最初は正直、あんまり好きじゃなかった。
確かに顔は良いけれど、無愛想だし、何考えてるかよくわかんないし。
世間話の一つでもって口を開いたって、三十秒も話が続かない。
長門さんなんかは実直で無駄も隙もない軍人の鑑だなんて言っていたけど、どう考えたってただの堅物だ。
巡洋艦以上の娘たちはクールでかっこいいなんて裏できゃあきゃあ騒いでたけど、私は正直その良さがよくわからなかった。
イケメンが見たいだけならいくらでもうちの酒保にアイドル雑誌は置いてあるわけだし、むしろそうした雑誌の売上が落ちてちょっと迷惑に思っていたのが本音だ。
昔から、恋というものに縁がない女だったと思う。
高専に進学したから周りに男はたくさんいたけれど、油まみれの手で常にレンチを握っている女は高専でも恋愛対象にならなかったみたいだ。
ネイルや化粧の一つくらい知ってたら違ったのかなとか思った時もあったけど、同じ色を塗る作業をするならプラモデルをウェザリング塗装してる方が幸せだったから仕方がない。
高専を出た私は艦娘になった。
狭き門といわれる艦娘工作艦試験を突破した私は「明石」として生まれ変わった。
正直ピンク色の髪はどうかと思ったが、そもそも人間やめたんだから別にいいかとあっさり割り切った。
別に髪の色がピンクだろうが緑だろうが、手先が狂うわけじゃないし。
むしろ明石の船霊の影響か、性格が前より明るく社交的になったのは良かったと思う。
いろんな人と仲良くできなきゃ工作艦は務まらないということだろうか。
提督が着任したのは、今年の春先のことだった。
夕張と秋津洲といういつもの工廠仲間三人で「花見宴会芸仕様トリプルドム」のプラモデルを製作していたときのことだからよく覚えている。
提督は着任後提督室にも行かずに工廠にやってきた。
案内していた大淀いわく、「提督室で戦闘するわけではない。戦闘は準備する工廠から始まるのだから、まずはそこを見ておきたい」という理由だったらしい。
工廠でのプラモデル製作を見られたときはちょっとやばいかなと思ったが、特にそれを咎めることなく、かといってなにか感想を寄こすわけでもなく、提督は二つ三つほど訓示を残して去っていった。
初対面の感想は三者三様だった。
秋津洲は「かっこいいけどちょっとこわいかも」って苦笑してた。
夕張は「最近観てたアニメの推しに雰囲気似ててかっこいい」なんて言ってた。
このメロン、結構なミーハーなのである。
私はあまり興味がなかった。
強いて言えば、オルテガ機の頭に巻いたネクタイの精巧さに少しくらい感想が欲しかったところだ。
前任の提督はあんまり酒保にも工廠にも来ないタイプだった。
海軍省のポストが空くまでとりあえず、といった程度のスタンスだったから、それも当然のことだったのだろう。
今度の提督も似たようなものかな、と思っていたけれど、そんなことはなかった。
提督はよく酒保に足を運んだ。
提督は決まって、個包装された飴玉やチョコレート、女性ファッション誌を買っていく。
「私は無愛想で避けられがちだから、少しでも艦娘と交流の場を持ちたくてね」
なんて、少し困ったような笑いを浮かべながら気恥ずかしそうに、彼は流行りの女優が表紙を飾る雑誌をレジに差し出す。
「あれはみんな恥ずかしがってるだけで、裏ではみんな提督のことばかり話してますよ」
と言おうかと思ったけれど、なんだか悔しくて、私は「大事なことだと思いますよ」とだけ返しておいた。
私はその気持ちの出どころに気づいてなかったのか、それとも気づいて無視していたのか、今となってはよくわからない。
そんな関係が半年は続いただろうか。
うちの鎮守府の酒保が工廠と隣接しているおかげで、提督は買い物のあと工廠に入り浸るようになった。
差し入れなんていって、提督はいつもちょっといいコーヒー豆と茶菓子を工廠に持ち込んでくれる。
そして、コーヒーを飲みながら私たちと少し雑談して仕事に戻っていく。
いつの間にか、提督と世間話に毛が生えたくらいの話ができるようになった。
部下が気おくれしない程度の差し入れをしてくれるところに、私は提督の人間性を感じていた。
他の鎮守府では、明石は明るく快活なタイプと聞く。
同じ明石なのにそうではない私にも、等身大に接する提督に、私は知らない感情を持っていることに気づく。
半年過ごすころには彼氏がいて当たり前といわれる高専でも、クラスメイト以上の関係を持たなかった私は、この感情になんて名前を付ければいいのかわからなかった。
「そういえば提督って、休日にも鎮守府にいますよね。上陸しないんですか?」
ある日のこと、いつものように提督と四人でお茶をしていると、ふと思い出したかのように夕張が言った。
「上陸……ああ、外出のことか。私はこの街に家族も友人もいないからね。特に街に出てもすることはないし……自室で本を読むか、作戦を練ってることが多い」
「えっ、休日にも仕事してるんですか」
「そうだ。私の作戦ひとつで君たちの戦果はもちろん、安全、時には命に関わってくるんだ。いくら時間をかけても足りないくらいだよ。それに、休日でも仕事をしているのは君も同じだろ。よく明石や秋津洲と一緒に装備改修してるじゃないか。いつも感謝しているが……休日は君たちの自由な日なんだから、遠慮なく街に繰り出していいんだぞ」
「いやー、私たち結構好きでやってるんで。機械いじりすること以上に幸せな休日はありませんよ。というか、提督彼女さんとかいらっしゃらないんです?」
「あいにく、そういうものに縁がないみたいでね」
心臓がどきり、と跳ねる音がした。
そして、提督が言葉を発するその直前、その刹那に、私の胸の中の、なにか柔らかいところがちくりと痛む感触を、私はたしかに感じ取っていた。
心臓が跳ねる音。
そんな比喩にすぎないものが、空気を震わせるはずもないのに。
そして、仮に震わせたところで、心臓が拍動を刻むのは当たり前なはずなのに。
どうか聞こえてませんようにと願う自分がいて、私はその意味が分からないまま、目を伏せて冷めかけたコーヒーに口を付けた。
不思議と甘いコーヒーだった。
グラニュー糖じゃない甘さ。
それだけはなんとなくわかった私がいた。
なにも手につかない日々が続いた。
提督のことばかり考えてしまう私がいる。
提督のことばかり目で追ってしまう私がいる。
提督を見ればレンチを落としてしまうし、提督の声がすれば次に締めるべきネジがどれだったかわからなくなる私がいる。
コーヒーの匂いをかげば提督のことを思い出す私がいて、自室にコーヒーミルを置いてしまった私がいた。
鈍感な私でもようやく気付く。
私は提督に恋をしていたのだ。
高専で浮いた話の一つもなかった私がまさか、と思っていたけれど、秋津洲から押し付けられるように勧められた少女漫画を読んで、その疑惑は確信に変わっていた。
彼を見ると胸があたたかくなる。
彼の声を聞くと振り向きたくなる。
彼の差し入れと同じコーヒー豆を自室で挽くと、手にうつったコーヒーの香りをいつまでも嗅ぎたくなる私がいる。
両手でマグを包んでコーヒーを口にすると、体温を帯びた香りに後ろから抱きしめられ、大きな何かに両手を包まれる錯覚を覚える。
どうしようもなく純粋で、プラトニックなエネルギー。
感情の行き場がわからず、聞き分けの悪い子供みたいに駄々をこねたくなるエネルギー。
一人の人間を独占したいと願う、優しくも暴力的であり、暴力的でありながらも優しいエネルギー。
春風のように陽気で穏やかなのに、やがて夜になれば、それが嵐を呼ぶことを確信するエネルギー。
初めて知るエネルギー。私の知らないエネルギー。わたしの初めての恋。
かわいくなりたい。
わたしははじめてそう思った。
手が油まみれになっても、髪に金属かすがついても、なんとも思わなかったわたしがはじめてそう思った。
この感情を、手放してはいけない。
はじめての感情だったけど、それだけはたしかにわかった。
足柄さんにファッションを教わった。
百貨店を出るたび、知らないわたしがショーウインドウに映る。
陸奥さんにメイクを教わった。
鏡を見るたび、知らないわたしが光線になって反射する。
龍田さんに香水を教わった。
呼吸するたび、知らないわたしが鼻腔をくすぐる。
熊野さんにスキンケアを教わった。
顔に触れるたび、知らないわたしが触覚を通じて存在している。
鈴谷さんにネイルを教わった。
爪を見るたび、知らないわたしがレンチを握りたくないと言う。
夕張が私の知らないわたしを見て、「どうしちゃったのよ明石」と心配そうな顔をする。
秋津洲が私の知らないわたしを見て、「明石すっごくかわいくなったかも。あ、かもじゃない!」と嬉しそうに笑いかけて、ちょっぴり顔を赤らめる。
私の知らないわたしを、どんどん好きになるわたしがいる。
どんなにやってみようと思ったことか。
どれほどかわいくなる努力をしようと思ったことか。
何度も考えて、そのたびに挫折して、そのたびに自分を嫌悪して。
これまでできなかったことが、たった一人の存在と出会っただけで、できるようになったわたしがいた。
私が知らないわたしに出会ううちに、提督と仲良く話せるようになっていった。
「提督の執務室は工廠に移しましょうか」なんて、大淀が冗談を飛ばすくらいには、提督は工廠に足を運んでいた。
工廠組のなかに提督の意中の艦娘がいるに違いない、なんて噂も流れていた。
それがわたしであることを、わたしはこの戦争の勝利よりも願っていたし、それがわたしでないことを、わたしは轟沈よりも恐れていた。
艦娘の身でありながら、そんなことを考えてしまうほどに、わたしは提督に恋焦がれていた。
いまでも私は覚えている。
蒼い月光が無慈悲な美しさを秘めて、静かに玄関ホールのピアノに降り注ぎ、弦の上で輝き波打つあの夜を。
提督が着任して、ちょうど二年が経ったあの日のことを。
わたしは決意に満ちていた。今夜しかないと思った。
二年前にわたしと提督が出会った、この日この夜しかないと。
きっとわたしは、そのときうまく、言葉を音に変えられないから。
わたしは何度も書き直して、何枚も便箋を無駄にして、それでもおさまりきったとは思えない気持ちを握りしめて、執務室の机のメモに書き残した約束の場所に、ふるえる足を鼓舞して向かう。
どうしてなんだろう。
どうしてわたしは、あの夜を選んでしまったんだろう。
玄関ホールに近づくと、二人の声がする。
すこしからかうとムキになって「そうじゃないかも!」なんて言ってくる、大人と子供が混じったような声がする。
耳に嗅覚はないはずなのに、コーヒーの香りを覚える声がする。
震えながらも、凛とした声。戦いを知る艦娘にしか出せない声。
いつも工廠を賑やかにしていたあの声が、戦いに臨む色を帯びている。
わたしの知らない、
踵を返すのが遅かった。
月光の下で、影が重なる。
二人の影がひとつになって、私のやわらかい部分が、ごぼごぼ、と黒い水を飲みこんでは吐き出した。
気づくと、私は部屋にいた。
化粧品のボトルが床に散らばり、割れた香水瓶がむせ返るほどに醜く香る。
吸い込まれそうな大穴があいた鏡台に、わたしの知らない私が映る。
ところどころ欠けてしまった私の虚像は、コーヒーミルを右手に握って振り上げていた。
はじめて提督と二人で出かけたあの日、最初で最後になるんだろうあの日に、選んでもらったコーヒーミル。
ハンドルを握るたびに、あの人を感じたコーヒーミル。
メイクはぐしゃぐしゃになって、ネイルはひび割れて、お気に入りになったスカートはところどころ破れてしまって。
それでも、コーヒーミルを床に叩きつけられないわたしがいた。
私は、もう一度人を好きになることがあるのだろうか。
私は、あの子のことを祝福できるのだろうか。
あの子がコーヒーミルのハンドルを握るとき、そっと優しく、一回り大きな手がそれを包み込む。
どうしてわたしじゃないんだろう。どうしてあの子なんだろう。
こんなにも頑張ったのに。こんなにも好きだったのに。
初めての恋だった。最後と確信する恋だった。
私がよく知る、かわいくない私。
振り向くあなたを想っては、どうしようもなく救えなくて。
振り向かないあなたを想っては、どうしようもなく焦がれてて。
そんなどうしようもない夜を、シングルベッドでひとり震えて超えたわたし。
ぜんぶわたし。ぜんぶかわいくないわたし。
「私、かわいくなかったね」
かわいくないわたしが、鏡の中でつぶやいた。