あの時と同じ笑顔だった。
短く、しかし色鮮やかな年月を彼女と共に過ごした。自分たちはそこでたくさんの記憶の断片を積み重ねていった。
その大半は既に忘れてしまった。それでもどこか片隅に残っている光景には必ずと言っていいくらい、彼女がいた。
記憶の中の彼女は明るく朗らかな少女だった。その出生を考えれば奇跡的と言うべき豊かな感情は、彼女の見せる表情によく表れていた。目を瞑るだけで膨大な量の彼女の素顔が頭に浮かんでくる。
そんな表情の中であの笑顔が、一番嫌いだった。
あれは自分たちの最後の思い出だった。彼女は誰にも何も告げないまま、何処にあるかも分からない場所に旅立とうとしていた。その寸前で突然の別れを知った自分たちは、幾つかの規則や法律すら破って彼女を見送りに行った。自分たちの間はどうしても乗り越えることが出来ない壁があった。
それを越えて彼女が送ったのは、今と同じ微笑みだった。
あの日、自分達は警備員を泣き落として飛行場に不法侵入した。
まだ幼い兄弟を連れた自分達が離発着場までたどり着くことが出来たのは、たぶんもっと上部の警備責任者あたりが見て見ぬ振りをしてくれたからだと今では分かる。
それでも最後は、滑走路を目前に高いフェンスに行く手を阻まれてしまった。
こんなもの簡単に越えられる。
そう思った。毎日、走って走って、走り回って生きているんだ。
しかし同時に、自分だけならまだしも他の者を連れてこのフェンスを乗り越えることは不可能だということもよく分かっていた。最年長の自分がこの子達を置いて行く事は決してないということも。
それは自分達の唯一の鉄則だった。
もちろん施設での下らない規則は数えきれないほどある。その膨大な鎖の全てを記憶しているのは彼女くらいだった。
しかし、自分達が本当に守らなくてはいけない規則は、自分達自身で決めた唯一つの約束だけだった。それはもしかすると規則というより、皆の起源といった方がいいのかも知れなかった。
神だけでなく人にさえも裏切られた自分達は、だからこそ自分達同士を裏切ってはならない。年上の者は小さな兄弟たちを守る。そして育てる。どんなことがあっても見捨てない。年下の者はいつでも年上を頼っていい。しかし緊急の時には必ず言う事を聞く。出来ることで手助けをする。
当たり前の相互扶助の教えなのだろう。しかしこの規則を守って生きていくことは本当に、本当に難しい。最年長になったばかりの自分は、その事を痛いほど分かっていた。
この子たちを置き去りにはできない。自分の足に寄りかかるように崩れ落ちていく彼らを見下ろしながら、そう思った。自分が守らなくては。
ただでさえ最も信じていた人に裏切られ、深く傷ついているのだから。
幼い決意を意識しながらも、まだ幼かった自分はどうすれば良いかも分からずただ途方に暮れていた。唯一できたのは呆然と座り込んだ兄弟達と一緒になって、フェンスの向こう側を眺めることだけだった。
目の前の景色の大半は、ほとんど穴だらけになった長い滑走路が占めていた。この滑走路も他の建築物などと同じく、まだしも被害が少ない部分を補修して、だましだまし使っていることは想像に難くなかった。駐機されている輸送機はどれもスクラップ寸前、いやスクラップそのもののように見えた。
このご時世、どこも同じなのだ。資源がない、食料がない、住む家がない。そして未来がない。
世界はぎりぎりの均衡の中で成り立っている。それは誰しもが自ら肌で感じている事だろう。
生きることは刃の上を歩くようなものだ。
かつて読んだ小説の一遍を思い出した。ごく薄い剃刀の線上から落ちれば、即座にこの舞台を去ることになる。しかし白刃の上に立ち続けたとしても、自分の足は徐々に切り裂かれていく。死と隣り合わせで、苦痛の中に在り続ける。それが生きるということだと皆が分かっていた。
無造作に泊まる無骨な輸送機の内、フェンスから一番、遠くにある機体が身じろぎした。
機体の横にある搭乗口が開いた。滑走路の端にちょこんと乗っている管制塔の建物から、古めかしい小型車両がのろのろと走っていく。車両はその機体に向かっているようだ。
彼女が乗る輸送機は、あの機体かも知れない。
兄弟達もそう直感したのだろう。息を吹き返した死体のように立ち上がってフェンスにしがみついた。
車両が輸送機の近くに停められ、中から人影が現れた。濃緑色の制服のシルエットから、その人影が女性らしいことが分かった。続く人影はいない。搭乗者はこの制服の女性だけのようだ。
制服の背中にあるエンブレムが太陽光を反射して鈍く輝いた。
神から生まれ神を喰らう、牙の眷族の王。
それを見た瞬間、黒い感情が溢れ出した。その怒りは無機質なエンブレムに向けらたものか、それとも自分の無力さに対してか。答えのない激情に頭と体が支配される。
制服の女性は、こちらに背を向けたまま一定の歩調で輸送機に進んでいった。士官が被るような小振りの帽子で髪を上部にまとめているのが見えた。支給品らしい頑丈そうな紺のスーツケースを片手に持っている。そのどちらにも制服と同じ狼がいた。
兄弟たちの中でも特に目のいい自分には、女性の持ち物までよく見えていた。しかし、女性は顔を前に向けたままだ。これでは誰か分かりようがない。
輸送機のエンジン音が鳴った。
燃料の浪費を抑えるため搭乗者が乗り込む直前まで始動させないようにしているのだろう。今頃、操縦者が慌ただしく機体の状況を確認しているはずだ。一対の翼の両端にある推進機関が高い音を立てて回転数を上げた。
無風だった滑走路に一瞬、突風が走った。回転数の上限を確認するために一瞬だけエンジンを噴かせたからだろう。制服の女性は手に持ったスーツケースが揺れないいう、両手で持ち直す。
風が帽子をさらった。
女性は空に舞った帽子を捕まえよう片手を伸ばした。
しかしエンブレムの付いた帽子は彼女の手をすり抜け、滑走路に飛び去っていった。
帽子で頭の後ろの方に止めてあった髪が解けた。長い髪が背中の悪魔を覆い隠すように広がった。
あの長い黒髪は。
皆が思った。彼女に間違いない。
大声で叫ぶ。全員が一斉に。年長の者からまだ幼いものまで一緒になって何度も何度も彼女の名前を呼んだ。
しかしこの距離だ。彼女と自分達の間には、ゆうに飛行機が離発着できるくらいの空間があった。それに彼女の目の前で輸送機のエンジンが高い音を立てている。自分達の声が届くはずがなかった。
彼女は輸送機の胴体にある搭乗口に足をかけた。そのまま短い階段をゆっくり上っていく。名前を呼ぶ自分たちの声は彼女に届かない。気付くと彼女は最後の一段を上りきっていた。
しかし、輸送機に乗り込む直前になって彼女が足を止めた。聞こえるはずの無い声に思わず立ち止まってしまったように見えた。
そして彼女はどこか素っ気ないような仕草で、こちらを振り向いた。
自分の目には、彼女の動作のひとつひとつがコマ送りになったように映っていた。後ろを振り向いた時に少し首を傾かせたからだろう、彼女の横顔に黒髪の一房がさらさらと滑り落ちた。
普段から身だしなみにうるさい彼女は、兄弟たちの手本となるようにどんなに忙しい時でも身なりを整えていた。そんな彼女の自慢の長く美しい黒髪は、今では見ることのなくなった陶磁器のような素肌を、ほとんど抵抗無く流れていった。
顔にかかった髪を繊細で、それでいてどこか生命力を感じさせる指先が軽くかき上げた。指には小さな指輪がはめられていた。誕生日に家族から送られた指輪を、彼女は身につけてくれていたのだ。あらわになった彼女のくちびるは淡い湾曲を描いてほんのりと紅かった。
耳の後ろに撫で付けられた髪で隠されたその瞳は、まだ軽く伏せられたままだ。
彼女が体ごと自分たちの方を向いた。
ゆっくりと瞼が開いていく。
少しだけ潤んだように見える彼女の瞳が見えた。自分達が大好きな彼女の瞳だった。彼女を見つめる無数の瞳を受け止め、それから軽く瞬きした。ほんの少しだけ驚いたように見えた。
また閉じられたら瞼がもう一度、開かれるのと一緒に、彼女の口元が笑顔のように見える表情を形作った。
同じ東洋人である自分から見ても神秘的な微笑みだった。嬉しい時や悲しい時。楽しい時、そしてつらい時。いつも彼女はこの微笑みを浮かべていた。その時の彼女のまなざしには、どこか郷愁を感じさせる暖かさが込められているものだった。
開かれた彼女の視線と自分の視線が同じ直線上で交わった。自分の目にあったのは何だったのか。
そして彼女には。
彼女の瞳には何の感情もなかった。
普段は目は口ほどにものを言うという諺どおりに雄弁な、彼女の瞳。
どうして。こんな時に。何も語りかけてくれないのか。もう二度と会えなくなるのかも知れないというのに。ほんの少しだけでいいのだ。自分たちに、いや自分だけに何かを残して欲しい。
何か彼女の気持ちが、彼女の証が欲しい。
それがあれば。
それさえあれば、このくそったれな世界で生きていけるのに。
彼女の顔が再び前に向いた。
彼女は自分たちに背を向けたまま機内に消えていった。虚ろな瞳の残滓だけが後に残っていた。
飛び立っていく輸送機を見上げながら、まだ子供の部分を残したままの自分は、言葉に表せない苦い感情に身を委ねていた。
自分の中にある子供の部分が嫌いだった。どうしようもなく揺れる感情が嫌いだった。一人では生きられない弱さが嫌いだった。自分を変えることができない、自分自身が嫌いだった。
彼女にそんな笑顔をさせた自身が嫌いだった。
そして今。
彼女はあの時と同じ笑顔を浮かべながら、質量のある虚無の中に消えようとしていた。
自分の目には、あの時と同じくコマ送りのように闇に飲まれる彼女の姿が映っていた。
引き寄せたい。しかしもう腕は動かない。全身が言う事を聞かない。声も出せない。音も聞こえない。ただ一つの感覚を除いて、体と外界を結ぶ接点が消えていた。
残されたものはこの目だけだ。見ること以外の全ての能力が失われていた。
無力な自分は今度もまた、なす術もなく彼女が消え去ってしまうのを眺めるしかないのか。自分は変わったと思っていたのに。変える為の力を得たはずだったのに。
捨てたはずの感情に揺れる自分の目に映るものは。
彼女の瞳と微笑み。
あの時も、そして今も、残されるものは虚構の微笑みだけなのか。
この世界に抗う何かがあれば。自分に力さえあれば。
あの時とは違う何かを、彼女と作れたはずなのに。
そんな未来に生きたいと願った。
だから失われた声でその名前を呼んだ。叫んだ。
それは自分が愛した唯一人の女性の名前だった。
最愛の彼女に、この声に成らない声は届いたのだろうか。
あの時と同じく自分の瞳に込められた想いは、彼女に伝わっただろうか。
色も形も失われたこの場所に、彼女の瞳だけがあった。
あの時と同じ笑顔だった。
いや、何かが違う。
そうだ。今度は。
瞳に映るその色彩は。
彼女の瞳には何かがあった。
その何かが自分に強く訴えかけた。
見つけて。
見つけて。
私を見つけて、と。