F嬢の物語   作:つぐい

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おれの恋は砕けたのだ

あの人と出会った春の日から、数ヶ月が過ぎた。その間に起きた変化と言えば、週に一度古書店の奥、レジ横に椅子が置かれるようになったことと、私が茶を入れるようになったことだ。それ以外だと、慌しかった大学がすっかり落ち着き、猛暑に敗北した一部の友人の姿を講義で見なくなったこと。これくらいだ。

つまるところ、私は未だ返事をしていない。

 

 

今日も大学の講義を終え、直接叔父の店へ向かう。フランス文学論のレポート締切は迫っているが、今の私にはそれよりも優先すべき事がある。彼女が来るまでに、叔父がサボっているであろう店の掃除を終わらせなくては。

 

掃除を済ませ椅子を引っ張り出し、準備を終えたところで時計を見る。待ち人が来るまでには30分ほどあるので、レポート課題を進めることにする。『贋金つくり』の文庫本を取り出し、自作の栞を挟んだページを開く。店先の風鈴が鳴り、セミの鳴き声が店内まで聞こえてくる。ページを繰る音が断続的に耳に入る。きっと外では陽炎が立ち上り、降り注ぐ陽光はジリジリと地面を焼いているだろう。まるで永遠のようだ、なんて思いつつ、私は幸せを噛みしめていた。

 

しばらく読み進めていると、ふと視界が暗くなった。本から目を離し目線を上げるとあの人の笑顔があり、上げた目を慌てて戻す。視線を下げたまま、いつもの挨拶をする。

 

「いらっしゃいませ」

 

彼女の目を直視するのはまだ慣れない。私が人と目を合わせるのが苦手だとあの人は勘違いしているようだが、ここまでの醜態を晒すのは彼女の場合だけだ。結局、彼女に関することで私は何も進歩していなかった。彼女にプロデュースされる事への誘惑は存在したが、アイドルの道へ踏み出す事への躊躇は相変わらずだった。何より、この足踏みがいつまでも続くことを私は望んでいた。留まれ、汝は美しい。

 

――忙しい。

数ヶ月も経てばアイドル勧誘の文句も品切れになるのは当然で、最近の彼女との会話は世間話が殆どだ。勿論彼女の「世間」とはおおよそ芸能界と一致しているので、身近で活躍しているアイドルの明るい話を聞かせる事で、私のアイドルへの忌避感を和らげる程度の効果は期待しているのだろう。そんな彼女の今日の話題は、自分が担当しているアイドルの人気が出て忙しくなってきた、という話だった。直接スカウトした(している)のは私だけだが、養成所から上がってきたアイドルを受け持っているのだという。私の入れた茶をすすり、自分で持ってきた茶請けをつまみながら語られると説得力は半減なのだが、確かに近頃は店を出る時間は早くなっている気がする。忙しい中時間を作って来てくれる彼女を愛おしく思うと同時に、私とは別のアイドルにつきっきりの様子を想像すると少し不満を覚える。なんとも身勝手だ。

 

「どんな子でしょうか」

――アイドルを心の底から楽しんでいる子。

ふと気になり、尋ねてみるとこんな返事が返ってくる。特集雑誌も持ち歩いているようで、私にも嬉しそうに見せてくれた。笑顔が印象的な子だ。アイドルを楽しめる子とはこういう子なのだろうと、素直に感じたところを言ってみる。

 

「アイドルを楽しめる子とは、このような子ではないですか」

――そうかもれしれない。

驚いた。彼女が肯定するとは思っていなかったから。驚愕のあまり、瞳のことも忘れて彼女の顔を見た。彼女は、どこか寂しそうな笑みを浮かべながら私を見ていた。既に悟っていたのだろう。()()()()()()()()()()()()。でも同時に、こうも思っているだろう。()()()()()()()()()()()、と。彼女が今もこうして店を訪れていることがその証左だ。

 

もし私がアイドルになる見込みが無いとしたら、彼女は店に来なくなるだろうか。彼女は私に執着している、それは信じても良い。あの出会いが私たちをどうしようもなく縛っているのだから。でも、それは彼女にとって「アイドルとの出会い」なのだろうか?それとも、「貴女との出会い」なのだろうか?結局、問題は堂々巡りで。決して口に出来ない問いが、虚空に消えていく。

 

なぜあなたは私をアイドルにさせたがるのです?なぜ貴女のアガルマ(かがやき)ではなく、見知らぬ誰かの偶像として、光を振りまかねばならないのですか?

 

 

 

つるべ落としのような秋が過ぎ、クリスマスの季節がやって来た。あれから、彼女のプロデュースするアイドルの人気は更に上昇したようで、芸能界とは縁遠い私の耳にも、時々彼女についての話題が届くようになった。あの人はますます業務に忙殺されるようになり、店を訪れる頻度は週に1回から2週に1回、月に1回となっていった。彼女は本当に疲れているようで、店に来た時にはアイドルの話を全く持ち出さなくなった。もちろん仕事に嫌気が差した様子は微塵も見られないが、古書店での時間を仕事から切り離したプライベートとして大事にし始めているようだった。

 

――前髪、やっぱり長いね。

一月ぶりの彼女は、私を見るなりそんなことを言った。理容を欠かしている訳ではなく、以前より長い状態を秋頃からあえてキープしている。先月も不満げな様子だったが、今月もやはり納得してはいないようだ。

 

「恥ずかしいので」

 

嘘ではないが、真実は半分しか語っていない。視界を遮る事で、彼女の顔にまっすぐ向き合うことができるのは確かに現在の髪型の利点だ。けれど主たる目的は彼女から私の眼を隠すこと、それによって私の価値を吊り上げること―要はセルフブランディングだ。アイドルを断りながら自分で自分をプロデュースしている姿は滑稽とも言えるが、その滑稽さすら私は楽しんでいたのだった。

 

――ここに来るのも、久しぶり。

言外に滲ませていたのは寂寥だったが、私は生憎とその気持ちを共有できなかった。恋とは、量より質だと思う。回数が減った分、私にとってこの時間の尊さはいや増すばかりだ。しかし仕事という圧倒的物量が相手ならば、多少量が必要になるのも仕方ない―そんな風に、私は納得した。

 

けれど、私はこのズレをもっと深刻に受け止めるべきだったのだ。そうしていれば、彼女が何気なく放った言葉によって、あそこまで傷つく事はなかったのだから。あの時から静止していると思っていた私達の時間はやはり流れていて。髪を伸ばすなんてささやかな抵抗は、何の意味もなかったのだと気付いていれば。

 

―あの、決定的な言葉。

 

――貴女がこうしてお茶を入れてくれるから、また今月も頑張れるかな。

崩れ落ちそうになった。恐怖したのだ。彼女が私を見つめる穏やかな眼差しに、完全に弛緩した空気に、安心しきった表情に。あの熱病は去り、何か別のものが代わりに彼女を満たそうとしていた。私の瞳は彼女にとって神秘の秘奥ではなくなり、見目よい宝石に成り下がりかけていた。私だけがあの瞬間に留まり、彼女は別の場所に安住しようとしていた。それは確かに、私が望んだはずの「アイドルとプロデューサー以外の関係」だった。より親密な関係と言っても良いかもしれない。にもかかわらず、私はおぞましさを覚えたのだ。

 

「そうですか」

震えずに声を発するために、苦労した。最早、一刻の猶予も無かった。次善の策を実行しよう。貴女の唯一ではないが、一番になるために。

たとえ、貴女の安住の地を奪ったとしても。

 

私は椅子から立ち上がった。私の行動を訝しがる彼女に背を向け、書架に向かって口を開く。面と向かって嘘をつくには、心の準備がいる。

 

「書の世界はどこか時が止まったような感覚で」

「でも、もしアイドルという道に一歩を踏み出せば」

「私も前に進めるでしょうか」

 

喋っていて、自分で笑いそうになった。前に進める?半年以上も待たせておいて?馬鹿馬鹿しいにも程がある。

口では前に進む事を欲しながら、私は現在に留まることを望んでいた。現在が過ぎ去り過去になった今でも、こうして想いを綴らずにはいられないほど強く、強く。

 

――進めるよ。

彼女ははっきりそう答えたが、私の突然の告白に驚きを隠せないようだった。背中越しの声でも焦りのようなものが感じ取れたのだから、相当だ。彼女自身、私が決断する事を望まなくなりつつあったのだろうし、何より、半年もはぐらかしてきた私を決断させたものが何なのか、見当も付かなかったに違いない。それでも、私の決心を肯定しようとしてくれた。

優しい人。そう思いながら、私は振り向く。前髪を挟んで、彼女と向き合う。微笑む。

 

「新しい自分」

「少しだけ興味があります」

「私も変われるでしょうか」

 

微笑みを保つことはできなかった。泣きそうだった。

 

――変われるよ。

彼女はそう言って、私を初めて抱きしめた。顔は見られなかった。でも、声は震えていた。嬉しくて、悲しくて、でも涙は流れなかった。

 

 

こうして、私の一本の百合は折れた。

一粒の麦が死ねば、多くの実を結ぶ。

けれど私の百合は死して地に落ちたところで、何も生みはしない。精々腐り堕ちて、地を巡るだけだろう。

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