G.E.alternative   作:時計屋

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10. 変容

「呑み込め」

 神機の銃口から放射された光の奔流が大蛇のように顎を開いた。

 迫り来る閃光の大蛇を前に、ネブカドネザルは一歩も動かない。硝子細工のような瞳は少しの瞬きもしないまま、ただ大蛇を見ているだけだった。

 激しい光が空間ごとアラガミを丸呑みした。

 アラガミを喰らった大蛇はその座標を中心に激しく暴れ回っている。輝く尾をなびかせながら貪欲に、残虐に、そして享楽的に。その様子は、飢えと喜びという相反する衝動を体現しているようだった。大蛇の激情は俺の嘲笑の声と不自然な程に調和していた。

 荒ぶる大蛇が動きを止め、とぐろを巻くように巨大な球体へと姿を変えた。光玉はその中心に向って凝縮しながら輝きを強めていく。凝縮が臨界点を超えた瞬間、光玉の表面に細かな亀裂が走った。亀裂から幾筋もの列光が漏れ出す。内包するエネルギーに耐えきれなくなった光玉の外殻が音を立てて割れる。そして。

 ひときわ強い閃光が生まれた。

 光玉の腹に溜め込まれていた力が一気に解放された。光が空間を切り裂く。遅れて衝撃と轟音が響き渡る。閃光の大蛇が生んだ熱と破壊の竜巻がアラガミの立っていた場所を覆い尽くし、そして唐突に消えた。

 嵐が去った跡には黒い塊だけが残されていた。俺の身長を遥かに超えるその塊は、歪んだ卵のような楕円形をしてる。

 俺は神機を一振りして肩に担いだ。そして高らかに笑い続けた。

 そこにあったのは、焦げた肉の塊だった。

 

 巨大な卵型の肉塊を見て、俺は思わず喉を鳴らした。

 卵の表面が黒いのは完全に炭化しているからだろう。黒い卵の中身は一体どのようになっているのだろうか。固茹なのか、それとも半熟か。寧ろ雛がいるままの卵を料理した雛料理なのかも知れない。

 中にネブカドネザルの姿が残る卵料理が、俺の直ぐ目の前にある。殻の内側にある血の滴る生肉に思いを馳せながら、俺は黒い塊に向って歩き出した。

 あの肉を貪り喰いたい。

 頭の中で声が叫んだ。飢餓を主張する神機の声だ。

 俺は笑うのを止め、神機を抑え込むように怒気を放った。うるさい。黙れ。そして肩に乗せた神機を睨む。神機の刃からは妖刀の輝きが抜け落ちていた。今は銀色の刀身がただ鈍く輝いているだけだ。

 刃先の向こう側にはマリアの亡霊が浮かんでいた。亡霊は神機を睨む俺を冷やかに眺めている。亡霊の幻惑的な瞳がうっすらと笑ったように見えた。それは何処か親しみを感じさせる微笑みだった。

 俺に微笑みかけているものは神機に棲む、何か。

 その何かが送った視線に込められている感情は、共感。そしてその裏に隠された、蔑み。

 だから俺は気付いた。気付いてしまった。

 喰わせろ。

 早く喰わせろ。

 この声が神機に棲むアラガミのものではないことを。それは神機ではない別の場所から発せられている感情だった。内成る声。影に潜んだ強欲。それでも隠しきれない衝動。

 喰わせろ。

 早く喰わせろ。

 だから俺は叫ぶのだ。俺自身の言葉で喚き散らすのだ。内成る世界の中心で、獣と化した俺が吠えるのだ。

 喰わせろ。

 早く喰わせろ。

 人間だったはずの俺が。

 ネブカドネザルの血肉を。

 貪り喰いたいと渇望していた。

 喰わせろ。喰わせろ。喰わせろ。

 喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ。

 喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ喰わせろ。

 

 

 人格と肉体の乖離。

 身体がオラクル細胞に浸食される過程で、肉体から生じる欲求がアラガミと同化していくために起こる現象だ。アラガミの欲求とは、つまりは食欲。食欲が人間の範疇を越えて異質化・増大化していくことで、表層人格と肉体との間に溝が生じる。

 それはゴッドイーターがアラガミ化する兆し。

 最初は小さな変化でしかない。神機使いにほんの僅かだけ人間とは異質な食欲が生まれる。その食欲が具体的な対象をもつ欲求へと少しずつ成長していく。例えば神機が捕食するアラガミを見て美味そうだと感じること。食事中に隣に座る同僚を食べてみたいと欲求すること。

 異質な食欲が強まれば強まる程、人格が肉体に与える影響力は低下していく。何れは自分の意志で欲望を掌握できなくなる。ついには欲望それ自体が身体を支配するようになる。

 この段階になると、表層の人格は肉体の行動をただ観察するだけの存在に成り下がる。僅かに存在を許されていた表層人格も、最後には内なるアラガミに飲み込まれ、消えてなくなる。

 かつて神機使いだった存在に残こされるのは、無限の食欲とアラガミとなった肉体だけ。

 神機使いのよくある終着点だった。

 

 俺はネブカドネザルを殺すため、いつの間にか限界を越えて肉体を酷使していたのかも知れない。体内のオラクル細胞を必要以上に活性化させてしまったのだ。オラクル細胞の過剰な活性化は、身体能力の向上と引き換えに神機使いのアラガミ化を加速させる。

 それは悪魔の誘惑。

 神機を制御するはずの偏食因子それ自体が、宿主である神機使いを狂わすという矛盾。神機使いの体内にある偏食因子は、元々、神機が使い手を捕食対象としないための防波堤の役割を担っている。

 しかし結局のところ、偏食因子の本質はアラガミそのものであるオラクル細胞でしかない。だから体内にアラガミを宿した人間は、常にその身をアラガミに乗っ取られる危険と隣り合わせにあるということだった。それだけではない。

 悪魔との契約に等価交換はあり得ない。

 神機使いはその身の半分を捧げて半神と成る。それが本来の契約だ。しかし、悪魔は人間として残った半身も決して諦めはしない。体内に巣食う偏食因子は徐々に神機使いの身体を蝕んでいく。例え神機を使っていなくても、ほんの僅かずつ人間らしい部分を喰らっていく。

 だから神機使いとなった者はいつか必ず、身体とそこに宿る魂をアラガミに捧げる日がくる。それがいつかは誰にも分からない。だが確実に言えることは、ある一線を越えた神機使いの身体は例外なくアラガミと化すということだ。

 人とアラガミの間にある境界線は曖昧に、しかし確実に存在している。それは単に身体のメンテナンスを怠ったというような人為的過失から、潜在的な肉体の性質、精神の在り様など個々の事例によって異なる。そのどれにも共通しているのは、境界線を少しでも越えればもう、決して元には戻れないという事実だ。例えほんの僅かなアラガミ化であっても、その流れが遡及するはないのだった。

 そのことは十分、理解していたのに。

 俺は悪魔と契約した。それが必要だったから。

 その誘惑にも乗った。それを求めたから。

 そしてヒトが越えてはならない一線も、既に越えていた。

 

 俺はアラガミを喰いたいという欲求を抑制することが出来ない。

 俺の肉体を緩やかに支配しつつあるこの食欲は、俺本来の欲求ではない。人間の範疇を越えたこの異常な欲求は、俺の中に棲むアラガミに由来するものだ。それは喰いたいという衝動。捕食に付随する喜び。満足感。身体の欲求だけでなく、俺の精神すら内なるアラガミの激情に捕らわれていたことに、今更になって気付いた。

 思考の水面に、小さな波紋が生じた。

 しかし。

 俺とこの神機は。

 そしてマリアは。

 俺たちの置かれた状況は極めて特殊だった。本来、自分の物ではない神機がどうして俺に適合しているのか、その理由は今も全く分からないままだ。そのためだろうか、実際に一線を越えるまでアラガミ化の兆しが全く感じられなかった。それはほとんど前例のないことだ。通常、アラガミ化する前段階には幾つもの自覚症状がある。症状によって段階が設けられ、それに応じた応急処置も研究されていた。

 それに加えて、数多くの矛盾も存在していた。適合しないはずの神機が平均を大きく上回る水準で機能している矛盾。一度、暴走した神機が元の状態に戻っている矛盾。人間を取り込む程にアラガミ化した神機がそこから帰還した矛盾。神機に取り込まれたマリアが亡霊となって蘇った矛盾。

 矛盾。

 いつの間にか、俺はマリアの亡霊に目を向けていた。銀に輝く亡霊は、俺を見て無表情に微笑んでいる。

 そう言えば、初めて亡霊が表れた時。

 あの時は確か。

 俺は必死に何かを、過去の出来事を思い出そうとしていた。

 あの時、マリアの声は。

 俺に何かを言った。

 俺の思考の片隅に言葉が浮かんだ。

 神機が。

 ヒトの心を。

 操作する矛盾。

 そんな言葉があったような気がした。

 しかしその記憶に意識を向けた瞬間、言葉は雫となって思考の海に沈んだ。雫は小さなさざ波となって一瞬だけ俺の内面を揺らしたが、思考の水面は直ぐに鏡のように静かになった。思考に沈黙の幕が降りた。

 俺の身体と視線はずっと変わらず、マリアの亡霊だけに向けられていた。

 亡霊の瞳が静かに笑っていた。

 

 俺の目は亡霊に微笑み返した。この笑みを作る感情も、既に俺のものではないのだろう。錆色のオラクル細胞が俺を支配しているのだろう。

 だからなのか、マリアの面影を残す亡霊の姿が視界に入っても、何の感慨も浮かばなかった。白いアラガミを倒した喜びなど、何処にも存在していなかった。

 マリアと俺の運命を捩じ曲げた元凶は、あの白いアラガミ。あの白いアラガミに愛する人を奪われたというのに。内面には何も浮かばない。心を占めているのはただ一つの感情だけ。食欲が他の全ての感情を駆逐していた。

 それでも変容しつつある俺の中心部に、僅かではあるが思考が残っていた。神機によって過剰に投与されたオラクル細胞が、戦闘により枯渇しかかっているからだろうか。

 そう呟くように小さく思考する。

 しかし幻惑的な囁きが、俺の思考を上書きした。

 肉体を完全に支配するには、もっと多くのオラクル細胞を補給しなければならない。もっとアラガミを喰わなければならない。

 だから。

 腹が、減った。

 

 

 俺は自分の外側から、俺という自我が薄まっていくのを眺めていた。俺の精神の在り様は、もうほとんどアラガミと大差ない異形となっていた。

 残された感情は、この借りもの食欲のみ。

 腹が減った。

 喉にざらつく砂粒を感じた。思考は遠い彼方に消え去った。今はこのざらついた感触を取り除きたい。それしか頭に浮かばない。

 喰いたい。

 俺はかつてネブカドネザルだった肉塊に向って、ゆっくりと這うようにして進んだ。歩きながら口元に唾液が流れていた。

 喰わせろ。

 神機の内側に棲む生体パーツが、命じもせずに蠢いた。形状が崩れた神機からオラクル細胞そのものが溢れ出す。闇のように暗い生体組織がひとつに束ねられると、飢えた肉食獣の口元を象った。餓狼の頭部は神機の刀身を呑み込むように肥大化していく。

 そこに生まれたのは暗闇を固めて作られた顎だ。漆黒の顎が肉塊の方を向く。この身体を動かしているのは果たして俺か、それとも餓狼の顎なのか。俺の身体は何か導かれるように肉塊に向って歩みを進めていく。

 早く。

 もっと早く。

 全ての欲望が肉塊に向けられた。他のものは何も要らない。俺の真横で妖艶に微笑む亡霊の瞳すら目に入らない。俺たちは欲望に身を委ねる。

 早く肉を喰わせろ。

 神機の顎が牙を剥いた。

 それに合わせて俺も大きく口を開いた。

 

 だから妖しく囁いた亡霊の声は耳に入っていなかった。

 

「オラクル細胞の活性化を確認」

 


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