声が聞こえる。
そんな気がした。
とても遠くから聞こえたようでもあり、耳元で叫ぶ声のようでもあった。音が頭の中で幾度も反響し、何を言われたのかも分からなかった。
次に意識したのは触覚だった。全身の感覚は掴めなかったが、それでも身体があるという事は分かった。鈍い痛みが体の形を意識させているからだ。
閉ざされたままの視界には、光を感じていた。僅かな光が目をすり抜け直接、脳内に干渉しているようだ。
下腹に力を入れる要領で眉間の筋肉に集中した。そして意志の力を総動員して目を開く。瞼を通して感じていた光が眼球に射し込んだ。ぼやけたままの視界に、最初は光の白しか映らなかった。
白に続いて物の輪郭が見えてきた。光の濃淡が影を作っている。視界に薄く映る影たちの中で、最も大きい塊は自分の身体のすぐ脇にあった。
自分は横になった姿勢で上を向いていた。大きな影から曖昧さが取れていき、やがて人間の形となった。それは背の高い男の影だった。
「聞こえているか」
聴覚が機能していた。反響しない地のままの低い音が耳に入ってくる。落ち着いた声だ。
その問いかけに答えるために声を出そうとしたが、声帯は動かなかった。
代わりの意思表示をしようと、努力して頭を傾けようとする。僅かに動いた。だがその瞬間、身体に激痛が走った。痺れるような電撃だった。頭を動かしたことを後悔したが、そのお陰で身体感覚が戻っていた。
身体はほとんど言うことを聞かないが、目と頭くらいは動かせると分かった。。
その反面、思考の方は全くと言っていい程、まとまらなかった。ここは何処だ。なぜ寝ているのか。体に力が入らないのはなぜだ。横に立つこの男は何者だ。
そして自分は誰だ。
いくつもの疑問が頭の中を飛び交っていたが、それを無視するかのように男が言った。
「そうか。では伝達だ。そのまま聞いてくれ」
男は自分の声に何の感情も込めなかった。言葉が空気の上を滑り落ちていくような感覚を覚えた。男は音節を区切らず、極端に抑揚を押さえた独特の口調で言葉を続けた。事務的な内容に見合った事務的な話し方だった。
「君は48時間程、気を失っていた」
そうか。ここに横たわっている理由が分かった。身体がほとんど動かない理由も、やはりそこにあるのだろう。だがその言葉を聞いても記憶は曖昧なままだった。
視界は完全に鮮明さを取り戻していた。目に映るほとんどの物体は白だ。立てかけられた目隠しの白。治療台の敷布の白。白だけで構成された部屋だ。ここは医務室だった。
戻った視力で、今度は男を眺めた。白い視覚の中にあっても、男の色彩のなさは不思議と目立っていた。
身につけているのは長い外套だ。元は青みが強かっただろうその生地は、軍から支給された品だったのかも知れない。生地はかつての頑健さを失いすっかり色が抜け落ちた上、埃を被っている。青というよりは黒、黒というよりは灰。そんな色をしていた。
男自身にも灰の色が浮かんでいた。薄く無精髭が生えたあご先に手を当てる仕草と、長い髪を無造作に縛っている髪型が相まってどことなく倦怠感が感じられた。
その姿は浮世に関心を失った隠者を連想させた。砂と瓦礫の中に住む世捨て人ような男だった。
色彩を失った男が呟いた。
「君はここから北東にある古い研究所を捜索していた」
研究所。
捜索。
単語が記憶を刺激した。
そして任務の途中だったことを他人事のように思い出した。
そうだ。任務だ。
しかし任務の内容についての記憶は、欠落したままだった。記憶の核に触れることが出来ないもどかしさを感じた。強固な鍵がかかっているような、そんな忌避感があった。
男は淡々とした口調のまま話を先に進めていく。
「その研究所はこの支部が建設される前に使われていたものだ。支部の完成後に廃棄され、現在は無人となっているはずだった」
古い機械類や壊れた実験器具、ジャンク素材が山になって積み上げられている光景が頭に浮かんだ。
廃棄された古い研究所。
埃と塵の積もった施設。
価値あるものは何ひとつとしてない。
いや、違う。
唐突にそう思った。何もなかったはずが、ない。あったはずのものと、なかったはずのもの。それが思い出せない事にもどかしさを感じていた。
「先日、研究所周辺でアラガミが目撃された」
アラガミ。
その普遍性や多様性、そして何より強靱性を持って、極東の地に伝わる八百万の神の名を冠された荒ぶる神。神の名を持つバケモノだ。
アラガミによって、世界は滅ぼされようとしていた。
既に人類領域のほとんどが喰い尽くされた。全てを奪われた人間という種は、かろうじて捨て置かれたアラガミの食い残しにへばりつくように生きるしかなかった。アラガミは全ての生物、そして無生物を喰らうのだ。彼らは絶対の捕食者だった。
アラガミに旧世界の科学技術は無力だった。
アラガミを構成するオラクル細胞は、剛性と柔軟性を両立した細胞単体の強さと、強固に同一の細胞同士を繋ぎ合わせる結合力の強さを併せ持っていた。
アラガミを殺すため、様々は兵器が投入された。しかし、物理的な力や熱などはもちろん、ありとあらゆる毒物や薬物を混ぜ合わせて作った化学兵器や、多種に致命的な病を生じさせる生物兵器も全く歯が立たなかった。熱核兵器も、だ。
受肉した神を殺すことが出来るのは、神を喰らい、神の奇跡を模倣し、神の存在を凌駕する者だけだ。
ゴッドイーター。
神を宿した牙を持って、その神々の喉笛を咬み千切る捕食者。
そうだった。思い出す。
自分はゴッドイーターだ。自分に残された最後の存在意義を忘れていたなんて。
しかし、もう一つの事実も頭に浮かんだ。
望まない事実。それは、かつてはゴッドイーターだった、言わなければならないという事実だ。
自分自身を過去形で語る。それはつまり、過去の自分と現在の自分は同一ではないということだ。
牙を失った神機使いは、もう神を喰らうことができない。そう思うと寒けを感じた。
震える体の動きに合わせて視線も揺れた。それに合わせて男の影も揺れていた。
「君の任務は研究所周辺に現れたアラガミを一掃することと、アラガミが徘徊するようになった原因を究明することだった」
男は隠者の無表情で揺れる視線を見返していた。男の視線を隠しているのは、薄く色の入ったアイシールドのような眼鏡だ。その人工のパーツが、却って男の最も人間らしい部分のように見えた。
この男の名はゴドー。ゴドー・ヴァレンタイン第一部隊隊長。この支部一番の古株にして、唯一の旧型神機使い。帰還者。
この男は自分が配属された部隊の隊長だった。それも当然、過去のものになっていることだろう。自分は神機を失っているのだ。神機がなければ神機使いでいられない。
やっと手にした自分の神機だったのに。
ゴッドイーターの別名である神機使いは、その名前に反して「神機を使う者」ではない。
実際は「神機に使われる者」だ。
ヒトが自ら作った模造品の神に使役されるという事実は皮肉なものだった。
だが神機の誕生で全てが変わった。
アラガミを、つまりオラクル細胞で形作られた群体を破壊することは、同じオラクル細胞をもってしか成し得ない。神機開発の初期段階は、アラガミを食うアラガミに着想を得たであろうと推測される。
だからアラガミを従え、それを持ってアラガミを殺す。当初はそんな計画だったはずだ。
今思えば、それ愚かな思考だった。
そうしてアラガミを素材とした機械兵器が作られた。神から授かった機械仕掛けの福音。それが神機だ。
最初期の神機は、ごく小型の小動物くらいのアラガミを元に作られた。
ほとんど驚異にならないような小さなアラガミ捕獲し、その中枢細胞群を摘出し、それを中核にしてアラガミに対抗する武器を作ったのだ。
元となるアラガミの大きさを別にすれば、目の前にいる男が所有する伝説的な神機でさえ、同じ工程で作られているはずだった。
拳銃大の神機で四足獣程度のアラガミを狩る。それを素材にしてより大きな重機関銃や両手剣サイズの神機を作る。そうして作られた物の一つが、男の持つ突撃槍型の神機だ。他方で今の主流は剣と銃の両方の形態に可変する第2世代の神機だった。自分が手にした黒金の神機もこの世代に属していた。
やっと手にしたアラガミを殺すことが出来る兵器。しかし神機を開発してはじめて人間は気付いたのだ。アラガミそのものである神機を人間が扱うことは出来ないという事を。
神機に、いや神に触れた瞬間、人間はその神に取り込まれてしまう。そして全細胞が作り変えられ、神そのものに変容してしまう。神機を手にした科学者は全員がアラガミとなってしまった。
ヒトの可能性を諦めた人間は狂気の技に手を染めた。
ヒトは自らの手で人造の半神を作ったのだ。かつてメアリー・シェリーが描いたパッチド・ヒューマンのように。家族や友人、名前すら持たなかった哀れな創造物のように。
こうして神機を使うために改造されたヒトが神機使い、ゴッドイーターだった。
神機使いとなることは魂を悪魔に売り渡すことと大差なかった。驚異的な身体力を得た反面、アラガミ由来の因子を定期的に注入しないと人間を辞めることになる。戦いで自分の限界を越えるたびに、身体が、精神が、アラガミに浸食されていく。
神機使いを辞めるということは、死ぬかアラガミになるかという二者択一だった。ごく稀に人間のまま神機使いであることを終えた者もいるが、それが幸せなことなのかは疑問だった。子供を産み、神機使い候補として育成させられる生き方を手放しで幸福と言うことは難しいだろう。どちらにせよ、人生を神機に支配される運命からは逃れられないのだ。
こうした神機と神機使いの関係は今も昔も変わらない。昔いまし、今いまし。やがてきたるべき未来でもこの主従が変わることはないだろう。
神機使いの宿命が何であれ、普遍的な事実が定まれば、後はただの作業だ。
はじめに神機ありき。
良質の素材で強い神機を作る。より強く。より鋭く。
そしてその次の段階に進む。
神機にあてがう優れた神機使いを作る。より速く、より賢く。
自分もそうして作られた存在だった。
確実に人間と違う生物に成り果てた自分が、その寄りどころである神機を失った。今、自分は人間でも偽神でもない何かになっていることだろう。
「君の任務中に事故が生じた」
揺れる視界を定まらせゴドーを見た。
事故とは。そのせいで自分が負傷したのだろうか。
口を開きかけた。
しかしゴドーは軽く手を上げて動きを制した。
彼のインカムから誰かの声が聞こえてきた。音量が小さく内容は聞き取れなかったが、早口で何かを伝えているようだ。
ゴドーは「分かった」とだけ言って手を下ろした。
「申し訳ないが少し席を外させてもらう」
なぜ、と問いかける視線に答えるようにゴドーは淡々と付け加えた。
「今、このヒマラヤ支部が食われかけているのでな、八神セイ君」