F嬢の物語   作:つぐい

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古書店の恋人たち

アイドルを探してる。

 

それが、あの人が投げかけた第一声だったように思う。

手にした本―確かソフォクレースの『アンティゴネー』だったか―をレジに置き、鞄から財布を取り出そうとしていた彼女。

 

「400円になります」

 

私が値段を告げると、驚いて財布を探す手を止めた。まるで、座ったまま彼女を見上げる私の存在に今初めて気付いたかのよう。

そして幾度か言葉を発しようと試みて、失敗しているようだった。

口だけがパクパクと動く姿を見て、魚みたいだな、と思った。

 

「こちらの本、400円になります」

 

機械的に、同じ言葉を繰り返してみた。

私自身が急に話しかけられると言葉に詰まる性質なので、彼女も同類かと予想したのだ。

思考だけが山積して、外にはなにも表現できない私の悪癖。

思考の過剰。

 

でも、今なら分かる。

あの時、彼女が陥っていた状態は思考の不足で。

頭の中にはたった一つしかなかったのだ。

――ヘーウレーカ。

 

息を深く吐き出してから、彼女はようやく翼ある言葉を発した。

――アイドルを探してる。

初めて聞くその声は、予想よりも澄んだ、明るい調子だった。

けれども、あの時彼女が必死で手繰り寄せたであろう言葉を私は理解できなかった。

 

「アイドル雑誌などのお取り扱いはございません」

「違うのですか?」

「お話が良く飲み込めないのですが」

 

私の返答は言葉にしてみると淡々としているが、内心は穏やかではなかった。

なぜなら、彼女の瞳は爛々と輝いていて。頬には紅が差していて。

私に向けられる眼差しは、明らかに古書店には似つかわしくない熱量を持っていたから。

 

私の瞳に魅入られたのだ、と彼女は後に語った。どこまでも青く、青く、透徹した瞳が、言葉を失わせたのだと。貴女の眼差しは私を圧倒し、私の眼差しは貴女を貫いていた。愛の告白と錯覚しても不思議ではなかっただろう。

実際、当時の私はある程度取り違えたのだ。

そして今、あの頃を振り返っている現在の私は()()()()()()()()()()

 

――あなたをアイドルとしてスカウトしたい。

ここまで言われれば、私とて状況は理解できた。

理解できたところで、首を縦に振れるはずもなかった。

 

「貴女が何者なのか、私は知りません」

「アイドルのことを、私はほとんど知りません」

「それでも自分が向いている職業ではない事は分かります」

 

名刺以外に自己を証立てるものを持っていなかった彼女は、

――準備してまた来ます。

こう言い残し去って行った。ようやく様々な言葉が浮かんできたようで、何か私に語りたくてたまらない様子だったが、結局口を噤んだまま店を出て行った。

 

幸か不幸か、冷淡に見える対応を見て、彼女はその場での説得を諦めたのだろう。でも、実際にはあのまま説得されていれば流されたかもしれない、と思う程度には動揺していて。

彼女が去った後も渡された名刺をじっと見つめて、そのまま立ち尽くしていた。

 

レジには『アンティゴネー』が置いたままで、代金も受け取ってはいなかった。

 

 

 

ファーストコンタクトから3日後、彼女は再び来店した。

私はあくまでバイトであって、本職は学生だ。

叔父が店を空ける際に穴埋めに入っているだけで、1週間のうち多くても3,4日、それも数時間しか書店にいない。

あの日私の名前も聞かずに帰った彼女が私にすんなり再会できる可能性は、そこまで高くはなかったはずだ。

楽天的だったのだろうか。それとも、会えるまで通うつもりだったのだろうか。

私は前者であろうと思うが、そんな思索は結局無意味だ。私はレジにいて、彼女はお目当てのモノを見つけた、それが事実だ。

 

数日ぶりに見た彼女は、流石に落ち着きを取り戻していた。というより、私が彼女の顔を直視できなかったからかもしれない。

彼女の目を見つめると、初対面の時に冒された熱病がぶり返し、あの時には認識できていなかった官能的な陶酔すら覚えるのである。病は悪化していた。

あの二つの球体を抉り出して掌の上で弄ぶことができたら、と私は夢想に囚われた。

彼女の瞳は、陰唇から見つめるマルセルの瞳だった。あるいは、現実を引き裂くマロニエの木であった。卵に、子牛の目玉に官能を見出す人達と同じく、彼女が褒めてくれた私の瞳は未だ去勢されていないのかもしれなかった。

 

彼女は事務所のパンフレットや所属アイドルが紹介されている記事などを持参していて、アイドルの仕事内容について説明してくれた。

アイドルが何をする仕事か理解するにつれ、私の中の疑問はむしろ膨れ上がるばかりだった。

 

「なぜ私をアイドルにスカウトしようと思ったのですか」

「私には貴女が仰った仕事のどれについても、適正があるとは思えません」

 

なぜ。なぜ。私の質問に対して、彼女の答えはシンプルだった。

 

――私はあなたをプロデュースしたい。

 

なるほど、清々しい回答だ。私が直面するであろう困難も、苦手な分野に足を踏み入れる際に必要な勇気も、何も考慮していない。あえて無視しているのだろうか。けれども、私好みの回答だ。特に「プロデュース」という言葉が良い。本来は私というアイドルを「演出」する、「売り出す」程度の意味合いなのだろう。でも、彼女が私を「作り上げて」「産み出してくれる」というのなら、それはとても素敵な事に違いない。

 

ともあれ、このように答えを返されてしまうと、私としては少々困る。アイドルが向いている理由を挙げてきたならば、私はアイドルに向いていない理由をそれ以上に指摘すれば良かった。月並みだが、「あなたは私の何を知っているの」なんて言っても良かっただろう。しかし彼女は「私は欲する」としか述べていない。とすれば、これは私の意志の問題だ。しかも始末が悪い事に、当事者の私は彼女の欲する事をなさんと欲している。アイドルに興味は全くないのだが。

 

「少し、考えさせて下さい」

「またお話を聞かせてくれませんか」

 

という訳で、回答を宙吊りにすることにした。図々しくお願いもした。面倒な問いを先延ばしにしたいという事情もあったが、アイドルにならずとも彼女とここでこうして言葉を交わせるのならば、それに越した事はない。運が良ければアイドルとプロデューサー以外の、何か別の関係に固着するかもしれない。

彼女も今日一日で説得できると思っていなかったようで、回答の保留、別の会話の機会を持つことにあっさり同意した。

 

次の仕事の予定が迫っているようで、数時間の逢瀬を終えると彼女はやや急いで店を出て行った。去り際に、本当に他愛の無い戯れであるかのような様子で、彼女はこう言った。

 

――そう言えば、今更だけどあなたの名前は?

 

本当に今更だ、と苦笑しながら返事をした。彼女の顔から視線を逸らさずに。

 

「文香。鷺沢文香です」

 

素敵な名前だね、と言われた。あまり嬉しくはなかった。

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