第16話 フラワー・ロマンシア
日々はめぐる。季節はめぐる。
たとえその出会いが偶然だったとしても。
打算と妥協に満ちたものだったとしても。
紡いだ絆は、嘘じゃない。
少女を好きでいてくれる者達に囲まれた、穏やかで賑やかな日常。
この冬木で過ごした日々は、きっと最後に見る事を許された夢。
それが、いつか終わる夢だとしても。
この夢を少しでも長く――見ていられたなら――――。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◇
「ちょっとやらなきゃいけない事があるんだ」
2月6日の朝食の席――家族同然の関係である藤村大河と間桐桜にそう言い訳して、士郎は学校を休んだ。
アレやコレやと言われはしたが、衛宮切嗣を頼って外国からはるばるやって来たセイバーの複雑怪奇な事情を解決すべく色々と――そんな風に説明したら納得してもらえた。
それは士郎の日頃の行いに対する信用の表れである。信用って大事。
朝食後。士郎とセイバーは居間で相談する。
アヴェンジャーとは何者なのか。
アインツベルンがエクストラクラスのアヴェンジャーを召喚したのだと判断していた。
しかし昨晩、柳洞寺に集結したサーヴァントは実に八騎。
衛宮士郎のセイバー。
遠坂凛のアーチャー。
間桐慎二のライダー。
マスターは不明だが真名が『クー・フーリン』と判明しているランサー。
魂喰いをしていたキャスターと、ルール破りによってキャスターに召喚されたアサシン。
そしてアインツベルンのアヴェンジャーだ。
だがそこに、さらに、アインツベルンの援軍としてバーサーカーが出現した。
セイバーは脅威に焦りながらも、冷静的確な判断を語る。
「考えられるのは、キャスターがルール破りをしたように、アインツベルンもルールを破ったというケースです。聖杯戦争を作った御三家の一角であり、戦力確保に余念のない方々ですから」
「サーヴァントを二騎……そんな事が可能なのか」
「通常であれば一騎のサーヴァントへの魔力供給だけで手一杯。サーヴァントの能力や宝具によっては一騎であろうと魔力不足にだってなりえるのです。それでも複数のサーヴァントと契約しようと思えばできますが……」
「魔力が二等分され、マスターの負担は大きくなる。サーヴァントも魔力不足で全力を出せず中途半端になっちまう」
「通常であればその通りです。しかし、アインツベルンのマスターは……恐らく聖杯戦争のためだけに作り上げられたホムンクルス。その魔力容量は計り知れません」
銀色の髪と赤い瞳。アインツベルンの作るホムンクルスの特徴だ。
かつて、セイバーが交流したある女性とまったく同じ特徴……。
「恐らく、正規のサーヴァントはバーサーカーでしょう。あれほどの大英雄、非正規で召喚するとなると無理がある。そしてアヴェンジャーの正体ですが、ルール破りで召喚した影響か、アサシン同様この地に馴染み深い日本人と思われます。名はモコウ。心当たりは?」
「いや、無い。て言うか、それが本当に名前なのかも分からないし、そもそも――"人の名前"っぽくない」
士郎が浅学なだけかもしれないが時代劇でだって聞いた事がない響きだ。モコウなどという人名はもちろん、言葉にすら心当たりがなかった。
佐々木小次郎と時を同じくする時代の、古い日本語かもしれない。
「それにしても、アインツベルンとキャスター陣営……どっちもサーヴァントが二人いて、それぞれが生前の知り合いっていうのは、すごい偶然だな」
バーサーカー、ヘラクレスの正体を一目で見抜いたキャスター。
彼女の事を、アーチャーはコルキスの魔女と呼んでいた。
その正体は恐らく、裏切りの魔女メディア。
黒海東岸コルキスの王女であり、女神ヘカテに魔術を教わった巫女でもあった彼女は、女神アフロディテの呪いによってイアソンという男を盲目的に愛するようになったという。
結果、父を裏切って自国の宝である『金羊の皮』を持ち出してしまい、その過程で実の弟を惨殺して海にばら撒く非道まで行った。
イアソンと共にアルゴー船に乗り、アルゴナウタイの一員として冒険した事もあるという。
そして――ギリシャ神話最大の大英雄ヘラクレスもまた、アルゴナウタイの一員だ。
だからこそキャスターはあそこまで狼狽したに違いない。
同じ時代を生きた最大最強の男が、ありえるはずのない八人目のサーヴァントとして何の前触れもなく乱入してきたのだから。
そしてアサシン、佐々木小次郎――巌流島で宮本武蔵との決闘に破れたとされる剣士。
だがその人生には謎が多く、記録も不確かであり、実在を疑問視する声もある。
アヴェンジャー・モコウと交流があった際は、佐々木小次郎という名前ではなかったそうだが、バーサーカーとの決闘の末に消えてしまった今、真実は歴史の闇の中だ。
士郎はうつむくと、強張った声で名を口にする。
「最強のバーサーカーと、不死のアヴェンジャーか……」
その二人を従えているのは、あの夜に出会った小さな少女、イリヤだ。
サーヴァント二騎を従え、必勝すべく聖杯戦争に臨んでいる。
どのような結末を迎えるにしても、アインツベルンこそが最大の障害となるのは間違いない。
でも。
士郎が思っているのは。
(イリヤと話をするためには、あの二人を何とかしなきゃいけないのか)
バーサーカーには話が通じるようには思えない。
アヴェンジャーは過激だが、アサシン相手に見せたあの態度や、イリヤのため必死になった姿、話し合えば分かり合えるのではないかという淡い期待を抱いてしまう。
そう……話し合えば分かり合えるのではないか?
イリヤという、女の子と。
「モコウについては、佐々木小次郎に関係する文献から当たってみましょう」
士郎の悩みのポイントを理解しているのか、いないのか、セイバーは事務的に的確に事を進めようとする。
「ああ、俺もそれには賛成だ。でも他にやっておきたい事があるんだ。手伝ってくれるか?」
「もちろん。シロウは私のマスターなのですから。それで、何をすればいいのです?」
「セイバー。俺に……剣を教えてくれ」
昨晩、アーチャーに半殺しにされて実力不足を痛感した士郎の胸には、闘志と向上心が燃え盛っていた。安い男のプライドかもしれない。けれどそれすら貫けないようでは男じゃない。
しかし。
「……シロウ。貴方が剣を覚えたところでサーヴァントにはかないませんし、私を守るなんて本末転倒な事は不可能です。戦闘時は大人しく下がっていて欲しいのですが」
「いや、でも、最低限、身を守ったりさ……強くなっておいて損はないし」
「たった一日や二日、剣を振り回したところで強くはなれませんよ。ですから剣の修行というよりも、戦闘経験を積む方向で鍛錬しましょう。シロウはしっかり身体を鍛えていますし、戦士としてそう悲観したものではありません。付け焼き刃の技術を身につけるより経験です」
こうして二人は道場へと赴き、竹刀を打ち合う――というか士郎が一方的に打たれまくる。
剣の騎士セイバーの剣戟は流麗であり、その美しさと気高さにますます心惹かれていく。
そしてそんな中、想起したものは。
自分がどのような剣を振るべきか、想像したのは。
アーチャーの剣戟だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◇
お前は全員と戦え。だが倒すな。一度目の相手からは必ず生還しろ。
そんなくだらない令呪を使われた時はどうしたものかと思ったが、昨晩、ランサーはその命令を果たし終えてしまった。
アインツベルンの切り札、存在を秘匿されていたバーサーカーとさえ戦った。
ライダーとはほとんど戦わず、ほとんど共闘していたが、セーフだろう。
全力の戦い――その望みはもはやいつでも叶えられる。
だが主替えへの賛同による義理と、未だ温存されている三画目の令呪がランサーに迷いを与えていた。言峰綺礼は何かよからぬ企みをしている。それを暴きもしないまま戦場に立って、果たして全力の戦いを完遂できるのか? できたとして、後から余計な茶々を入れられやしないか?
アヴェンジャー。バーサーカー。セイバー。どれもこれも最高の獲物だ。
アーチャーは優先度が低い。多少腕は立つが、剣から戦士の誇りを感じない。無論、これは聖杯戦争。気が乗らない相手だからといって見逃してやる義理はない。成り行き次第ではすぐにでも心臓を貫いてやる。
ライダーはよく分からない。令呪で縛られていた自分同様、何か制限がかかっているような手応えを感じた。――今のうちに仕留めるのが上策だろう。
しかし相変わらず、言峰綺礼は戦意を見せない。
中立の監督役という安全圏に身を潜め、聖杯戦争終盤で騙し討ちでも仕掛けるつもりなのか。
――バゼットにそうしたように。
そんなつまらない結末になるようなら、流石のランサーもつき合ってはいられない。最後の義理として三画目の令呪を切らせてやる。
教会の礼拝堂で、ランサーがそのような思索に耽っていると――教会の奥から言峰綺礼が、気だるげな様子で現れた。
柳洞寺の戦いで大きなクレーターができたため徹夜で修復、隠蔽作業をし、夜明け近くに就寝。昼近くになってようやく起きてきたという訳だ。
「ランサーか。私は出かけてくる。お前も好きにするといい。だが、他のサーヴァントとの迂闊な接触は避けろ」
「ハッ――俺のマスターが誰なのかバレたら、都合が悪いってか」
「そういう事だ」
やはりまともに戦う気は無いらしい。
もっとも戦術的に考えても、アインツベルン組をどうにかできる算段がつくまで迂闊な戦闘は避けるべきだろう。何せセイバー、アーチャー、ライダーと改めて共同戦線を張ったとしても苦戦は必至。それどころか勝てるかどうかも怪しい。
ランサーとて無謀な玉砕特攻をするつもりなど無い。
今はまだ大人しくしているのが良策だろう。
「――ところで言峰よぉ、起き抜けにどこ行くんだ?」
「昼食だ」
ゾワリと、ランサーの背筋に悪寒が走る。同時に舌と腹に灼熱が走った。
言峰は意味深にほほ笑むと、静かに訊ねてきた。
「――――来るか?」
「――――行くか!」
かつて食べさせられた麻婆豆腐の辛さを思い出しながら、ランサーは全力で拒絶した。
何かの罰ゲームや嫌がらせかと思いきや、あの野郎、本気で美味そうに食っていやがった。
どういう味覚をしているんだと心底呆れ、二度とつき合うものかと誓った。
言峰は微笑を浮かべると、ランサーの横を通り過ぎて教会を後にする。
信じ難いが、またあの麻婆豆腐で舌鼓を打つのだろう。
「ったく……俺はどうするかねぇ……」
高級寿司屋は無理だが、スーパーでパック詰めの寿司を買う程度の金はもらっている。
しかし麻婆豆腐の辛さを想起した舌と腹からは、すっかり食欲が失せていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◇
セイバーとの鍛錬が一区切りつくと、士郎は商店街へと買い出しに向かった。
その間、セイバーは衛宮邸の書斎で佐々木小次郎に関する文献を調べている。聖杯から知識を与えられているせいで日本語に不自由しないのは便利だ。
しかし、衛宮邸の書斎に佐々木小次郎の本があるとも限らない。
士郎は食料のついでに、本屋で佐々木小次郎に関する書籍も購入したのだが。
「ううっ――出費が痛い」
――と、ぼやいていたら。
くいくいと後ろから服を引っ張られ、なんだろうと振り返ってみると。
そこには、銀の髪をした幼い少女の姿があった。
「よかった。元気そうだね、お兄ちゃん」
なんて、嬉しそうにほほ笑んでいるのは、間違いなくイリヤスフィールだ。
アヴェンジャーとバーサーカーを従える、アインツベルンのマスター。
事もあろうに近所の商店街、しかも真っ昼間に遭遇するなんてまったくの想定外だった。
「いっ――イリヤ!?」
「そう身構えなくていいわ。バーサーカーは置いてきたし、アヴェンジャーにはお小遣い渡して追い払ったから。お兄ちゃんだってセイバーを連れてないでしょ?」
「そ、そうだけど……」
「ねえ。わたし、シロウとお話したいコトがいっぱいあるの」
そう言って、イリヤは士郎の手を掴む。
ドキリとして思わず身を引いてしまうと、イリヤは拗ねたように見上げてきた。
「……イリヤ。俺達は、敵同士……じゃ、ないのか?」
「なに言ってるの? お日様が出ているうちは戦っちゃダメなんだから」
敵ではない。そんな答えを期待していたのかもしれない。
しかし返ってきたのは、今はという条件つきの言葉だった。
無下にする訳にはいかないし、話がしたいのは士郎も同様。
「……ここじゃなんだから、ちょっと場所を移そう」
「…………。うん!」
わずかな沈黙の後、イリヤは花開くようにほほ笑んで快諾した。
二人は、手を繋いで近くの公園まで歩く。
少女の手は冬の寒さのせいだろうか、冷たく感じられた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◇
一人で街を歩きたい。
日中に襲ってくるサーヴァントはいない。
夜になる前に帰るからバーサーカーに護衛してもらう必要もない。
マーキングしてあるから何かあったら呼ぶ。
いざという時は令呪でバーサーカーを呼ぶ。
冬木市に着くや、イリヤにそんな風に説き伏せられてしまった藤原妹紅は、一人さみしく別行動となって深山町を練り歩いていた。
今日の衣装はイリヤに買ってもらった白のブラウスと丈夫なジーンズで、奇しくも凛とお揃いになってしまった紅のコートである。とても普通な服装ではあるが、道行く人はチラチラと妹紅の髪を見る。なにせ足首まで届きそうなくらい長いのに加え――。
(真っ白だもんなぁ)
何気なく側頭部を掻こうとしてしまう。この辺りにイリヤの毛髪がマーキング目的で埋め込まれている。自覚してしまえば何か刺さってるような感覚がしてきて、手を出したくなってしまう。以前は全然そんな事なかったのに。
しかしこれもサーヴァント業務のひとつ。我慢しなくては。
それに今日はフリータイムに加えて現金のお小遣いももらっている。楽しまなきゃ損だ。
とりあえず昼食を取ろうと、適当に飲食店を見繕う。
紅州宴歳館、泰山。
そんな中華料理店を見つけ、何かに引かれるようにして入店。
半端な時間のせいか客足は悪いようで、他の客は神父服の陰気臭い男だけだった。
彼は妹紅を一瞥すると、ニッと笑い、対面の席へとうながす。
「かけたまえ」
見ず知らずの他人にそう言われる理由は分からなかったが、とりあえずコートを背もたれにかけて、椅子にドカッと座る。
男は、熱々の麻婆豆腐を完食しようとしているところだった。
真っ赤な色合いが食欲をそそり、ごくりと喉を鳴らさせられる。
「――――食うか?」
「――――食べる」
すぐに店員の女の子がやって来て、妹紅は麻婆豆腐を注文し、神父も麻婆豆腐を注文した。
おかわりだ。空になった皿が運ばれていく。そんなに美味いのかここの麻婆豆腐は。
だが訊ねるべきはそんな事ではない。
「で、お前は誰だ」
「おや――? 私に気づいて店に入ってきたのかと思ったのだが」
「適当に何か食べようと思っただけだ。私に声かけるって事は、聖杯戦争のマスターか?」
素性が分かっていないのは、すでにライダーのマスターのみ。
すぐに肯定されるだろう、確認するだけだ、という意図の質問は予想外の返答をされた。
「私は聖杯戦争の監督役、言峰綺礼という者だ」
「そうなのか。そういやそんなのがいるんだったな」
妹紅にとってはどうでもいい事だ。
アインツベルンは別に反則行為をしてはいない。成り行きでアヴェンジャーを名乗っているだけだし、サーヴァントという契約は別に聖杯戦争や英霊に限定したものではない。
いや、しかし、サーヴァントが八人いてアインツベルンが一人余計に召喚する反則行為を行ったと受け取られる状況ではあるのか。
「昨晩は随分と派手に暴れてくれたようだな」
「まあな」
「クレーターを埋めるのに朝までかかったぞ」
「ご苦労さん」
ペコリと頭を下げる妹紅。
外の世界の魔術師達は神秘を隠匿しなければならないらしく、一応、戦う前には人避けや認識阻害の魔術をかけたり結界を張ったりしている。
キャスターの結界のおかげであの戦いは外部には漏洩していないが、確かに境内のど真ん中にクレーターなんか残っていたら騒ぎになる。
「……アヴェンジャー……か」
言峰が呟き、妹紅は面倒くさそうに唇を歪めた。
中立の監督役相手になら弁明もするが、純粋に面倒くさい。自分の事情とか話したくない。もしかしたらこれから運ばれてくる麻婆豆腐に自白剤が入ってるんじゃなかろうか?
「なんか文句あるか」
「いや、何も」
しかし言峰はあっさりと笑ってすます。
「ただ呆れているだけだ。聖杯に選ばれたマスターやサーヴァントともあろう者が、揃いも揃って振り回されているのでな」
「何を言って――」
「君は
見抜かれている。聖杯によって召喚されたサーヴァントではないと。
まあ、相手は監督役だ。むしろそこを理解してくれているのなら都合がいい。
「そもそも、監督役である私は霊器盤でサーヴァントの召喚状況を把握している。バーサーカーは霊器盤を用意する以前から召喚されており、アヴェンジャーは未だ召喚すらされていない。それらを鑑みればおのずと答えは見えてくる」
「何それズルイ。いや、監督ならむしろ妥当か」
「まあ君の素性は詮索すまい。聖杯戦争に協力者は付き物だ。前回も強力なサーヴァントと協力者を得た盤石でありながら、サーヴァントと協力者に見限られて呆気無く敗北したマスターもいたのでな」
言峰綺礼神父の言葉はいちいちもっともだ。
だがしかしそれはそれとして。
「私はイリヤのサーヴァントだ。ちゃんと契約してる。間違えるな」
「フム?」
サーヴァントとは別に英霊や聖杯戦争に限定した存在ではない。
そこらの動物と契約して使役するなんて珍しくもないし、人間との契約も可能だ。
妹紅は魔術的契約をキャンセルしたものの、口約束での契約はしているのだから。
「――これは失礼した。お詫びとして食事代は出させてもらおう」
「やった、ラッキー」
思わぬ幸運に感激する妹紅。
その子供っぽい仕草に言峰は失笑し、しばらくして麻婆豆腐が二人前運ばれてくる。
妹紅と言峰の前に並ぶ、グツグツと煮えたぎるような麻婆豆腐。
マグマの如き赤の中に浮かぶ豆腐の白。つまり紅白の料理。めでたい!
食欲をそそる香辛料の熱烈な香りに生唾を飲み込み、妹紅は両手を合わせた。
「いただきまーす」
レンゲを手にし、勢いよくすくってフーフーと息を吹きかけ、パクリ。
トロリとした舌触りが口いっぱいに広がり、一拍遅れてやってくる辛味。
口の中が火山になったように灼熱が吹き荒れ、これでもかと味覚を刺激する。
「ぐむっ――!?」
驚いた。藤原妹紅は驚いた。
数多の修羅場を持ち前の不死身っぷりで潜り抜けまくった彼女でも、脳天までぶっ飛ぶようなこの衝撃。全身の神経が活性化し、毛穴が開いて汗が噴き出してくるのを知覚する。
辛い、辛い、辛い――。
これが麻婆豆腐か。
これが麻婆豆腐であるはずがない。
いいやこれが麻婆豆腐だ。
そうだこれこそが麻婆豆腐だ。
故に妹紅は喘いだ。
「旨い――!!」
津波のように押し寄せる辛さの奔流の中、妹紅は海底に潜む旨味という名の真珠を見つけ出す。
熱烈歓迎、麻婆豆腐。
燃えるパッションを滾らせて、次から次へと麻婆豆腐を口に運ぶ。ヒートする舌がさらに先を目指して駆け出している。
あの海の向こうへ。麻婆豆腐の海の向こうへ。
そこには真っ赤に燃える太陽がある。それこそ生命、それこそ世界。
至福と言える一時は、ほぼ同時に終焉を迎えた。
言峰は成人男性とはいえ、この麻婆豆腐は二皿目。食事ペースは僅かに落ちている。
妹紅も健啖家ではあるが、やはり小柄な少女でしかない。
二人は満足気に笑うと、先の約束通り言峰が支払いをすませ、並んで店を出た。
火照った身体に冬の空気が心地いい。
「んんっ――ごちそうさま」
「何、この程度なら安いものだ」
意味深な声色だったが、なんというか態度すべてがもったいぶっているような男だ。たいした意味は無いのだろうと判断して、妹紅はその場を後にしようとする。
「じゃあな。監督役、これからもよろしく~」
「ああ、待ちたまえ」
が、それを言峰は止めた。
妹紅が振り返ると、わずかに視線が合い、二人の間に一陣の風が吹いて。
「モコウ――というのは、花の名前かね?」
そんな事を、言峰綺礼は訊ねてきた。
まあ、アサシンのせいで下の名前だけは他サーヴァントにバレてしまっている。
報告を受けたマスターが監督役に告げ口した、というのは自然な流れだ。何分、アインツベルンのサーヴァントのおかげで計算が合わない事態になっているのだから。
だから名前が知られている事に対して驚きはない。
だから驚いたのは違う理由だ。
「――ああ、まあ、由来のひとつだけど、おかしいか?」
「フッ……
吾亦紅。源氏物語にも名が出てくる花だ。早ければ夏には咲き始める。
小さな花が先端に集まって穂のように咲く性質を持ち、その色は名前の通り濃い紅をしている。
「驚いたな。あんたみたいのが花の名前を知ってるなんて」
言峰は自嘲するように口角を上げ、返事もせず歩き去ってしまった。
だから妹紅もそれ以上呼び止めず、言峰と逆方向へと歩き出した
◇ ◇ ◇ ◇ ◆ ◆ ◇
言峰綺礼は生まれつき欠落を抱えた人間だった。
人が美しいと思うものを美しいと感じられず、善いとされるものを善いと思えない。
故に、人々が愛でる花を美しいと思わない。
吾亦紅も知識としては知っていても、美しいなどとは思わない。
他の花々もそうだ。花屋に並ぶ色とりどりの花が彼にとっては等しく無価値。
――
美しいと思った事はない。
ただ、昔――。
そんな名前の女がいたのを、彼は覚えている。
「それにしても、アヴェンジャーか」
アレから漂う気配はサーヴァントではなく幻想のモノだ。
恐らく幻想種に類する存在であり、何やら結界めいたものをまとっている。
その影響で存在が歪んで見えているのならば、ステータスの隠蔽スキルと誤認するというのもありえる話だ。
しかしその程度のイレギュラーは気にするほどのものでもない。
それ以上のイレギュラーの存在を、彼は匿っているのだから。
炎キャラって辛いもの好きなイメージが多い。