Scarlet Busters!   作:Sepia

112 / 124
Mission112 不器用な手料理

 

 

 言い出しっぺの法則というものがある。

 その言葉の通り、最初に言い出した人間がその担当者になりやすいというある種の経験則のようなものだ。

 数式で定義できるような物理法則とは違うため信じているわけではないのだが、牧瀬紅葉は迂闊なことは言うもんじゃなかったと若干の後悔を抱えながらもDホイールの後ろの席に葉留佳を乗せて運転していた。

 

「次どっちよ」

「右!その次の交差点を左!」

「あいよー」

 

 彼ら二人が向かう先は葉留佳の自宅。

 彼女が生まれた三枝の家ではなく、佳奈多と二人で過ごした四葉(よつのは)の屋敷でもない彼女の家。

 実の両親が住んでいる家であるが、葉留佳にはあいにくとこの家には正直いい思い出がない。三枝の家でのように虐待こそさえなかったが、どうにも自分の居場所だと思えなかった場所。それでも葉留佳はやってきていた。

 

「ほら、あそこの家」

「おう、分かった。Dホイールここに停めてもいいよな?ダメそうなら別の駐車場探しにいくけど」

「別にいいと思うよ。車入るスペースだってありそうだし」

 

 葉留佳の案内のもとに走るDホイールは、しばらくしたら目的地を目視できるほどまで近づいた。

 うっすらと見えてきた家を見て、この場所に誰か知った人間を連れてくる日がくるとは葉留佳自身微塵も思わなかったなぁと、まだ何も始まっていないのに感慨深いものを感じる。

 

 この新築同然の自宅へとたどり着いて、葉留佳は自然な形で家のチャイムを押そうとして立ち止まる。

 

(まただ。また私はなんの疑いもなく家のチャイムを押そうとした。私にはどこか、ここが他人の家だという認識があるんだろうなぁ)

 

 友達の家に遊びに行くとき、いくら仲が良くてもチャイムを押さずに玄関を開ける奴なんていない。

 チャイムを押さずに扉を開けるのは、あくまで身内しかいないと分かっているからこそできることなのだ。姉御の住んでいる東京武偵高校の第三放送室に行くときなんてチャイムもノックもしないのに、自分の自宅に帰るのにチャイムを押さなければならないなんてどうかしてる。孫がおじいちゃんのところに遊びにいくのならまだしも、娘が実の親のいるところに帰るだけのことなのにだ。しかも、いつでも気軽に立ち寄っていいんだよと言ってくれている人のいる家にどうしてこんなに気を使っているのだろうか。使ったことはないとはいえ一応鍵だって持っているのだ。

 

「どうした?入らないのか?」

「いや、なんでもないよ」

「そうは見えないんだが……やっぱり緊張してるのか」

「そんなことは」

「ない、と思ってる?」

 

 家の駐車場にDホイールを停めて玄関へとやってきた牧瀬には今の葉留佳のことをどう見えるのだろうか。

 

「やっぱりどうみても牧瀬君よりも私の方が緊張してるよね」

 

 状況を見ればどう考えても葉留佳よりも牧瀬紅葉の方が気が重たいはずだ。

 牧瀬が今ここにいる理由は友達の家に遊びに行く、なんてことだけだったらどれだけよかっただろう。

 牧瀬は別に遊びに来たのではなく、葉留佳が両親と会話するのに一人では心もとないからついてきただけだ。それも牧瀬紅葉自身が率先して俺がついていく、俺に任せておけと宣言したわけでもなく、彼が迂闊なことを言った瞬間に付け込まれたようなもの。断るに断ることができずにその場の流れでいるといっていい。それでいて、いざとなったら会話の手助けをしてくれと葉留佳自身が頼んでいるようなものゆえに、彼が気が向いているはずがない。

 

「深呼吸でもしておくかい?」

「変に意識している私もおかしいのかもしれないけどさ、緊張とか躊躇とかしているように全く見えない牧瀬君もどうかと思うんだ」

 

 それなのに牧瀬紅葉ときたら、これからのことに鬱になる様子や変に意識するような態度を全く見せてはいなかった。牧瀬紅葉と三枝葉留佳は四葉ツカサという第三者を介した関係であり、直接的な関係でいうと友達と言えるかさえまだ微妙なところであるが、仮にも女の子の自宅へと仕事など一切関係ないプライベートとして赴くのに制服の上に白衣を羽織るといういつもの謎ファッションのままでオシャレなんて全くしていない。葉留佳にとっての、いつもの牧瀬くんのままである。

 

「そりゃ、俺にとってはこれが最悪の状態でもなんでもないからな。幸か不幸か、今の状況よりも悲惨な状況の境遇の実体験を聞いたことがあるから今の状況が幾分マシに見えるんだ」

「どんなの?」

「あぁ。とうさ……そいつは冷え切った親子関係を修復するために電車で何時間もの旅をして赴いたそうなんだが、なんでも一緒に結婚報告を同時に行ったらしい」

「マジでッ!?すごい度胸してる人だネッ!!」

 

 親子仲の修復ミッションと、結婚相手の親への結婚報告を同時に行った猛者がいる。

 一つだけでも心の重たいことのはずなのに、それを同時にやった人間を知っているため、牧瀬くんにはこんなことでビビッてはいられないと対抗心があるのだろう。

 

「まぁ、結果はお察しだったようだけど」

「え?」

「そういえばさ、一つ確認しておきたいことなんだけどよ」

「ちょっと待って!その人はどうなったの?」

「別にいいじゃんか、今関係ないことだし。余計なこと口にして悪かったな」

「気になるよ!!」

「どうでもいいことだ。そんなことより俺はお前のことをなんて呼べばいい?」

「そんなことってそんな……あと呼ぶってどういう意味?」

「ほら、この後お前の親に鉢合わせになるんだろうけどむこうも三枝さんのわけだから、親の前で三枝と呼ぶのはどうかと思うし、かといって名前で呼んだらなれなれしいだろ?」

「別に葉留佳でいいよ」

「え、いいのか?」

「なんでそこできょとんとしてるの牧瀬くん……」

「だってほら、名前で呼ぶなんてまるで親しい友達みたいじゃないか。それはさすがに失礼かなって」

「まず友達と思われていなかった!?」

 

 あんまりないいようだが、別に牧瀬紅葉の言っていることは一概に失礼なこととは言えない。

 名前に関する考え方なんて人それぞれだ。

 気安く下の名前で呼ばれたくないと思う人もいれば、むしろ下の名前で呼んでほしいと思う人間もいる。

 イギリス育ちである来ヶ谷唯湖は唯湖という名前で呼ばれても、今まで呼ばれ慣れていないせいで自分のことだとすぐに認識できないでいる。逆に神北小毬なんかは自分の名前のことを好きだと言い切るような人間だ。

 

(それだけ牧瀬くんが私のことを知らないっていうことなんだろうけどさ)

 

 葉留佳がどちらのタイプであるか牧瀬紅葉はおそらく分からないのだ。だからこんなことを言う。

 それは気づかいであることは確かであるが、その程度のことも察してやれないことは同時に牧瀬紅葉と三枝葉留佳との付き合いの浅さを露呈させていた。

 

(別に牧瀬くんは私のことが嫌いってわけじゃないんだろうけどさ、やっぱりちょっと寂しいな)

 

 嫌いではない。けれど同時に好きだと言えるほどの付き合いもない。

 友達の友達。それが今の二人の関係だった。

 

「葉留佳って呼ぶのが恥ずかしいのなら、なんなら私のことを愛情をこめて愛称ではるちんと呼んでもいいですヨッ!!」

「分かったよ、三枝さん」

「あ、あれ?」

 

 どうやら牧瀬紅葉はは、葉留佳のことをはるちんと呼ぶのは嫌のようだ。

 だがこの程度でへこたれるわけにはいかない。

 葉留佳は牧瀬のことを友達と胸を張って言える立場にいたいのだ。

 

「じゃ、じゃあ私だって牧瀬くんのことを紅葉(こうよう)くんって呼ぶから!……うん、呼びにくい。牧瀬くんのことを愛称としてこーちゃんって呼ぶからさ!」

「こーちゃんって言うな!牧瀬と呼ばないなら俺のことは鳳凰院、もしくは喪魅路(モミジ)と呼べッ!」

「めんどくさい人だネ!」

 

 こんなことを言っているうちに、いつしか葉留佳は今いる場所が自分の家の前だということ忘れていた。

 つい先ほどまで深呼吸をしなきゃならないほど緊張していたはずなのに、すっかり調子が狂わされていた。

 

「落ち着いたようだしもういいか。じゃ、いくぞ」

「へ?」

「なに、心配するな。話したくないなら今日は何も話さなくていい。なんなら今日は俺とだけ会話するのでもいいからさ、そんな脅えたような顔するなよ」

「ちょ、ちょっと待ってモミジくん!私まだこころの準備が」

 

 葉留佳の意見なんて無視して、白衣の少年は何のためらいもなく葉留佳の両親が住んでいる玄関を開け、

 

「ごめんくださーい!」

 

 堂々と、玄関の中へと入っていった。

 慌てて葉留佳が牧瀬について行くが、その様子を第三者が見ようものならどちらが遊びに来た友達なのかが分からなかったであろう。

 

「あら、いらっしゃい」

 

 牧瀬と葉留佳の二人を出迎えたのは、葉留佳の母であった。

 ぶっきらぼうの要件だけの形に近かったとはいえ連絡こそあらかじめ入れていたので、出迎えがあることくらいは分かっていたはずなのに葉留佳は動揺してしまう。なんて声をかけるべきかわからなくなる葉留佳であったが、葉留佳を放置して牧瀬紅葉が勝手に話を始めてしまう。

 

「あの、今日はキッチン借りていいって聞いているんですが、結局大丈夫でしょうか?」

「ええ、大丈夫よ。葉留佳に料理を教えてくれるんですってね。私も何か手伝いましょうか?」

「いえ、今日は包丁を握る程度のことから始めますので、それはまた今度親子で時間の都合がいい時にしてください。あ、冷蔵庫の中見てもいいですか?それで買い物をどうするか決めますので」

「ええ。それも自由に使ってくれていいのよ」

「本当ですか?助かります」

「じゃあまた、なにか困ったことがあったら遠慮なく呼んでちょうだいね」

「待ってください。炊飯器も借りてもいいですか?」

「炊飯器ですか?お米ならまだ残っていると思うので、それを自由に使ってもいいですよ」

「そうじゃなくて、たぶん足りなくなるかもしれないのでその時はお米を一から炊きなおしてもいいですか?」

「どうぞ好きにしてくれていいですよ。あるものはなんでも自由に使ってください」

「ありがとうございます!それじゃおじゃまします」

 

 牧瀬と一通りの確認を終えた葉留佳の母は、娘へと向き直り。

 

「葉留佳。おかえりなさい」

「…………」

 

 おかえり、と優しく微笑んでいた。

 なのに葉留佳は素直に返答することもできずにいた。

 

「モミジくん、キッチンはこっちだよ」

 

 言えたのはそんなこと。ここが自分の帰るべきところだという認識が今できないから言えなかったのだ。

 

――――――――お母さん、ただいま。

 

 この言葉がどうしてもでてこない。

 まだ言えない。言いたくない。そのことをモミジくんは見抜いていたようだ。

 キッチンに行くと、モミジくんはそのことに言及した。

 

「ただいまって言わなかったな。ひょっとして言いたくないのか?」

「……別に、そんなじゃないよ。ただ」

「別に責めやしないさ。本当は言いたいと思っていて言えないなら、誰が何を言おうがどうしようもない。だけどさ、そう言えなかったことで自分を責める必要もないさ。だからそう暗い顔するなって」

「え?」

「最初の一歩はどれだけ小さなものでもいいんだよ。何とかしようとして今日ここにいる。それだけで今はいいさ」

「でも……」

「今は、だぞ?次からは過去できたことで満足してたらダメだからな」

「分かってるよそんなこと……」

「いらないこと言ったな。忘れてくれ。さーて、なにを作ろうか」

「まだ決めてなかったの?」

「冷蔵庫の中を見て決めるつもりでいた。ニンジンみたいな野菜とかならともかく、調味料の場合はどれだけある把握しときたいからな。でもまぁ、モノがどこにあるかまだよくわからないだけで大抵のものはそろってそうだし……カレーでも作るか」

「モミジくんはカレーが好きなの?」

「いや格別には」

「じゃ、どうして?」

「俺の姉さんがよく作ってくれたことをそういえばと思い出してさ。俺も姉さんも、両親の仕事が忙しくて一人寂しくご飯を取ることが結構あったから、姉さんが俺がさみしくないようにと頑張って作ってくれたことがよくあったんだ。最初は姉さんが一人で作ってくれてたんだけど、俺の姉さんは質よりも量とか言い出す豪快なところがある人だから、出来上がるのもサバイバルでもできそうな大雑把な漢飯ばかりでいつしか俺の方が姉さんに喜んでほしいといろいろと凝るようになっていた。もともと母さんが料理下手だったこともあって、すぐに俺が家族の中で一番料理が上手になったぞ」

 

 葉留佳に特に意見があるわけでもないのでそのままカレーを作ることに決めた。さっそく準備に取り掛かろうとしていた二人であったが、どこになにがあるのかがほとんど分からなかったため手間取ってしまう。一応機材一式そろいはしたものの、一通りキッチンを見て回った牧瀬は思うところがあったようだ。

 

「……このキッチン、全然使ってないんだな」

「そうなの?」

「少しでも料理やる奴なら見ればすぐ分かる。ほとんど新品同然で使い込まれていない」

「だってこの家はわたしのために急きょ用意された場所だし……」

「関係ない。家がいくら新築でも、キッチンで使われている道具は消耗品みたいなもんだ。どれもこれも新品同然で……それでも一度もやったことがないってことはないみたいだけどさ。何度か使った跡が残ってるけどそれでもそんなに多くはないみたいだ。クリスマスやお正月みたいな特別な日くらいにしか使ってこなかったんだろうな」

「そうなの?」

「この家に少しの間でも住んでいたことがあるなら分かるんじゃないのか?」

「どうだろ。でも、私このキッチンが使われてないって印象が今までなかったよ。今までだって、出された料理は味こそ分からなかったけど市販のものではなかったし」

 

 父と母、そして娘。

 三人の空虚なディナーが味が分からなかったのは、市販のものでなかったというものが大きいはずだ。

 おふくろの味は特別だなんて聞くけれど、特別おいしいともまずいともいえなかった。

 正直何と言ったらいいか全くわからなかったのだ。

 

「な、何をしてるモミジくんッ!」

「……悪い、ちょっと見させてくれ」

 

 牧瀬は葉留佳の話を聞くと、キッチンから見える場所にあったゴミ箱の袋を取り出して中身を確認しだした。

 その中からプラスティックの容器を取り出す。 

 この容器には、半額と書かれたシールが貼られていた。

 

「やっぱりか」

「それって……」

「別に珍しいことじゃない。教師なんかやってるやつだと、家に帰るのも遅くなるから料理なんて作っている暇もなく、帰りのスーパーによった時に半額になっているおかずや弁当を買ってすます奴がほとんどだ。姉さんが一人暮らしをしてたときだってめんどくさがって自炊なんて全くしなかったし、俺だって研究のきりが悪かったら飯抜くところか平気で徹夜する。気が付いたら朝だったとか、珍しくもないぞ」

「……普段料理をしない人が料理する時ってどんな時だと思う?」

「そりゃ誰かに料理を食べてもらいたいと思ったときだろう。例えばバレンタインデーで好きな人にチョコに渡すとしたら、普段料理なんてしない奴でも手作りチョコに挑戦したいって人がいても何らおかしくはないだろう?」

 

 葉留佳は今までこのキッチンがロクに使われていなかったことに気づかなかった。

 けれど今までこの家にいるときは手作りの料理しか口にしていない。

 この事実から、どうして両親が普段やりもしない料理をやろうとか思っていたのか何となく連想できてしまった。

 

「まぁそんなことどうでもいいか。借りている身としては新品同然のものを使うのには若干の抵抗があったけど、かといってどうしようもないし」

 

 牧瀬紅葉は着ていた白衣を脱ぐと、持ってきていたエプロンを見につける。

 白衣とそうそう変わらないような真っ白なエプロンであったが、胸のところには模様として秋の紅葉の模様が書かれていた。

 

「あれ、その模様って確かお姉ちゃんの持ってた剣にもあったような」

「二木の持ってる霊装『双葉』のことか?あれ、俺とツカサの二人で作ったやつだぞ。それぞれ使っている紋章をデザインしてあるんだ。これ俺の委員会で使っている紋章だし、乗ってきたDホイールにも描かれているぞ」

「マジで!?」

「なんならお前にも同じように専用の霊装でも作ってやろうか?『双葉』は二木の超能力との併用を前提として作り上げた武器だから、正直他の奴が使っても大して強くないんだ。また別の奴を一から模索することになると思うけど、それでいいならやるぞ」

「いいの?」

「つっても俺が長時間取れそうなのは『職場体験』のあとぐらいだからそれまで何もできない。それでもいいなら『職場体験』終わってから来てくれればいろいろと考えてみる」

「ありがとうモミジくん」

「別にいいさ。これでも整備系委員会のトップだぞ。仕事に選ぶくらいにはそういうの好きなんだ。むしろ、モルモットになってくれるなら感謝する。さて、礼はいいから始めるか。お前も早く準備したらどうだ」

「準備って?」

「エプロンはどうした、エプロンは」

「ないよ?」

「…………はぁ」

 

 

 

        ●

 

 

 葉留佳と佳奈多。双子の超能力者(ステルス)というだけでも世にも珍しい存在であるが、彼女たち姉妹が出生として世にもレアといえるのは彼女たちが父親違いの双子であるからでもある。科学的には異父双生児とか言うらしい。しかも、葉留佳はどちらの二人の父親のうちどちらが自分の父親だと知らないでいる。ずっと一族の裏切り者の三枝昌の娘だとしてさげすまれてきたが、実際のところは分かららないのだ。それが自分の父親がどちらにせよ、本心から父親だと思うことができないでいる理由の一つとなっている。

 

 じゃあ、父親の方は一体どう思っているのだろう。

 

 自分と血がつながっている実の娘が葉留佳なのか、それとも佳奈多なのかを知っているかは別として二人とも娘として愛することができるのだろうか。少なくとも姉妹のうち一人は自分が愛した女と、別の男との間に生まれた子供であることには変わらないはずだ。自分と一切の血のつながりもなく、家族として過ごしてきた年月もなく、娘から父親として愛情があるどころか憎まれてもいる。

 

 そんな状態なのに、無性の愛情を捧げることなんてできるのだろうか。

 

(……葉留佳。葉留佳)

 

 葉留佳の父親の一人であるその男は走る。テレポートという超能力を本心から憎み、嫌っているはずなのに彼は早く自宅へと戻るために駆けていた。今日の仕事がよりにもよって長引いてしまって、一分一秒でも早く家に戻りたかったのだ。今日葉留佳が家に来るということは聞いていた。どうしても仕事を休むわけにはいかなかったが、それでも葉留佳を、娘のことを一瞬でもいいから直接見たかったのだ。

 

 でももう遅かった。

 彼が家にたどり着いたころには、葉留佳はもう東京武偵高校へと戻っていたのだ。

 

「ただいま。……遅かったみたいだな」

 

 葉留佳がもういないと分かっても、妻が葉留佳と会っている。どんなことがあったのか、知らなくてはいけない。何もなかったとしても、親子の絆なんてないに等しいものだとしても、葉留佳が元気でいてくれるならそれでいいと思っていた。病気をしているわけでもなく、ただ前を向いて生きようと思ってくれているのならそれでいい。そう思えるのは、間違いなく彼が娘を愛しているからだろう。

 

「……あなた、お帰りなさい」

「ああ。今日は休みが取れなくてすまない。葉留佳は?」

「ちょっと前に帰ったわ。一緒に来ていたお友達のバイクの後ろの座席に乗って東京武偵高校へと戻っていったわ」

「そうか。せめて、話を聞かせてくれないか」

「…………」

「どうした?まさか何があったのか?」

「ううん違うの。あの子がね……」

 

 葉留佳の身に何か起きていたのではないかという不安に襲われたが、妻が言葉にしたものは今までとは全く異なることだった。

 

「あの子がね、私にエプロンを貸してくれって言ってきたの」

 

 最初はいつも通り、そっけないように話しかけてきた。それでも覚えている。

 

『あれ、どうしたの?何か困ったことでもあった?』

 

 友達が来ているのに、迷惑をかけるわけにもいかないので書斎にいた自分の前にやってきた娘からの頼み事。言いたくないような表情をしていたけど、それでもちゃんと口にした。

 

『あ、あのさ……モミジくんがエプロンしない奴がキッチンに立つなとか言い出してるんだけどその……私エプロンなんて持ってきてないんだ。貸して』

『うちにエプロンの予備なんてあったかしら……』

『いま着てるやつでいい。それでいいから貸して』

『……これ、わたしのだけどこれでいいの?』

『別にいい。気にしない』

 

 自分がつけていたままのエプロンを葉留佳に渡すが、葉留佳がそのエプロンをつけようとして手間取っていた。すぐにその場で着ようとしていたが、慣れないものだからエプロンつけ方がよく分からないのだろう。エプロンは種類によってはやり方が大きく異なる。仕方がないから手に持ったまま部屋から出ていこうとした葉留佳に気が付いたら声をかけていた。

 

『……エプロン。つけ方が分からないなら着せてあげましょうか』

 

 しばらくは黙ったままだってけど、葉留佳は無言のままエプロンを差し出して、

 

「あの子、私に着せてくれって言ったの。親子らしいことがずいぶんと久しぶりにできたんじゃないかって……」

「そうか」

「……晩御飯がまだでしょう?あの子が友達と一緒に作ったカレーが残っているけど食べる?」

「あぁ、もちろんだ。もちろん食べるとも」

 

 仕事での荷物を置き、二人でキッチンへと向かう。

 そこにはラップこそされているが、カレーがちゃんと残っていた。

 

「葉留佳は食べていかなかったのか?」

「葉留佳は友達と二人で食べてたわ。ジャガイモを小さく切りすぎてとけているとか、ニンジンの皮むきをしくじってまだ硬いままだなとか、そんなことを言っていたのが聞こえたわ」

「お前は一緒に食べなかったのか?」

「……いいえ。私は食べてないわ。葉留佳のお友達のは一緒にどうかって誘われたけど、私は遠慮しておいたわ。あの子、この家で初めて笑ったのよ。だったら、そんな楽しそうな時間に邪魔なんてできなかった。だから、これから一緒に食べましょう?」

 

 カレーを温めるためには時間がいる。しばらくしたら、二人分のカレーがお盆に乗ってやってきた。

 残り物を二人でわけるのだから、小皿程度の分量しかないと思っていたのにちゃんと大皿での二人分のカレーがそこにはあった。

 

「……残ってるのがあるって言ってたから、ほんのちょっとだけしかないと思っていなんだが」

「作る分量を間違えたって葉留佳は言っていたわ」

「間違えたって……」

「ええ。でもね、料理ができる人が一緒にいて作っているなら、最初から二人分でいいところを間違えて倍の四人分の分量になんてつくることなんてないのよ。しかもこれ、よくよく見れば五人分くらいの量はあったのよ。お米だって、最初の時点で足りないと思ってわざわざ炊きなおしていたみたいだし、なによりカレーって保存がきくの。間違えたところで持ち帰ればいいだけなのよ」

「じゃあ」

「最初から、私たちの夕食として食べてもらうことを考えていたのでしょうね」

 

 それを考えたのが葉留佳なのか、それとも葉留佳が今日連れてきた友達なのかは分からない。

 だが、今目の前に親子関係の冷え切っていた娘の手料理があることは変わらない。

 

「「いただきます」」

 

 スプーンを持ち、カレーを見つめる。はっきり言って、見ているだけで不格好だと分かるカレーであった。何というか、一人でつくったわけじゃないのだろうということが具材から見て取れる。ニンジンひとつ取ってみても、きれいに切られているものと、あからさまになれない人間がやってデコボコになったのだろうと分かるものがある。ある程度は統一性があるものと、どうやったらこんなになるんだろいう変な形のものだってある。やった人間が違うのだろうな、とあたりをつけることは容易であった。

 

「………」

 

 カレーの味自体は格別変わったものではない。初心者にありがちなオリジナルの隠し味に挑戦するということをやっていない以上は当然だ。料理の最高のスパイスは愛情だなんて言うけれど、やはり売り物として出している外食での料理に味はかなわない。所詮は素人が、友達にいろいろと教わりながら作ったつたない手料理。まずくはないが、格別おいしいとは言えない料理。普通の域を出ない料理のはずだ。

 

「…………」

 

 なのに、葉留佳の両親は二人とも、カレーを食べる手を休めようとはしなかった。

 それどこか二人して、瞳から涙が零れ落ちてきていた。

 

「……おいしいな」

「そうね。これ、あの子が作ったものなのよね」

「そうだな」

 

 涙をぬぐおうともせずに、ただひたすら食べ続ける。

 いつしか味だってよく分からなくなり、ただ食べているという感触だけが残っていた。

 甘口のカレーなのか、それとも中辛あたりのカレーなのかもよく分からない。

 なんだかしょっぱいような感じもする。

 

「実はちょっとだけだけど、おかわりも残っているの。それも食べる?」

「あぁ、もらう。もらうとも」

 

 二人はゆっくりと、娘が作ったカレーを食べる。

 結構な時間がたっているはずなのに、その間が一向に涙が止まることなどなかった。

 

 四葉公安委員会が壊滅するちょっとまで、生活に余裕もなく自分たちが生きていくだけで精一杯だった。

 妻も過労で倒れ伏して、安いボロアパートの床に引いた布団で寝込んでいることしかできなかった。

 それでもいつかは、あの一族から娘たちを取り戻すんだと信じて、それだけを希望に生きてきた。

 一緒に暮らせるようになったといっても、張りぼてのように中身など何もない空虚な会話しかできずにいたが、それでも捨てきれずにいた結果が目の前にあったのだ。

 

「……なぁ」

「はい」

「あきらめずにいて、よかったなぁ」

「…………はいっ!」

 

 それが自分たちの功績だとは全く思わない。きっと葉留佳が東京武偵高校で出会ってきたものたちが、葉留佳の何かを変えたのだろう。それが佳奈多なのか、それとも一緒に来ていたという友達なのかは分からないが、葉留佳が武偵高校へと行かなければ訪れることのない未来だったと思う。

 

 自分たちが努力が実ったのだとは言わないが、努力しなければ訪れない未来でもあっただろう。

 そう思うと今までの自分たちの行動が正しかったのだといわれた気がした。

 よかったと、素直に自分を少しだけだが肯定してやれた気がした。

 

「おいしいなぁ」

 

 

         ●

 

 牧瀬紅葉と三枝葉留佳を乗せたDホイールが走る。

 その中で、周りに走る車の音によって周囲からかき消されていった会話があった。

 

「モミジくんさ、作る分量間違えたっていってたけど……あれ嘘だよね」

「どうしてそう思うんだ」

「だって、二人で食べても半分以上残っているなんてことないでしょ。最初の時点で米も炊きなおしてさ」

「そうだな。最初はあの家を使ったっていう事実さえあればいいかなと思っていたけど、カレー作ると決めてからは五人前くらいは作ろうと思った」

「どうして?」

「純粋に分量が多ければそれだけ包丁で作業することも多くなるというものあるけど……せっかくだから食べさせてあげたかったからかな」

「どうして私があの人たちに食べてほしいって思っているって思ったの?」

「俺がいままでどれだけ母さんや姉さんのためにご飯を作ってきたと思っているんだ。自分のためだけに作る料理って、やる気がそう起きないもんだぞ」

「…………」

「こんなことわざわざ聞かなくてもいいじゃないか。最初は素直に俺の言うことに従って作業してたけど、途中から分量がおかしいって自分で気づいていたんだろ?そして、俺が何をしようとしているかも大体想像ついてたんだろ?そのうえで俺に何も言ってこなかったのは誰だったのかを忘れてないよな。いきなり手料理を食べてほしいっていうよりは、友達が分量を間違えて余ったから処理してほしいって言う方がハードルとしては低いもんな」

「……いじわるしないでよ」

「悪かったよ。で、どうだった?」

「……料理ってさ、案外手間がかかるんだね」

「そりゃそうさ。カレーなんて、お湯につけて待つだけのレトルトカレーと比べたら手間がかかるものの典型例だ。皿や鍋を洗うのだって面倒だし、汚れができたらなかなか落ちないし。でも、嫌だったか?」

「ううん、そんなことないよ。……また、何か教えてくれる?」

「また今後な」

 

 

 

 




牧瀬と葉留佳の二人は、この前までは友達の友達っていう関係でした。
牧瀬のほうはツカサくんから最初から知らされていて、葉留佳の方は姉御に同僚みたいな形で紹介されて。

今は姉御の副官みたいなことをしている葉留佳ですが、葉留佳には姉御ではなく牧瀬に付き従っていた未来もあったんです。むしろ、本来はそうなっていたはずなんです。

そう思うと、この二人はなんだが不思議な関係のようにも思えてきます。

お互いにいろいろと思うところがあるはずですが、それでも友達といえる関係に一歩近づいたのではないでしょうか。





▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。