ある日の朝、タクトはココアとチノと共に登校していた。と言うのも、以前不貞腐れたココアの機嫌を取る為に彼女達と共に登校したタクトだったが、彼の家とラビットハウスの位置関係上、その後も度々一緒になることがあったのだ。
そうして日を重ねるうちにいつの間にか彼女達と登校時間を合わせることがタクトの習慣となり、この日も取り留めのない会話をしながら三人で街を歩いていた。
「タクトさんは嫌いな物とかありますか?」
「嫌いな物?」
チノからの、まるで転校生に対するような質問にタクトは首を傾げる。
「はい。苦手でどうしても食べられない物とかです」
「特には無いが……強いて言うなら一部のチーズは好んで食べないな」
「チーズですか?」
「ああ。チーズケーキとか粉チーズみたいな奴なら気にならないんだが、どうも酸味のある奴が苦手でな……」
食べられない訳では無いんだが、と頬を掻きながらタクトは笑った。
「チノとココアはあるのか?」
「わ、私はありませんよ……?」
「あはは、チノちゃん嘘は良くないよ?」
ココアに笑われて、チノはムッとした表情をする。
「ココアさんこそ今朝もトマトジュース一口も飲んでなかったじゃないですか」
「そう言うチノちゃんだってセロリ残してたよね。好き嫌いしないで食べないと大きくなれないよ?」
団栗の背比べ、この街に則って言えばウサギの背比べだろうか。
どちらも大差ない言い合いを繰り広げる二人をタクトは微笑ましそうに眺める。
「心配は要りません。ココアさんと同じ年の頃には私の方が高くなってます」
何を根拠にそう言うのだろう。
しかし、ココアより背が高くなったチノ。おとなしい立ち振る舞いと気が利いた接客、そこから溢れるのは姉的オーラ。
想像してみればどちらが年上かわかったものではない、とタクトは小さく笑った。
「あ、タクトさん笑いましたね! 私は本気ですよ!」
勘違いされてしまった。
タクトは、子供扱いされた、と頬を膨らませるチノをはなだめる。
「大丈夫だ。子供の成長は凄いから、すぐに大きくなる」
「もういいです!」
拗ねてそっぽを向いてしまった。
一体何が良くなかったのだろうか、とタクトは困ったように苦笑いする。
「でも、チノちゃんって毎日頭にティッピー乗せてるよね。それで身長伸びるのかな?」
ココアの、核心に迫るような発言に対してチノは黙り込んでしまった。
そんな彼女を見ながらタクトは思うのだった。今度牛乳でも買ってあげよう、と。
下校の時間になりタクトは千夜達に別れを告げ、足早に学校を出た。
各教科担任から何ヶ月か前の春休みの宿題について聞かれることもあったが、桜の木は既に花びらが緑葉に変わり、日差しも強い。夏はもう目前である。
そんなちりちりと暑いこの街を彼が早足に行くのには理由がある。この日は彼の行きつけのスーパーで特売があるのだ。
彼は学費は父親に払ってもらっていると言ってもその他の生活費は自分のバイト代で賄っている為、こういう類の催しには積極的に参加しているのだ。
店に入ると、冷房の効いた空気がタクトの火照った体を気持ち良く冷やしていく。
店内を見回してみると、見覚えのある金髪を発見した。彼女は指を折りながら何かを呟いていた。
「タイムセールまで後十分だから、それまでにモヤシと……魚も割引だったわね……」
なにやら真剣そうだったのでタクトはとりあえずそっとしておくことにした。
タクトはニンジンやタマネギなど、割引かれている野菜や肉、牛乳などを買い物カゴに放り込んでいく。
そして特売が始まればその場所に急行し、お一人様二本までのキャノーラ油をカゴに入れ、会計を済ませた。
合計一五〇〇円未満の商品を袋に詰め込み、店を出ようとしたところでタクトはあるものを発見した。
腕を天井に向かって伸ばし、一心不乱に垂直跳びを繰り返す金髪の少女と中学校の制服を身にまとった少女。
タクトはその背後に回り込んで知人二人の奇行を観察する。
果たしてこれは何の召喚儀式なのだろうか。
タクトがその光景を興味津々に眺めていると、新たな人物が登場した。
自称普通の女子高生の彼女は二人の伸ばしている手の先にある商品を掴むと、それを他称お嬢様の少女に手渡した。
「ほら」
「り、リゼ先輩……とタクト!?」
「い、いつの間に居たんですか!?」
驚いた表情を見せる二人にタクトは軽く手を上げて応える。
「買い物を済ませて出ようとしたら二人が何かを召喚しようとしてたから」
「あれ? サバイバルを想定した訓練じゃなかったのか?」
考えてみればそうかもしれない。
納得したように頷くタクトを、チノはジト目で見つめる。
「どちらも違います。ただの買い物です……見てたのなら取ってくださいよ」
なるほど、言われてみれば商品を取ろうとして飛び跳ねていたようにも思える。
タクトは今朝のチノ達との会話を思い出す。確かに身長のせいで私生活に影響が出るのは良くない。
シャロもさぞかし身長を伸ばしたいのだろう、と彼女の方に視線をやるタクトの心配とは裏腹になにやら嬉しそうな表情をしていた。
「身長小さくてよかった……」
どうやら考え方は人それぞれのようだ。
なんとも幸せそうな顔でリゼから受け取ったスッポン汁の素を頬ずりするシャロを見て、タクトは小さく笑った。
そつなく買い物を済ませたタクトは生ものを冷蔵庫に入れる為に一度家に帰った。
そしてタクトは無事に特売に間に合ったこともあり、上機嫌で再び家を出た。
コーヒーを飲みに行くのだ。
タクトは以前まではコーヒーなど、その辺の自販機などで売っている缶の物で十分だと思っていた。しかし、ある日なんとなく訪れた喫茶店で飲んだそれは、彼の世界観をガラリと変えたのだ。
自販機のそれと比べると圧倒的なまでに苦味、酸味、コクの調和が取れており、一口啜れば豆本来の豊かさを感じることができる。
それ以前に一度でもその香りを鼻腔に通したならば、もはやそれを口に含まずには居られない。
簡単に言えばタクトは魅了されてしまったのだ。初めてその店に訪れた時、白い髭が特徴的なマスターが入れる、本物のコーヒーに。
彼が心を踊らせてその店――ラビットハウスの扉を開けば、コーヒー豆の良い香りと静かな雰囲気がタクトを出迎え――
「ぃらっしゃぁせぇ!!」
「あ、タクト君……」
「タクトさん……」
どうやらラビットハウスは喫茶店から八百屋にリニューアルしてしまったらしい。やはり客が少なすぎたのだろうか。
なるほど、扱う商品をコーヒーから野菜にすれば確かに喫茶店の競争率が高いこの地域ではそれなりの集客が臨めるだろう。
しかし、タクトはスーパーで既に安めの野菜を手に入れているので八百屋に用はない。
彼はお邪魔しました、と笑顔でラビットハウスを後にした。
しかし、どうしたものか。彼は今、カフェインを欲しているのだ。
抹茶でもカフェインは補えるのだろうか、とタクトが甘兎庵に向かって歩き出そうとすると八百屋の扉が勢いよく開けられた。
「ま、待ってください! 違うんです!」
「そうだタクト! 誤解だ! 誤解なんだ!」
「タクト君待って! リゼ殿がご乱心してただけなの!」
「誰が殿だ!」
ラビットハウスの従業員三人は、店を立ち去ろうとするタクトの服を掴む。
服が伸びてしまうのでその手を離していただきたい。
タクトは改めて店内に入り、いつものコーヒーを飲みながら話を聞く。
「なるほど。つまりチノは大きくなりたいと」
「はい。それでココアさんと一緒に好き嫌いを克服しようとしたのですが……」
彼女はきまりが悪そうに視線をずらした。
その先を追ってみると、一口だけ齧られたセロリパンと、ほんの少しだけ飲まれた跡のあるトマトジュースの入ったコップが目に入った。
「ダメだったのか」
「はい……」
そこまでの事情は理解できた。しかし、それが先程の出来事とどう関係するのだろう。
それについてタクトが質問すると、リゼが照れたように言う。
「いやあ、大声を出せば存在感が出ると思って……」
なるほど、せめて錯覚で大きくなったと見せようということだろうか。
決して客が少ない喫茶店が八百屋に化けた訳では無いということに、タクトはひとまず胸をなで下ろした。
それはさておき、錯覚では根本的な解決にはならない上にチノには合わないだろう。身長ではなくリゼに対する猜疑心が大きくなりそうである。
「無理して嫌いな物を食べなくてもいいんじゃないか?」
「そ、それではダメなんです! たくさん食べて、たくさん寝て、最低でもココアさんよりは大きくなりたいんです!」
仮な姉妹関係だとしても、姉より大きくなりたいと思うのは妹の性というものなのだろうか。
「チノちゃん偉いね! よーし、私もお姉ちゃんとして頑張ってトマトジュースを克服するよ!」
姉も姉で威厳というものを保ちたいのだろう。
理由はどうであれ、自ら好き嫌いを克服しようとするのは素晴らしいことである。タクトは感心するように二人を見つめる。
「でも、もしチノがココアより大きくなったらココアはモフモフする側じゃなくてされる側になるな」
ココアは、リゼの言ったありえるかもしれない未来に目を輝かせながらチノに抱きついた。
「それでもいいかも! じゃあ今のうちにモフモフを堪能して――」
「私は抱きついたりしないので大丈夫です」
チノの無慈悲な突き放しにココアは膝から崩れ落ちた。しかし、すぐに立ち上がってチノに詰め寄る。
「チノちゃんは大きくなっちゃダメ! 食べちゃダメ! 寝ちゃダメぇ!」
人間をやめろということだろうか。
必死の形相でチノの頭を押し込むココアを、リゼは呆れ顔でチノから引き剥がす。
「何無茶言ってるんだ……」
「だって……」
涙目でチノから離れるココアに、タクトは笑って言った。
「誰だっていつかは大きくなるものだろう。それはチノだって例外じゃない」
「それはそうだけど……」
ココアは口ごもってチノを見る。
「それに、妹の成長を見守ってやるのも姉の務めなんじゃないか?」
「……」
姉という言葉にココアはぴくりと反応する。そして、しばらく何かを考えるように黙り込んだ。
「……そうだよね。私ったらわがままだったよね……ごめんね? チノちゃん」
「いえ、私は気にしてないので大丈夫ですよ」
チノに向かって頭を下げるココアに、チノは笑顔で頭を上げるように言う。
喧嘩、と言うほどではなかったが、無事に和解できたらしい。
その様子をコーヒーを啜りながら見守るタクトを、リゼがニヤニヤしながら肘で小突く。
「意外といいこと言うじゃないか。誰かからの受け売りか?」
「ふっ……ただの経験則だ」
「経験則?」
「なんでもない」
不思議そうに首を傾げるリゼを笑顔であしらい、タクトはコーヒーカップに再度口をつけた。
コーヒーの液面に反射する彼の瞳は、どことなく懐かしそうで、哀しそうなものだった。
オリ主のチーズ嫌いはそのまま俺の好き嫌いを当てはめています。
チーズケーキは大好きですけどベビーチーズとか酸味の強いチーズ、いわゆるプロセスチーズって言うやつですかね。ああいう類のチーズが苦手なんです。モッツァレラはそこそこ好きです。