「明日さ、いらないから、朝飯。朝早いから、漁港の食堂で済ませる。夜も遅くなるだろうし、準備いらないから」
ピロン、と間抜けな音をたてて、メッセージアプリが通知を送る。
私は観ていた動画を一時停止しない。
通知がひっこむとすぐに、つづけて通知がくる。
二つに分けて。
「今日、遅くなる。先に寝といて」
「ごめん、いつもありがとう」
私は「わかった。漁船警護気をつけてね」と短く返す。
とってつけたような謝罪と感謝、そして気遣いに、私は物分かりの良いメッセージを返す。
男と女が平和にやっていくコツは、結局女が気づかないこと。
そして、女が気づかせないこと。
整然と片づけられたリビングルームは趣味の良いモデルルームと同じだ。
この部屋を見た男は「家事のできる素敵な嫁さん」と私を褒め、女は「瑞鳳、あんたたち大丈夫なの?」と訝るだろう。
質の良い革張りのソファに私は寝転がり、猫が甘えるだけのチープな動画をリピートしている。
チープだけど、かわいい。
猫は可愛く鳴くだけで、飼われる意味を満たしている。
私はリマインダーアプリを開き、明日の買い物リストを確認する。
買い物リストに「塩」が増え、「上白糖」が書かれなくなったのは、いつからだろうと考える。
毎朝卵焼きを焼いてほしい、そんな間抜けなプロポーズをしたあなたは、私の甘い卵焼きが好きだった。
あなたが卵焼き好きだったから、私はたくさん卵を割ったの。
「甘いほうが僕は好き。瑞鳳の卵焼きはおいしいね」
初めて私の卵焼きを食べたとき、あなたは言った。
当たり前じゃないの。
恋心の数だけ卵を割って、想った数だけ砂糖を掬った。
おいしくなかったら、困るわよ。
泣いちゃうわ、わたし。
出会ったあなたは、まだまだ子供そのものだった。
暁と大真面目に喧嘩して、私を姉のように慕っていた頃が懐かしい。
あなたが私に恋をして、私があなたに恋をした。
どっちが先だったのかは、わからない。
やがて喉仏が突き出して、手がごつごつと骨張って大きくなる。
「私は、ずっとこの姿のままなんだよ?」
「それでも瑞鳳、俺はお前がいい」
「俺」も「お前」も、あなたには背伸びした言葉だって、私にはわかってた。
ああ、男の子なんだなあ、って。
だから、すこしくすぐったくて、ちょっぴりふきだしそうで。
でもそれ以上に嬉しくて。
そうして始まった私たちの新しい関係。
「男の子」って言葉が似合わなくなって、階級も佐官になって。
それでも変わらずあなたは優しかった。
それはたぶん、今も変わらない。
あなたはいつでも、私を傷つけない道を選ぶ。
あなたが卵焼きにはじめて醤油をかけるようになった朝。
わたし、気づいてしまったの。
あなたがとっくに、甘い卵焼きを好きではなくなってたこと。
あなたが佃煮じゃなく、酒盗で酒を呑むようになったこと、私は見ないふりをしていたの。
あなたが私に無理していたこと、それが私を傷つけた。
あなたは大人になっていく。
私は子供の姿のまま。
でも私、こころはあなたと歳を重ねたつもりだったの。
そう思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
私は物分かりのいい妻として、夫に塩味の卵焼きを焼く。
塩味になってから、あなたはまた、おいしいって言ってくれてる。
あなたは社交の場にも戦場にも、私を連れて行かなくなった。
あなたの検索履歴は、艶めかしい大人の女で埋め尽くされてる。
「大事にされてる」そう考えれば、優しい気持ちできっといられる。
でも私、気づいてしまったから。
ねえあなた、
「卵焼き、今度からは塩味にして」
そう言われたって、もう「それは瑞鳳の味じゃない」なんて、泣きわめいちゃう私じゃないよ。
あなたの傷つけない優しさが、私をなにより傷つけてたの。
気づいてた?
あなたの前で卵焼き、私焼かなくなったでしょう。
焼き上がった卵焼きが、食卓に置かれていたでしょう。
だって私、卵焼きを焼くとき、いつも泣いてるの。
卵焼きがしょっぱいのは、けして塩が多すぎるせいではないわ。
泣きながら私が卵焼きを焼いてれば、きっとあなたは「どうしたの」って後ろから私を抱きしめるでしょう。
その優しさで涙をとめてしまえる、愛の残滓が私はつらいの。
涙をこぼした塩味でなければ、あなたはきっと醤油をかけるわ。
私は立ち上がり、卵焼きを焼いた。
明日の朝食はいらない、あなたはそう言った。
でも、最後の夜は、わたし物分かりよく振る舞わないわ。
私は卵焼きを焼いて、食卓に置く。
かたわらにサイン済の紙切れを添えて。
卵焼きは冷めきってもおいしいけれど、愛は卵焼きじゃなかったね。
さようなら、あなた。
私、甘い卵焼きが好きだった。