「オラクル細胞の活性化を確認」
マリアの亡霊が警告した。
しかしその声は俺に届かなかった。
俺の感情は既に内成るアラガミのそれに上書きされていた。食欲という強い衝動が他の感情を駆逐しているのだ。いや、その食欲でさえも別の何かに変貌しているのかも知れない。俺の精神の有り様は今、人間の枠を外れようとしていた。
だからもう、目の前の肉塊を喰らうことしか考えられない。激しい欲求が俺の内面から湧き出てくる。
喰いたい。
神機もそれに同調する。際限のない飢餓を具現化するように、神機の捕食形態が通常の何倍にも肥大化して俺の視界を遮った。膨らんだ黒い顎の咥内には、鮫のような多重の連牙が並んでいる。異形の顎はいつもに増して暗く禍々しく、獰猛に見えた。
マリアの声を聞く者は、もう居ない。マリアの面影を見る者も居ない。全てが居なくなっていた。
それでもマリアの亡霊は機械的に続けた。
「回避して下さい」
その静かな警告に反応する者も、同じく存在しなかった。だからマリアの声は空中に溶けるようにして消えていった。
それを待ちわびていたように、何かが動いた。
そして黒い顎の喉奥を貫いた。
何かが分厚いオラクル細胞の塊を紙のように裂き、刺突の勢いそのままに俺の左肩を穿った。肉が断たれ、骨が砕かれる。俺を貫通した先端部分が背中側から飛び出ていた。少し遅れて前後の傷口から勢いよく鮮血が漏れ出た。
だが俺にはもう痛覚がない。
食欲に支配された俺は、一切の痛みを感じることが出来なくなっていた。自分の身体に突き刺さった物体に対しても、オラクル細胞の塊だという事くらいしか認識できない。食卓に並ぶ皿に対するようにそれを眺めた俺の頭には、これが生きているアラガミか否かという疑問しかなかった。疑問は期待に、それが活きのいいオラクル細胞の塊だという期待に成長していく。その期待に食欲が高まっていく。
肩から止めどなく血を流し続けながらも、俺はそんなことばかり考えていた。
それでも、俺の中にささやかな音が響いたことくらいは分かった。食欲ではない、別の声だ。とても小さな声のため上手く聞き取ることが出来ない。しかし、それは確かに食欲一色に染まった内面世界に生まれた別の感情だった。
ほんの小さな感情の雫。
雫が食欲に支配された感情の海に落ちた。それが淡い波紋を呼ぶ。波紋は広がる。波に成長する。波が共鳴して勢いを強める。そして津波のように感情の海を掻き乱した。
その感情は生物の根源的な本能に由来するものだった。食欲と密接に絡みながらも正反対の感情だ。それは内成るアラガミの防衛本能。そして自らの生存を脅かすもの対する殺意。怒れる恫喝が俺の内面を震わせた。それが何を言っているのかは、例え耳を塞いでいても分かるくらい明確だった。
殺せ。
それを殺せ。
全てを殺し尽くせ。
この感情もまた食欲と並ぶアラガミの本質なのだと、俺は気付いた。内側にアラガミを飼いながら自我を保っているからだろうか。俺は以前より深くアラガミの有り様を理解し始めていた。俺の一部は単なる理解を越え、アラガミに共感する域にまで達しているのかも知れない。
アラガミの本質。
彼らの本質は先ず、食欲。
際限のない食欲。永遠に満たされない飢餓。神の名を冠する存在が内包する不完全性。不完全な神が自らを補うために他を喰らうという貪欲さ。行き着く果てにある同族喰い。そして単一化。
しかしその欲望だけでは生きられない。強くなければ生きていけない。捕食しなければ生きる価値がないからこそ、アラガミはより強く、より狡猾に進化してきた。
そう、アラガミは進化してきたのだ。敵対する存在に滅ぼされないよう、異常な速度と複雑な多様性を両立しながら進化してきたのだ。その出発点にあったものは生きたいという生物として当たり前の本能だ。その鏡映しである殺戮衝動だ。己以外の全てを殺せば、死ぬことはない。祖に逢えば祖を殺せ。神に逢えば神を殺せ。殺せ。殺せ。
殺したモノは喰えばいい。
目的と手段の合致。
俺の中に場違いな仮説が浮かんだ。それは神機が神機で在らんとする理由だ。俺は今まで神機を人に飼いならされたアラガミだと思っていた。アラガミである自由を奪われた存在だと思い込んでいた。
だがそれは違う。彼らは進んで神機となることを選んだアラガミだ。そして自らを捕食に特化させ、それを補う便利な道具を作らせた。それが神機使い。神機の防衛と殺戮を担う道具が、俺たち神機使いの本質なのだ。
神は哀れな羊のように人を飼うことを選んだ。なぜなら脆弱な人間という種族は、しかし狡猾さを以て神をも殺す存在なのだと、神自身がよく知っていたのだから。
だからアラガミの防衛本能が、殺戮の手段として俺を目覚めさせたのだ。
神は、俺に命じた。
殺せ。
その瞬間、アラガミの食欲と俺の思考が拮抗した。
2つの本質がお互いを牽制し合うことで、均衡が生まれる。食欲だけでは生存できず、生存するだけでは食欲が満たされない。神機だけでは戦えず、神機使いだけでは捕食できない。
だから相互に喰らい合う。相互に殺し合う。
それが神の相克だった。
俺が、解放された。
俺の意識が解放された。
俺の能力が解放された。
俺は肩に刺さった物体を見る。精密な眼でそれを視る。
その物体は高密度のオラクル細胞で構成された突撃槍。太さは人間の太腿部ほど。先端に近い部分が槍の穂先のように鋭く窄まっている。外見的特徴は弾力のある紐状の繊維が捩じれたような形状。外殻の部分は樹木のように硬化している。神機の顎を構成する強固な組織群を易々と貫いたことから、先端部分の硬度は神機の刀身と同じかそれ以上だと推測できた。また、身体に触れている部分に生物とよく似た淡い熱を感じていた。
条件を満たすものはアラガミの本体、又はその一部。
分析を完了するか否かの瞬間に、同じ形状の複数の槍が黒い顎を貫いた。幾本もの槍が黒い顎を次々と貫通し、複雑に交差して顎を空中に張り付けにする。顎が戒めを解こうと暴れるが、深く食い込んだ槍がそれを許さない。
槍の動きは止まらない。
顎を貫通した槍の先端が湾曲した。穂先に近い部位が毒蛇のしなやかさで鎌首を上げ、至近距離から俺に襲いかかる。反射的に後ろに下がろうとしたが肩に槍が刺さり、また神機の顎が磔となっているため後ずさることができない。
だから俺は肩に刺さる槍に噛み付いた。
固く強化された犬歯は偏食因子によって硬質化している。俺の牙が槍の外殻に食い込んだ。俺は僅かに動く左手を上げ槍を掴む。そして顎と腕の力で槍を肩から引き抜いた。俺は齧りついた槍を吐き出す。槍は再び俺を貫こうとするが、左の掌底を穂先の腹に当てて上方に逸らした。
肩から激しく血が噴き出した。血流と混ざり合った偏食因子も大量に流れ出る。偏食因子という名のオラクル細胞を失ったことで、俺の身体能力も低下していった。肩の筋肉が収縮して風穴を塞いだが、失った血液は戻ってこない。俺の飢餓感が強まる。俺の殺意も強まる。
前方から顎を貫通した槍の群れが殺到した。俺の眼が槍の軌道を予測する。槍は密集した束のように俺の前面を狙っている。
俺は自由になった左手を添えて神機を握り込んだ。そして後ろではなく、右水平方向に身体を流した。続いて右足を軸に体を左後ろに回転させ、体を横向きに置く。槍の群れは俺の前髪を切り裂いただけで、目の前を通り過ぎていった。
想定内。だがもう一段、精度を上げる必要があるか。
俺は一歩、踏み込んだ勢いのまま身体を回転させた。その遠心力を顎の牙先に乗せ、弧を描くように両手で柄を振る。そして投げるように伸ばした腕を身体の軸に引き寄せた。顎の黒い繊維がぶちぶちと千切れていく。だがそれでも構わない。俺は槍の檻から顎を解放するまで神機の柄を引き抜いた。
俺の手には細い繊維のよう裂かれた顎の残骸があった。それでも神機の顎は再生を始めた。獰猛な意思と強い食欲。千切れたオラクル細胞の束が一本に纏まり、それから黒い顎を象った。
戒めを解かれた黒い顎が大きく吠えた。
早く喰わせろ。
視界の端に俺の前を通過した槍の束。その先端部分が振り返るように曲がった。現在地点の違いから、穂先の位置が散弾のように広がっている。全身を面で狙われれば全てを回避することは難しい。
槍が繰り出されるまで、あと僅か。
だから、俺は穂先の動きを無視した。そして長く伸びた槍の横腹に神機の顎を突き出した。黒い顎が鞭のようにしなる。上下に長く開いた顎が獰猛に笑う。そして自らを縫い止めていた槍に喰らい付いた。
長大な顎が槍の柄をまとめて折り砕く。そしてごきごきと鈍い音を立てて固い外殻を引き裂いていった。顎は全身で歓喜を表しながらそれを咀嚼する。ぐじゃぐじゃと異質な音を立てて内側の肉を嚥下していく。
俺は醜く貪る顎を見下ろした。
俺の能力。
対象の動作を把握する。
速度と位置を演算する。
次の一手を予測する。
それが俺の機能であり、アラガミの防衛本能が選んだ道具だった。
俺の眼は元々、狙撃用に調整されていた。数キロ先まで見通すことのできる強化された視力。光学情報を駆使して弾道を予測する演算力。着弾前の相手の行動を察知する洞察力。アラガミが道具として再起動させた俺の意識は、これらの能力を十全に使いこなしている。かつて俺だった時と同じように、いやそれ以上に。
観察眼に加え、俺は半アラガミ化により著しく強化された身体能力を得た。この二つの能力が、俺の中で相乗効果を作り出している。この眼を狙撃など静的に使うのではなく、動的に、つまり近接戦闘での先読みに活用しているのだ。
それはかつて俺が試し、そして実現しなかった理想形だった。近接戦闘を管理する能力。それを実現するために圧倒的に不足していた瞬発力を、俺は手に入れた。俺の機能は今、アラガミの動きを制する力に進化していた。
しかし俺に喜びはなかった。
急速な成長と、身体の異質化。
今、俺の身に起きている現象は、オラクル細胞が柔軟かつ迅速に進化することによく似ていた。だから俺には分かる。俺はアラガミに一歩ずつ、だが確実に近付いているということを。そして俺にも分からなかった。その行く先に何があるのかということが。
神機の捕食が終わった。
俺の神機はアラガミを喰らえば喰らう程、際限なく力を増していった。俺の身体にも余剰した分のオラクル細胞が注ぎ込まれ、神機と同じように活性化した。体内で力を増したオラクル細胞が、左肩に空いた風穴に瑞々しい筋肉を作り出す。失った血液も同じく体内で生産された。
「オラクル細胞の補充を確認」
マリアの声がそう囁く。
しかし俺の中のアラガミは同意しない。
もっと喰わせろ。
食事を終えた黒い顎は、砕けて散らばった槍の破片に視線を向けた。だが俺の冷徹さが黒い顎を抑え付けた。
殺すのが先だ。
俺は狂える顎を神機の内部に無理矢理、押し込めた。そして呑まれたように顎の体内に収納されていた刀身を抜き払った。銀の刀身はオラクル細胞の活性化により、妖しく輝いていた。
神機の亡霊はまた、恍惚の中で言った。
「神機を解放します」
神機をオラクルの光が包み込んだ。
銀の刀身から狂ったように揺らめく炎が湧き出る。古びた神機がオラクル細胞を喰らい、本来の姿を取り戻していた。俺は妖刀と化した神機の切っ先を、目の前にある物体に向けた。視界の端に映しながらも、見るだけに留めていたものを視た。
目の前に槍を生やした肉塊があった。
黒ずんだ肉の表面から槍の群れが生えている。正確には肉の内部からだろう。焦げた肉の表面に幾つもの裂け目があり、そこから何本もの槍が飛び出ていた。その槍が肉塊を喰らおうとしていた神機と俺を貫いたのだ。
妖刀の剣圧を恐れたように槍の束が蠢いた。槍の固い外殻がしなる縄のように湾曲し、蛇の躯をもった太い蔦に姿を変えた。俺は確信する。あれは。
僅かな違和感。
あの動きは揺動。
真下に小さな振動。
何か、いる。
俺は後方に跳躍した。
オラクル細胞が活性化したことにより、俺の脚力は神機使いの枠組みを越えていた。だが防衛本能がそれ以上を求めた。アラガミと同質化しつつある俺の血肉が、体内に送り込まれたオラクル細胞と混じり合う。神と人の肉が相互に食い合う。その影響で骨格や筋肉に過剰な負荷がかかる。破壊と再生の連鎖を代償にして、俺の身体能力が異常に強化される。人の安定性とアラガミの爆発力。アラガミを越えた肉体だった。
俺は異常なほど速く高く、宙に飛んでいた。
俺の動きに一瞬だけ遅れて、足下から長槍の一群が生えた。蔦が地中を伝って真下から槍を放ったのだ。槍は俺がいた空間を十字に串刺しにする。
槍は猟犬のように俺を追った。空中に飛んだ俺の影に食い付くような執拗さで伸びてくる。槍の穂先が俺に届く。槍の軌道を予測する。
それを喰わせろ。
神機の食欲と俺の計算が合致した。
俺は神機の欲望を解き放った。空中で神機の顎を展開し、槍が円筒状になる地点に突き降ろす。槍の穂先が黒い顎の咥内に突き立った。槍の貫通力から逆算して偏食因子を表面に分厚く練り込んである。硬度を増した黒い顎が槍の連撃を受け止め、穂先を喰い千切った。
もっと喰わせろ。
空中で食事を終えた俺たちに、今度は肉塊本体からも槍が迫った。槍の群れは一度、高く上に伸びてから、顎を乗り越えるように弧を描いた。そして斜め上方から俺に襲いかかった。乱れて散らばった軌道。全て捕食することは不可能。回避も困難。
俺は長く伸びた黒い顎を神機に引き戻した。そして銀の装甲を展開した。槍の雨が降る。俺は先頭にある槍の穂先と接触する瞬間に合わせ、銀の盾を横腹に叩き付けた。盾の打撃で穂先が折れ曲がる。そして俺は打撃の反動を利用して後方に飛んだ。
静かに着地した俺は、しかし上腕部に損傷を確認した。不自然な体勢から腕の力だけで装甲を叩き付けたため、右上半身の骨格に亀裂が入っていた。特に脆弱な肋骨が斜めに折れ、胸を裂いて外に突き出ている。
肉体の脆弱性を把握。
早急な修復が必要。
体内のオラクル細胞が活性化した。損傷した部位を異質化しながら修復していく。骨がごきごきと唸りながら繋がる。肋骨が体内に治まり、裂かれた皮膚も再生される。負荷をかけた筋繊維も全て正常に戻っていた。負傷は一瞬で修復された。
俺は骨の折れていた右腕の機能を確かめるため、片手で神機を一振りした。風を切る音。切っ先は地面に触れるか否かのところでぴたりと止まった。問題なく作動する。寧ろ通常より性能が上がっているようだ。右腕の状態に満足した俺は、左手を添えて神機を前に構えた。
負傷も消耗もなく、俺は静かに前を向いた。
その俺の目の前で、肉塊が崩れた。
焦げた表層部がぼろぼろと零れ落ちる。その中に在った肉塊が解けていく。それは人間の大腿部ほどの太さがある蔦の束だ。肉塊を形成していたのは蔓のような生物であり、俺を貫いた槍だった。
黒い炭が落ちた歪な断面から、真新しい蔦が伸びた。また、同じような蔦が肉塊があった場所の下からも生えてきた。蔦の群れは今、地中から這い出た毒蛇たちのように蠢いていた。
蔦が繭のように丸まって隠したものは。
俺の眼には答えが視えていた。
だから解けた蔦の中心にそれが表れても、驚きはなかった。
そこに、白い体毛を生やした1体のアラガミの姿があった。
ネブカドネザル。
蔦の中で身体を丸めていたネブカドネザルが、解けつつある卵殻の中心で立ち上がった。
ネブカドネザルは身体の動きを確かめるようにふわりと跳んだ。そして羽根が舞うようにゆっくりと音もなく地に足を付けた。軽い跳躍に白い体毛が美しく揺れていた。
あれを喰いたい。
俺の中の飢餓感が際限なく膨れ上がった。
あれを殺したい。
俺の中の殺戮衝動が暗く燃え上がった。
喰らう。
殺す。
そのどちらも俺の欲望であり、願いだった。
ネブカドネザルが吠えた。
白いアラガミの背中にある三日月型の金属パーツが振動した。視界を歪める程に密度の高い波が三日月に生じる。三日月の周りに氷の結晶が浮かんだ。無数の結晶たちはまず拳大、そして短剣、更に大剣の長さへと一瞬で成長する。白いアラガミがもうひと吠えすると、氷の大剣が一斉に動き出した。
氷の大剣が群体となって宙を泳ぐ。散弾のように広がる軌道。第1部隊を壊滅させた氷の流星群。
視える。
俺には視えるぞ。
俺は氷剣に対し極端な右半身に体を傾けた。ほとんど右手足しか見せない特異な構えは、流星群の着弾面を最小限に留めるためのものだ。
そして右手の神機から黒い顎を解放した。
喰わせろ。
黒々とした牙を体液で濡らしながら、顎は大蛇のように大口を開く。そして俺に直撃する軌道上の氷剣を次々と呑み込んでいった。顎から固い氷が砕ける音が聞こえる。硬質的な音を立てて氷の塊をすり潰す音が聞こえる。顎は咥内で粉々にしたそれを、ゆっくりと嚥下した。
大量にオラクル細胞を含む氷を呑み込んで、顎の飢餓は満たされただろうか。
しかし。
「オラクル細胞の活動が阻害されます」
俺は全身から力が失われるのを感じた。
神機からオラクルの光が抜け落ちていくのを視た。
「活性化が強制解除されました」
そしてマリアの声がそう警告するのを、俺は確かに聞いていた。