水の感覚はだいっきらいだ。なにもつかめず、息は溶け、行為は無為に収束する。だから、水の感覚というのは嫌いだ。けれど水に光る太陽は嫌いではなかった。暗い世界を照らす光、それは嫌いじゃあなかった。
水がなければ人間は生きていけない。それはいい、自分も水を蓄えている。その蓄えているものが、あっさりと破れてしまうことも知っている。ぽろりと水が溢れることも知っている。
小刻みに息を吸って、吐いた。排他的な世の中では、だれかが息を吸うすら許せない人間がいるらしい。それってすごく悲しいよなぁ、って思って、感性の爆弾に火を付ける。
正面にはスケッチブック。プールサイドから覗く、反射する太陽。光が照りつけ、それは鮮やかにこちらの世界を染め上げた。
虹が世界に舞っている。形を為すのを待っている。
指がしなり、第一線目を引き上げた。
そのまま、息をすることも忘れ、数瞬で駆け巡った感性の爆発を消し去らないように制御しない。全てを焼き尽くす炎が心に触れる。心から大切なものを引き出して、気づけば自分の理想の通りに指が動いていた。
完成したものをみて、ようやく一息つく。流石に最低限の呼吸はしても、そこまで熱をいれっぱなしだったから大変だった。こうして完全にやり終えてのみ、ひと心地をつくことができる。
そこには、水と舞うさかさまな少女の姿。それがだれだったのか、わかる人はきっと自分だけ。たったぼくの、一人だけ。
ぼくのなかでだれか、ぼくが鳴く。ああ、わかっていると言葉を返して、ぼくはすっくと立ち上がった。
辺りいっぱいに撒かれた水は、だれかがいた証。
ぼくは水が嫌いだ。だから、そのだれかはぼくではない。ぼくではないが、たぶんぼくでもある。
喉元過ぎれば熱さを忘れるという言葉があるが、全くその通りだ。反省していない。反省なんかするわけもない。ぼくが反省できる人間なら、どれだけのひとが助かっていただろう?
描いた絵を見た。さかさまな少女は、なにかを見るように、視線を上へと下げていた。そいつがなにを見ているのか、きっとぼくは知っていた。
知っていた。そして今も知っている。知り続けている。永遠に続く淡い青さを。
水の冷たさも相まって、空の青さが寒そうに見えた。
繰り返す、何度も描くぼくの中に残っていた熱情。描き出して、掻き出して、全て出し尽くしてしまいたい。呪われるようだったから。呪われているようだったから。
喉から溢れ出るのは、暗い言葉。闇に染まるような思考。すっ、と、透明の中に一滴墨汁を垂らすように、じわりじわりとぼくの中でなにかが変わっていく。胎動している。
絵を描く。それしか逃れる術はない。ストレスも、なにもかも、ぼくの中から掻き出してしまえば。水を飲んだ。口から溢れた水がスケッチブックのページを濡らした。それを見て、紙を破って捨てた。
ああ、水は嫌いだ。けど水は飲まなきゃ死んでしまう。だから水を飲むことはやめられない。……そもそもぼくはなんで水が嫌いだったか。ああ、あの徒労として終わる感覚が嫌いだったのか。なるほど。
息を一つ吐き出し、頭の中にある全てを一旦置いて、ぼくは自分の部屋から出る。少し歩いてベランダへとたどり着くと、だれもいない。
真っ青な空は清々しいほど晴れていた。
それを見てぼくは清々しい気持ちになる。先程までの感情もどこかへ消えた。だから、ぼくはまた部屋に戻る。
部屋は暗く、こもりきっている。阿呆みたいに晴れているのに、ぼくは何故だか家にいる。なんでだっけ? ああ、そうだ。ぼくは不登校児だ。不登校なのだ。それはなにがきっかけだったっけ。思い出そうとすれば、頭が痛む。
考えるな、ということだろうか?いったいなんでそんなことになっているのか、ぼくは知らない。わからない。
醒めない酩酊。終わらない倦怠。空白に傾いて落ちる。なにが? 命が? なにも? 別に、落ちなどしない。目を隠すほどに伸びた前髪の下にはなにが残っているのだろう? 恐ろしくなって、ハサミを取り出す。伸びた前髪を一息で全部切り捨てた。
「大丈夫……大丈夫……? ぼくはまだ溶けてない……溶けてないんだ……」
切った髪を投げ捨てた。その下にあった素顔を確認して、ぼくは自分に一つの思いを抱く。
───ああ。
その瞳は、とても綺麗に死んでいる。
曖昧な体を構成するあれこれ。
水と炭素アンモニア石灰とかあれこれ。
それがぼくの曖昧な体を構成しているようだった。
ぼくは教室で、青空に時折視線を向けながら、絵を描いている。正面の机。そこに置かれている花瓶。
死を暗示する所業。だれがやったのか、そんなのはもう考えるまでもない。
ぼくは無視して絵を描いた。まず大まかなラフとして一つ描き上げ、そこから絵を組み立てる。屋上にピアノを見た。そいつは鮮烈に現れた。ピアノは自分の名前をノーフェイスと語る。なるほどたしかにお前には顔がない。とてもおもしろい。
そこに彼女は傘を湛えてやってきた。雨を引き連れてきた。雨粒が傘に当たる度、軽やかにリズムは引きひかれる。それにぼくは惹かれていた。
綺麗な音だとぼくは思ったのだ。だから、ぼくは微かに残る、少女が紡いだ音楽を絵にすることにした。
描く。少女の絵を。音を携えた少女を、描いている。あの雨を誘う少女を、ぼくは描いていた。
だから水を散らした。彼女は水だ。彼女と言えば水だ。ぼくは彼女の絵を描いた。
「おは───よ……う?」
少女がぼくに声をかける。花瓶を見て、だんだんと声は小さくなっていった。その少女は、花瓶を本棚の上に置いて、これでよしと小さく呟いた。……ように見える。
なんともまぁ確実性のない話だが、この位置からでは彼女の顔を見えない。表情も、髪に隠れてみえない。その見えない顔がとても綺麗で、ぼくはちゃちゃっとその少女を描いてしまった。
「やべっ」
こんなの彼女に見られたら恥ずかしすぎてどうしようもない。だから消しゴムですぐに消した。幸い少女はまだ帰ってはきていないようで、それに助かったといえる。
描く。人を、その軌跡を、奇跡を描く。
ぼくは描き、それを破り捨てたのだった。
空の青さがよくわかる場所で、ぼくと少女はここにいる。ぼくの目の前で佇んでいる。その顔は、ぼくに笑いかけている。にへらとした笑み。少女は、長く、多い髪を両手でぐしゃぐしゃにしながら、耳を抑えている。
小さく息を吐く。水だ。空はいつまでも青い。終わらない青さだ。ああ、息苦しい。ぼくの喉が、ああ、痛い。痛い。死ぬ。苦しい、しんどい、だるい、動けない。なんで? しびれる。体は動かない。
「ごめんね」
それはぼくが吐いた言葉。彼女に向けて吐いたことば。そんな言葉を掛けられた理由をぼくは知らない。知らない、知らないのだ。曖昧な体が、だんだんと拡散していく。掠れていく。聞いていく。……死んでいく。
ぼくの体は、途端に動く。弾けるように、その場から逃げて去っていく。ぼくは逃げた。ぼくは逃げた。ぼくは逃げた。逃げる。
青い青い空が、うんざりと降っていた。
非寛容性を持ち出して、本能の赴くままに動けばぼくの体はことりとなにかを置いていた。どういう腹づもりか。ぼくはなにをやっているのだろうか。当てなく彷徨うぼくの体は、迷子の腕で、指遣いであるものを打ち出した。
澄み渡った幾千も見た蒼色。生きているのなら、ぼくは生きているのだ。だから生きている。そうなんとか、ぼくは息をする。気まずさが不味くて、吐き出してしまいそうで、ぼくはふと窓のほうを見た。
いつも通りに青い空に降っていたのは、水を纏った雪だった。
ぼくは今日もそれを置く。ずっとそうしてきたように。なんどもやってきたように。ぼくの正面に、とんと置く。そうしてスケッチブックを取り出した。描くイラストは決めている。そのタイトルも決めている。これを描き終えたら、全て忘れて逃げ出そうと、そう思い。ぼく以外だれもいないはずなのに、ぱちゃりと水の音が鳴る。ぼくは水が嫌いだ。ぼくを溶かしてしまうから。ああ、青い。とても青い。こんなに空が青いから、ぼくは二度とやり直せないと知っていた。
タイトルは『拝啓、
雫を纏った、残酷な天使。
ここではない。描き上げるのはここではない。ぼくは席を立って、さっき
水をまとった彼女が好きだった、プールサイドへ。
わざと時系列をぐちゃぐちゃにしています。一見では話を完全に理解できないようにしたかったけど、できてたらいいなぁ……
わりと(当社比)トリック仕込んでます。皆様の考察を大切にしたいので、ネタバレはしません。考察なんかしてみるといいんじゃないかな(適当)。いや、今回の話はそんなにややこしく難しくもないわけですが。
文字数少ないぶん振り返りやすいと思います。