中していた。
「よーし、次は『ホッチキス』な!」
『はーい!』
「ワン、ツー! ワン、ツー、スリー、フォー!」
『ギュイーン! ディデリー、ディディッディーン! ディリリディーン!』
『私の恋はホッチキス』
平沢唯のギターソロ演奏で始まるこの曲は「ふわふわ時間」に続く2曲目のオリジナル曲である。
そして、秋山澪の文房具をモチーフにした詩の第一弾である。
出だしのギターソロは、平沢唯にとって初めは難易度の高いものであったが、となりで演奏していた秋山澪が「いつの間にできるようになったんだ」と驚いたほどである。
少しスローな曲風で、女の子が感じる様々な経験を文房具にたとえて、思い出にしていくという内容である。
『ジャジャーン!』
「本当に唯は、ソロ部分の演奏上手になったよな」
秋山澪は感心したように、平沢唯を褒めた。
「はい! 私もそう思います」
「唯ちゃん、本当にすごいわ……」
中野梓と琴吹紬も、同じく褒めた。
「いやー、それほどでもないよ……。えへへ!」
愛用の『ギー太』に顔を隠しながら、平沢唯は照れた。
そこへ入り口のドアが開いて、軽音楽部顧問の山中さわ子が入ってきた。
「みんな、元気?」
『さわちゃん!』
軽音部メンバーが全員話を止めて、山中さわ子の方を向いた。
山中さわ子は手を振り、にこやかに笑いながらミーティングテーブルまで行くと、自分の椅子を準備し席に着いた。
「ねぇ、今日のお茶菓子は何?」
いきなりの要求に、田井中律は大きくため息をついた。
「最近、全然部室に顔を見せないと思ったら、いきなりこれかよ……」
「まぁ、失礼ね! 私だって、テストの採点の手伝いやら、点数表作りやらで忙しかったんだから……」
山中さわ子は、テーブルに頬杖をついて、田井中律に反論した。
すると、今度は秋山澪がベースアンプの音量が気になったのか、音を絞りながら山中さわ子に聞いてきた。
「さわ子先生、吹奏楽部の練習は見なくていいんですか? もうすぐ定期公演ですよね?」
「大丈夫よ。あの子たちは、どこかの部と違って自分達で練習できるから……」
「おい! 顧問! どこかの部ってどこの部の事なんだよ! ちゃんと練習しているぞ!」
田井中律がドラムセットから離れると、山中さわ子の方へ近づいて行った。
すると、山中さわ子は悪びれる様子もなく、椅子から立ち上がると近づいてきた田井中律の両肩を、両手で押さえた。
「ほんと! びっくりしちゃったわ。軽音部がちゃんと部活動をしているなんて……。だから、最近雪の日が続くのね……。」
「さわちゃん……。そこまでかわいい後輩を信じていないのかよ……」
「それはそうと、練習を止めてお茶にしましょうよ!」
「おい、顧問が練習を止めるのかよ!」
「だってぇ……、仕事が一段落したら甘い物欲しくなるじゃない!? そうしたら当然軽音部に来ることになるじゃないの」
「……自分の事が一番なのかよ。さわちゃん」
「当然でしょ。そんなこと!」
山中さわ子は、再び自分の椅子に座ると、堂々と言い切ったのである。
『山中さわ子』
軽音部顧問にして「放課後ティータイム」の名付け親である。
また、軽音部のOGであり、田井中律たちの先輩でもある。
高校生の頃の山中さわ子は「デスデビル」というハードロックバンドを組んでいた。
その中で彼女は「メインボーカル」と「リードギター」を担当していた。
教師になり、母校の音楽教師を務めることが決まった山中さわ子は、高校時代の自分を全てを封印し、おしとやかキャラの先生を目指していた。
しかし、1枚の写真から、現2年生メンバー全員に全てが知られてしまい、田井中律の半分脅しの顧問就任を要請され、泣く泣く軽音部の顧問となったのである。
しかし、就任後の山中さわ子は、素人だった平沢唯にギター演奏をしながら行う歌い方など伝授し、学園祭ライブで起こった「平沢唯、ギー太取りに帰る事件」では、臨時に応援演奏するなど、影となり日向となり「放課後ティータイム」を支えている。
服飾が得意で「放課後ティータイム」のステージ衣装を全てデザインし作っているが、メンバー達からはかなり不評である。
しかし、山中さわ子は「放課後ティータイム」の良き理解者で、良きOGである。
「それじゃあ、さわ子先生も来たし、みんな、少し休憩しましょ!」
琴吹紬がそう言うと、平沢唯も「そうしよう! そうしよう!」と言いながら『ギー太』を肩から外した。
それを見た秋山澪と中野梓も「仕方ないか」といった表情で、それぞれの楽器を壁に立てかけた。
お茶係りの琴吹紬は、鼻歌を歌いながら、お茶の準備に入った。
他のメンバーはテーブルの自分の席に座ると、久しぶりの出現となった山中さわ子に対して田井中律と平沢唯がいろいろと言ってきた。
「さわちゃん、仕事のし過ぎは、さわちゃんらしくないよ」
「そうだよ……。さわちゃんは、適当に仕事してこそさわちゃんだよ!」
2人にあまりなことを言われた山中さわ子は、ほっぺたを膨らませ、口をとがらせながら2人に言い返した。
「あなた達は、全然わかっていないわ……、メリハリというのが大人の世界では大切なのよ。仕事する時は集中してやる。それ以外は、ボーっとしてても構わないのよ」
「だから、さわちゃんは軽音部にいる時は、ボーっとしているんですね」
平沢唯の発言に首を縦に振り、嬉しそうに山中さわ子は話を続けた。
「ボーっとまではしないけど、ここは『学校という戦場の中で、教師として戦う私にとっての唯一のオアシス』なのよ。そこんとこ分かって欲しいなぁ……」
「そんな、大げさな……」
山中さわ子の発言に秋山澪は呆れ返り、中野梓はため息をついた。
「むぎちゃーん! お茶早くして頂戴ね! 私、待つの嫌いだからね!」
「はーい。もうちょっとですよ!」
「……クレーマーかよ」
山中さわ子の注文に笑顔で返事する琴吹紬とガックリとうなだれる田井中律だった。
「……でも、みんな。どうして練習しているの?」
「顧問として、どうなのかなぁ、その発言は……」
「だって、律ちゃん、不思議に思うわよ。今までのあなた達の活動を見ていると、練習していること自体が奇跡みたいなものよ」
山中さわ子は田井中律に質問をしてきた。
すると、お茶の準備が終わりテーブルへ運んできた琴吹紬が「お父さん誕生日ライブ」と「プレゼントの為のCD録音」の事を山中さわ子へ説明した。
「へぇ、いいことじゃない。むぎちゃんのお父さんも喜ぶわね。きっと……」
注がれた紅茶に口をつけながら、山中さわ子が言った。
すると、紅茶の香りを楽しんでいた平沢唯が、琴吹紬に訊ねてきた。
「むぎちゃん! この紅茶、とってもいい香りがするね!」
「今日の紅茶は『オレンジペコ』にしてみました」
琴吹紬がメンバー全員に配り終え、自分の席に座りながら質問に答えた。
「わーい『オレンジペコ』だぁ!」
大声で喜ぶ平沢唯だったが、冷静な口で中野梓が聞いてきた。
「唯先輩…… 『オレンジペコ』ってなんだか、わかって言っているんですか?」
「失礼な! あずにゃん、私だって知ってるよ。『オレンジペコ』ぐらい!」
「へぇ、じゃあ、唯先生! どうかご教授くださいな」
今度は、田井中律が肩肘をつきながら、平沢唯に聞いてきた。
平沢唯は、軽く咳払いをして、姿勢を正した。
「えっへん、よろしい。では、皆さんに教えてあげましょう! 『オレンジペコ』っていうのは……」
『というのは……』
平沢唯以外の全員が声を揃えて繰り返した。
自信満々に平沢唯が答えた。
「みかんでできている『紅茶』です!」
『違う!!!』
「だって『オレンジ』ってついてるじゃない!」
『それも違う!!!』
不思議なもので、あらかじめ絶対に間違えるとわかっていると、全員が揃って同じ言葉をいうものである。
「えっ……えっ、違うの?」
「……そういう事を自信満々に言える、唯先輩をある意味尊敬します」
平沢唯はかなり自信があったようだが、全員に否定されてしまい、アワアワしている。
中野梓がそんな様子の平沢唯を見て、ため息とも取れる言葉を告げた。
秋山澪が琴吹紬の方を向くと、助け船を出した。
「むぎ! すまないけど、唯に教えてやってくれないか?」
「うふふ……。えぇ、いいわよ。唯ちゃん。『オレンジペコ』っていうのはね、紅茶の等級の1つなのよ」
「ふーん、そうなんだ……。律ちゃんは知ってたの?」
「唯、もちろん知ってたさ。唯、実は中国が一番お茶の種類があるんだぜ……だよね?」
田井中律も説明しながら、不安になって琴吹紬に訊ねてきた。
琴吹紬は笑顔で「多分、そうよ」と答えた。
それを見た平沢唯は「ふーん。そうなんだぁ」と呟くと、メンバーを見渡して言った。
「いやぁ、私、1個『お利口さん』になっちゃった!」
「唯、頼むから、これから1個ずつじゃなく、10個ずつぐらいお利口さんになってくれ!」
田井中律がそういうと、メンバー全員が大笑いとなった。
山中さわ子は、久しぶりに訪れた軽音部で、後輩達が頑張っている姿といつも通りの後輩達を見られて、満たされた気持ちになった。
頬杖をついたまま、笑う「放課後ティータイム」の5人を微笑みながら見ていた。