わたしには大好きなおにいちゃんがいる。
歳の差は7つ。兄妹としては結構離れているほうかもしれない。歳の差7つというと、わたしが幼稚園を卒業して小学一年生になる頃には、おにいちゃんは中学二年生になっていることになる。幼い頃の一年というものはとても大きなもののせいか、わたしにはお兄ちゃんが身体も心もとても大きな人に見えた。いつも優しくて、穏やかで温かかな笑顔を向けてくれるおにいちゃんが、わたしは大好きだった。
わたしが幼稚園の年中組に上がった直後の頃のことだった。
家のリビングでおにいちゃんに絵本を読んでもらっていた時、急におにいちゃんがわたしの目の前で血を吐いた。その時はお母さんもおとうさんも仕事でいなくて、わたしとおにいちゃんの二人だけしかいなかったから、わたしはパニックに陥ってしまった。
「おにいちゃんっ、おにいちゃんっ!!」
「……だいじょう、ぶ……だよ。心配しないで」
おにいちゃんはどこまでも優しいひとだった。
自分が苦しんでいるのに、先にわたしのことをしんぱいしていた。
決して自分のことなんてどうでもいいだなんてことを考えるような人ではなかったけれど、自分のこと以上にわたしを大切にしてくれている人だった。血を吐いて床に倒れて伏してしまってなお、心配させまいようにと気力を振り絞って俺は大丈夫だといつもの変わらぬ優しい声でわたしのあたまをなでてくれてた。
おにいちゃんがなんとか自力で電話して呼んだ救急車によって病院へと運ばれた後、入院することになったおにいちゃんには待っていたのは街の病院の一室で検査などをうける日々であった。わたしは幼稚園の帰りには必ずお母さんをつれてその病院に通っていた。初めは地元の病院で検査する毎日が続いていたが、しばらくしておにいちゃんは隣町のもっと大きな病院へと移されることになる。体調がすぐに悪化したということではなく別の理由からであった。
街の小さな病院で検査していても、どうしてもおにいちゃんが吐血した原因が分からなかったのだ。
レントゲンや血液検査。
幼稚園児のわたしにはお母さんやお医者さんが何を言っているのかさっぱり理解できなかったけれど、病院であらゆる検査を受けても症状の特定ができなかったみたいなのだ。
心臓だとか肺だとか、具体的にどこかが悪いということでもなにのに身体はガタガタになっているみたいだった。でも、肝心の理由が分からずしまい。癌ではないかと検査しても、どうしても見つけられない。まるで呪いでもかけられたのではないか。お医者さんたちは皆口をそろえてそういった。
それからというもの、おにいちゃんは定期的に血を吐くようになってしまっていた。
急激な体調の変化もなかったため、当面の命の危険性はないだろうとのこと。
でも、呪いを連想されるような現状から完治する見込みも見当たらない。
お母さんのお見舞いの回数は減っていったけど、わたしは一人でも自転車をこいで病院に通った。
「ひらひら~」
「……ああ、ひらひらだな」
わたしは病院の屋上が好きだった。
おにいちゃんがそのことを知ってからは、よくそこに連れ出してくれた。
屋上に干され、風になびいている白いシーツをつかってかくれんぼともおにごっこともつかない追いかけっこをしてみたり。
「小毬、みーつけた」
「……まだみつかっただけだもん。捕まってないもんっ」
「あ、こら、待てよ小毬っ!」
「おにいちゃーん!」
「ははは。こら小毬。自分から抱き付いてきてどうするんだ」
「えへへ」
おにいちゃんの担当の看護師さんに見つかって、怒られたこともあったけ?
おにいちゃんが怒られているところを見ていてとてもしょんぼりしていたことは思い出した。
他愛ないことだったんだろうけど、わたしはとても楽しかった。
おにいちゃんと二人で笑っていられることが、何よりも幸せだった。
でも、わたしが幼稚園の年長組に上がる頃、おにいちゃんの容体が悪化してしまう。
検査のためにどこかまた別の病院に行くらしい。いづれはまた今入院していた病院へと戻ってくるらしいけど、もう病室まで補助輪付きの自転車を頑張ってこいで行ったとしても会えない日が続いていた。
さみしかった。
いつおにいちゃんが帰ってくれるのだろう。
この頃のわたしは、永遠のお別れというものが存在していることを実感として知りなどしない。
初夏の頃。おにいちゃんが病室に戻ってきた。
その頃にはおにいちゃんはあまり動き回ることができなくなっていたけれど、わたしにはおにいちゃんが帰ってきてくれたことがうれしかった。病室の扉を開けると、いつだってなんだか難しそうなお薬の本を読んでいるお兄ちゃん。それでもわたしの顔を見ると陽だまりみたいな笑顔でニッコリと微笑んでくれる。退屈そうにするわたしに、おにいちゃんはよく本を読んでくれた。
「おにーちゃん、これよんで」
「はいはい。えーと、マッチ売りの少女。とても寒い大晦日の日。あるところに……」
病院に行けばおにいちゃんに会うことができるけど、やれることは少ないのもまた事実。原因不明だとはいえ、いつまた血を吐いて倒れるか分からない以上、おにいちゃんに退院許可も外出許可が下りることもない。それに、いつしかおにいちゃんは寝ていることが多くなってしまった。わたしたちができることと言えば、お精々おにいちゃんに本を読んでもらうことぐらいなものしかない。
「その夜、マッチ売りの少女は最後の流れ星と一緒に天国へと昇って行きましたとさ」
まだひらがなもまともに読めないわたしに理解できることといえば、絵本くらいなものだったけど。その中ですら知らないものが出てくることだってあった。
「おにーちゃん」
「え?」
「ながれぼしって何?」
「ああ、空にお星さまがあるだろう?あんな光が、空を流れていくことがあるんだ。俺も見たことがあるけど、とてもきれいなんだよ」
「でも、それがあるとおんなのこしんじゃうの?」
マッチ売りの少女の祖母は『流れ星は誰かの命が消えようとしている象徴なのだ』と言っていたらしい。なら、流れ星がなければ誰も死なずにすむということだろうか。おにいちゃんはなにも答えなかった。
「しんじゃうってなに?こまりおばーちゃんいないから、あいにいかないよ?ながれぼしを見ると、わたしもおにーちゃんもしんじゃうの?」
「あのな、小毬。死んじゃうってことは、いなくなるってことだ」
「いなくなっちゃうの?」
「……うん」
「うぁーんっ!やだよそんなの……」
「ごめんよ。でもこれは悲しいだけの物語じゃないんだ」
流れ星が流れることにより誰かが死んでしまうというのであれば、そんな悲しいものは必要ない。
どうしてこんな悲しい物語があるのだろう。
悲しい話なんていらない。ただ、幸せなものさえあればいい。
そんな風にわたしは思っていたけど、おにいちゃんはどうやら違うようだった。
「小毬。これは確かに悲しい物話かもしれない。でも、それだけで終わらせてはいけないんだ」
「ほぇ?」
「世の中には悲しいことはいっぱいある。でも、そこで立ち止まってちゃダメなんだ。悲しさのあまり目をそらしてしまうのではなく、マッチ売りの少女たちのような悲しい結末を迎えないようにと手を差し伸べられるようになりたいとほんの少しでも思うことができたのなら、それはすばらしいことだと思わないか?」
「それでも……悲しいお話はいやだよ」
おにいちゃんの言いたいことはよくわからなかった。でも、嫌なものは嫌だった。そんなわたしはおにいちゃんはどんなふうにおもったのだろうか。駄々をこねる幼い子供とでもおもったか、現実を知らない少女だとでも思ったのかは分からない。けれどおにいちゃんはいつもの優しい笑顔を浮かべていたままだった。
「そうか。ごめんよ。もう小毬には悲しい話はしないよ。そうだ、俺がお話を作ってあげる」
「うん!」
それからというもの、おにいちゃんはよくお話を聞かせてくれるようになった。千夜一夜物語というものがある。妻の不貞を見て女性不信となったシャフリヤール王が、国の若い女性と一夜を過ごしては殺していたのを止めさせる為、大臣の娘シャハラザードが自ら王の元に嫁ぎ、千夜に渡って毎夜王に話をしては気を紛らわさせ、終に殺すのを止めさせたという。話が佳境に入った所で「続きはまた明日」とシャハラザードが打ち切る為、王は次の話が聞きたくて別の女性に伽をさせるのを思い留まり、それが千夜続いたという話だ。アラビアンナイトとも呼ばれるこの話を学校の授業のコラムで聞いたとき、おにいちゃんがいつも聞かせてくれるお話みたいだと思ったものだ。
だけど、
「……小毬」
「ん」
「流れ星を見に行こう」
「え……やだ」
ある日、おにいちゃんがそう言ったとき、私はすぐに拒否反応を示してしまった。おにいちゃんは違うよと優しく否定してくれたけど、わたしにはどうしてもマッチ売りの少女の悲しい物語が忘れられなかったのだ。
マッチ売りの少女は新しい年の朝、マッチの燃えカスを抱えて幸せそうに微笑みながら死んでいたらしい。流れ星が流れたあと、マッチを灯した少女は祖母の姿を照らしている明るい光に包まれ、幻影の祖母に優しく抱きしめながら天国へと昇っていっくことができた。果たしてそれは幸せだったかな。笑っていたのはきっとうれしかったからだと思う。
もしも。もしもの話だ。
おにいちゃんがマッチ売りの少女と同じように自身が幸せだと感じながら死んでしまったとする。
わたしのそばからいなくなってしまったとする。
その時、わたしにはどうしても幸せだとは思うことができない。
こんなことを考えたくもないのだ。ずっと一緒がいい。
「どうして?」
「流れ星、悲しいから」
「そんなことはない。悲しいことなんて何もないんだよ」
「……流れたら、おにいちゃんいなくなっちゃうかもしれない。そんなの、やだよ」
「いなくなんてならない。俺には会いにいくおばーちゃんだっていない。俺が一番会いたい小毬はここにいる」
わたしが小学生に上がってからは、おにいちゃんはろくに動くことさえできなくなっていた。
年齢暦には中学2年生のおにいちゃんだけど、中学校には通えていない。
おにいちゃんは小学校の卒業式すら出席できなかった。
『はい。おにーちゃん』
『ああ、ありがとう、小毬……』
『……おにーちゃん、泣いてるの?』
『……』
『かなしーの?こまりなんかわるいことした?』
『いや、うれしいよ。……でも、卒業式って泣くものなんだ』
『うーん?』
『小毬にもそのうち分かるよ』
おにーちゃんはいつも病院の個室で、ぼんやりと外を眺めていることばかりになった。
わたしに向ける穏やかで優しい笑顔は変わらないけれど、笑顔は弱弱しいものになっていく。
幸せそうに、けれど儚げに。
だからなのか、今流れ星が流れたらおにいちゃんの命を燃やしつきそうな気がしたのだ。
流れ星になんておにいちゃんを連れて行かせはしない。
わたしはそんな風に考えたのだろうか、病室を出る時からつないだ手を決して離さないようにと握りしめた。
「おにーちゃん」
「ん?」
「大好き」
「…ああ」
おにいちゃんの手が私の頬に触れる。とても温かい。
屋上に出ると、いつものひらひらは無くなっていたけど、ベンチが一つ残っている。
空を見上げると星々が爛々と輝いている。
「ほわぁ、すごいきれい」
「うん、そうだろ?……悲しいことなんてなにもないんだ」
おにいちゃんは咳き込んだ。
「おにいちゃん?」
「大丈夫。大丈夫だよ小毬。それじゃ、いつものお話をしてあげる」
「おはなし?」
「ああ、お話だよ。それも今回は流れ星に関するお話だ。流れ星へと込められた祈りを叶えて上げる、優しい魔法お使いのお話だよ」
おにいちゃんは私に一人の小さな魔法使いの物語を聞かせてくれた。
むかしむかし、あるところに小さな魔法使いの少女がいた。
魔法をというものが人を幸せにできると信じている幼い魔法使い。
でも、なんでもかんでも魔法で願いをかなえていくうちに、人間の欲望というものに直面してしまう。
金が欲しい、楽がしたい。
やがて人間不信になった彼女はもう魔法なんて使いたくない、魔法なんてロクでもないものだと考えるようになる。そんなとき、小さな優しい魔法使いはある一人の少女と出会うことになった。冷たい夜風の中、両手を重ねて星空を眺めている幼い女の子。
『何をしているの?』
『おねがいごと。流れ星におねがいごとをすると、ねがいをかなえてくれるって聞いたから』
そんなものは迷信だ。どれだけ願ったところで無意味だ。だからもうやめてお家に帰りなさい。
魔法使いの少女は、流れ星に真剣に祈りを捧げている少女にそう現実を突きつけることはできなかった。
祈りの内容を聞いてしまったからだ。
病気の兄がいて、兄の病気を治してほしい。
お金がないので病院でお医者さんに診てもらうこともできなくて、もう神様に祈るしかできることがない。
その時だった。
『あのね、実は私、魔法使いなの』
もう使いたくないとさえ思っていた魔法の力で兄の病気を治してやろうと打ち明けたのは。
その後魔法使いの少女は、どうしようもなくなって流れ星にささげるしかなくなった願いだけは叶えていくようになったという。のちに彼女はこう呼ばれることになる。
流れ星にささげられた願いを叶える――――――――流星の魔法使い。
「小毬。俺はいなくなってしまうかもしれない」
「……おにいちゃん?」
「だけど、信じてほしい。世の中には悲しいだけの物語なんてない。失敗があるからこそ成功のありがたみが分かるように、悲しい話を知っているから心からの幸せというものを理解できるんだ」
「おにいちゃん?おにいちゃん!!」
「……心配しないで、ちょっと疲れただけだから。ちょっと休めばまた起きてくるから」
それきり、おにいちゃんは倒れるようにベンチに横たわってしまった。わたしはどうしたらいいのか分からず、おにいちゃんのことを必死で呼びかけることしかできないでいたわたしの背後にいつしか人が立っていた。
「誰?」
ヒゲを生やした疲れたような表情をしている大人の人がそこにいた。
その人はわたしの顔を見ると、小さな、それでいて確かに優しい笑みを浮かべてこう言った。
「魔法使いだよ」
星空が輝く中で出会った魔法使い。
この出会いがわたしはある一人の少女と出会うきっかけになる出会いであった。
その少女の名は、
さて、次回はまた地下迷宮のお話に戻ります。
次こそは主人公が活躍できるのか!?
次回、理樹&沙耶と別れたアリアとキンジはある怪物と遭遇する。
デュエルスタンバイ!!