気付いたら、優介は走っていた。どこかもわからない、ただ真っ暗な空間の中をただひたすら走っている。
いつかも、こんな風に暗闇を走っていた気がする。あの時は誰かの呼ぶ声がして、その声が闇を掃ってくれた。だが今は、誰の声も聞こえない。どこまで続いているのかも分からない空間の中、ただ一人、孤独感を感じながら出口を求めさまよい続けていた。
走り続けていると、大きな音と共に地面が崩れ出した。そのまま黒い奈落のそこへと落ちて行く事を理解した時、優介は思った。
――もう、いいや
「よくないって!」
「……!?」
急に聞こえた声にさっきまでの暗闇は消え去り、優介の意識は現実へと引き戻された。
ゆっくりと目を開けると、最初に入ってきたのは朱里の顔だった。だが、なぜか優介はそれを見上げている形になっている。
ぼんやりとした頭では状況を理解できなかったので朱里に問いかけようとするも、朱里は耳に携帯を当て、誰かと電話しているようだった。
「だって、膝枕だよ!?勢いでやっちゃったけど超恥ずかしいじゃん!先輩が起きたらなんて説明すんのさ!……ちょ、ちょっと結花ちゃん何言ってんの!き、キスなんてしないから!」
「友達と電話?」
このまま寝た振りをして聞くのも悪いので口を開く。
「そう!友達!……って、せ、先輩!?い、いつから起きて――」
「10秒くらい前かな」
「10びょう……」
10秒前に話していたことを思い出したのか朱里はみるみる顔を赤くしていく。
「ど、どうしよう結花ちゃん!先輩起きちゃった!助けて!」
そんなことを言われても電話の向こうの結花ちゃんも困るだろう。
「ね、ねえ結花ちゃん!あ、ちょっと待って――」
どうやら電話は切られてしまったようで。朱里はゆっくりと携帯を耳から離し、一呼吸おいてから咳払いを3度する。
「お、おはよー」
「時間的にはこんばんはだけどね」
見上げる空はまだ暗く、さっき意識を失ってからそんなに時間はたっていないようだ。
「せ、先輩、その、ひざ――」
「さっきのは大学の友達?」
「え?うん。同じ学科の結花ちゃん」
「そっか、こんな時間でも電話に出てくれるなんて言い友達だね」
「うん!一番仲良し!」
「で、ここは?」
「あ、うん。さっきのとこから少し離れた公園のベンチ。近くにいた人が先輩をここまで運んでくれたの」
「そっか。その人には迷惑かけちゃったね」
「じゃ、なくてえええええ!」
露骨に話題を逸らされた事に気付いた朱里がツッコミを入れる。
「どうしたの?」
「どうしたって、そ、それは膝枕……」
「なかなかいい寝心地だったよ」
「わー!言わないで!ゆーすけ先輩のバカ!変態!だいたいなんでそんな落ち着いてんのさ!いつもなら大きく動揺して訳わかんないツッコミ入れる癖に!」
「ごめん、ちょっと面白かったから。今どけるよ」
謝りながら頭を上げようとすると、なぜか朱里に抑え込まれる。
「な、なに?」
「もうちょっとだけ、このままでいさせてあげる」
「いや、別にもう起きたんだし――」
「天草先輩の事」
「……」
「話、聞くから。私だってそれくらいしたい。だから、このままでいい」
確かに、面と向かって話すことは躊躇われる話なのでその心遣いは有難いかもしれない。
「悠里は、どうしちゃったんだろうな」
少しの沈黙の後、優介は呟いた。
「あの男たちの態度からして、ああいう事するのは初めてじゃ無さそうだよね」
「だよな……」
「でも、人が急に変化するってことは必ずそれだけの理由があるんだよ」
「理由……」
「ゆーすけ先輩は何か知らないの?」
「知ってたら腹に膝蹴り喰らわなくてすんだかもしんない」
「……私、ゆーすけ先輩が理由の中にあるんだと思う」
「え?」
朱里の唐突な言葉に思わず間抜けな声を出してしまう。
「さっき、天草先輩はゆーすけ先輩に問い詰められて何も言わなかったでしょ?」
「そうだけど……」
「先輩の位置からだと見えなかったと思うけど、しゃがんでた私からは見えたの。天草先輩の顔」
「……」
「すごく、辛そうだった。心の底から辛いんだって見ただけで分かるくらいに」
辛そうだった。悠里がそんな表情をするとすれば理由はなんだろうか。
少し考えて思いついたのはやはり去年の学祭の事だった。あの時、優介への想いが叶わなかったから、ああいう連中とつるみだしたのだろうか。
だが、それは辛いというよりは『悲しい』と表現されるのではないのだろうか。あの時の告白以外に悠里が辛い顔をすることでなおかつ優介が絡む理由とはなんだろうか。
「ねえ、ゆーすけ先輩」
考えている途中で朱里が声をかけてくる。
「私、ゆーすけ先輩たちと知り合ってほんのちょっとだけど、先輩たちの関係が好きなの」
「……」
「みんなでバカみたいな話したり、笑ったり。真剣に先輩の小説について話し合ったり。そういう関係に凄く憧れてた。私にはそういうのないから」
「朱里さん……」
「そして、ゆーすけ先輩がどれだけそれを大事に思ってるかもわかった」
こちらを見下ろす朱里は笑顔でそう告げてくる。
「きっとその関係は私が来るよりずっと前からあんな感じで、その中には天草先輩もちゃんといて、ゆーすけ先輩はずっとそれを守ってきたんだろうなって」
「……」
「だから、諦めちゃだめだよ」
朱里の言葉に、優介は自分が諦めかけていたことに気付いた。悠里との関係はもう修復できないのだとそう思っていた。
「諦めちゃ……だめ」
「でも」
「でも?」
「俺には、理由がない」
それが今優介を諦めまで追い込んでいる要因で、逆に言えばそれさえ見つかればきっと悠里のために行動できるはずなのだ。でも、優介にはそれが分からないでいる。
「じゃあ、先輩はあのまま天草先輩が不良たちに染められて、危険なことや、いかがわしいことに巻き込まれても平気なんだ?」
「なっ!そんなわけないだろ!」
挑発的な発言につい声を荒げてしまう。
「いま、私の言葉にいらっとしたでしょ?」
「……」
「それが、理由だよ。天草先輩の為に、誰かの為に怒ることができるってことが、言葉にはできなくても大切な理由なの」
そこで優介はハッとする。いつのまにか理由を言語化しようと、形づけようとしていた。でも、それができなかったという事は、優介の理由は言葉で表現できる容量では無いという事だったのだ。
隆盛が言っていた今までの優介も、何かをすることに上手い理由づけなんてできていなかった。それでも隆盛や悠里、そして『彼女』のために奔走していた。それはきっと、言葉では表せない大切な想いがあったから。
たとえ悠里が助けを求めていなかろうが迷惑に感じていようが、その気持ちには嘘をつけない。嘘をつくことはあの一年を否定することになるから。
「朱里さん。俺、諦めないよ。悠里を救って見せる」
「ゆーすけ先輩……」
「それに、悠里の事を想っているのは俺だけじゃない。それなのに、俺だけの問題みたいに思いこんで、だから今日失敗したんだ」
「……うん」
「だから、みんなの問題はみんなで解決しよう」
そこまで言うと、朱里は頭から手を離してくれる。だから優介は起き上がり、ベンチの隣に座る朱里の目を見る。
「うん。私も協力する!」
春から夏へと変わり始める空気の匂いがした気がした。