──У меня нет сестры, у меня нет семьи.
「寒い?ヒーターの温度、上げようか」
運転席から投げかけられた声。
イリーナ*1という名前らしいお姉さんは、私の返事を待たずにヒーターのダイヤルをキリキリと回す。
助手席から見る景色は白に塗りかためられた悪夢のよう──終わらない夢、悪夢でも終わらないでほしいと願うのはどうしてだろう。
「ふふ、よく気がつくでしょ?私。うちは兄弟が多くてさ……お母さんに褒められたくて、観察する癖がついたんだよね」
そういうと、お姉さんはひとりで歌い始める。
悲しげな即興のメロディーにのせて。
かわいいかわいいイルーシュカ──
──狼こわくて兵士になった
かわいいかわいいイルーシュカ──
──雪がこわくて兵器になった
かわいいかわいいイルーシュカ──
──かわいいかわいいイルーシュカ
歌いながら、私たちを乗せたラーダ*2のトラックは、吹雪のなかをひた走る……
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──
「おまたせ。さ、行こうか」
スタローヴァヤ*3で食事を済ませたお姉さんは、助手席の私にそう言いながらエンジンをかけた。
「いまどきまだスタローヴァヤがあるなんて思いもしなかったよ。まあ、私が生まれたのはソビエトが解体された後なんだけどさ。ガングートは喜ぶのかなあ……」
そうしてお姉さんは話し始める。
お姉さんは気さくで、明るい人柄だ。
こうして私が退屈しないように話しかけてくれる。
冷たく凍えてしまうとき、会話はなによりの燃料だ。
長すぎる旅の道程で、お姉さんは色々なことを私に教えてくれた。
お姉さんは職場で「タシュケント」と呼ばれていること。
職業は海軍の軍人であること──たしかに、納得するところは多かった。ラーダの錆を気にしてたほかにも、色々。
もう軍に勤めて長いことや、いま所属してる部隊が日本であること。
出身はロシアで、いまは出張の形で帰省していること。
私もお姉さんに、自分のことを知ってもらいたいと思う。
数日の旅のなかで、私はイルーシュカに懐かしい親近感を覚えていた。
イルーシュカは私と同じだ。
私もたくさんの兄弟のひとりとして生まれた。
気を引くことばかり考えていて、おしゃべりな子供だった──私の家は貧しかったけど、おしゃべりはお金がかからない。
だから、イルーシュカが私の家を訪ねたとき、両親は泣いて喜んでいた。
私も、家族の誇りになれたようで嬉しかったし──新しい話し相手が増えて、これからが楽しみだと思った。
イルーシュカは話し上手で、かっこいい。
私は段々イルーシュカが好きになっていた。
だから、話せたのがたった一日だけだったのは、すこしだけ寂しい。
私のことも、イルーシュカに伝えたかった。
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「マガダンまであとすこしか」
イルーシュカはくしゃくしゃの地図を見つめながら呟く。
マガダン──私の住んでいたところから、一番近い海軍基地のある街だ。
「カチューシャは──」
カチューシャ!
イルーシュカは私を呼ぶとき、いままで「君」とか、よくて「カーチャ」だった。*4
思いがけない嬉しさに、私はびっくりしてしまう。
助手席に座りっぱなしの身体には、すこし強すぎる刺激だ。
「──マガダンって行ったことある?艦娘関連の部署が設置されたのは最近。いまよりずっと、戦域が小さかった頃はウラジオストクだけだったんだ」
マガダンには姉がいた──海軍の軍人になった長女。
私がもっと子供だった頃、家族で夏に、姉をたよってマガダンまで旅行したことがあった。
私が物心つく頃に、軍に入ったお姉ちゃん。
末っ子の私は、たった一人のお姉ちゃんのことを、写真でしか知らない。
結局マガダンでは会えなかったから。
初めて見た海!
私が海を見たのはあの日が初めてだった。
黒ぐろと曇天にうねる波は正直、怖かった──でも、好きな人と並んで海を見られたらどれだけ嬉しかったろう!
私は運転席のイルーシュカをおもう──イルーシュカと海がみたい。
イルーシュカ、こっちを向いて!私を見て!──私、あなたの方を見つめられない、だから──
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──
マガダン基地の近くの埠頭で、イルーシュカはラーダのエンジンを切った。
無骨な大男が、イルーシュカと挨拶を交わす。
「……で、この子かい。……ひでえな。ギリギリだぜ、イルーカ*5」
「海は選り好みしないものだよ。艦娘やってると嫌でもわかる。艦娘だろうが深海棲艦だろうが、生き死にに海は無関心だからね」
「……俺は、金さえもらえればうるさく言わねえよ。上への手続きも手配してある。……これで、お前は『タシュケント』として続くわけか」
大男は、助手席から私を下ろしながらそう呟く。
イルーシュカは頑なにこっちを見ない。
「嚮導駆逐艦の席は一つしかないし──退役したら次のポストがない私は、あの家に戻されちゃうからね。しかも、監視付きで。娘を金欲しさに軍に叩き売って、そうしてのんべんだらりと暮らしてるゴミ家族のところに戻るくらいなら──戦場にいた方が遥かにマシで──」
「──新しい『候補者』を、基地まで運ぶ道中で『処分』したほうがマシってか。とやかくは言わんよ。後悔するのは俺じゃなくてお前だからな、タシュケント」
そう言って大男は私の身体に石をくくりつける。
ドラム缶に入れ、海に向かって転がしていく。
「──俺は軍人だけどよ、さいわい人を殺さずにここまでやってこれた。タシュケント……いや、イルーカ。希望に溢れた若者を、お前がお前として生き続けるためだけに殺すってのは、どんな気分がするもんなんだ?」
「……その答えは、君への報酬に入ってるのかい?」
「いいや……だが、今回は報酬はいらねえ。そしてこの仕事もこれっきり──次からは他をあたってくれ。俺は軍をやめて故郷に帰るよ。かつてお前もいた、あのクソ寒くて雪以外なにもないところに」
言うと大男は、ドラム缶を波止場の端で止め、イルーシュカを振り返った。
「イルーカ……俺はここまでだ。知ってる顔を、海に落とすことはできねえ。……この子、気づいてたか?」
「報酬はなしでいいみたいだから、私がやるよ……気づいてなかったんじゃないかな。艦娘になって、見た目は別人になってたし。この子は昔の写真でしか、私を知らないからね」
「浮かばれねえな……」
「浮かんでこられたら困るのさ……さようなら、カチューシャ」
私はそうして、海に抱かれた。
──最初から気づいてた。
そして、最後に会えてよかった。
さようなら、私の「お姉ちゃん」。
深い海の底から、また会える日まで。
お姉ちゃんのこと、見守ってるから──だから、「いつかまた」会いましょう、お姉ちゃん──