すべてが変わってしまったあの日、いや、すべてが失われた事に気付いたあの日から、どれほどの時が過ぎただろう。
今となっては、どうでもいいことだ。私にとっての世界は何も変わっていない。変わってはくれないのだから。
今日も私は、アイドルだ。明日も明後日も、そうだろう。
「本当に、一緒に来てくださらないのですか」
縋るような思いで、プロデューサーに尋ねた。彼女が、次のライブには顔を出すことができないと言ってきたからだ。彼女は現在、専属プロデューサーとして常に私に連れ添っている。以前担当していた子はどうしたのか尋ねようとした事もあったが、今に至るまで聞いていない。私にとっては詮無き事だ。
そんな彼女が、私の
――ごめんなさい。
彼女は目を伏せて、消え入るような声で繰り返した。私が何をアイドル活動の支えにしているか、彼女はきっと理解している。あのクリスマスに、私が告白すると同時に葬り去った、大切な何か。彼女はそれを与えたのが自分であることも、それを捨てるよう強いたのも自分であることも知っている。それゆえに彼女は謝罪しているのだ。堕胎した母のように、それを勧めた父のように。
「そうですか」
理由は聞かなかった。彼女が来られないと言うのならば、相応の理由があるのだろう。それに理由を聞いたところで、私の苦痛は些かも減じない。ライブの日取りは既に決まっている。打ち合わせもあらかた終わっている。合同ライブであれば私一人欠席したところで許容されるかもしれないが、単独では許されるはずもない。そんなわがままが許されるほど、私の地位は磐石ではない。そのような怠慢が認められない業界であることは、分かっているつもりだ。
「分かりました」
だから、私はそう答えるしかなかった。これが私の最後のライブになるかもしれないな、と思いながら。
――今だけ感じる緊張感、私は好き。
控え室で無為に時間を過ごしながら、以前共演した子が語っていたことを思い出す。緊張とはつまるところ、解放の前に自己を抑圧することだ。後に来る高揚をより高めるための自然な反応であり、緊張を愛する人間は抱き合わせの高揚感も愛している。あの子にとってライブとは
そろそろ電源を切ろうと思い携帯に手を伸ばすと、示し合わせたかのように携帯が着信した。無意味な広告を期待しつつ携帯を確認すると、彼女からのメッセージだった。このタイミングで送られてきたのだから、内容は予想が付く。激励か、謝罪か。前者の可能性が高いだろうな、と思いつつ、気乗りしないまま内容に目を通す。文面は簡潔だった。
――あなたは嫌な思いをするかもしれない。けれど、それを私は
ライブ終了後に迎えに来る旨も記されていたが、そんな事は頭から消し飛んでしまった。「良い人」だと信じてきたあの人がこのようなメッセージを送ってきたことへの驚き。何とか時間を見つけてこのメッセージを送ってきたことへのくすぐったい嬉しさ。わざわざ自分の不在を強調してくることへの憤り。それらもすべて、意識から消え去った。
明瞭な、あまりに明瞭な認識が訪れた。久しく失われていた、二度と戻らないと思っていた官能に体が震えた。あの古書店での日々とは違う、幸福が確かにそこにあった。あの空間が私と彼女の心臓に巣食う蝶の群れの交わりだとすれば、ステージとは淫らな獣の乱交だった。その穢れの中でこそ彼女を、彼女だけを明晰に思惟できた。万人の前に立ちながら、私は貴女の前だけに立っている。あらゆる人に傅きながら、貴女だけに傅いている。不実であること、雨のようにひそやかな、空のように大地をおおう悦び、不可思議にも生をつつみこむ悦び。彼女を欠いた私はただの幻影、おかしなぐあいにひとつにまとまった「鷺沢文香」という何か。わたしはあなたの中にあってはじめて何ものかであり、あなたを通じてはじめて何ものかになる。あなたが私をしっかりとつなぎ留めているそのかぎり、私は私なのだ。
全てが失われたなんて、錯覚だった。むしろ彼女は、熱を持った痛みを与えてくれていたのだ。これまで、痛みだけを感じていた。打擲された身体をのたうち回る熱が、彼女の眼差しと同じ快を引き出すことに気付きもしなかった。
いつかの問いが、脳裏をよぎる。
――なぜあなたは、私をアイドルにするのか。
あの時の私は、愚かだったのだ。
出番がやってくる。舞台へとゆっくり歩き出す。
期待と歓喜を胸一杯に吸い込んで。
この感情の全てが、ステージ上で汚い感情に塗りつぶされる予感に陶然としながら。
ライブを終えた時、私はきっとまた、過去の呼び声に耳を澄ますだろう。
今なお私を惹きつけて止まない永遠の夏、貞淑な幸福しか知らなかったあの頃から聴こえてくる、甘美な残響に。
でも、ステージに立つ私を襲う激烈な喜悦、淫猥な幸福も忘れることはできないだろう。
迎えに来るであろう貴女に、私は私が受けた耐え難い苦痛を、抑えきれない吐気を訴えよう。
そう、いま間違いなく
日本の伝統芸能である能に、『鷺』という曲目があります。話の筋も興味深いのですが、何より面白いのは仕手について。『鷺』は元服前か還暦後の能楽師しか舞ってはいけないとされる能で、演者は全身白無垢で登場します。穢れを知らない子供か、穢したいという欲望を喚起しない御老体による、純粋無垢を目指した演目。とすれば、19才のうら若き女子大生は『鷺』を演じる事はできないのでしょうか?可能である、と私は思います。
本作は同人漫画「鷺沢文香はよくモテる」が個人的に琴線に触れまくったので、衝動に任せて書かれたものです。アレはふみふみすけべぶっくの中でも珠玉の一冊…というか、私の中でアイドルの文香はまさにあの本で描かれている彼女と同じなんだろうな、なんて思います。
参考文献
ピアニッシモ(ピジャ)『鷺沢文香はよくモテる』
宮沢賢治『春と修羅』『ガドルフの百合』
A.ジイド『背教者』『狭き門』
G.バタイユ『眼球譚』
J.P.サルトル『嘔吐』
P.レアージュ『O嬢の物語』
R.ムージル『愛の完成』
一人で | 猫屋(NEKOYA) #pixiv https://www.pixiv.net/member_illust.php?illust_id=65174621&mode=medium