「ここにいたのか。探したぞ」
ざり、ざり、と砂を踏みしめる音がする。
後ろ斜め右、三百メートル手前から足音は聞こえていた。
味気ないなあ、と私は小さく舌打ちをして、唇をかすかにゆがめる。
夜の砂浜でひとり、男が探しにきてくれた。
だというのに、艦娘の聴力の前じゃ、ムードもへったくれもない。
「よっこらせ」
その歳でそのセリフは少しどうかと思う。
もっとこう、あるじゃん、なんていうかさ。
「隣、いいかな」みたいなの。
気の利いたセリフってやつ。
「腰がいてえんだよ」
「あれ、聞こえてた?」
「いいや。でも、お前はいつも心の中で一言多い」
「すぐに口に出すのをやめただけ」
「そうかい。ほら、飲むだろ?」
そう言って、提督は缶コーヒーを差し出す。
「あたし微糖がいい」
「……なんで見てもないのにブラックってわかんだよ」
「音。缶が揺れるときの音でわかった。ブラックと微糖買ってきたんでしょ」
「あいかわらずとんでもない耳してんな」
「……化け物だからね。もう」
私がそう言うと、提督はなにも言わずに微糖の缶を私の頬に当てる。
まだ十分に温かい。
探したなんて、嘘つき。
本当はどこにいるのかわかってたくせに。
私は膝を抱えたまま缶を受け取る。
隣でパキャ、とプルタブを引き上げる音がする。
「にげぇなあ」
提督の呟きが、音になったそばから渚にとけてさらわれていく。
「飲まないのか?」
提督が水平線を見つめたまま言う。
「飲むよ。ありがと」
私は波間にのびた月明かりを見つめながら言う。
プルタブに人差し指をかける。
引き上げた途端、プルタブがちぎれてしまった。
私はそのままプルタブを飲み口に押し込み、冷めはじめたコーヒーに口をつける。
私たちはなにもいわず、海を見つめたままかわりばんこに缶に口をつける。
糸電話みたいだ、と、思った。
円筒に交互に口を寄せ、私たちはコミュニケーションしている。
このスチールの糸電話に糸はない。
いや、あるのかも。
でも、あったとして、多分それはピンと張ったピアノ線だと思う。
目に見えないくらい細くて、指をあてて滑らせれば、ぱっくりと血が流れる。
「川内、あのさ」
提督が不意に口を開く。かすかなラグがあり、続く言葉は修正される。
「火、貸してくれ」
「忘れたの?しょうがないなあ」
「なんだ、お前持ってたのか。ダメもとで聞いたのに。いつもは夜戦で命取りになるって、海の見える範囲じゃ煙避けてるからさ」
「今夜は、ね。提督、あたしにも一本ちょうだい」
「しかたねえな。エコーしかないけど、いいか?」
「いいよ。提督は変わらずエコーなんだね。神通が嫌がってたっけ。臭すぎるって」
「那珂は気に入ってたけどな。オレンジのパッケージは川内型の色だ、って」
「提督、那珂『ちゃん』だよ。那珂はずっとアイドルだからさ、そのへんうるさいんだよ」
「そか、悪い。てか、お前も呼び捨てじゃねえか」
「いいんだよ、あたしは。今までずっとネームシップだったんだから」
風にかき消されながら、提督はくわえたエコーに火をつける。
へたくそ。
ターボライターじゃないんだから風向き考えなよ。
でも、私は何も言わない。
提督が言わなかったから。
「これからは?」と、言わずにいてくれたから。
「海で呑む煙は、どうしてこう、苦いのかね」
提督は探っている。
「……船乗りが海に吸殻をたくさん捨ててきたから」
私は答えない。
「海に墓標はないから。吸殻の数が墓標に追いつくまで、海を見ながら吸う煙草は多分苦い」
私は、答えない。
「川内にしてはロマンチックなようで、すこしだけセンチな答えだな」
「一言余計。でも、神通は好きそう」
「神通は、そうだな。那珂は嫌がるかもな。全然ロマンチックじゃない!って」
「言いそう。絶対言う。てか提督、那珂『ちゃん』」
すまんすまん。そう言いながら、提督は白いフィルターに口をつける。
ただでさえ短いエコーなのに、少しだけ風があるからよく燃える。
「あちっ」
ばか。エコーで貧乏吸いするからだよ。
私のエコーも、いつのまにかぎりぎりの長さになっていた。
砂に押し付けて、吸殻を空き缶にねじこむ。
きちんと消えてなかった。
缶を揺らすと、プルタブと一緒に小さな火種がちろちろと舌を出す。
「さすがに冷えるな」
そう言いながら、提督は懐から小さな瓶を取り出す。
「ジム・ビーム?」
知ってて私は問いかける。
「うん。飲むか?」
「飲む。帝国海軍の提督なのに、スコッチじゃないんだね」
「うるせぇ。いつもはジョニ黒だっつーの。文句あるなら飲まなくていいぞ」
「嘘、うそ。文句ないよ。ありがたくいただきます」
「最初からそう言え……ほら」
ジョニ黒が普段飲みなんて、今の時代じゃ大した自慢にならないよ。
そんな言葉とともに、私は瓶に口をつけて傾ける。
かすかなドライさ。本当にかすか。
変わらないんだね、と思う。
海を見つめてジム・ビームを飲むこと。今夜、海を見つめてジム・ビームを飲むこと。
ジム・ビームを飲む横顔、エコーを挟む指、さざなみ、渚、月明かり、変わらない。
変わらないけど、慣れない。
「今夜」を何度繰り返しても、私は慣れない。
私「たち」とは言えない。
提督と私の目に映るものは、同じなようで違うから。
提督の目に映るのは、きっと、そう。
かつての妻と、愛すべき義理の妹。
私の目に映るのは、愛くるしい二人の妹。
そして、愛した男。隣の男。ジム・ビームをあおりながら、エコーをふかす男。
男には、永遠になった愛だけが目に映る。
男ってきっとそうだ。
私はよく知っている。
そして、男の目に映りたくて、永遠になってしまいたくなる、私という女の愚かさ。
それをこの男は、提督は、知りすぎるほど知っている。
懐かしく、そして嫌いだ。
あたしは知ってる。
提督がもうほとんど煙草を吸わないことを。
提督がもうほとんど酒を飲まないことを。
提督は知ってる。
あたしがヘビースモーカーで、念入りに消臭していることを。
あたしが早朝隠れて鎮守府の外まで空き瓶を捨てに行っていることを。
神通がこっそりエコーを買って、その煙を一人で見つめていたこと。
本当はバーボン党だったけど、提督に酌をしたくて日本酒党のふりをしていたこと。
そして、あたしがそばでそれを見守っていたこと、それを見つめていたこと。
神通がエコーの煙にまみれながら酌をする未来を手に入れたこと、あたしはそれを手酌でみつめていたこと。
提督は、この男は、全部知ってる。
だから今夜だけ、提督はあたしとエコーを吸って、ジム・ビームを飲む。
15センチ、義理の姉と弟に適切な距離感で、並びながら。
あなたのそんな優しさが、あたしは大嫌いで、大好きだった。
繰り返される今夜に、偶然みたいな顔をして、あたしの決意を揺らがせる。
あなたのそんな優しさが、あたしは大好きで、大嫌いだった。
失ったふたりがなによりも強く私たちを結びつけるのに、それでも15センチの間で、神通の右手と左手が、あたしの右手と提督の左手を握っている。
那珂が後ろから三人を抱きしめる。
「アイドルはね、抱きしめても抱きしめられちゃダメなんだ!ファンに元気をあげるのが、アイドルの仕事なんだから!」
馬鹿。馬鹿だよ、那珂。
あんた全部知ってたんでしょ。
それでもあたしを抱きしめるんでしょ。
馬鹿。那珂の馬鹿。
「もう私は、隣にいること叶いませんから。だから姉さん、お願い。あの人はとても寂しがりやだから」
馬鹿。神通の馬鹿。
知ってたよ、あたし。
あんたがあたしの気持ちに気づいてて、毎晩泣いてたの知ってるよ。
あたしを傷つけたくなくて、でも提督のことが好きで。
好きで、好きで、どうしようもなくて。
知ってたんだよ、あたし。
だからあたし、毎晩夜戦に行ってたんだよ。
好きなわけないじゃん、夜戦なんて。
怖いよ。夜の海はいつも怖い。夜戦を楽しいと思ったことなんて、一度もなかった。
でもそれ以上に、泣いてる神通を見たくなかった。
つらくて、かなしくて、こわれそうだった。
逃げたんだと思う。
あたしは臆病だから。弱虫だから。
でも、お姉ちゃんだから。
あんたたちを守れるようになりたかった。あんたたちの未来くらいは守りたかった。
でも、無意味だった。
遅かった。全部が遅かった。
あんたたちのこと、結局守れなかった。
どれだけ夜戦の経験を積んでも、結局守れなかった。
聞いてよ、神通。聞いてよ、那珂。
やっとあたし、改二になったんだよ。
探照灯も、照明弾も、夜偵だってあるんだ。
もう夜の海にあたしの敵はいないんだ。
でも、もう、遅いんだ。
遅かったんだ。ごめんね。ごめんね。
神通。那珂。ごめんね。
気がつくと、提督はいなくなっていた。
外套が雑に背中にかけられている。
外套のポケットをまさぐり、エコーを取り出す。
繰り返される約束事。
ほら、やっぱりあった。
片方だけ銀紙を破ったエコーの箱。
そこに差し込まれている紙切れを私は開く。
今夜は冷える。早めに戻れよ。
馬鹿。
全部言ってしまうから提督は駄目なんだよ。
紙がさ、なんか湿ってるんだよ。
文字がさ、にじんで読みにくいんだよ。
提督の馬鹿。
折れたエコーのフィルターをちぎって火をつけた。
ジム・ビームを三口だけあおった。
そして私は、提督が砂浜に残した足跡を慎重に、半分だけ踏みながら、ゆっくりと一歩踏み出した。