振り返りもせず医務室を出ていく灰色の背中を、目だけで追った。その視線を自動扉が遮った。室内が密閉される軽い空気音がそれに続いた。
空白となった思考が回転し始めた。
ヒマラヤ支部が喰われる。それはどういう意味なのか。
結論が出ないままに身体が動いた。寝台から起き上がる。素足を硬質的な床につける。痛みはほとんど感じられなかった。
少し遅れて気が付いた。身動き出来ないはずの手足が動いていた。腕が動く。足も動く。石のようだった身体に熱を運ぶため、血液が全身を走っていた。
これがゴッドイーターという生物か。流石は半分、化け物の身体だと他人事のように関心した。
立ち上がって自分を見下ろすと、重傷患者が着るような薄い服身に付けていた。腕や足など数カ所に包帯が巻かれ、左腕には点滴の針が刺されていた。しかし、関節など稼動部位を覆うような大掛かりな措置は見られなかった。
手早く包帯を解いた。針も取り去った。
出血なし。骨に異常なし。内蔵にも目立った損傷は感じられない。どうやら立ったり歩いたりするくらいなら支障はないようだった。
次は服だ。辺りを見回しても自分の制服は見当たらなかった。
仕方なく医務室にある更衣室を覗くと、文官用や儀礼用などの制服一式が保管されていた。緊急時だ。勝手に持ち出しても咎められることはないだろう。
残念ながら野戦服は置かれていなかったので、自分に寸法の合いそうな服を適当に取り出す。身につける。強化素材の長靴があったのでそれも手に取る。
最後に片方の袖が脇の部分まで大きく切り開かれた奇妙な上着を羽織った。
右腕側の切り開かれた部分にある留め金を引き上げ、さらに固定具でとめた。留め金の先には手枷のような雰囲気の大きな腕輪がある。右手にある赤い腕輪のために、ゴッドイーターは専用に縫製された上着しか着ることが出来なかった。
腕輪に異常がないか確認する。
外装に破損なし。偏食因子の投与機構にも問題なし。定期接種が必要とされる偏食因子の残量や負傷時の生体回復機能活性剤などもほとんど減っていないままだった。
まだ慣れていなせいかこの腕輪を見る度、憂鬱な気分を覚えた。
ヒマラヤ支部に着任する直前、極東の地でオラクル細胞を移植された時のことを思い出してしまうからだ。右腕に結合型オラクル細胞制御装置を埋め込む儀式は、神機使いになるために不可避な通過儀礼だった。
晴れて神機使いとなって感じたことは、誇り高い狼としての自覚というより鎖に繋がれた飼い犬に成り下がったという諦観だった。フェンリルに飼いならされ生殺与奪を管理される存在。その印がこの腕輪だ。
なぜなら神機使いは生涯、この赤い枷を外すことが出来ないのだから。
無骨な腕輪の形をした制御装置は、神機と神機使いを一個の個体に結合させる機能を有している。
同時に、偏食因子を定期的に注入したり、身体のオラクル細胞を活性化させて傷を塞ぎ、また戦闘で消費されたオラクル細胞を緊急補充したりする薬剤の投与機能もある。
偏食因子、つまりアラガミの食わず嫌いを利用して人間がオラクル細胞に喰われないように調整された因子は、その性質でゴッドイーターを神機の捕食本能から守っている。神機使いが驚異的な身体能力を持つことは偏食因子を移植した際の副次的な作用に過ぎなかった。
神機と神機使い、そして両者を繋ぐ制御装置。これらを製造・運用できるフェンリルという組織は事実上、この狭い人間世界を支配していた。
フェンリルは支配者の責務としてアラガミと戦っているのか、それとも戦うからこその支配者なのか。
よく聞く問いかけだが、その質問に対する明確な答えはない。
ただ、そのどちらにせよ赤い腕輪が支配する側の証だという事実に変わりはなかった。この腕輪を着けていると、羨望や嫉妬、恐怖、憎悪といった様々な感情が向けられているような気がして不快だった。
腕輪の確認が終わると、直ぐに医務室を出た。
そして神機使いの体力で走り出った。行動に支障はない。むしろ身体は軽かった。もう戦闘すら出来るような気がした。
医務室や神機整備室、それに作戦室がある司令部の地下から1階の出撃準備室に向かう。今は緊急事態なのだ。第1部隊の隊長であるゴドーはブリーフィングのために出撃前の部隊の元に向かっているはずだと思った。
1階につづく広い階段の中程でゴドーの背中に追いついた。予想したとおりだった。
「隊長」
灰色の背中に声をかけた。
ゴドーは首だけを動かしてこちらを一瞥した。
「緊急事態でしょうか」
問いかけには答えずゴドーが言った。
「あれだけの傷を負ってもう回復したか。優秀だな」
「恐縮です」
「動けるようなら君にも働いてもらおう。付いてきてくれ」
発言に反して驚きも賞賛も感じさせない態度で、ゴドーは階段を上っていく。急いでその隣につく。
「状況を説明しておこう」
「はい」
「支部の周辺にアラガミの群れが押し寄せている。この群れは小型から中型までのアラガミを中心とした混成集団だが、群れに歩調を合わせる大型の個体も複数、確認されている。総数は確認されているだけで500体ほど。この数字は多けれ1,000程度まで膨れ上がるだろう」
驚きだった。返す言葉に詰まり押し黙ってしまう。
激戦区である極東支部ならまだしも、ここヒマラヤはアラガミの活動がほとんど見られていない地域のはずだ。いわばアラガミの空白地帯であるこの地に何が起こったのか。
ゴドーは淡々と続けた。
「偵察に出た部隊がアラガミの一群と偶発的に遭遇、任務を威力偵察に変更して敵の実態を探っていた。先ほど増援と合流して現在、遅滞行動を取っている。だが、持ちこたえても数時間程度だろう」
急いで現状を把握する。机上戦では常に平均を上回っていた。能力的には実戦にも耐えられるはずだ。
上官に対し、言うべき疑問を述べた。
「これだけの大きな群れです。支部周辺に接近を許す前の段階で、元となったそれぞれの群れの出自を分析しているはず。その結果は如何ですか」
どの地域に生息していたアラガミが、どのような経緯で支部に向かったのか。アラガミの出所が分かれば対応もし易くなる。偏食因子の関係上、闇雲に撃退するより元々の生息地域に向けて押し戻す方が容易なのだ。特に大群を相手にするときは。
しかし、返ってきた答えは期待したものとは違っていた。
「ごく初期の段階では、群れではなかった」
「群れでは、ない?」
「そうだ。一定の地域に生息していたアラガミの集団が揃って支部に向かってきたのではない。ここ24時間程かけてかなりの広域から個々のアラガミが集まってきたようだ。アラガミの種類も多岐に渡る。群れを構成するアラガミは何かに引き寄せられてここに集まった。不条理だが、俺はそういう印象を持っている」
これは本来、あり得ない行動だった。
絶対の捕食者であるアラガミは、ある意味で偏食因子に行動を支配されているといっても過言ではない。
もちろん、中枢細胞群が周囲のオラクル細胞を制御して一個の個体と成していることは動かしがたい事実だ。脳や臓器が存在しない単一細胞群体のアラガミの核は、間違いなくこの中枢細胞群である。
しかし、その行動を分析すると違った側面が見えてくる。
同族以外に天敵がなく、また通常の生殖活動を必要としないアラガミの行動は、その全てが捕食に繋がっている。喰う為に生き、生きる為に喰う。
ただ、辺り構わず無差別に捕食するものでもなかった。好んで捕食する対象があるのと同時に、捕食を避ける対象もある。この捕食の偏りを司るものが偏食因子だ。偏食因子はアラガミの種類ごとに違っているものだった。
この因子があるために、アラガミは意図せず同種で群れを形成する。好みの捕食対象が同じであれば、自ずと行動も同じになるからだ。
群れとなった結果として、唯一の天敵である自分より大型のアラガミと対峙した場合でも生存できる可能性が高まる。その結果、アラガミの群れは長生きすることになるのだ。
神機使いがよく同種のアラガミの群れを見かけることには、こうした背景があった。
もちろん中には例外もある。時に偏食因子の近い別種のアラガミが混じって群れを成すこともあるからだ。しかし、それは一時的なものであることが多い。長期的に見ると、それぞれの種が有する環境適応性などの要因によって群れが分裂していくことになる。
つまり複数種のアラガミが別々の経路で一カ所に集まることは異例なのだ。
数の面だけでなく、質の面からみても支部を取り巻く環境は危機的だった。予測のつかない事態は往々にして更なる悲劇を呼び込むものだ。
何かが偏食因子を操っている。
有り得ないと分かっていても、そんな仮定をしてしまうことが恐ろしかった。
ゴドーはいつの間にか階段を上りきっていた。顔は正面を向いたままだ。歩みも止めていない。一定の口調と一定の歩調だった。
「そういった経緯で初動が遅れた。気付いた時には既に支部の周囲をアラガミの群れに囲まれていた、というところだ。しかし過去の失策を嘆いても仕方ない。粛々と対処すればいい」
危機的状況にあっても、その挙動や口調に変化は見られなかった。これがベテランの神機使いの余裕なのか。いや、いかにベテランでもこれだけの脅威と直面した経験はそうはないはずだ。それでも冷静に振る舞えるだけの実力があるということなのだろう。
ふいにゴドーが立ち止まった。
はじめてこちらを向き「君に言っておきたいことがある」と言った。瞳を隠すアイシールドは無機質に光を吸収している。
「君に指示した任務、例の研究所の捜索だが、あれは非公式な任務だった」
「申し訳ありません。発令の経緯は覚えていません」
「そうか。ともかく、非公式の任務で問題が生じたことに頭を痛めている。口を噤めとは言わないが、この緊急事態だ。問題にするのは嵐が去ってからにして欲しい」
「承知しました」
特に考えもせず了承した。要請という形であったも上官の言葉は絶対だ。
「あの任務は君の神機使いとしての適正を見るためのものだった」
未だに記憶は戻っていないが、状況を察することはできた。
極東支部の士官学校で学んだ自分には、まだ実戦経験がない。適正という言葉使ういう事は、それは実戦での適切な振る舞いができるか否かということを指す。
「君の適正を疑うわけではない。ポルトロン支部長の考えはどうか知らないが」
ゴドーは支部の意志決定権者であるポルトロンの名前を出した。そして言葉を続けた。
「俺は古いタイプの神機使いだ。実戦に出る前に部下の実力を見ておきたいと思うのは当然だろう」
ゴドーは笑顔を真似たような表情を作った。
ベテランの周到さ、悪くいえば狡猾さは自分なりによく理解しているつもりだ。神機に適合する神機使いを見つけることは容易ではない。そのため、どの支部でも人員不足が常態化している。
だからベテランであればある程、新人を長生きさせたがる。それは支部や部隊の為であり、自分の為でもある。
新人の適正を見極めてから所属部隊を決めなければ、下手をしたら犬死にさせてしまい、次の補充が他の支部の後回しになってしまう。避けたい事態だ。
ゴドーは感情の起伏を感じさせない独特な口調で言った。
「そういった経緯で非公式の任務を与えたのだが、タイミングが悪かった」
一瞬、理解できず「タイミングが、悪い」と思考がそのまま口をついて出ていた。ゴドーは頷いた。
「ああ、実にタイミングが悪かった。今の危機的状況下では支部全体の士気に関わる」
支部の士気。自分が神機を失っていたことを思い出した。たとえ実戦経験がなくとも神機使いは神機使いだ。少しでも戦力が欲しい今のような状況では自分のような新人でも引く手数多だろう。
支部の失策という面がないことはないが、問題の根幹にあるのは自分の力量不足という動かし難い事実だった。
「貴重な神機を失ってしまい、大変、申し訳ありません。しかし自分は士官として作戦の立案から指揮の補佐まで一通りできると自負しています」
自分が士官として全く期待されていないことは十分、承知している。しかし、このフェンリルは軍事組織であるだけでなく事実上の統治機構なのだ。たとえ神機使いでなくなったとしても、フェンリルに貢献すること自体が重要なのである。こんな時代だ。兄弟達と生きていくためには何でもやるしかない。例え泥水を啜ってでも。
そう暗い決意を固めていたからだろう。ゴドーから返事が返ってきた言葉に驚かされた。
「君の神機は研究所内で発見された。既に整備室で応急処置が施されている」
まさか。
あの時、アラガミに噛み千切ぎられたはずだ。
あの白いアラガミに。
ふいに目の前にある記憶の塊が溶け出した。
白いアラガミ?
一瞬、掴んだように思った記憶は、水のようになって手から溢れていった。
「神機の偏食因子に若干の異常が見られたようだが、十分、実戦に耐えられる水準とのことだ。今度の支部防衛は総力戦になる。君の働きに期待している」
話を聞きながら頭に浮かんだアラガミの影を追った。
神機が戻った。しかも機能している。
喜ぶべき事だが、何故か今の自分の心には届かなかった。
何故だ。
何かがおかしい。
「もう一つある」
やはりゴドーの表情からは何の意図も感じられなかった。プログラムされた言葉を話す人工物のようだ。
「君にはこちらの方が気になることだろう」
ゴドーは見えない目線でこちらを見た。
「八神君、いや君のことではない。八神マリアのことだ」
八神マリア。
なぜだ。
なぜ彼女のことを忘れていた。ここまで来たのも、全ては彼女のせいだというのに。
マリアは同じ施設で育った姉だった。彼女は3年前、神機との高い適合率がフェンリルの目に止まり、新人神機使いとして極東支部に配属することになった。その時、マリアは施設を出て正式にフェンリルの一員となった。彼女が16歳の時だった。
マリアは2年間にわたり極東支部の激戦を生き抜いた。あの時代を生きたということは、ただそれだけでも奇跡的なことだった。
極東時代、アナグラと呼ばれる支部の防衛を担っていたマリアは、任務の傍ら支部を支える生産体制と物流に関する分厚い論文を書き上げた。地味な研究だが、同時に重要な分野でもあった。
この研究がフェンリル上層部に評価され、さらに積み重ねた防衛任務が実地訓練と見なされ、マリアは士官となった。兵卒上がりの特務士官ではなく、士官学校を出た者と同じ正規の少尉待遇だ。
そしてその直後、このヒマラヤに配属となった。それがちょうど1年前のこと。配属されたのは目の前に居るゴドー直属の部隊だった。
「マリアには君の士官としての適正を見る為に任務に同行してもらっていた」
マリアが同行していた?
その思考を支えるように記憶が浮かび上がった。
確かにあの時、自分とマリアの2人で任務に出た。そもそもが簡単な任務だった。数体の小型アラガミを目撃したという理由で、フェンリルの古い施設を捜索するという任務だ。
アラガミは既にその場所を去っている可能性が高い上、仮に残っていたとしても大した脅威ではなかった。
まるでピクニックのようね。
マリアはそんな軽口を言って自分についてきた。
マリアと話すのは3年ぶりだった。
極東時代は訓練が忙しいという理由で一切の接触を断っていた。子供らしい意地だということはよく分かっていた。しかし、あの時はそうせざるを得なかったのだ。
任務中、マリアと何を話していいのか分からず、常に無言だった。それでもマリアは、着任したての自分を心配してかヒマラヤ支部のあれこれを事細かに話していた。
マリアの気遣いに触れて、懐かしさを覚えた。かつては長い時間を一緒に過ごした家族。そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。
この任務が終わったら話をしよう。いつまでも過去にとらわれて生きるのはごめんだ。
しかし、中途半端な気持ちで任務に臨むことは、不器用な自分には無理なことだった。
だから、全ては任務から帰ってからにしよう。支部の休憩室にあったソファに座って、二人でゆっくり話そう。
そんなことを考えながら、黙ったまま研究所に入った。マリアは変わらず後ろからついてきた。背中を預ける安心感を覚えた。
山の傾斜を利用して地下に建設された研究所の内部には、アラガミの反応はなかった。がらんとして広い室内をひとつひとつ捜索しても見るべきものは何もなかった。
いや、違う。
あったではないか。
ないはずのものが。
「まだ気付かないのか」
思考の内側から外に引き戻された。
「君は普通なら最初に気付くはずのことに、気付いていない」
ゴドーの言葉になぜか頭が揺らいだような気がした。
普通なら最初に気付くような、当たり前のこと。
バラバラに置かれた記憶のカードが奇術師の手元に戻るかのように整頓されていった。
手元に揃ったカードが一枚ずつめくられる。カードを一枚、表にするたび、記憶の一場面が浮かんでくる。
最初のカードには、フェンリルのマークがあった。
研究所内のそこかしこに狼の姿があった。かつて民間の穀物大手企業であったフェンリルの面影を残す生物実験施設。しかし価値のある物はあらかた持ち去られて廃墟となっている。
次々にカードがめくられていった。
次に現れたのは、古い神機。
半ば塵に埋もれた神機のコアは鈍く光っている。
白いアラガミの影。
不意打ちと負傷。
砕かれた自分の神機。
白いアラガミはそれを喰らう。
自分をかばい意識を失ったマリア。
彼女を担いで走る、走る。
負傷した彼女を助ける為に。
出来ることはその神機を。
手に取る、しかし。
彼女は。
「思い出したようだな」
ゴドーが静かに告げた。
「八神マリアは死亡した」
黒い顎に飲まれるマリアの姿が脳裏に浮かんだ。