朱里に隆盛との関係を誤解されてから3日が経った。結局未だに誤解は解けておらず、玄関でばったり会った時もものすごく恨めしそうな目で見られ、こちらが何か言おうものならさっさとどこかへ行ってしまうという負のループが続いていた。
そんなある日、優介は学校に来ていた。まだ新年度は始まっていないが部活動や自習をする生徒の為にキャンパスは空いている。とはいっても優介は自習しに来たわけではない。部活動というのも半分不正解だ。校舎の奥にある部室棟のエレベーターに乗り、目的の階のボタンを押す。ほどなくしてエレベーターは上昇していく。
「それにしても、桜井さんになんて言ったら説明できるんだ?」
そう呟いても答えは出ないので、ため息をつきながらエレベーターを降りる。そして目的の文芸部部室の扉の前でノックする。
「どうぞー」
返事を確認してから扉を開ける。文芸部の部室は学祭の時に頻繁に利用していたが、その時よりは綺麗に整頓されている。二つくっついて並んでいる長机、その上には一台のデスクトップパソコン。周りの本棚には様々なジャンルの本が所狭しと並んでいる。
「けっこう片付いてるな」
「前の部室が汚かっただけだ」
そう言葉を返すのは今年から文芸部の部長となる山田良太郎だ。部長になっただけあって何やらパソコンで書類を作っているようだ。
「まあ、取りあえず座れ。今コーヒーでも入れる」
「お構いなく」
「そうか、じゃあ帰ってくれ」
「社交辞令にそんな返し方する奴始めてみたわ!やっぱり構って!」
その言葉に良太郎は笑みをこぼす。
「な、なんだよ」
「いや、彼女がいなくなってもお前はいつもと変わらないなと思ってな」
「まあ、ぼやいてもあいつは戻ってこないし、約束もあるからな」
「約束?」
「え、いやなんでも無いって!そういえば今日吉岡先輩は一緒じゃないんだな」
わざと話題をそらそうと試みたが流石に無理があっただろうか。そう思っていると良太郎は何故か顔を真っ赤にしている。
「おーい、良太郎?」
「な、なななんだ?」
「お前がなんだだろ。先輩と何かあったわけ?」
話題になっている吉岡愛美は4年生で文芸部の元部長、そして良太郎の彼女でもある。他人の前では過度にいちゃついたりはしないが、前に校舎裏でポッキーゲームをしていた事もあるらしく(隆盛談)、実は相当のバカップルだ。
「べ、別にいいだろ。昨夜は何も起きていない」
「俺は探偵じゃないけど今の完全に自白だからな」
「い、いやまて桜井!違うんだ!毎日してるわけじゃない、昨日がはじめ……いや、違うんだ!」
良太郎はおかしいくらいに動揺している。
少し、からかってみよう。優介にしては珍しくそんな事を思った
「わかったわかったよ。今度うちで赤飯パーティーしてやるから。よければ名付け親になってもいいぞ?」
「な、名付け親!?ば、バカ!お前にそんな大役を任せてたまるか!」
「冗談だって、ごめんごめん」
少しやりすぎたと思い、優介は良太郎をなだめる。良太郎は真っ赤な顔のまま椅子に座り直す。
「ゴ、ゴホン!それで、執筆の方は順調か?たしか締め切りは5月だったな」
良太郎は文芸部部長だけあって自分でも小説を書いており、それを毎年の学祭で販売している。優介が津田と出会い公募企画に参加することになったのも元をただせば良太郎のおかげなのだ。だからこそ優介は良太郎に小説を見せ、感想や指摘をもらっていた。
「うーん。まあ、ペースとしては順調なんだけどさ」
「なにか問題があるのか?」
その問いに対して優介は鞄からプリントアウトした原稿を取り出し机の上に広げる。
「この後輩のキャラなんだけどさ、学祭に出した時からこいつだけ納得いくクオリティにならないんだよ」
優介が書いている小説の中身は去年学祭に出品した小説をもとにボリュームを増やしたものになっている。その中で後輩のキャラだけ浮いているような気になってしまうのだ。
「……なるほど、確かに他のキャラに比べて心情描写が足りない気がするな」
良太郎もページをめくりがら頷く。
「だろ?やっぱりここ変えないとな~。どうしたらいいと思う?」
「そうだな……一番簡単なのは他のキャラを後輩キャラと同じ水準にすることだが、それは必然的に作品全体のクオリティが落ちるから却下だな。となると……」
「となると?」
「桜井、お前後輩に友人はいるか?」
「いないけど……なんで?」
「基本的に小説というのは作者の中に無いものは書けない、書いても駄作になる。例えばだが、数学で赤点をとるようなやつが数学者の主人公を書けると思うか?」
「無理だな」
「そうだ、だからお前に後輩の友人がいればその人にいろいろ聞けるかと思ったんだがな」
「なるほど……」
後輩の友人、考えてみると大学生活で関わったことのある後輩と言えば去年の学祭で一緒に作業をした文芸部員くらいだ。それに、彼らの顔は思い出せるが名前はまったく分からない。となると友人ではないだろう。もう一人、いるにはいるのだが……。
「てことは現状はこのまま進めるしかないってことか」
「そうだな。後は津田さんに聞いてみるとかしかないだろう」
ちょうどそこでお湯が湧いたので、良太郎は立ち上がりインスタントコーヒーを作りだす。しばらくすると部屋にコーヒーの香りが漂った。
「ほら、砂糖はお好みで」
「ん。ありがとう」
あつあつの紙コップを受け取り、机の中央へと手を伸ばし砂糖の入れ物をとる。
スプーンで砂糖を入れているとドアがノックされた。
「どうぞー」
良太郎の返事に、すぐにドアが開く……と思ったが何故かドアは開かない。確かにそこに人影はあるのだが。ホラーにしては時間が早すぎる。仕方ないので優介は椅子から立ち上がりドアを開く。
「あ、あのっ!文芸部に用事があって来ました!でも、やっぱりまた今度にしようかなーって……って桜井先輩!?」
「さ、桜井さん?」
来客は意外にも朱里だった。偏見だがリア充オーラ全開の朱里が文系サークルを尋ねるなんて思いもしなかった。
「なんで桜井先輩が文芸部の部室に?あ、もしかして手島先輩を連れ込んであんなことやこんなことを!」
「してないって!そもそも俺と隆盛はそういう関係じゃ……」
「お前たち、部室の前で騒ぐな。他の部に迷惑だろ」
優介の弁解は良太郎によって遮られてしまった。
「ま、まさかの別の男!?桜井先輩の浮気者!」
「どうしてそうなる!この腐女子!」
「お前ら、人の話しを聞いていなかったのか?」
良太郎が眉間にしわをよせてすごんでくる。
「す、すいませーん……」
二人は肩をすぼめて謝るしかできなかった。
***
「で、2年の桜井朱里だったな?入部希望ということでいいか?」
「は、はい……」
良太郎にこってり絞られた後、部室に入ってきた朱里は意気消沈している。
「りょ、良太郎、あんまりこわがらせるなよ」
「俺は別に怖がるような事はしていないぞ」
「だったらその人を殺しそうな目はやめようか!俺も結構怖いからさ!」
「そうか、すまない。ここのところ徹夜で書類作成していたせいだな」
良太郎は目をこすり、再び朱里のほうを見る。
「それで、話しを戻すが入部希望だな?」
「は、はい!よろしくお願いします!」
「動機は?」
「へ?」
「入部の動機だ。しっかりとした意志や目標が無いのならこの部に入るのは諦めてくれ」
そんなきまりがあったのは初耳だが、確かに学祭の時も文芸部員たちはスケジュール通りに準備を進めていた。メリハリを重視しているということだろうか。
「動機は……その……」
「なんだ?」
「こ、これ!」
朱里は鞄から一冊の冊子をとりだした。
「これ、去年の学際で買ったんですけど、凄く面白くて!書いた人に会いたくて来たんです!……だから、入部とかじゃなくて……」
さっきはよろしくと言っていたのになんだか話しが矛盾しているような気がする。良太郎が怖くて腰が引けたのだろうか。
「そうか、お前の目的は分かった。なら後ろを見ろ」
「へ?うしろ?」
そう言って振り向いた朱里の目線の先には優介がいる。
「良太郎、これ何の儀式?」
「何を言っている、書いた人に会いたいというから会わせてやったんだ」
「え?」
間抜けな声を上げる朱里とは反対に優介はその手元の冊子を見て理解した。
「あー……そういうことね」
「そういうことだ」
「ちょ、ちょっと!先輩たちだけで何を通じ合ってるのさ!私にも教えて!」
「桜井さん、その小説の作者の名前は?」
「え?サクライユウスケって書いてるけど……?」
「俺の名前は?」
「桜井優介……ってえええええええ!?うそ!本人!?」
「そうだよ」
「え、だって、確かに最初あった時にちょっと思ったけど、なんかもっとかっこいい人が書いてると思ってた!」
「それは……申し訳ない」
また何か罵倒されることを覚悟していたが、当の朱里は目をキラキラさせている。
「わー!すごい!ホントにホントなんだ!あの、私この小説大好きです!もう何十回も読みなおしてます!あ、でも手島先輩の事は別だから、桜井先輩は嫌いです!」
ものすごい早口でまくし立てられたが、結局誤解は何一つ解けていないようだ。この状況だと嬉しくても素直に喜べない。
「いや、だから桜井さん、完全に誤解だから」
「え?なにが?」
「だから隆盛と俺の事」
「手島と桜井がどうかしたのか?」
良太郎の問いに、優介は朱里にも向けて説明を始めた。
それから30分。話しを聞き終えた良太郎は呆れかえっていた。
「はあ……桜井朱里、君はもう少ししっかり人の話を聞くように心がけるんだ」
「ご、ごめんなさい……桜井先輩……」
朱里はものすごく申し訳なさそうに謝ってくる。
「ま、まあ分かってくれたようで何よりだよ」
「あれ、それじゃあ手島先輩が付き合ってる人って誰なの?」
「え、いや、それは……」
ここで真実を告げていいものだろうか。朱里は本当に隆盛に一目ぼれしているようだし、これならまだ優介と付き合ってることにしたほうが良かっただろうか。
「4年の高坂望先輩だ。バスケ部の元キャプテン」
「ちょっ、おま!」
優介が悩みに悩んでいると良太郎がさっさと真実を告げてしまった。
「こ、高坂先輩って……めっちゃ美人な先輩じゃん……終わった、私の青春は終わった……」
朱里はものすごい顔をしていてもうなんと表現していいかわからないほど落胆していた。
「あー、桜井さん?そう気を落とさずに……」
「うわあああああああ!もういやだあああああああ!」
朱里は絶叫するとドアに向かって走り出す、がドアは閉まっているのでガツンと鈍い音が鳴り朱里は頭を押さえてうずくまる。が、わずか数秒で復活しドアをあけて再び走り出していった。
「……さて、桜井。ちょうどいいところに後輩のサンプルがあったな」
「あんなのサンプルにできるかあああああ!」
朱里が走り去った後、特に何もなかったように良太郎と小説の話をすること1時間。そろそろ帰ろうかと思い窓の外を見るといつの間にかどしゃ降りになっていた。
「まじか、今日一日晴れって天気予報だったんだけどな」
「三月にしてはかなりだな。桜井、傘はあるか?」
「いや、持ってきてない。良太郎は?」
「無いが、ある」
「なにそれ、なぞなぞ?」
「そこに傘があるだろ」
良太郎はドアの近くのホワイトボードを指差す。なるほど確かにペン入れに傘が3本ぶら下がっている。
「その言い方から察するにこれ誰かの置き傘だよな?」
「そうだな」
「俺に泥棒になれと?」
「安心しろ、警察にしか言わない」
「そこに言うだけで立派な盗難なんだよ!」
「冗談だ。それにその傘は俺が入部する以前からそこにあるらしいし、持ち主が現れることはないだろう」
「そっか、じゃあ貰ってくよ」
ホワイトボードから赤い傘をとり開いてみる。どうやら穴も空いていないようだ。
ふと、思うことがあり、傘を閉じる。
「なあ、雨いつから降ってたっけ?」
「俺たちが話し始めてから10分くらいで降りだしただろ、まったく集中しすぎるのも如何なものだな」
「悪い悪い」
謝りながらもう一本、青い傘を手に取る。
「傘を二本ももってどうするんだ?」
「まあ、念のためかな」
良太郎は首をかしげていたがもう一本も譲ってくれた。傘をとり、机の上の原稿をクリップで留め鞄に入れる。
「それじゃあ、また来るわ」
「ああ、またな」
入口まで見送ってもらい、部室棟を出るとやはり雨音が鳴り響いている。取りあえず赤いほうの傘を開き、ハイツ諏訪部への道を進む。辺りにはもう溶けかけた雪すらない。優介の地元北海道ではこの時期でも雪が降るくらいなのだが、それが結構面倒だったりする。
そう思いながら歩いていると公園の木の下でうなだれている人影を発見した。
近づいて行き、彼女の視界に入るように青い傘を差し出す。
「やっぱり、こうなってると思った」
「ふぇ……しゃくらいぜんぱい……」
ゆっくりと顔を上げる朱里の瞳には大粒の涙がたまっている。ここに来るまでに雨に当たったようで服はびしょぬれだ。顔に関しては雨と涙でへちゃむくれだ。
「大丈夫?これ、良太郎がくれた傘使っていいよ」
「……ありがどうございまう……」
朱里は鼻をすすり、目をごしごしとこすると傘を受け取り開く。
だが、そこにはドでかい穴が開いていた。よく考えると青い傘の方は確認していなかったのだ。
「……プッ、あははは!」
唐突に朱里が噴き出す。それにつられて優介も笑ってしまう。
「せっかくかっこいい登場したのに傘に穴空いてるって……桜井先輩面白すぎ!」
「ごめんごめん、じゃあこっち使っていいよ。俺はここで雨宿りするからさ」
「だーめ。先輩も傘使って」
「穴空きの傘差して帰るってなんの公開処刑だよ……」
「そーじゃなくて!」
朱里は優介の腕をひっぱると自分の傘の中に入れてくれた。
「これならふたりとも濡れない。ウィンウィンだね!」
「お、おう。そうだね」
相合傘に抵抗が無いのは優介が男として見られていないからなのか、それとも朱里が経験豊富だからなのだろうか。いまは不問にしておくことにした。
「落ち着いた?」
歩きながら狭い傘の中の朱里に問いかける。
「うん。ごめんね先輩、さっきはやばいとこ見せて」
「急に絶叫して扉に突進したのは流石に心配した」
「ちょっと!せっかく濁して言ったのに全部言わないでよ!」
朱里が肘をぶつけてくる。この分だとやはり朱里の気持ちはギャグでは無いのだろう。うすうす感づいてはいたが、流石に出会って数秒で告白して振られたショックをセルフ効果音つきで表現するなんて状況に会ったことが無かったのでギャグだと捉えてしまっていた。
「でもね、私、もう一度ちゃんと手島先輩に告白したい」
「え?」
「だって、せっかく人を好きになったのにそれを伝えないで、そのまま自分の中でその気持ちを殺しちゃうのってすごくもったいないと思うから」
その言葉をきいて一瞬去年の学祭の事を思い出す。あの時の『彼女』もそんな気持ちだったのだろうかと、思ってもどうしようもないことを思う。
「先輩?」
「え?ああ、うん。いいと思う。すごく素敵な考え方だと思った」
「でしょ?だからさ、先輩手伝ってよ!」
「手伝うって、何を?」
「私が手島先輩に告白するためのサポートだよ~」
「ええ……」
別に協力するのが嫌なわけではないが、何をどうやっても隆盛を振り向かせるのは不可能だろう。つまり、最後にはまた朱里が辛い思いをすることは決まっている。それを手伝うことに少し抵抗があるのだ。
「やっぱ駄目かな?」
朱里はしゅんとして俯く。何というか、とても心苦しい。捨て猫の段ボールを見て見ぬふりをするくらいに。こうなると優介のとれる選択肢はもう一つしかない。
「……わかった。手伝うよ」
「え、いいの?」
「桜井さんがそれでいいならね」
「やった!ありがと先輩!」
朱里はぴょんぴょん跳ねる。
「あ、そうだ。あのさ、ゆーすけ先輩ってよんでもいい?」
「え?急にどうした?」
「だって私たち、同じ苗字で同じ漢字じゃん。なんか桜井先輩って呼びづらい」
「それは、確かに」
「よし、決まり!それじゃあ私の事も朱里って呼んでいいよ!」
その曇りのない笑顔に、優介は自然と笑みをこぼす。
***
ハイツ諏訪部に戻ってくるころには、雨はすっかりあがっていた。入口で傘の水を切り、優介が自室に入ろうとすると、朱里がその手を掴んできた。
「ゆーすけ先輩いいいい」
「な、なに?どうしたんだ?」
「か、鍵が無い……」
「無くしたのか?」
「そうみたい……」
「それじゃあ大家さんにマスターキーを借りて……」
と思ったが確か蘭子は私用で夜まで帰ってこないと言っていた気がする。念のため管理人室の方を見るとプレートには不在と書いてあった。
「じゃあ、取りあえず俺の部屋に上がっていいよ。大家さんには帰ってきたら知らせてくれるように連絡しとくからさ」
「ありがどうございますうううう」
玄関の傘立てに傘をさし、靴を脱いで部屋に入る。朱里も後ろから同じ動作で入ってくる。
「取りあえず、シャワー使っていいよ。着替えは俺のジャージしかないけど我慢して。あと、あったかいコーヒー入れるけど、ミルクと砂糖はどうする?」
たんすから着替えをとりだしながらそう尋ねてみたが、何故か朱里からの返事は無い。
「朱里さん?」
「……ゆーすけ先輩って、付き合ってる人いるの?」
「は?いや、いないけど」
「じゃあ、昔付き合ってた人いるの?」
「いないよ」
「嘘だ!それにしては私への対応が迅速すぎるもん!普通彼女いないなら部屋にあげるのも、ましてやシャワー貸したりしないよ!」
「えーっと……」
なんと答えればいいのだろうか。いや、答えなど一つしかないのだが、それでも朱里の納得できる解答にはならないだろう。『彼女』といっしょにいた期間はほんの僅かだったのだから。
「い、妹がいてさ、そのせいだなきっと」
もちろん妹なんていないが、優介ができる言い訳はこれくらいしかなかった。
「ふーん……」
朱里は訝しげな視線を向けてくるがすぐに大きなくしゃみを2連発した。
「ほら、風邪引くから早くシャワー浴びなって」
「むー。わかった。のぞかないでよ?」
「のぞかないって」
「ならいいけどさー」
朱里は尚もぶつぶつ言いながら脱衣所へと入って行く。優介もキッチンへ向かい、お湯を沸かす準備を始める。
「ええっと、たしかミルクはここに……」
戸棚を開けようとした時、インターホンが鳴った。
「あ、はーい、今出ます~」
いったんミルクは放置して玄関へと向かう。
鍵を開けてドアを開けた優介は絶句した。いや、絶句というのは少し違う。言葉を出したくても出せなかったのだ。
「さ、桜井……」
それだけ―――それだけ天草悠里の訪問は優介に衝撃を与えたのだから。
***
「……よ、よう」
やっと絞り出せたのはそんな一言だった。別に悠里と喧嘩したわけではない。講義で顔を会わせることも、近所のスーパーで会う事も何度も会った。
でも、あの学祭以来悠里が部屋を尋ねてくることは無かった。その事実が今優介の思考を麻痺させているのだ。
「な、なんか用だったか?」
「えっと……まあ、そんな感じ。桜井は今なにして―――」
「せんぱーい、ボディソープどれ~?」
悠里の言葉を遮ったその声はまさに最悪のタイミングだった。一瞬で玄関にブリザードがやってきてしまった。
「さ、桜井……?誰かいるの?」
この状況を一言で表すとすれば、そう――。
「詰んだ」
優介にはもう、そう言って笑うしかできなかった。