ロシア
よく知っているようで、あまり知らない国。
白い雪の向こうにまどろむ、灰色の国。
いま、私の目の前に差し出された手紙には、小さなロシア語のスタンプと、私を試すかのようにこちらを見つめる双頭の鷲が刻まれていた。
「響、ちょっといいか」
そう呼ばれて振り返る。
この人はこの鎮守府の司令官。
この国の海軍の中枢を担う人物の一人であることを、彼が身にまとう純白がよく表している。
彼は海の男にしては優しい顔立ちをしていて、しかしその声は、彼が荒波に揉まれてきた人間にふさわしく、堂々と力強いものだった。
「どうしたんだい、司令官」
「少し、大事な話があるんだ。ここじゃちょっとなんだし、俺の部屋まで来てくれないか」
大事な話?
大規模作戦はこのあいだ終結したばかりだし、資材の備蓄も十分だ。
春の陽気も相まって、鎮守府はいま、久々におだやかな空気に包まれていた。
そのなかでの「大事な話」
疑問符を浮かべながらも、私は「了解したよ」と短く言葉を返した。
久々に訪れた司令官の部屋は、私が着任した時とほとんど変わっていなかった。
綺麗に整理された書棚や、これまでの彼の活躍を示すきらびやかな勲章たち。
華美な装飾もなく隅々まで清掃の行き届いたこの部屋は、司令官の性格そのもののようで、ほとんど訪れることこそないものの、私にとってとても好ましいものだった。
しかし、部屋の奥に置かれた執務机のうえには、見慣れない、真っ赤な手紙が置かれていた。
自然、落ち着いた色に染められたこの部屋に似つかわしくない、いささか主張のすぎる封筒に、私の目は引き寄せられる。
司令官もそんな私に気づいたのだろう。
これといった前置きをすることもなく「君宛に今朝、大本営から送られて来たものだ」と言いながら、私にそれを差し出した。
Военно-морской флот
かつて、鋼鉄の身を捧げ、私が忠誠を誓った名がそこにはあった。
封は既に切られてあったから、司令官はもう中身を知っているのだろう。
わざわざ開かずとも、これになにが書いてあるのかくらい、私にはもうわかっている。
それはきっと、かつて「
その旅路は、たった1枚の片道切符が導くもので。
艦娘としての直感と、そしてなによりも、いま私にそれを差し出した手の震えがそれを物語っていた。
「……読まなくてもわかるさ」
「……なに?」
「私は、行かなくちゃいけないんだろう?」
「もう……知っていたのか……」
「別に知ってたわけじゃないさ。封筒の送り主と、双頭の鷲。そしてなにより、司令官の手が震えていた」
「そこまで見られているとは思わなかったよ。提督冥利に尽きるね」
そう言って、司令官は私に事の次第を語り始めた。
いま、北極海にまで深海棲艦の勢力が及んでいるということ。
その中でもロシアの占める海岸線は長く、必然的に大きな戦力が必要になるということ。
まだ北極海地域における海軍戦力の連携は十分とは言えず、満足いくほどの艦娘の戦力は揃っていないということ。
そして、ロシアの海軍戦力をリードし、ロシアを北極海戦線における戦力の要に導く役として、かつて賠償艦として引き取られた縁から、私に白羽の矢が立ったということ。
司令官がすべてを語り終える頃には、もう随分と日は傾いていた。
窓から差し込む夕日の最後の抵抗が、司令官の横顔を照らす。
食堂から漂うカレーの香りが、今日に限って印象深く、そういえば今日は金曜日だったなと、私はぼんやりと思い出した。
言葉が行き場を見つける頃には、司令官の頬には一筋、伝うものがあって。
かつてわたしが、海の男とともに歌ったヴォルガ川は、きっとこんな風に大きく、優しさに満ちていたのだろう。
それが決して、夕日のせいでないことは。そして、夕日のせいにしなくちゃいけないってことは。私には痛いほどわかった。
扉に鍵をかけ、私は静かに司令官を抱きとめた。一瞬遅れて、背中に体温が触れる。
海の男の両の手は、私を決して離すまいとしながらも、優しく私の錨を上げる。
私たちは多くを語ってはこなかった。
そして、夜が明ければきっと、私たちはもう語る言葉を持たないだろう。
これからは、波音だけが私とあなたを繋いでいく。
でも、悲しみは海ではないから、きっと飲み干してしまえるだろう。
そうして、私たちは、黄昏時に別れを告げた。
櫂の音だけが、いつまでも静かに響いていた。